夜の部・刺身
皆さんのご意見ご感想、お待ちしております。
「「「ごちそうさまでした!」」」
「はい、お粗末様」
梅原家の夕食は17時と決まっている。18時に夜の部として店を開き、22時まで営業するのでまだ幼い娘2人と食事をするにはどうしても早くなるのだ。夕食の後、普段は同居人たちがエルとミラの面倒を見てくれるのだが、ここ最近、彼らは仕事や学校行事等で出払っている。だからと言って仕事を放り出すわけにもいかない厳とアルマは双子の娘と視線を合わせよーく言い聞かせる。
「いい? お風呂入って歯を磨いて、暴れすぎて怪我しないようにね?」
「うん」
大人しくて聞き分けの良いミラはアルマの言葉に素直に頷いたが、血気盛んなエルはその大きな瞳を輝かせている。
「ねぇねぇおとーさん! エルたちもお手伝いしたい!」
厳が「あぁ、これはまた面倒な事を言ってくるな」とどこか達観した気持ちになっていると案の定、エルはちゃっかりミラを巻き込みながらズボンを握りしめて、そんな可愛らしいおねだりをした。
「はいはい、気持ちだけ貰っておくよ。そういうのは、お前の背がもっと伸びた時に頼むわ」
「えぇー。だってウルねーもゼオにーも居なくてつまんないもん。見てるだけでもいいから―! ねぇーえぇー!」
「ダメだっての」
父親としては暇を持て余す愛娘の頼みを聞いてあげたい。だがしかし、以前見てるだけと言いながら客の所まで行って食事を奢らせていた前科を持つエルの頼みを聞いてやれるほど店主は甘くはない。
「…………」
「ミラ、お前もか」
そんなエルの様子に触発されてか、同じように厳のズボンを掴んで上目遣いで何かを訴えるミラ。どうやら暇を潰せる姉の提案は魅力的なのだろう。言葉にしないまでも、「おとーさんとおかーさんの仕事場に興味あります!」とソワソワしながら訴えている。
最近、夜寝るまでの時間が暇でしょうがない彼女たちの鬱憤が溜まっていることもあって中々引く様子を見せない。どうしたものかと途方に暮れていると、アルマは娘の我が儘を切り捨てる伝家の宝刀を取り出した。
「あー、そうだ! ちゃんとお留守番できた方がお姉ちゃんだからねー」
「……エル、お部屋で遊んでる」
「……ミラも」
さっきまで厳のズボンを掴んでいた双子が嘘のように大人しくなり、自室へ戻っていく。
双子はどっちが兄姉でどっちが弟妹かで争うことがよくあると聞くが、エルとミラもその例に漏れていない。便宜上エルが姉と言う事にしているが、出産時の騒動でどっちが早く生まれてきたか分からないと伝えたところ、普段は仲のいい双子の争いの種になり、我が儘を諫める種にもなっていた。
「お湯はもう張ってるから、ちゃんと浸かる事。分かったー?」
「「はーい」」
部屋からパジャマを持ってきて、口を揃えて答える娘を見て「何か暇つぶしのゲームとか買った方が良いのかな?」と悩みながら、厳は妻と共に店に入っていった。
時は夕暮れ。外の喧騒に混じり、カンカンと甲高い金属音が《うめや》の店内まで響く。
直に多くの就労者たちが作業を切り上げて帰路につく時間だが、そんな就労者たちの為に食事と酒を提供する厳とアルマの仕事はここからが本番だ。
時計の針は17時半を指し、《うめや》の向かいにある鍛冶屋から物音が聞こえなくなって数分、アルマは扉の前で仁王立ちする背の低い人影を見て苦笑を零す。
「早い。開店まで20分以上はあるんだけどなぁ」
「どうします? 開ける?」
「いや、何時もの事だ。待っててもらおう」
せっかちな性分らしい人影は扉の前で貧乏ゆすりを繰り返すが、他の客の手前理由のない特別扱いする訳にもいかず、いつも通りに準備を進める。開店10分前にはそれも終え、鐘の音と共に店の扉の鍵を開けた途端、人影はドアを開いて轟然と告げた。
「エールだ! 嬢ちゃん、まずはエールを持ってきてくれ!」
「いらっしゃい、ドラモスさん」
入店早々席にも着かずに酒を注文した逞しい髭を蓄えたドラモスと呼ばれた男は、《うめや》の向かいで守備隊の武器や鎧、冒険者の装備などを中心に日用の金物を製造、販売をしている鍛冶屋を取り仕切るドワーフだ。《うめや》の最古参の常連の1人で、その伝手で最近パン屋用の器具を特注で作ってもらったことがある。
種族柄、大層酒好きであるドラモスが酒の匂いにつられて来店し、透き通る美しくも美味なエールの虜になるのは必然だった。以来、夜の部の始まりとほぼ同時に来店するようになったドラモスは、何時ものようにカウンター席に座って運ばれてきたジョッキを勢いよく呷る。
「んぐっ、んぐっ、んぐっ、んぐっ……かーっ!」
冷たいエールの炭酸もものともせず、大きなジョッキに満たされたエールを全て胃に流し込む。髭に白い泡を付着させたドラモスは、メニューを開くことなくアルマを呼び寄せた。
「ヤキトリも持ってきてくれ! 全種類1本ずつ!」
「承りましたー!」
慣れた様子でエールと合う料理を次々と注文し、満足げに腹を満たしていく。6年前、突如現れてから彼はすっかりこの店の虜だ。特に鉄を溶かす窯の熱を存分に浴びた後の冷たいエールはまさに至福。定休日さえなければ毎日でも通い詰めたい程だ。
「いらっしゃいませー!」
「すまない、まずはレイシュを貰えるだろうか? ……ん?」
「げ」
酔いも回ってきて更に酒を注文しようとしたドラモスだったが、隣に座った緑色の髪をしたエルフの男性を認識した途端、酔いが吹き飛んで眉間に深い皺が刻まれる。それはエルフの男性も同じで、ドラモスの顔を見た途端、心底嫌そうな表情を浮かべた。
「これはこれは……偏屈エルフのスチュアートじゃねぇか。こんな所に何しに来やがったんでぃ」
「これはこれは……粗暴ドワーフのドラモスはとうとう耄碌したらしい。飲食店に食事以外の目的があるのかね?」
何やら不穏な気配を漂わせるドラモスとスチュアートと呼ばれたエルフに厳とアルマは互いの顔を見合わせる。
「えっと、ドラモスさんとスチュアートさんって知り合いなんですか?」
「何でぇ、店長。この偏屈エルフの事を知ってんのか?」
「最近になって、良くお越しいただいてるんですよ。ドラモスさんとは奇跡的に行き違ってますけど」
厳とアルマは知らなかったが、スチュアートは王城勤めの文官でドラモスとは幼い頃からの腐れ縁兼喧嘩相手として、彼らの同年代以上の間では有名だ。とにかく反りが合わないらしく、昔から些末事で喧嘩を繰り返しているらしい。
「俺のオアシスに辛気臭ぇ顔見せやがって……せっかくのエールが不味くなっちまうぜ!」
「顔を見ただけで味覚が変化するとは……ドワーフが豪放磊落というのは偽りのようだな。まるで繊細な乙女のようだぞ?」
時間の経過とともに徐々に口喧嘩の激しさが増していくのを感じ、厳は急いで注文の酒を用意してアルマに届けさせる。
「お、お待たせしました! ご注文のレイシュです!」
ジョッキに比べると質素だが華やかな模様が入った小さなガラス製の瓶と杯に満たされているのはエールとは違い、水のような透明の酒だ。麦ではなく米から作られた冷たい酒は、暑い火精の一節に恋しくなるスッキリとした味わいが特徴のスチュアートのお気に入りだ。
「んん……素晴らしい。やはり酒というのはじっくりと味わってこそ。どこかの粗暴なドワーフのようにガブガブ飲むのは品に欠けるというものだ」
「はっ! ただの下戸が偉そうに! 繊細なエルフ様は満足に酒が飲めなくて可哀想なこった! お前はヤキトリと一緒にグイっと飲むエールの美味さを知らずに生きていくんだからよ!」
「そういう貴様こそ、視野の狭さは治っていないらしい。エールとヤキトリばかり胃に流し込んで頭の中までエールとヤキトリが詰まっているのではないか? レイシュとテンプラの相性が分からぬとは、滑稽を通り越して哀れに思えてくる」
アルマは「あ、これはどうやっても止められない奴だ」と早々に見切りをつけた。口喧嘩するだけで暴れているわけでもなし。むしろ喧嘩は変な方向に転がっていき、今は「どっちのおすすめメニューが美味いか」で喧嘩し始め、店の売り上げに貢献している。
「……そういえばお前さん、最近常連になったんだってな?」
「それがどうした?」
ドラモスは勝ち誇ったかのように口を歪める、無性に嫌な予感に襲われるスチュアートだったが、その不安は現実となって襲い掛かった。
「店長! 裏メニューを頼む!」
「あいよ」
固有名詞の無い注文と共に食器と思われる2本の棒状の物がドラモスの前に置かれる。
「な、何だ? その裏メニューとやらは」
「この店には、店長の故郷の伝統食器であるハシを使える常連だけが食べられる日替わりの裏メニューがあるんだよ。どれもこれも独特だが、俺たちの常識を超える未知の美食なんだぜ?」
「何……だと……!?」
この世界で食器といえば基本的にスプーンとフォークだ。スチュアートにはどう使うかも見当つかない箸を器用に操りながら盛大に見下すドラモスを悔しげに睨み返す。
「お待たせしました。今日の裏メニュー、カンパチの刺身です」
厳が自らカウンター席に置いた料理を見て、スチュアートはギョッとした表情を浮かべる。
薄っすらと赤が浮かぶ白い切り身は備え付けられた緑色の紫蘇や真っ白な大根の細切りも相まって実に美しい一皿となっているが、問題のメインの料理は一切火を通していない生魚ではないか。アルカディアでは肉と魚は加熱調理が鉄則。その常識を軽々と打ち破る料理にスチュアートは愕然とした。
「今日は活きの良いカンパチが手に入りましてね。丁度旬ですし、生食に抵抗が無ければ美味しいですよ」
「どれ、早速頂こうか。こいつはどう食べればいいんだ?」
「皿の隅に醤油……黒いソースが入ってるスペースがあるでしょ? そこに摩り下ろしたワサビを溶かして刺身をチョンと付けて食べるんです」
ドラモスは切り身を器用に箸で摘まみ、言われた通りに刺身にワサビ醤油をつけて口に入れる。そこに躊躇いは一切なし。作り手の端くれである以上、未知を恐れず挑むのが彼らの性分だ。
「んまいっ!」
そして《うめや》の料理に外れは無かったことを刺身は雄弁に語っていた。
刺身そのものは魚らしい淡白な味だが、ただ焼いただけの魚よりより淡白。しかし何も調理を施していないからこそ、魚本来の旨味と生独特の柔らかさと弾力。それらが醤油の旨じょっぱさとワサビのツンとくる辛み、旬の魚特有の蕩けるような脂の甘みが一体となって官能的な美味さが口一杯に広がる。
「どうだ? このハシなる食器を使えるようになって初めて食える裏メニューは? この特殊な形状の食器を使いこなせるのは、手先が器用なドワーフ位なもんだぜ」
「ぐぬぬ……! この筋肉チビめ……!」
「何だとこの枯れ木ノッポ!!」
幸せそうに刺身を噛み締めるドラモスの様子に、スチュアートはギリッと歯を鳴らした。生の魚など食べたいとは思わないが、こうも美味そうに食べられると悔しいとか羨ましいとかそういう気持ちが湧き出てくる。
遂にはレベルの低い暴言が飛び出し、ますますヒートアップする大人2人の大人気ない口喧嘩を前に、「これは教育に悪いな」と、愛娘たちを夜の店に入れないことを改めて誓う厳であった。
裏メニューについては後のお話で詳しく言及したいと思います。