プロローグ・梅茶漬け
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母親の浮気。父がそれに気づかず他界。浮気相手のバツイチと結婚した母と、突然現れた新しい義父と義妹。最近生まれた種違いの弟。子供ながらに聞き分けの良かった梅原厳はこれらの一部始終を見たおかげで実家での居場所を無くしていた。
元々大のお父さんっ子だった厳。本当なら母ととことん話し合った上で祝福できればよかったのだが、父を裏切った母を受け入れきれず、親子の溝は深まるばかり。浮気に関して今からでも話し合おうとしても、新しい男と幸せそうに暮らす母を想うと、それも言い出せなかった。
義父とも義妹とも、種違いの弟とも距離が広がる中、厳の心の支えこそが父方の祖父だ。祖父は若い頃にフランスでレストランを構え、日本人初の三ツ星をとったという凄い経歴の持ち主で、引退後は故郷に戻り、創作料理を好き勝手に作る道楽を楽しみながら過ごしており、孫の厳を大層可愛がった。
趣味は食べること。祖父が作り出す数々の料理は厳を魅了し、彼は祖父の家に入り浸るようになった。これが母と更なる溝を生むことになるのだが、当時の厳は特に気にならない。母も好きにやっているのだから、自分も好きにするという気持ちもあったのだろう。
「わしのとっておきの秘密を教えてあげよう。他の人には内緒だぞ?」
そんなある日、祖父がこっそりと教えてくれた秘密。この日、厳は地球で魔法を見た。
祖父の家の普段は鍵で施錠してある一室。大きな厨房を備えた空調完備で落ち着いた雰囲気のある飲食店といった風の内装の部屋の窓から外を覗くと、そこはエルフや獣人、妖精やリザードマンが闊歩するファンタジー世界。
驚き以上の興奮で目を輝かせる厳の頭を撫でながら、祖父は言う。
「わしの家は地球と異世界の狭間……向こうの世界とこっちの世界の入り口みたいなものでな。ここに店を建て、食の歴史が浅いこの世界の人々に料理を振舞うのがわしの夢だった」
祖父の言い方は過去形だった。それが気になって追及してみると、祖父は寂しそうな笑みを浮かべる。
「ここまで来るのに、随分時間が掛かってしまってな。店に立てるほどの体力が残っておらんのだ」
時の流れは残酷で、厨房を舞うように駆けまわっていたであろう祖父は体力も足も弱まっていたのだ。この有様では大勢の客に料理を振舞うことは出来ないと嘆く祖父に、厳は誓った。
「だったら、爺ちゃんの夢は俺が代わりに叶えるよ。そしたら、爺ちゃんが建てた店も無駄にならないだろ?」
祖父の夢を継ぐために料理人になる。そう言った厳に、祖父は何度も意思確認をした。料理人の世界は過酷で、何人も厨房から去っていったのを見ているからだ。
しかし意志は固かった厳に根負けし、幼いながらに厨房で修行をつけるようになった。普段は優しい祖父も指導中は別人のように厳しく接していたが、厳はめげる事無く知識と技術を吸収。学校帰りは寄り道もせずに厨房に入り、休みの日も厨房で指導を受ける。平成ではあまり見ない修行に明け暮れる学生時代を過ごした。
やがて厳が高校を卒業し、調理師免許を取得した数日後。祖父はバトンを渡し終えたと言わんばかりに安らかな表情のまま息を引き取った。家が建つ土地の権利書や金銭を含む、遺産の全てと料理人としての知識と技術を厳に相続し、かつて料理界に名を轟かせた料理人はこの世を去ったのだ。
「見ててくれ、爺さん。爺さんの夢は、俺が立派に継いで見せる」
実家を出て祖父の家に移り住んだ厳は毎朝仏壇に手を合わせて異世界の店を開け、今日も今日とて仕込んだ食材と共に客を待つのだが――――
「うーん、客が来ない」
いきなり開いた大衆食堂に客が入らないのは当然の事だろう。ましてや此処は異世界。人通りが多い町の往来に立つとはいえ、広告や料理の匂いも無しに人は来ない。当たり前のことだ。
「こっちの言葉は分かるんだけど、文字が読めないんだよなぁ」
言葉は通じるのに文字が読めないという異世界ファンタジーならではの矛盾。これをどうにかしなければ広告も作れないし、メニュー表すら書けない。明日にでも異世界の街に繰り出して文字の練習をするべきだと決心し、店の入り口の営業中と記された掛札を準備中にひっくり返そうとドアを開けようとしたが、何やら重いモノが邪魔をして開かない。
「何これ? 犬耳美少女? どこの漫画なの?」
ドアを開くのに邪魔をする物体は、行き倒れている健康的な小麦色の肌と背中まで伸びた青い髪、ピコピコ揺れる犬耳と尻尾、細い肢体によって強調される豊満な胸の持つ、完膚なきまでの美少女だった。
「ごくり」
思わず生唾を呑んだ。料理人目指して10年、彼女居ない暦年齢の厳の性欲は強い方である。とはいっても良識は備わっている。幾らなんでも見ず知らずの女性を手籠めにするほど、彼の性根は腐っていない。
「とりあえず店に運ぶか」
今は雪すら降る2月……異世界風に言うなら水精の三節だ。このまま外に置いておけば凍死は確実。息はしているし、暖房の効いた店で寝かせておいた方が良いだろうと、厳は犬耳美少女を店内に運んだ。
「いやー、お騒がせしました。本当に死ぬかと思いましたよー。あ、わっちの名前はアルマっていいます。えっと、店長さんの名前は?」
「厳だ」
1時間ほど暖房で温めると意識を覚醒させた犬耳美少女……アルマはさっきまで命の危機に瀕していたとは思えない快活な笑みを浮かべる。地球のアイドルや女優顔負けの美貌に反して凄まじく逞しく、人懐っこい印象を受けた。
「助けてくれて、ありがとうございますゲンさん! でも本当に不思議なところですよねぇ。冬なのに暖かいなんて。実はゲンさん、料理人は世を忍ぶ仮の姿、実は凄腕の魔法使いだったり?」
「ちげーよ」
明らかにからかうような笑みを浮かべるアルマの言葉をバッサリと切り捨てる。異世界があり、獣人や妖精が当然のように闊歩する以上、魔法があっても驚きはしないが、暖房一つで魔法使い扱いされても困る。
「しっかし、何でこんな真夜中に道端で倒れてたの? 暴漢に襲われたとか?」
「あぁ、仕事の帰りだったんですけど、何か突然手足が痺れるなーと思ったらパタリと。何だったんですかね、アレ」
「それ、完璧に栄養失調って奴じゃ……普段何食べてんの?」
「最近は水とパンだけですね」
「パンの数は?」
「1個」
「お前マジで死ぬぞ!?」
信じられないことに、アルマはここ最近水とパン1個で生活して、朝から深夜まで働き詰めだと言う。何でそんな無茶な生活を送ってるのかと問い質せば、彼女は平然とした様子で答えた。
「ウチ兄妹が多いんですよ。成人してるまともな働き手もわっちしか居ないから、一杯稼いで皆を食べさせないと!」
「成人……えっと、聞くのもなんだけど、歳は幾つ?」
「19ですけど……って、どうしたの?」
「別に……泣いてない、泣いてないよ」
まさかの同い年。そんな年若い女性が明日食う飯にも困る兄妹たちを養うために朝から晩まで働いているのに、本人が水とパンしか口にできない世知辛い渡世の理とそれを表に出そうとしない健気さに泣きそうになった。下手な同情はアルマの尊厳を傷つけるだけなので口にはしないが、それとこれと話は別。
「とりあえず何か食ってけ。このまま本当に死なれたら目覚めが悪い」
「え!? で、でもわっちお金ないですし」
「いいよ。材料は有り余ってんだ」
「ダメダメ! ダメですって! 助けて貰ったのにこれ以上の施しは受け取れません!」
「そんな腹をグーグー鳴らしながら言われても」
飯につられて耳と尻尾をピコピコ揺らし、腹の虫を盛大に鳴らしながら施しを拒否するアルマ。義理堅いのか意地っ張りなのか、厚意をタダで受け取ろうとしない彼女の対応に困っていると、厳は天啓が降りてきたかのように閃いた。
「分かった。そこまで言うならタダとは言わねぇ。その代わり…………文字って書ける?」
「え? 普通に書けるけど……それがどうしたの?」
中世風の異世界だが意外と教育はしっかりしていることを確認した厳は、アルマに条件を持ち掛ける。
「飯を奢る代わりに店のお品書きとか看板の文字を書いてほしいんだわ。俺ちょっと訳あって文字書けなくて、店の広告も出せないし」
「え? そんな事でいいんですか?」
「あぁ」
「んー」
大きな銀色の瞳でジッと厳の目を覗き込むアルマ。単なる同情か、対等な取引かを見極めているように思え、厳も彼女の目を見つめ返す。
「……うん! そう言う事なら、喜んでゴチになりまーす!」
「よっしゃ。それじゃあ何か食べたいものとかある? 肉でも魚でも、大抵のものは揃ってるけど」
「あー、ご馳走になるのは良いんだけど、余り食欲がないんですよねぇ。お腹は減ってるのに」
「それなんかヤバい症状のような気がする」
「まぁ、何出すかはゲンさんに任せるよ」
それだけ聞いた厳は食欲のないアルマでも食べられる〝サッパリとしたもの〟で、冬の寒さで冷え切った体を温める〝温かい料理〟を選択した。何が出てくるのか楽しみに待つのも束の間、想像を絶する速さで丼とスプーンがアルマの前に置かれた。
「はい、お待ちどおさま」
「早っ!? もう出来たの!?」
「準備だけはしてたしな。今回の料理は滅茶苦茶簡単だからすぐに出来るんだよ」
「へぇ~……あ、なんかすごい良い匂い」
丼に盛られた米を浸す薄い黄金色の汁。アルマも米を塩と水で煮る粥を食べたことはあるが、これは米を煮ていないのだろう。スプーンで混ぜれば一粒一粒ほぐれていく。
だがこの薄い黄金色の汁も、上に乗せられた乾燥した海藻らしき細かく刻まれた黒い物体も、そして見たことも聞いたことも無い赤い物体も、アルマには馴染みの無いものばかり。思わず食べ方に戸惑っていると、厳は苦笑しながら料理の食べ方を伝えた。
「その料理は梅茶漬けっていうんだけど、丼の中身を全部混ぜ返して食べるのが一番美味い食い方だ」
「こ、こう?」
言われたとおり、全て混ぜ返して一口食べる。その瞬間、アルマの耳がピーン! と逆立った。それは今まで食べたことのない味、しかし人生で一番美味しい料理との巡り合い故にだ。
「何これ!? すっごい美味しい!!」
複雑で奥深い味わいの出汁に、香ばしい刻まれた海藻。全体に広がる優しい酸味の正体はあの赤い物体だ。これら全てが米と渾然一体になり、表現のしようのない多幸感が全身を駆け巡る。穀物である米が胃袋を満たし、先程まで食欲などなかったのにこの優しい酸味が不思議と食欲をグイグイ進ませた。
気が付けば空になっていた丼を眺め、アルマは夢でも見ていたのかという錯覚に陥りそうになる。しかし火照る全身と満たされた胃袋、犬の嗅覚が捉える残り香は本物だ。
「ウメチャヅケ……凄かった。こんな料理、見たことも聞いたことも無いよ」
熱い息を吐くアルマの言葉に、それはそうだろうと厳は内心ほくそ笑む。
アルマが梅茶漬けなんて簡単な料理を大絶賛するのは、彼女が貧乏……もとい、外食をしない主義で見識が狭いという理由だけではない。異世界で正式に店を開いてから、厳は現地調査を怠らなかった。近隣住民がどのような食生活を送っているのかを探るため、祖父の遺産の一部であるこの世界の通貨を使って食い倒れをしたから分かる。
この世界の料理は、とにかくレベルが低いことを。
異様に硬いパンに、何故か酸っぱい粥。脂身だらけでギトギトするベーコンにパサパサした蒸かし芋。住民の食に対する楽しみが地球人より希薄で、異世界食文化交流を内心楽しみにしていた分、厳のショックは計り知れないものがあったが、逆に言えばそれだけ美味い料理は人気が出るという確信があった。
後は舌に合うかどうかの検証だったが、アルマの反応を見る限り大丈夫らしい。厳はアルマが夢中になって梅茶漬けを食べ、余韻に浸っている間に作った焼きおにぎり(昆布・鮭・梅干入り)を大きなタッパーに詰めて更なる交渉を持ち掛ける。
「なあアルマ、確かお前って派遣社員……いや、斡旋所で日雇いの仕事貰って生計立ててるって言ってたよな?」
「あ、はい。そうですけど」
アルマは正規の職に就いているのではなく、国営組織である斡旋所という施設から日雇いの仕事を紹介してもらい、街の何処へでも飛び回る、地球で言うところの派遣社員とか日雇いアルバイターといった社会人だ。しかしその仕事日数は不定期で、給金も安定しておらず、就職したいが現在は就職難らしく、なかなかアルマの条件に見合う就職先が見当たらないらしい。
「実はもう一つ交渉したいことがあるんだけどよ。ちょっと今後の店の宣伝も手伝ってくれない? 報酬はお前ら家族全員分の3食おやつ付き、上手いこと繁盛し始めたら……アルマさえよければだけど、給仕として雇って給金も出そうと思う。出勤日時も応相談だし、賭けになるけどやってみない? この場で引き受けてくれるなら、焼きおにぎりを兄妹たちに持って帰ってもいい」
「本当!? いいの!? やります! やらせてください!」
即決したアルマ。彼女の名誉の為に言えば、決してタッパーから漂う香気に誘われたわけじゃあない。食うにも困る生活に一時の安定と、上手くいけば就職先も見つかると言う厚遇だからこそだ。
厳としても、男一人でやるより明るく社交的な雰囲気の美少女が一緒なら店も繁盛するだろうとか、味見役には丁度いいという打算あってのもの。決して、犬耳美少女萌えとか考えたわけではない。ないったらないのだ。
「それじゃあ、明日とか大丈夫? 予定空いてる?」
「はい! 明日からよろしくお願いします!」
こうして、地球出身の料理人と異世界の犬耳美少女は巡り合ってから6年の歳月が過ぎた。
今はまだ語られることのない苦労を超えながら前へ前へと進んでいった男女2人。そんな2人の間に愛が生まれるのはある意味当然の事で、現在2児の父となった厳は、6年前に妻が趣ある看板板に書いた店の名前を何となく眺める。日本語ではない、この世界の文字で書かれた、この世界では珍しい雰囲気の料理店の名前。祖父が健在の頃から温め続けたものだ。
「ゲンさーん、どうしたの? ボーっとしちゃって」
「いや、何でもない」
出会った当初はまだ幼さを残していたが、今では大人の女性としての色香と美貌を身につけたアルマの元に歩み寄る。祖父の夢を引き継いで成長した人気の大衆食堂の名は《うめや》。兵士や近隣住民を中心に人気の店である。
いかかでしたでしょうか? 次回も楽しんでいただければ幸いです。