昼神温泉へ
中央道──正式名称:中央自動車道──を、愛知県方面から長野県方面へと走る、一台の乗用車があった。
車種は、ブルーの初期型スズキ・ソリオ。そして、そのソリオのハンドルを握るのは、長く淡い金髪と蒼い瞳をした、どこか神秘的な印象を持つ女性である。
やや前傾姿勢で、緊張した面持ちでじっとフロントガラスの向こうを睨み付けるように見つめ、ハンドルをぎゅっと力強く握りしめた両手は、僅かに震えている。
今、その女性は明らかに緊張していた。
「なあ、エル。そんなに緊張しなくても大丈夫だぞ?」
「い、今は話しかけないでくださいっ!! き、気が散りますっ!!」
助手席に座った男性が声をかけるが、女性はその声に耳を傾ける余裕もないらしい。
「……いくらなんでも、緊張しすぎじゃない?」
「いや、車校の練習以外で初めて高速を走るとこんなもんじゃね? しかも、エルちゃんは数か月前に免許を取ったばっかりだし」
ソリオの後部座席に座る男女が、呆れたように言葉を交わす。
そう。今日の高速道路走行は、つい最近自動車免許を取ったばかりであるエルの、高速道路の走行練習を兼ねているのだ。
助手席に座っているのは、エル──正式な本名はエルルーラ・ザフィーラ・フィラシィルーラ・アカツカ──の義理の兄にして、恋人でもある赤塚康貴。そして後部座席には、二人の共通の友人である萩野隆と木村あおい。
彼らは週末の土日を利用し、エルの運転練習を兼ねた小旅行に繰り出したのだ。
目的地は、長野県の昼神温泉郷。彼らが住む日進市からは、高速を利用すれば二時間ちょっとほどの距離にある温泉地である。
昼神温泉郷は長野県南部、岐阜県との境界近くに存在する。南信州最大の温泉郷であり、昭和48年(1973年)に発見された新しい温泉地で、高速道路のインターから近く、名古屋や新宿からの高速バスも連絡しているという利便性の良さから、多くの観光客が訪れる場所でもある。
また、今回の行き先を昼神温泉にしたのは、康貴とエルには単なる観光以外の理由もあるのだが。
「そういや、他の人たちは?」
「ああ、白峰くんたち以外の日本在住組は、各自で昼神温泉に向かう予定だ。白峰くんたちを含めた日本以外に住んでいる人たちは、今頃辰巳くんが迎えに行っているんじゃないか?」
「……大変だな、辰巳くんも」
隆の言葉に、思わず康貴が苦笑を浮かべる。
最近ではすっかり親しくなった山形辰巳という青年と、その奥方であるカルセドニア・ヤマガタ。普段は異世界で暮らす彼らもまた、今回の温泉旅行の参加者である。
彼等とは現地で合流する予定だが、今回は山形夫妻以外にも合流する予定の人たちがいる。それもかなり大勢。
その人たちは山形夫妻同様、ここ最近親しくなった者たちであるものの、なかなか顔を合わせる機会がない者たちでもある。
だが今回は奇跡的に皆の都合がついたこともあり、また、とある人物の骨折りもあって昼神温泉に全員集まろうという流れになったのだ。
「今回は賑やかになりそうだな」
「そして、凄く華やかになるだろうぜ」
「そうね。なんせ一国の王様とその正妃様、そして側妃様たちも集まるもんね」
「王族と言えば、あの王様以外にも王子様がいたよな?」
「ああ、あの神様を目指すっていう白髪の人よね? でも、本人はもう王子じゃないって言い張っていたけど」
「他もかなり特殊な人たちばかりだからなぁ」
康貴と隆、そしてあおいはこれから顔を合わせる者たちを思い出し、楽しそうに言葉を交わす。
その一方、エルだけは緊張した面持ちで、康貴たちとの会話に交じる余裕もなく、じっとフロントガラスの向こうを見つめるばかりだった。
長い恵那山トンネル(全長8,490m)を抜けてすぐの園原インターチェンジで中央道を降りた康貴たち一行は、阿智川に沿って蛇行した山道を下っていく。
狭く曲がりくねった山道は、エルに高速道路同様の緊張を強いた。始終真剣な表情でハンドルを握るエルを、康貴や隆が励ます。
「ほら、もうすぐ目的地に到着するから」
「お、そこを右折して橋を渡れば、後は川に沿って走ればゴールだぜ、エルちゃん」
「う、右折ですねっ!?」
エルは慣れない手つきでウィンカーを出し、ソリオを右折させる。周囲に温泉を有するホテルが何件も並ぶ中、康貴一行は遂に目的地に到着した。
駐車場に車を入れ、パーキングブレーキを踏み込んだエルは、ふーっと大きく息を吐き出した。
「お疲れ、エル。帰りは僕が運転するからな」
「は、はい……高速道路を運転するのはすっごく緊張しました……」
康貴に優しく肩を叩かれたエルは、弱弱しく微笑む。
そんな二人に、隆とあおいの生暖かい視線が注ぐ。
「ほらほら、車の中でいちゃついていないで、早くホテルへ入ろうぜ」
「い、いちゃついてなんていないだろっ!?」
真っ赤な顔の康貴とエル。そんな二人に生暖かくも優しい目を向けつつ、隆とあおいは今夜の宿となるホテルへと向かった。
「遠い所をよく来たわね」
康貴たちがホテルの玄関を潜ると、和服を着こなした一人の女性が待っていた。
彼女の名前は大久保彰美。康貴たちが本日泊まるホテルの若女将である。
「久しぶりだね、姉さん。元気だった?」
「ええ、もちろん。そういう康貴も元気そうで良かったわ。隆くんとあおいちゃんも久しぶりね。そして……」
明美の視線が、康貴の隣に立つエルへと向けられる。
「あなたが、新しく義妹になったエルちゃんね? あなたのことは母さんから聞いているわよ?」
「は、初めましてっ!! わ、私が義妹になりましたエルルーラ・ザフィーラ・フィラシィルーラ・アカツカですっ!!」
緊張した様子で頭を下げるエルを、彰美は温かく見つめる。
そう。彰美は康貴の実の姉である。彼女の名字が「赤塚」ではなく「大久保」なのは、彰美が大学を卒業すると早々に結婚したからだ。
彼女の結婚相手は、このホテルの経営者の一人息子。そのため彰美は、現在は若女将としてこのホテルの経営に協力していた。
「今日はあなたたちの貸し切りだから。遠慮なくゆっくりしていってね」
「え? 貸し切り?」
「そうよ。ほら、あの何とかって国の王様が、『どうせなら貸し切りにした方が、ゆっくりと楽しめるだろう』って言ってぽーんとお金も払ってくれたのよ。さすがは若くとも一国の王様ねぇ。実に太っ腹だわ」
と、上品に笑う彰美。そんな彰美の話を聞いて、げんなりとした表情を浮かべたのは隆だった。
「そういや最近、ウチの親父が新しい甲冑一式やら剣やら手に入れたって喜んでいたけど……そうか。あの鎧と剣の出所、あの王様だったってわけか」
「鎧とか剣を隆のお父さんに売ったお金で、このホテルを貸し切ったのね」
呆れた口調で続けたのはあおいである。売る方も売る方なら、買う方も買う方だ。ホテルを丸ごと一晩貸し切りにした金額とは、一体いかほどだろうか。
隆の家が資産家なのは知っていたが、果たしてどれくらいの金銭が隆の父親とあの王様の間で動いたのか。それを考えるとどうにも頭が痛いあおいであった。
彰美に案内された部屋は康貴と隆で一部屋、エルとあおいで一部屋である。
「康貴とエルちゃんのことは理解しているし、姉として応援もしているけど……それとこれは別だから、同じ部屋に泊めるわけにはいかないからね?」
「なあ、彰美さん。俺たちはそれでいいとして、他の人たちはどういう部屋割なんだ?」
「一応、未成年者は男女で分けるつもりよ。でもほら、辰巳くんだっけ? あの子みたいに正式に結婚している人たちは、それぞれの家族で一つの部屋を予定しているわ」
「となると、あの王様の所は大人数になりそうだな」
隆の言うその人物は、正妃と側妃を合わせると実に五人もの奥さんを連れてくるのだ。それに加えて、あの王様を「パパ」と呼ぶ少女もいる。つまり、あの家族は七人という大所帯となる。
「大丈夫よ。ウチには大家族が泊まれる部屋もあるから」
彰美が嫁いだこのホテルは、かなり大きなホテルである。当然ながら、大人数を収容できる大き目の部屋だっていくつか存在する。
「とりあえず、部屋に荷物を置いたら宴会場へ案内するわ。そこで今日集まる人たちとの顔合わせがあるから」
「そういや、姉さん。義兄さんは? 俺、挨拶がしたいんだけど」
「あの人なら、今は飯田の駅までお客さんを迎えに行っているわ」
「飯田駅? というと赤崎くんや幸田くんたちか?」
「そうよ。赤崎くんたちと幸田くんたち、電車で飯田駅まで来るから、そこまでウチの旦那が迎えに行っているのよ」
本日集まるメンバーの内、康貴たち以外にも日本在住の者たちがいる。そんな彼らはJRなどを利用して、最寄りの飯田駅まで来るとのこと。
飯田駅から昼神温泉郷まで、車であれば片道30分ほど。路線バスもあるが、このような送迎サービスを行ってくれる施設も当然ながらあるのである。
「もう来ている人たちはいるのか?」
「今は……そうねぇ、辰巳くんの奥さんと、レイジくんとサイファさんがいるわよ。レイジくんとサイファさんは、今朝早くからもうこっちに来ていたみたい。で、辰巳くんは他の国の人たちを迎えに行っているわ」
こればかりは彼じゃないと迎えにいけないものね、という彰美の言葉に、康貴たちは一斉に頷いた。
なんせ、今日集まるメンバーの中には異世界から来る者たちもいるのだ。
当然ながらそんなメンバーを迎えに行けるのは、自在に異世界へと行ける辰巳ぐらいである。今頃辰巳は、いくつもの異世界を行き来して今日のメンバーを集めて回っているのだろう。
「じゃあ、まずはカルセさんたちに挨拶しとくか」
康貴の言葉に、他のメンバーが頷く。カルセドニアは現在、一同顔合わせのための宴会場で他のメンバーの到着を待っているらしい。
康貴たちが彰美に案内されて大宴会場に入った時、中には既に数人の人間がいた。
いや、中には人間ではないモノもいるのだが。
「おう、ヤスタカたち。一足先にお邪魔しているぜ」
座布団の上に胡坐をかいて座っていた白髪の青年が、康貴たちが入ってきたことに気づいてひょいと片手を上げる。
そんな青年の両横では、黒い髪の少女と青い髪の女性が、お茶請けのお菓子を両手に持ってぱくついていた。
「む、むぅ……、れ、レグナム! た、大変なのだ! 我輩、こんな美味しいお菓子は今まで食べたことがないのだ!」
「本当です! わたくしもご主人様同様、こんなお菓子は食べたことありません!」
彼らは既にひとっ風呂浴びたのか、浴衣姿である。初めて浴衣を着たであろう割には、何とも見事に着こなしていた。
「おいおい、カミィにクラルー。今からそんなにがっついていたら、本命の晩飯が食えなくなるぞ?」
「我輩を甘く見るなよ? この程度の量、我輩の腹にとっては一割にも満たんのだ」
「ご主人様の言う通りです、レグナム様」
少女の口の周りに付いたお菓子──ホテルの部屋によく置いてある、地元の銘菓とか土産物の試供品──の食べかすを、白髪の青年は懐から取り出した布で拭いてやりつつ、もう一人の女性の頭にはごちんと拳骨を落とす。
「ほら、ヤスタカたちが来たんだ。挨拶ぐらいしろって」
「おお、ヤスタカにエルにタカシにアオイ、久しぶりだな。また会えて嬉しいのだ」
「お久しぶりです、ヤスタカ様方。本日はお招きいただき、本当にありがとうございす」
どこで覚えたのか、青髪の女性が三つ指ついて頭を下げた。
その際、女性の浴衣の胸元が露わになり、彼女の大きな胸の谷間が康貴と隆の目に飛び込むが、隣にいる恋人のことを気にして二人は素早く目を逸らす。
黒髪の少女の名前はカミィ。そして、その隣の白髪の青年はレグナムという。
カミィはとある異世界を作り上げた始創神であり、レグナムはそんなカミィの眷属──彼らの世界では「代行者」と呼ばれる──であり、カミィと並び立つために神の階梯を登りつつある青年である。
そして青髪の女性の名はクラルー。その正体はカミィが作り出した神獣であり、本当の姿は巨大なクラゲだ。
そんなとある異世界の神様一行の隣には、金色の髪と紫の瞳を持った少年と、浅い褐色の肌とやや尖った耳を持った少女がいた。
ついでに付け加えると、その二人の傍らの空中には、透き通った女性の姿も浮かんでいた。
「やあ、ヤスタカたち。今日は世話になるな」
「お、お招きいただき、ありがとうございます」
少年の名前はレイジ・ローランド。そして少女の名前はサイファ。彼らは遠い未来の世界からここへ来ていた。
何でも、彼らの時代には既に地球は人の住める星ではなくなっており、人類は宇宙へと移民しているらしい。
そんな移民団の一つの最後の生き残りがレイジであり、彼は現在、遠い銀河の果ての星でサイファという伴侶と出会い、幸せに暮らしているとのことである。
そして空中に浮いている女性の名前はチャイカ。彼女はレイジが乗っていた宇宙船を統括する超高性能AIであり、半透明の姿は空中に投影した立体映像だ。
「あははー。まさか過去とはいえ、こうして地球に帰る機会があるとは思ってもいませんでしたねー」
空中に浮かんだまま、チャイカが朗らかに笑う。彼らにしてみれば、地球に戻って来られたのはいろいろと感慨深いのだろう。
彼らもレグナムたち同様、すでに浴衣姿である。ついでに言うと、チャイカの立体映像もしっかりと浴衣姿であった。
「レイジくん、久しぶり。君たちも辰巳くんに?」
「いや、俺たちをここまで連れて来たのはタツミじゃないぞ。ほら、タツミじゃ時間は超えられないから」
「そういやそうだったな。ってことは、あの人か……」
康貴の脳裏に、とある人物の姿が浮かぶ。
その人は本日集まるメンバーを引き合わせた張本人である。その人物がなぜ康貴たちを引き合わせたのか、それは康貴も知らない。いや、その人と最も付き合いのある辰巳でも、きっとその理由は知らないだろう。それぐらい、いろいろと謎めいた人物なのである。
「カルセさん、タツミさんは今、どこに行っています?」
「ご主人様なら、今頃はカノルドス王国だと思いますよ」
エルの質問に答えたのは、長い白金色の髪と紅玉のような瞳を持った女性であった。
彼女の名前はカルセドニア・ヤマガタ。前世はオカメインコであり、かつての飼い主であり今の夫である山形辰巳という青年を、異世界へ召喚したという経歴を持つ人物である。
彼女も今は浴衣姿であり、その大きな胸はどうしたって男性の視線を集めてしまう。
もちろん、連れの女性たちは男性陣のその視線に気づいており、足を踏んだり身体を抓ったりと忙しそうだ。
そんな中、カミィとクラルーだけは食べることに集中していたが。
「なあ、康貴。今の内に俺たちも温泉に行かないか?」
「そうだな。辰巳くんが戻ってくるまで、もうちょっとかかるだろうし。エルとあおいも行くだろ?」
「そうね。私たちもちょっとだけ温泉行きましょうか」
「じゃあ、カルセさん。私たち、皆さんが集まる前に温泉に行ってきますね」
「はい、ごゆっくりどうぞ、女将……じゃない、エルさん」
笑顔のカルセドニアに見送られて、康貴たちは宴会場を後にして温泉へと向かうのだった。