第一楽章第七節
航空自衛隊により巨人ギガントが退治された翌早朝支援部隊が到着した。
一般からチャーターした大型トラックに救援物資を満載し自衛隊の陸上部隊が護衛する形で送られてきた二百名からなる自衛隊お家芸の災害救助部隊だ。
貧民地区の一番大きな公共広場に救助活動本部を設置し水食料の配給と医療活動を行う。
本当は市民地区・貧民地区の区別事無く救援活動を行う事をナルトラウシュ側に申し入れたのだが身分制度の壁を崩す事は出来ないと強固に反対された為、やむなく比較的被害の少ない市民地区の住人は現地政府に、被害も多く人口も多い貧民地区を自衛隊が受け持つ事になった。(貴族や富裕層は直接的な被害はほとんど無い)
それ以外にも色々と話を詰めなければならないことが多く、また被災民が活動本部に殺到する可能性などが考慮され周辺に強固な柵を設置するなど実際に救援活動そのものを開始するのにかなりの時間を要す事になる。
それでも突貫で準備を行い炊き出しを始めた夕方頃には食事にありつけると長蛇の列が本部前に出来ていた。
「はいはーい、ちゃんとみんなの分はありますからねー。順番にお願いしますね~」
炊き出しの所で紀一郎は声を上げる。
以前日本に居た頃に海外ニュースで見た暴動が起きるのではと心配していたのだが、事前に現地の騎士団や自警団の人々と混乱が起きない様に協議し対策をしていたのが上手くいって大きな混乱は起きていない。
炊き出しの内容は豚汁(豚肉はほとんど入っていない)と乾パン。
日本と食生活が絶対違っているだろうファンタジー世界の住人相手にどんな炊き出しにするか揉めたらしいのだが、結局速やかにかつ大量に用意できる物という事で収束した。
「ファンタジー世界っていうから色々期待して来たけど、まあ現実は厳しいよね」
一緒に居た自衛官の一人が愚痴をこぼした。
どんな期待を抱いてきたかだいたい理解できた紀一郎は苦笑いをする。
ファンタジーと言うにはあまりにも土着的で泥臭くボロボロの服と栄養失調気味の薄汚い姿はアニメや小説で膨らませた期待と妄想を打ち砕くには十分な破壊力だった。
「ここは貧困地区ですからね。それにファンタジー美人はちゃんといますよ」
「そうなんだけどさ、もっとこうキラキラしたのをイメージしてたんだけどねぇ」
しようも無い愚痴を聞いていると連絡用にと渡されていたインカムから連絡が入る。
「すみません。呼び出しが入っちゃって」
「ここは大丈夫だから行っといで」
紀一郎は炊き出しブースを後にした。
医療班では今回の一件で怪我をした者の治療に限るという事になっている。
病気や疾患の場合は継続的な治療が必要だが現実的に不可能なのと、そもそも問診が不可能なため発熱などの比較的対処が簡単な場合など医師の判断で行う事になっている。
医療班ブースへ向かうと医官の一人が手を振って紀一郎を呼ぶ。
「おーい! こっちこっち」
彼の元へ行くとそこそこ器量が良さめの少女とその後ろに初老の男性が立っていた。
「何があったんですか?」
「それがこのお父さんがずっと女の子を前に出してくるんだけど、別にこの子何処も悪くないんだよ。伝えてもらえるかい?」
診るとその父親らしき人がしきりに少女を差し出す様に前へ押している。
医官に言われて二人に事情を伝えようとするが、予想外の答えが返ってきて紀一郎は思わず苦笑いをするしかなかった。
「あーこれはですねぇ」
医官の方を向きクスクスと笑う。
「??」
「先生にこの子をお嫁に貰って欲しいんだそうです」
「は?」
「彼女の家はとても貧しいらしくてまともな嫁ぎ先も無いから、医者である先生に貰って欲しいそうです。見ての通り可愛いし気立ても良いから是非にって」
医官は驚き首をふるふると横に振った。
「どうします? 異世界結婚します? ですよねー、じゃあ断っときます」
紀一郎はこの先生が既婚者だとして諦めるように伝える。
その後も妾でもいいからと粘っていたのだが何とか引き下がらせた。
その後も給水活動や現地治安組織との折衝での通訳や紀一郎に丸投げされた直接交渉などで目まぐるしく一日が過ぎていった。
翌朝、昨日とは違うある種の緊張感に包まれていた。
するとバラバラと二機のアパッチにエスコートされたUHー60Jブラックホークが救援活動本部横の広場に降り立つ。
自衛官によるガチガチの厳戒態勢でVIPを迎える異様な姿に、現地貧民地区の住人達が何事かと周囲の柵越しに見物人が押し寄せていた。
ブラックホークからがっしりした中年の自衛官が降り立つ。
周囲が一斉に敬礼をし、それに応えて彼も敬礼をする。
一連の動作に周囲の住民はすごい人が現れたとざわつくが、次の人物が降り立つとより大きなざわめきが起こった。
最初に降りた人物が脇に避けたかと思うとその彼も敬礼をして直立不動で立つ。
すると次いで降りてきたのは短いプリーツスカートをひらつかせた長い髪のセーラー服姿をした少女だった。
どんな人物だろうと物見がピークに達する。
「あの娘っ子は何モンだ?」
「あんな足を出してはしたない格好、酒場の女だってしやしないよ」
「でもすげえ別嬪さんだぜ」
「王サマお気に入りの娼婦なんじゃないか?」
様々な声と憶測が飛び交う。
当たり前なのだがそもそも紀一郎や自衛隊が何処の人間なのかなど分かりはしない。
分かるのは自分達とは違う余所者だということくらいだ。
最初に降りた人よりもさらに高位の人間である事は明らかなのだが、この世界の住人が持つ常識では理解できないだろう。
「お待ちしておりました鈴谷代表」
支援部隊の現場責任者として先だってヴェルター入りしていた藤原二佐が降りてきた鈴谷八重を敬礼して向かえる。
「ご苦労さまです藤原二佐。明石一尉も救出作戦の成功を感謝します」
「ありがとうございます」
藤原の斜め後ろにいた明石は敬礼を崩さないでかしこまったまま答える。
一緒に居た紀一郎はその姿に何ともいい様の無い気持ちになった。
「久しぶり、カロ。ちょっと痩せたんじゃない?」
「鈴谷会長……。別に疑っている訳では無かったんですが、ホントにクーデターやっちゃったんですね」
感嘆の表情で言う彼女に紀一郎は少し呆れた様に返す。
「カロの癖にせっかく感動の再開で色気の無い返事だなぁ」
「もう一度必ず会えると疑った事はありませんでしたから、どうって事はありません」
鈴谷はにぃっと悪戯な表情になる。
「少し見ない間に言うようになったじゃない。この一ヶ月何があったか聞かせて貰うわよ」
「もちろん。ナルトラウシュ辺境伯との会談にいくらでも」
鈴谷の脇を見ると後ろにかつて生徒会の仲間だった南部武人が立っていた。
彼に目配せするとニヤっと笑い返す。
「じゃあその前にまずシャワーね」
「へ? 何でこんな時に。ていうか風呂くらいこっちに来る前に入っていて下さいよ」
「私じゃなくてカロに言っているのよ。これから大事な交渉なんだから。気付いてないかもしれないけど、あなたカブトムシみたいな匂いがするわよ」
臭いと暗に言われて紀一郎は顔を赤らめる。
「しょうがないでしょ、風呂なんて入れるわけ無かったんだから」
「施設部隊が入浴施設を建ててるから使わせて貰いなさい。それまで待っててあげるから。着替えも持って来てるし」
「分かりました。お言葉に甘えて」
鈴谷は同行の森野一佐と藤原二佐に連れられ本営に向かい歩き出すが、思い出したように振り返った。
「あーそれと、例の彼女も一緒に連れて行ってお風呂に入れてあげなさい。一緒にいてあなた同様汚れているでしょう」
「いっ、一緒に入っていいんですか?」
「エロガキ」
紀一郎は鈴谷を見送りその場を後にした。
「ふー! マジで体が軽くなった気がする」
約一ヶ月ぶりに体に溜まった垢や埃を洗い流してご満悦の紀一郎は精一杯伸びをする。
「少し見ない間に更にヒョロくなったんじゃないか? 肉食え、肉」
するとさっき鈴谷と一緒にいた南部が声を掛けてきた。
「南部さん。あなたがここに来るなんて以外でしたよ」
「当たり前だろ? 鈴谷の護衛なんだから。それに俺以外で誰が護衛役が務まるんだよ」
「相変わらずですね」
微妙にかみ合っていない会話だが、かっての仲間との再会に顔が綻ぶ。
南部は鈴谷からの預かり物だと言って袋を渡す。紀一郎が礼を言って受け取ると、それとは別にパック入りのフルーツ牛乳を手渡した。
「これは俺からだ。銭湯上がりと言えばやっぱりこれだろ?」
「南部さんって案外古典派なんですね」
パックを開けると腰に手を当ててゴクゴクと飲み干した。
「あぁ~、旨い! ホントご馳走様です」
久々に飲む清涼飲料水に上機嫌になる。
「もう一本あるからお前の彼女にも飲ませてやれよ」
「何でそんなに嬉しそうなんですか? ちょっと怖いんですけど……」
「そりゃライバルが勝手に脱落してくれたからな。いずれ俺にも紹介してくれよな」
いつも学校では無愛想な印象の南部がニコニコとしている事に驚きつつ一応の納得をする。
「エメラインならもう少しすれば出て来ると思いますけど」
「いや、俺は戻るよ。鈴谷の傍をあまり離れたくないし、何より鼻の下伸ばしたお前の面見ると殴りたくなるからな」
去って行く南部を見送ると紀一郎は袋の中身を見た。
紙箱が入っており『めがし屋』のマークが見える。紀一郎好物のカツサンドだ。
チョコを始めて食べた時の様にカツサンドを嬉しそうに食べるエメラインの姿を思い描き自然と顔が緩んだ。
しばらくすると女性自衛官に連れられ入浴施設から彼女が出てくる。
紀一郎は声を掛けようとしたのだが、風呂上がりのエメラインを見て絶句した。
埃や油を吸って薄汚れていた髪は洗い流されてピンク色に美しく輝き、煤けていた肌も元の透き通る白い肌に改めてエメラインの美しさを認識した。
「お待たせー。どう彼女、びっくりしたでしょ?」
女性自衛官がお披露目する様にエメラインを紀一郎の前に差し出す。
「ええ、びっくりしました」
「でしょ? 機材やらシャンプーとか使い方が分からないだろうから、私が髪を洗ってあげたんだけどあんまり綺麗だから驚いちゃった。セットも私がしたんだよ」
綺麗なお人形を愛でる様にピンクの髪をなでる。
「ありがとうございました」
礼を言うとエメラインを紀一郎に預けて女性自衛官は後にした。
「すごく、綺麗だよ」
「ありがとう」
風呂上がりで上機嫌な紀一郎とは対照的に機嫌が良くない。少し前からそうなのだが、ずっと沈んでいる。
さすがに乙女心に鈍感な紀一郎もその事が不安に思っていた。
「ほら、これめがし屋のカツサンド。うちの会長が持って来てくれたんだ」
「そう……」
紀一郎に促されてエメラインは手を伸ばした。
「さめても美味しいんだ。今度一緒にめがし屋の温かいカツサンドを食べに行こう」
何とか元気付けようと気遣うのだが……。
「ごめんなさい」
「ん?」
「ごめんなさい、私あなたと一緒には行けない」
「へ? どゆ事」
「辺境伯にお願いして故郷に帰る事にしたの。だからきぃの町には行かない。このままもうあなたと会う事は無いと思う。ごめんなさい」
「え?」
「これ返すね」
カツサンドを箱に戻すとエメラインは去って行く。
「え?」
起こった事に頭が追いかず、紀一郎は呆然と立ち尽くすしかなかった。
そして加賀紀一郎二度目の恋は幕を閉じた。
会談の事前協議で藤原二佐は紀一郎と共にヴェルター城に訪れていた。
「これが一連の騒動で掛かった費用の見積もりと賠償金の総額です」
紀一郎通訳の下で話を詰める事になった藤原二佐が、請求内容を翻訳して書いたコピー紙をトレント主席行政官に差し出す。
紀一郎自身も驚いた事なのだが話せるだけでなく文字の読み書きもできたため、文章作成なども彼が担当する事になっていた。
「拝見させて頂きます」
シェリオス大陸で一般的に使われている羊皮紙と違う、少しの染みも無い真っ白で触り心地の良い紙に関心する。
書かれている内容に目を落とすが無表情を変えない。
「金塊二百四十ロニア(百二十kg)ですか。金貨ではなく?」
「もちろん同量の金を含んだ金貨なら引き換えを応じますが、我々はあなた方の通貨を必要としませんので」
事前協議に先だってこの国の通貨についていくつか調査したのだが、国家が代表して貨幣を発行している訳ではなく国王や有力貴族達がそれぞれ自分の領地で勝手に鋳造して流通させていた事が分かった。
理由は貨幣製造税という慣例があり貨幣を製造する際に税として上がりを得る事が出来る為、互いにせっせと貨幣を流通させていてリオーラ金貨・リンス銀貨・スンペニ銅貨と一応名前が統一されている事以外、大きさ重さ含有率とてんでバラバラで、日本人にはとても相手に出来るものではなかったからだ。
「一応申し上げておきますが、この支払いはあくまで前提条件です。条約交渉とは別になります」
「具体的にどの様な協約を考えられておられるのですか?」
「自由貿易権・治外法権・不可侵条約の三つになります」
「自由と言う言葉の意味が分からないのですが」
「具体的には関税を始めあらゆる税や手数料などを我々の貿易品に課す事を免除していただきますし、禁輸などの妨害行為も禁じられます」
「互いに交易特権を、という訳ですね」
正直この交渉の内容に本意ではなかった藤原は申し訳無さそうに切り出した。
「いえ、この条件が課せられるのはナルトラウシュ領だけです」
ポーカーフェイスを貫徹していたトレントだが一瞬固まる。
「なるほど……、という事は他の二つも同じと考えてよろしいのですか?」
「そうです」
トレントは要求の内容を見て、藤原は相手の苦境を慮って沈んだ雰囲気になった。
その後も細かい話を伝えて協議は進んだ。
「お伺いしました。その旨我が主に伝え検討しますので、今日の所はこれで……」
「お分かりと思いますが会談は明日です。それまでに考えを固めておいて下さい」
念を押すとそれぞれテーブルを立ち散会となった。
夕刻
「どうでしたか? 藤原二佐」
鈴谷八重が控えていた本営の仮設テントで報告を行っていた。
「どうと言われましても、厳しいでしょうね。感情を顔に出さない人でしたけど、窮状が空気として出てましたよ。弱い者いじめしているみたいで気分の良いもんじゃないですね」
「条件を飲んでくれると思いますか?」
「分かりません。しかしどちらにせよ、恨まれる事うけあいです」
「納得できるように妥協できればいいのだけど」
憂いた表情で頬杖をつく。
「元々一方的な条件ですからどうしたって不満が残るでしょう。それにあまり妥協的だと町の代表委員達から突っ込まれる事になります」
隣に控えて聞いていた森野一佐が差し込む。
「そうねぇ」
鈴谷八重はクーデターで前町長・前議会・その他上級公務員を公職追放したのだが、彼女達に中立的だった町の名士や一部公務員を町全体の運営を行う『代表委員会』の委員に任命している。
河原崎駐屯の自衛隊から後ろ盾を受けて権力を手にした鈴谷だが、女子高生の彼女が権力の座に着く事に不満を抱く者も多くその力も磐石とはいい難いのだ。
その後報告を終えると藤原は退室した。
「ご足労ありがとうございました。森野さんも下がって良いですよ」
「はっ」
鈴谷に促され藤原に続いて森野一佐も退室する。すると外に待機していた遠野恵三が入ってきた。
「大変ですね、鈴谷代表」
「ホンっとにそぅ。どうしてこう男って馬鹿なのかしら」
気が抜けた声で机に突っ伏した。
「代表委員を出汁に使っていますが、元々防衛上必要だとして一方的な条約案をねじ込んだのは森野一佐ですからね。会談が失敗するのを期待しているんでしょう」
「クーデターの時は協力的だったのに」
「頭の固い旧町議会と町長を排除出来ればそれで良いと考えていたんでしょうが、まさかあなたがここまで上手く町を回せるとは思わなかったんですよ」
「だからってわざわざ足を引っ張らなくていいじゃない」
「この件で失敗すれば他の代表委員に追求を受けて代表の権限が飲み込まれてしまうでしょう。悪い方ではないのですが、森野一佐としては鈴谷代表の独裁を好ましく思っていないんじゃないですか?」
「ならそういえば良いじゃん」
森野一佐が単純な協力者ではなくなりつつある事にため息をつく。
「結局今はあなた以外に町をまとめられる人はいませんから。それに軍人は政治に口出ししてはいけないって建前がありますしね」
「それで裏工作してるんじゃ、結局一緒じゃん」
「そうですね。じゃあその件は置いといて、こちらの書類に目を通して決済をお願いします」
ファイルをどさっと置いた。
それを見た鈴谷はさっき以上にうんざりした表情をする。
「私の仕事って一体何なのか時々疑問に思うわ」
「責任者は書類にハンコを押すのが主な仕事です。終わった頃にまた来ます」
「どこ行くの?」
「昼食です」
遠野は二枚目の顔をにこっとさせてその場を去った。
救援活動本部内には食堂用のテントがあり、隊員達が二十四時間入れ替わり立ち代り食事を取っている。
カーキ色の迷彩服を着た隊員の中で一点、黒のジーパンに黒の短いジージャンという出で立ちで加賀紀一郎が遅めの昼食を取っていた。
エメラインから突然別れの言葉を切り出され放心状態になったものの、目の前の役割に追われ没頭する事で一旦その事を考えないようにしていた。
「ここいいか?」
テーブルの向かいから声がする。
見上げると学校の先輩にあたる遠野がトレーを持って立っていた。
「どうぞ」
遠野は席に座る。
「調子はどう?」
「変な事聞くんですね……、あまり良くないです」
生徒会時代でもあまり話をする訳ではなかった遠野の態度は珍しいものだった。
「大変だったらしいな」
「ええまあ」
「まあ俺達の方も加賀ほどじゃないが、色々あったけどな」
「みたいですね。南部さんや自衛隊の人から聞いてます」
「通訳の仕事は大変か?」
「あの、遠野さん。今色々抱えていて余裕が無いんです。すみませんが……」
エメラインに振られて以来すっかりやさぐれてしまった紀一郎はうんざりして遠野を遠ざけようとするが、我関セズと本題を切り出す。
「お前の事情も知っているし、大変なのも分かる。しかしお前には悪いが、すぐに働いてもらうぞ」
紀一郎は箸を止め、無言で相手を見つめた。
「ここの領主と結ぶ条約について知っているな?」
「あたりまえです。その場にいたんですから」
「どう思う?」
「どうって言われても。正直難しいんじゃないですか? 見た感じ相手が呑むとは思えませんでしたから」
「やっぱりか……。実は今回の会談が上手くいかなかったら、鈴谷代表は不味い立場に立たされる事になる」
鈴谷の名前を聞きピクリと反応する。
「どういう事です?」
「あの人の地位は磐石じゃないって事さ。元々代表はもう少し緩い条約を考えていたんだが内部で押し切られてしまってね」
察しのいい紀一郎は渋い顔をして聞き込んでいた。
「どの程度不味いんです?」
「多分地位を追われる、かもしれない」
二人の間に重苦しい空気が流れる。
「僕に何をしろと?」
「お前の力でこの条約を成立させて欲しい」
突飛な発言に顔をゆがめた。
「正気ですか?」
「もちろん。こちらの要求をほぼ変える事無く彼らに飲ませるんだ」
「条約締結は明日ですよ?」
「今日中に動けばいい。出来るか?」
紀一郎はさらに顔をゆがめて考え込む。
「鈴谷代表はお前を助ける為に父親を裏切ってまでして此処までの事をやったんだ。お前もそれに見合った働きはしてもらうぞ」
紀一郎は返事をしなかった。
しかし返答を聞く事無く遠野は席を立つ。
「それじゃあな」
「あれ? 食べないんですか?」
「もう食った」
「えっ! もう?」
見ると彼のトレーに乗った皿は綺麗に空になっていた。
「お前ほどじゃないが忙しい身でね。早飯も特技のうちだよ」




