僕が彼女にすべきこと
ちょっといつもと違うものを書いてみました。
それは今日の朝だった。学校に行く直前に父さんからもらった絵画展のチケット、有効期限はきっかり今日までだった。暇だし、折角もらったのに使わないのはなにか悪い気がしてくる。でも、そのチケットは二枚分だったのだ。一人で行く分には行って帰ってくればいい。けれど、二人で行くとなると、必然的に誰かを誘わなくちゃいけない。
誘う相手は何人も頭に浮かんだ。隣の席の子、同じ部活の先輩、バイトの後輩……全員、僕の気になっている女の子だ。その誰かを誘えばいいといえば話は単純だけれど、そうはいかない。僕はそれがたまらなく怖いんだ。仮に誰か一人に絞って誘ったとして、それが断られたら? その後の関係が気まずくなったら? そんな風に考えてしまう。僕はたまらなく怖いんだ。自分の行動でこれからの関係が悪化してしまうことが。だから、最初からそんな風に動かない。そうすれば傷つかずに済むし、何も悪化しない。こんな小心者の僕には、こんなチャンスがあったって、有効利用なんてできない。
だから僕は、綾を誘った。
「あのさ、今日までやってる絵画展のチケットもらったんだ。よかったら行かないか」
「うん、いいね。行こう、圭」
綾がいつものように柔らかく笑った。彼女とはこうしてよく出かけることがある。僕の小心からくるこの誘いに彼女が嫌な顔一つせずに受け入れてくれることが、ただ嬉しい。彼女とはもうずいぶんと長く一緒にいる。こうやって気軽に誘えるのは彼女くらい、そう言っても過言ではないほど、彼女は僕にとってかけがえのない友人なのだ。
道中、彼女も僕もさして話はしなかった。それはいつものことだった。彼女と僕との間には、会話は少ない。それは培ってきた二人の時間もあれば、僕たちがもともと口数の少ない人間だからということもある。綾との時間は、いつも隣に彼女がいる、それだけで過ぎていった。
「着いたね」
綾が顔を緩ませた。目の前にはまばらに人がいて、この街らしいなと感じられる。絵画展のポスターには大きく「あの有名漫画家の初絵画展」と書かれていた。それを見て、父さんの「出展者の地元がこの街らしくてな」という言葉を思い出す。
中に入ってみると、様々な絵が所狭しと飾られていた。絵のタッチはいろいろだが、どれも漫画家らしい親しみやすい絵だ。それらの絵をよくよく観察してみると、見覚えがあった。彼女の部屋だ。彼女の部屋にこの漫画家の漫画がいくつもあったことを、僕は覚えている。きっと彼女が即決していた理由もここにあったのだろう。
そういえば、綾の部屋にはいくつもの本がある。漫画もそうだし、小説、絵本、写真集、さらには難しそうな哲学書まで。本棚を見ればその人がどんな人かわかるというが、彼女はその例には当てはまらないようだ。一度彼女に聞いたことがある。なぜそんなに本があるのかと。すると彼女は、「私、いろんなこと知りたいの」と言ってきた。彼女はそういう人間なのだ。
「こういうとこ来るの久しぶり」
「そうなんだ」
「うん、家で本読んでばっか」
へえ、と僕は返す。確かに、最近彼女と会うのはいつもどちらかの家だし、彼女はもちろん僕もアウトドアな人間でない、二人で外に出るのは思い返せば久しぶりのことだ。きっと、きっかけがなければ彼女は外に踏み出さないのだろう。そして僕も同じだった。もしかしたら、絵画展のチケットをもらわなければ、またずいぶんと先まで外に出ることはなかったかもしれない。
「ねえ、これ見て」
彼女が指さした先には、小学生くらいだろうか、男の子と女の子が手を繋いで街を歩いている絵があった。先程までどの絵もじっくり見ていただけだったのに、ここにきて声が出たことに少し驚いた。
「素敵じゃない?」
「本当だ」
「……みたい」
「えっ?」
「私たち……みたいだね」
綾の言葉に驚きつつも、僕は「懐かしいね」と言った。確かに、この絵は、まるであの頃の僕たちのようだった。
あれは、小学生の頃だ。僕が道端でふらふらしてる彼女に、「どうしたの」と声をかけたのがきっかけだった。綾は転校生だったのだ。この街の独特な地形に迷子になって、帰る道を見失ってしまったようだった。幸い、僕の家の近くだったために、僕は彼女を家まで送ってあげた。その次の日に、学校で彼女と会い、彼女が同じ小学校だと知ってから、よく一緒にいるようになった。
きっかけなんて些細なものだ。僕にはもうそれくらいの記憶しか残っていないし、どうして彼女と別のクラスだったのに当時あんなに一緒にいたか、それもあやふやだ。
「あの日さ……迷子になったのが怖くて怖くて、まるで世界に自分一人しかいなくなっちゃったみたいでさ」
「大げさだな」
「小学生の私にはそれほどのことだったの!本当に、圭が声かけてくれてよかったよ」
「それはどうも」
彼女はいつも、大げさなくらい感情表現をする。僕にはそれができないから、いつも羨ましいと感じる。僕は時々、どうしようもなく自分が欠落した人間だと思い知らされる。特に人と話をするとき、僕は作り笑いと呼べるかも危うい笑顔しか浮かべられない。今のところそれが怒りを買って人が離れていくということも、嫌な顔をされることもない。もしかしたら、そんなこと気付かれてすらいないかもしれない。けれども、僕は自分の笑顔がどうしても嫌になる。こんな嘘みたいな笑顔が。だけれど、不思議と綾の前では、僕はそんなことも気にせずに自然体でいられる。そんな環境が心地よかった。
「でも、こうして僕が声をかけなかったら、僕たちがこうやって仲良くなることもなかったわけだからね」
「うん、そうだね」
綾の顔が一段と明るくなった。その顔を見て、僕もつられて笑う。そうか、彼女の笑顔が、僕の笑顔を自然なものにしてくれているんだ。
絵画展の絵は、会場の規模の影響からか、思っていたよりも数はなく、じっくり見ていた僕らでさえあっという間に進んでいった。だがこうして回ってみると、絵画展の絵全体に共通点があった。男の子と女の子、成長する二人、同じ街の風景。きっとこの絵の数々は、この男の子と女の子の街での成長の記録なのだろう。漫画家の絵画展らしい、ストーリー性のある設計だ。そしてついに最後の絵の場所に着いた。その絵は、夕日が沈んだ街の中、成長して大人になった男の子と女の子が別れる場面だった。遠くに背中が見える男の子、そして腰から上が大きく描かれた女の子は、悲しそうな表情で涙を浮かべている。最後になって、二人が離れ離れとは、と僕は思った。
「ねえ、綾」
何気なく彼女に声をかける。すると、俯きながら、必死に涙をこらえようとしている、彼女の姿があった。今まで一度も、綾の悲しそうな表情なんて見たことなどない。彼女はいつだってにこやかで、いつだって弱さを見せない人だった。まるで僕とは正反対な、そんな女の子なのだ。僕はどうしていいかわからずに、ただ名前を繰り返し呼んだ。
「あ……ごめんね」
「いや、あの、どうしたの」
「ずっと言わなくっちゃって思ってたんだけどな……」
「え?」
「私ね……引っ越すんだ」
そう言って、彼女はぎこちない笑顔を作った。
絵画展の帰り道は、もう薄暗く静けさが漂っている。彼女のカミングアウトから、僕たちは一言も言葉を交わせないでいた。僕には何もわからなかったのだ。綾がなぜあんなにも泣きそうになっていたのか、なぜあのタイミングで引っ越しのことを告げたのかも。
「ねえ、綾」
僕は思い切って沈黙を破る。彼女は表情の読めないような顔で僕の方を見つめた。何か言わなくては。でも何を言えばいい? どこに引っ越すんだい、どうして今日まで教えてくれなかったんだい、なんで涙を浮かべていたんだい、どれもこれも言えない。言う勇気がでない。
「あのね、ずっと言おうと思ってたんだよ」
彼女が今度は口を開いた。
「でもね、なんだか言うのが怖くてなかなか言えなくて、ずっと言えなくて……」
「じゃあ……どうして、あの時だったの?」
言えなかった質問を、僕は綾にぶつける。彼女は少し困った表情で「うーん」と低く唸った。
「あの絵がね、重なったの。私たちに」
「それって?」
「私が、圭に、離れられちゃう……そんな風に思ったの」
「なんで? 僕は綾から離れたりなんかしないよ」
僕は必死に彼女に訴えた。しかし、彼女は虚しそうに首を横に振る。
「……ううん、きっと離れちゃう」
「そんなことないって」
「あるの!」
綾がひときわ大きな声を出す。僕はその迫力に驚いて口を閉じた。
「私は圭と側にいたくてなんだってした! 口数の少ないあなたと話すためにいろんな本読んでいろんな話できるようにしたし、圭の側にいっつもいたいから圭の誘いにはなんだってついてったよ! だって……圭が大好きだから!」
「えっ……」
彼女の言葉に僕は驚いた。じっと彼女を見つめる。彼女は涙を浮かべながら強いまなざしで僕を見つめ返した。
「私は、あの小学生の時助けてもらってから、ずっとずっと圭のことが好きなの」
綾が涙を拭き、じっと僕を見つめる。僕のことが好き、そんなこと僕は今まで気づきさえしなかった。彼女の引越しですらあたふたする僕にその告白はあまりにも意表を突く出来事だった。けれど……
「ねえ、圭?」
「ごめん」
「……えっ」
綾が気の抜けたような声を出す。彼女にとって想定しない展開だったのだろう。しかし、僕には、なぜか不思議なほどに答えが出ていたんだ。はっきりと。
「僕も、綾のことは好きだよ。でも僕は友達として綾が好きなんだ…」
必死に言葉を繋げて、僕は彼女に返事をした。僕にはどうしても、綾を”彼女”として見ることはできない。どうしても、できなかった。
「なんで! なんでそんなにすぐに結論出るの? もしかしたら最後のイタズラかもしれないじゃん」
「綾……君がそんなことしないことは、僕知ってるよ」
彼女がいつになく動揺しているのが、僕にははっきりとわかった。この言葉を伝えることで、彼女がきっと傷ついてしまうこと、そして僕自身も傷ついてしまうことも、僕にはわかっていた。綾が大きな声で呻く。
「綾が大切な友達だから、だからこそはっきりと伝えたいんだ。だから……」
「違うよ、きっと圭は私のことそんなに好きじゃないんだよ、友達としても!」
僕はその迫力に気圧される。いつもの彼女はここにはいないような気がした。いや、もしかしたらこれが彼女なのかもしれない。今日はいつも一緒だったはずの彼女の知らない一面ばかり知る。
「なんで、そう思うの」
「だって圭は私といる時はあまり笑わない。楽しそうじゃないもの。他のみんなの前ではあんなに笑顔見せるのに」
「そんなことない。綾といる時は楽しいよいつも!」
綾の前であまり無理に笑わない。それは僕の甘えだったかもしれない。ただ、いつだって繕わずにいれる、そんなのは綾の隣だけなのに。僕の嘘は、どうしても見破られたい人にもまかり通ってしまった。
「ずっと思ってた。いつもいつも圭は透かしてばかり。きっと私と合わせてるだけ。私としょうがなく一緒にいたんでしょ!」
「そんなことない! 誘うのだっていつも僕からだったろ! 僕は、君と一緒にいたいから一緒にいたんだ」
「絶対嘘! 私のことずっと鬱陶しく思ってたんでしょ!」
『バンッ』
僕は気がついたら、綾の頬を叩いていた。彼女は僕のことを悲しそうな目で見る。
「もういい!」
そう言って、綾は家の方へ走って行った。僕は、彼女に何も声をかけられなかった。頼ってばっかだった僕が、一体なんと言ってあげられたのだろう。僕は彼女にずっとそんな思いをさせてしまっていたのだろうか。
胸がキリキリと痛み出した。初めての感覚だ。彼女は振られるとわかっていたのだろうか。そんな彼女を、どうやったら傷つけずに済んだんだろうか。
いや、そんな方法はきっとないのだろう。振られた綾は絶対に傷つくし、振った僕だって痛みを背負わなければならないのだ。それが、告白というものなのだろう。
僕はこの痛みから逃げずに、綾と、向き合わなければならない。きっと明日学校で会う。その時は、僕から「おはよう」と声をかけよう。彼女は返してくれるだろうか、今の僕にはわからない。けれどきっと、そうすることが、僕がやるべき彼女への告白の返事なのだろう。