午睡の一涙
あまねく空に音奏で、眠る君に捧ぐ。
はたして彼の名は何というのか、私は遂にその日まで知ることはなかった。
彼は己の名を名乗らなかったし、私も彼の名を尋ねようと思わなかったからだ。初対面の人間が二人っきりの場所で、名乗らず、そして尋ねなければ、お互いの名前を認識することなどない。私も私の名を名乗らなかったし、彼も彼の名を名乗ることはなかった。最終的に私は彼の名を知ることができたが、彼はといえば私の名を知らないままだったのかもしれない。或いは彼のことだ、私が名乗らずとも、私を見ずとも、私のことを知っていたのかもしれない。
それは、葉桜の季節であった。
梅雨に向けて空気が少し湿ってきて、これから季節が夏に向かうことを知らせるかのごとく気温が上がり始めていた時期。ふと気まぐれで踏み込んだ原っぱに人影を見つけて、私はほんのちょっとだけ驚いた。私はちょうどそのとき、誰かに会いたい気分であったからだ。
誰かに会いたい気分。格好つけて言ってみても、それはつまり宙ぶらりんの気持ちのことであった。その気分の指す「誰か」は、特定の誰かを指す言葉ではない。親に会いたいわけでも、妹に会いたいわけでも、友人に会いたいわけでも、ただの顔見知りに会いたいわけでもない。誰にも会いたくないという気持ちにしいて言うなら一番近いかもしれなかったが、それとは別物だ、と私は思っていた。誰にも会いたくないわけじゃない。でも、誰に会いたいのかはわからない。
自分でもよくわからない空虚感を持て余していた私は、見つけた人影と共に、溶けるような音色を聴きつけた。ふわりとした新風のように柔らかで、優しい音色。何の楽器で奏でているのか、音楽に無学な自分にはまるで見当がつかない。不思議なほどに静かで安らかなその音色は、漂う空気と混ざり合って世界中に溶け出していた。私の視界に入るすべてが、私の世界を構成するすべてが、その音を吸収して響いているようにさえ思えた。
不意に、人影は振り返る。
それと同時に、音色がぴたりと鳴りやんだ。だが、一度塗り替えられた世界は、その音が鳴る前までと同じように戻りはしなかった。それまでやかましく騒いでいた虫の声はそっと鳴りを潜め、木々のざわめきと草原の囁きが心地良い。
突然の変化に私が驚いたのも、無理はなかろう。あわてて身を翻そうとした私に、だが、振り返った人影から静止の声がかかった。これまで一度も聞いたことのない、幼気な声であった。
「お姉ちゃん、おうちに帰らないの?」
風にさらわれた葉桜が天に舞う。ぱさ、と足元に落ちた一枚が、たどたどしい韻律を私に届けた。眩いほどの陽に照らされた人影は、まだ十の齢にもならないであろう少年で、彼は幼い顔に似合わぬ慈しむような顔をして、私を見ていた。
ぽろん、と、丸く柔らかいぷっくりした手が、彼の身の丈ほどもある弦楽器の弦を弾く。やさしい音だった。ついさっきまで私の世界を彩っていた、優しさの溶け出す音色。
「帰らないよ。帰り方がわからないんだ」
私は気が付けばそう答えていた。はて、自分は何を答えているんだろう。帰り道なんて思い出すまでもなく、身体に刻み付けられているはずなのに。自分の受け答えを不思議に思ったが、反面、その言葉に納得しかけている自分をも見つけてしまって、どうすればいいのやら分からなくなった。
少年は私の曖昧模糊とした答えを、はたしてちゃんと理解していたのだろうか。そうなんだぁ、と言葉を続けたあと、にっこりと微笑んだ。
「お姉ちゃんは、迷子なんだね」
「君は、迷子じゃないの」
「うん、そうだよ」
はっきりとそう答えた少年は、よいしょと両腕で抱いた楽器を抱え直した。小さなその身体には大きすぎるように見えるのに、彼はその楽器の重さなどもろともしていないようだ。しっかりした子だな、という印象よりも、不思議な子だなぁ、という感想が先に出る。
少年は私の目をじっと見つめてきた。黒くて大きい瞳は女の子のようで、けれどすっと通った鼻梁を見るに、将来なかなか整った顔になるかもしれない。
私はしばらく少年と目を合わせ続け、その間ずっと黙っていた。日に照らされて笑む少年の表情を見ると、どうしてか息苦しさがこみあげてくることに気が付いたからだ。あまりに心地よすぎる初夏の陽気には似つかわしくない、冷たい湖で溺れる寸前のような感覚。これは何だろう。少年は木漏れ日のように優しく笑んでいるのに、私の心を見えない何かで塞き止めている、この冷たい感覚は何であろう。 私には、わからなかった。
「お姉ちゃん、なにが好き?」
一瞬ののち、原っぱに生きる草を踏んでいたはずの両足は、石床を踏んでいた。
それまで目にしていた開けた景色がガラっと一変する。私と少年は立っていたはずなのに、この場では腰かけていた。安心感を与えてくれる色合いの温もりを無理矢理に表現しようとして失敗したような茶色の人口石の壁は、何かの建物の壁部らしい。少し首を回した右方に伸びていた壁に、大きな窓が見えた。そこにちらほら見える黒色の影は、皆一様に重い何かを双肩に背負って、悲壮にくれているように見える。
ざぁぁぁ、と水音が真後ろからして振り向けば、そこにはどこかで見た覚えのある噴水が鎮座している。私たちは噴水の淵に腰かけていたのであった。
どうもここは、どこかの建物に併設された一種の屋外休憩場のようなところのようだ。やけに静かで、浮世離れした空気の広がるそこの雰囲気は、また私に微かな冷たさをもたらす。この場所は嫌いだ。反射的にそう思った。息苦しくて、冷たくて、鼻腔に運ばれてくる独特の匂いが鼻をつく。香の匂いは嫌いだった。ずっと昔からのことだけれど、最近は更に好きになれなかった。
「僕はね、音、好き」
ぶらぶら、ぶらり。ハーフパンツから覗く未成熟な足を振りながら、少年はそう言った。
「いっぱいあるから、好き」
「……音が、いっぱい?」
「うん。僕の周りには音がたくさんあるの。お姉ちゃんの周りにもあるの。音はね、どこにいても、見えなくっても聞こえるから、僕、好きなの」
音がたくさん、ある。
子どもらしい単純さが欠けた、子どもらしからぬ難解な理由に聞こえた。ちょっと驚いて少年の横顔を見遣るが、彼は口元に弧を描いたまま空を見上げていて、自分の発言をさして気にしていないようだった。
少年につられるようにして、空を見る。
原っぱでは目に痛いほど晴れやかに青かった空は、白色に一匙だけ灰色を落とし込んだ雲をたったひとつだけ浮かべていた。周りに仲間のいないその雲は、北風に吹かれたらすぐにでも四散してしまいそうなほど弱弱しく見える。青色の世界に立ち入った迷い子を、少年は黒い瞳でじっと追いかけていた。
「音は、どこにでもいるんだよ。僕の頭にも、お姉ちゃんの中にも」
「……音は、どこにでも」
「うん、どこにでも。音はふわふわしてるから、どこででも飛んで行けるんだ」
ぽろん。少年の腕に抱かれた弦楽器が労わるように弾かれ、弦の周囲の空気が揺れて、伝わり、私の鼓膜を震わせる。ではこの音も、どこまででも飛んで行けるのだろうか。こんなに曖昧で力強さに欠けた音でも、例え私がここよりもっと遠い遥か遠くにいたとしても、私の耳にはこの音が聞こえるんだろうか。
私にはわからなかった。
遠い遠い遠いどこか、生者には知りえぬ世界の住人にも、君の音ならば聞こえるの?
ひび割れた口元からその質問が発せられることはなかった。
「それじゃ、お姉ちゃん。気を付けて帰ってね」
見上げていたはずの雲が消え、青かったはずの空が夕日の色に染まっていた。
またしても一瞬で景色が様変わりする。何の浮遊感も違和感も伴わないこの不思議な現象に、しかし、もう私は驚かなかった。私が二度目の不思議な世界の変転で今踏んだ地面は、一番最初に足を踏み入れた、あの原っぱに違いなかったからだ。
ひらり、と手を振った少年の無邪気を装う目に、本当に僅かな寂寞の色がうかがえたけれど、私はそれ以上そこへ残り続けることを嫌って踵を返した。うん、じゃあね。小さく喉から滑り出た言葉が彼に聞こえていたかどうか、私はそれを考慮することもしなかった。音が好きだという彼ならば、きっとこの音も拾ってくれるだろう。無責任とも取れる意味不明な自信が私の中にはあった。
ざぁぁっと風になびいた木々の音にまぎれて、少年の声が聞こえた。
「ちゃんと、聞こえてるよ」