先輩
先輩、と呼びかける前に、一拍の間が空いてしまうようになったのは、いつからだろう。
「…先輩」
「なあに」
短く息をはいて、それでも高鳴る心臓を持て余しながら呼びかける。返る返事はそっけない。そっけなくても、突きはなすような冷たさはそこには無いのだ。
「どうしたの」
呼びかけただけで満足して黙ってしまった僕に、先輩が訝しげに問うてくる。
放課後独特の、気だるい空気に夕暮れの陽が溶けている。温かな橙のなか、先輩の髪も橙に染まって見える。
「…その本、おもしろいですか」
本当は、放課後の図書館に2人きりということだけで息をすることさえままならないのだ。そのくせ、男というのは貪欲で、声を聴きたいと思ってしまう。
「おもしろい、というよりは…興味深いと思う。著者の思考が、洪水みたいな勢いで綴られてるの」
…あぁ、僕は、救われているのだ。
この凛とした声と、知性的な瞳と、常に誠実であろうとする心の持ち主に。
「…僕には、少し難しそうですね」
限界まで拍動した心臓は、どうなるのだろう。止まってしまうのだろうか。それとも、限界などないのだろうか。
「そんなことは無いと思うけれど…。でも、陵くんが読みたいものを読むのが1番いいのかもね」
…やっぱり、限界だ。そんな美しい声で、無邪気に僕の名を口にする。こんなどうしようもない男の名を。
このひとの為なら、僕は全てをなげうって祈ることができるのだ。
幸せを。
「…先輩」
「ん」
そっけない返事に、温かいものがこみ上げる。
「世界中の誰よりも、幸せになってくださいね」
僕ではない、ひとのもとで。
僕では、あなたとは不釣り合いだから。
へんな陵くん、と不思議そうに笑う先輩の、美しい瞳から目がそらせない。
愛して、います。
決して言えない感情を、先輩、僕は身の内に飼っているんです。