第一話
「雨が降っている…」
誰にいったのではない。土方は格子の外を見た。
六月の半ばになり、京の町屋の庭には紫陽花が静かにたたずんでいる。
青々とした大きな葉の真ん中に、薄紫色の花が咲いている。がくの上に乗っている丸い粒が、重みを含んですべるようにして落ちていく。
時折、傘を差しながら通り過ぎていく人を目にしながら、土方はなんとなく甘酒を口にしていた。
土方についてはもう語っただろうか。新撰組副長を務める、二重のはれぼったい目をした男“土方歳三”である。
だが、はれぼったい二重の下は長い切れ目で “鬼の副長”と呼ばれた男とは思えない涼しさがあった。
今日は、新撰組の制服――――もっとも、戦いのとき以外で隊内全員が制服を着用する習慣はあまりなかったそうだが――――は着ていない。代わりに、黒に近い紺色の袴と無地の羽織を羽織っていた。
二本の指で挟むようにして持っている御猪口には小さな雀の絵が描かれていた。どの季節にも合うように雀の柄にしてあるのだろうか。
店の中は薄暗く、客は土方がいるだけの静かな茶店には、土の匂いが満ちていた。
傘のない土方は雨が止むまで待っていたが、雨が止む気配はいっこうに感じられなかった。
小雨なので屯所まで歩いていくことは出来るし、新撰組副長の名をあげれば傘ぐらい借りて帰れたが、そうしようとしなかったのはそういう気分だったからだろうか。
わからない。わからないままに書き留めておく。
今日は見回りもなく仕事も多くなかったから、久しぶりに一人で京の街を歩いてみようと思った。
昼食を取ったあと、新撰組一番隊隊長、沖田総司と縁側ですれ違った。
土方はこの若者にだけ行き先を伝えると、屯所を出た。理由は特になかったが、清水へ一人で行きたかった。それだけである。行きたい場所が清水であるということも、あまり理由がないのかもしれない。
清水坂を登りきったところに、一軒の小さな茶店がある。たまにそこに寄って茶を飲んだりするのだが、甘いものは食べなかった。
店の奥の席の近くには木の格子がはまっていて、そこから表の通りが見える。
通りには参拝に来た女子供や僧の姿があったが、武士と見受けられる者はいなかった。
土方が先程まで見ていた紫陽花の花も表通りに咲いている。
清水の本堂へ続く道の傍に紫陽花の株がいくつも植えられていた。石碑の影になって隠れている葉も、おそらく紫陽花のものだろう。
土方はそこで一服していた。どうせ雨が止む気配がないのならゆっくりするのも悪くないだろうと思ったのである。
シンとした空気の中で小雨の降り注ぐ音だけが聞こえる。まるで自分以外のものが存在しないかのように思っても不思議はない、そんな物音ひとつしない場所だった。
(普段なら参拝客で賑わう季節なんだがな)
土方は京都の出身ではない。土方だけでなく、新撰組局長の近藤勇も沖田総司も京都の出身ではなかった。
これは余談になるかもしれないが、土方は多摩地方(現在の東京都に含まれる)の石田村というところで生まれた。
石田村というところでは、打ち身によく効く薬で有名だったらしく、土方も商人として薬屋で地方を歩いたこともあった。
茶店で甘酒を持ってきたのは店主ではなく、小女だった。少し長い髪を頭の上で纏めて、化粧はしていない。
「お待たせしました。甘酒どすゥ」
運ばれてきた甘酒を注ぐと、小女は店の奥へ入っていった。客も当分こない様子である。
人気の少ない午後のことである。半刻ほどたって、辺りは薄暗くなってきた。
申刻(午後四時)を差す寺の鐘は鳴っていないが、夏至に近づいたこの季節でも雨が降っていればいつもより早く暮れるだろう。
まだ雨は降り続いていたが、少し寒くなってきたので土方は席を立った。
店主を呼ぶといくらかの金子を渡し、暖簾をくぐった。ところどころ雲の合間から弱い光が差し込んでいる。
土方は歩き始めたが、後ろに誰かがいるのを感じて静かに柄に手をかけた。
足音からして、女子供ではない。少し擦るようにして歩くのは相当稽古を積んだ者の歩き方だった。
「誰だ」
薄暗く、霧のかかった小雨が土方の羽織を湿らせた。
相手の返答がないのならば、相手の刀を抜かせるまでだと思ったが、返事は意外と気が抜けていた。
「あらら。そんなにお怒りになられるとは思わなかった」
「…なんだ。総司か」
柄から手を離した土方を見て、くすくす笑っている。
沖田だった。
「とっくにお気づきになられているものだと思っていましたが…」
というところを見ると、土方の後を着いてきたらしい。沖田は傘を片手に笑っていた。
「着いてきてたのか」
「いえ。たまたま参拝に来ようと思っただけです」
屈託のない笑顔で言うと、土方の隣に来た。
「―――というのも土方さんが心配だったからなんですが」
「なに?」
再び歩き始めた二人の足元には、ところどころ小さな水溜りがあった。沖田の差している傘が映る。
「俺はお前に心配されるような赤ん坊じゃないぞ」
「そりゃぁもう…十分にわかってますよ。こんなに恐い赤ん坊、見たことがない」
くすっと笑って土方の顔を見た。相変わらず仏頂面である。別に怒っているわけではないのだが。
「いえね。屯所を出た後、雨が降ってきたでしょう。土方さん、雲行きが怪しいのを知ってか知らずか傘を持ってお行きにならなかったから、ちょっと心配になったんですよ」
沖田が言うのを横面で聞きながら土方はチラリと空に目をやった。
「土方さんって雨に濡れても平気なお方だから、心配するまでもなかったみたいですね」
まるで今気づいたことのように言ったので、土方は
「そんなこともわからなかったのか」
もしかするとこの男なりの照れ隠しかもしれない。
二人が清水坂を下りはじめる頃にはもう陽が傾きかけていた。
この様子では、壬生の屯所に着くまでには暮れるだろう。
静かな雨の中で、紫陽花の“がく”が濡れていた。
こんにちは。または初めまして。今回も歴史や恋愛をテーマに進めていきたいと思っております。ご指摘・ご指導・ご感想などあれば、お教え下さい。