それぞれの対話
翌朝、カチュアは学校の廊下をなんとなしに歩いていた。試験まで時間もないため、本来ならば時間を無駄に浪費しているだけの行為であるが、気分転換をすることで今まで出せなかったアイデアが出るかもしれないと考えてだ。
この時期の最終学年の生徒がパフォーマンス試験に向けて何らかの行動をとる。資料を見返す者もいれば、気晴らしに出歩いたり運動したりする者もいる。カチュアの場合は後者である。カチュアは考えるよりも行動するタイプの人間である。思いたったら一直線な所がたまに傷だが、今まではそれで良い結果を出してきた。
過去の資料を読み返すのは参考にはなるが、大きな意味を持たない。細かく分析するよりも自分にできる最高の魔法を披露することがベストだと考えているからだ。そのため、カチュアはこの時期、資料を調べるよりも気分転換を優先にした。
廊下の曲がり角に差し掛かったとき、ぼぉーっとしていたカチュアは誰かが走って来ることに気が付かなかった。
「きゃっ」
「うわっ」
走ってきた人影はとっさにカチュアに気が付き、ぶつかる直前に体をそらし、衝突を免れた。しかし、突然のことに驚いたため、体制を崩してしりもちをついてしまった。
「ご、ごめん。だ、大丈夫だった? メイザースさん」
走ってきた人影、グレン・ハートフィリアは座り込んでいるカチュアに手を差し伸べながら申し訳なさそうな心配そうな顔で覗き込んだ。
「あはは、こっちこそぼぉーっとしていて気が付かなかったから」
素直にグレンの手をとり、カチュアは苦笑しながら立ち上がった。
「それにしてもハートフィリアくんが廊下を走るなんて珍しいね。何かあったの?」
グレンは模範生として有名であり、カチュアの記憶にある限り彼が廊下を走ったなんて見たこともなければ聞いたこともない。そんな彼が廊下を走り、なおかつ他人にぶつかりかけるなんて幻でも見ているようだ、とカチュアは思った。グレンは目に見えて動揺する。
「い、いや、何でもないよ。トイレにいきたくって、つい走っちゃっただけだよ」
現実世界には目が泳ぐということわざがあるって、お爺様が言っていたなぁ、とグレンの目を見ながらカチュアは思い出した。
一番近いトイレはグレンが走ってきた反対側にある。
それを指摘しても良いが、あそこのトイレを使いたくないからと言われるだけだろうし、何か隠しているのはわかるので、わざわざ暴こうとはカチュアは思わなかった。
別段カチュアはグレンと仲が良いわけではない。むしろめったに話さない相手である。仲が悪いわけではない。あまり話をしないクラスメート程度の付き合いである。
「へぇ、そうなんだ。引き留めてごめんね」
そのため、この場でカチュアはそう返事をすることを選んだ。
「いや、別にいいよ。こちらこそごめんね」
カチュアが深く聞こうとしないことにグレンはあきらかにホッとしながら、今度は走らず、しかし速足で去って行った。
グレンが何を慌てているのだろうかカチュアは少し考えるが、すぐにかぶりを振って考えるのをやめる。他人の秘密を詮索するのはあまりよくないし、何より今考えるべきことはそれではない。
「ひっ!」
不意に背筋に怖気が走るのを感じ、慌てて振り向く。しかし、そこには誰も居ない。気のせいだろうか? そう首を傾げて前に向き直る。
「わっぷ」
再び誰かにぶつかってしまった。今度は本当の衝突である。カチュアは相手の胸に顔をぶつけてしまったのだ。
「ご、ごめんなさい。リカード先生」
ぶつかった相手は魔法学校の教師の制服である青いコートに身を包み、片眼鏡をかけている男性で、カチュアの受講している魔法史の教師、リカード・テイラーであった。
「いえいえ、こちらこそすみませんね、ミス・メイザース」
リカードは穏やかな笑みを浮かべてカチュアに謝罪した。それに恐縮しながら自分の不注意を主張するが、お互いに気を付けましょうとリカードが言ったことで、そうしますとしか言えなくなった。
「ところで、ミス・メイザースは何故こんなところに? もう最終試験について勉強は終わったのですか?」
言葉通りなら最終試験も一ヶ月後に迫ったこの時期にフラフラ出歩いていることへの嫌味だが、リカードが本気で心配して言っていることはカチュアにはわかった。
そもそも、生徒思いの先生としてリカードは有名である。カチュアもわからない所を聞きに行ったときに丁寧に教えてくれたことを覚えている。
「一応構想はできているので今は考えをまとめている所です」
少し考えてから正直に答える。別に隠すことでもない。構想はできている。あとはどうアレンジしていくかだ。
「そうですか、それは良かった。なにぶん、この時期は悩みを抱える生徒が多いものでしてね」
リカードは悩ましげに言う。きっと全ての生徒に救いを差し伸べることができないことが悔しいのだろうと、カチュアは思った。
魔法学校に通う生徒は千を軽く超えている。カチュアと同じ学年には百五十人の生徒が居る。それだけの人数を一人一人相手するのはいかに生徒思いとはいえリカード一人では不可能だ。
さらに言えば素質の乏しい生徒も当然通っている。そんな生徒を優秀な成績で卒業させることはとても難しい。毎年何人も卒業の基準を超えることができなかった生徒が居る。そういった生徒は学校をやめさせられる。
卒業の基準は就職するために必要な成績の最低ラインを指定している。それを下回る者は社会不適合者扱いされる。くどいようだが学校は基礎や知識を教える場である。最終試験も学力だけでも卒業させてくれる。
資質も乏しく、さりとてそれを知識で補う努力をしない者は留年しても同じことを翌年繰り返す。そういった考えからこの学校には卒業できない者は退学にされてしまうのだ。
そういった生徒を正しく導くことができないことがリカードの悩みなのだろう。
カチュアは優秀な部類の生徒であるため、教師に心配される事はあまりないため、こういったリカードの気遣いは嬉しいと感じた。
「ではミス・メイザース、何かあったら私の所に来てくださいね」
しばらくしてリカードはため息を一つ吐いてから、カチュアに言う。何か思うところがあっても生徒の前で考えることではないと思ったのだろう。
「はい、わかりました」
とくにリカードに用が無いので、カチュアは社交辞令と受け取り軽く返した。自分の研究室に向かって歩くリカードの背中を見送り、カチュアは自室に戻るために歩き出した。




