1 冬に向かう某国にて
「どうして、私、なの?」
フェリスの問い掛けに、男は少しだけ顔を彼女に向けた。
「それは? どういう?」
自分でも承知していた、唐突な、脈絡の無い質問だと。
「なぜ、あなたは私を見つけてくれたのか……、不思議だから……」
「見つけた……。そういうことになるかな?」
「そうよ。
あなたに会わなかったら、私……」
銀髪の男は、もう彼女の質問には興味が無い様子だった。
「……二週間後には理解できると、私は初めに言わなかったかな?」
……わからないわ。本当に答えをくれるの?
私を選んだこと、その理由。アテネに居る現実の意味を。
この国は小さな国で、北に近く、10月の初めでもコート無しではいられないほどの気温だった。
腕が震えるのは、気温のせいじゃない。冷え切った路上のせいでも。
背中を向けて追い越してゆく通行人たち。身を引き、やり過ごす。携帯電話を握る指に力が入る。
「……お金が必要なの……! そんなんじゃ全然足りないのよ!」
「わかってるよ……。でも、あたしには、それぐらいしか……」
そんなこと、私だって分かりすぎるくらいよくわかってる。でも!
「こっちだって、あんたたちに頼る気なんてさらさらなかったわ。けどそんなこと言っていられない。あの子は、このままじゃ助からなくなる。普通の体に戻れなくなるかも。……もしかしたら、死んでしまうかも……」
……私の、大切な大切な天使なのに……。
通話のむこうから年老いた女の呻き声。国際通話のせいか、ひどく遠い音なのに、耳に突き刺さる。
……嘆くのもわめくのも簡単だわ。だからって、それで何が変わるの?
何も変わらない……。時間を無駄にするだけよ。
「また、連絡するわ。……何か手立てを考えてちょうだい。あなたのたった一人の孫でもあるんですからね」
「……フェリス……! 待って……、あの……」
聞く気も無い。通話をオフにした。
無駄なことなのはわかっていた。ギリシャの片田舎に一人で静かに暮らす年寄りに、頼れるはずがないと。でも誰かにぶつけたかった。一人で抱えきれなくて。
突然、まだ八歳の娘を襲った悲劇と、未だつづく生命の危機。未来を覆う暗雲。それを左右するのが、これまで一人で格闘してきた、お金、だという現実。
もう何日前になる? 轢き逃げにあったと知らされた瞬間から。ずっと、身を切られるような日々だった。
次々に動かしがたい現実が付きつけられ。轢き逃げ犯は、誰なのかもまだ分からない。怒りと焦燥をぶつけられる相手も無し。
手の中の携帯電話が振動する。発信先は、たった今、通話を切った老婆。
無視をして、合皮の大きなバッグを抱え直す。細い黒縁の眼鏡を抜き取り、眉間を強く抑える。
振動は左手の中で強く続いている。眉間を押さえた右手も、無意識にまた震え出していた。
……どうして?! なぜ、あの子なの?
今まで、なんとかやってきたわ……。二人で。三年前までは、私の母親と三人で。母があの子の面倒をみてくれたおかげで、なんとか大学講師も続けられて、父親が居なくたってやってこれたのに……!
あの子が居なくなったら、私は一人になってしまうじゃない?
「……いえ……。わたしはどうなってもいい……。……助けて……。私の娘を助けて……!」
この街には人口が二万人、国には六十万人。世界には更に更に人間が居る。
その直中で、無援。無力さゆえに、ベッドに眠る天使は、天に召されてゆくの……?
仕方のないことは、世の中には沢山起きる。彼女が専攻する国際政治の場では、何度となく。そういった仕方のないことに流され黙らせられる人間は数多の歴史の中で数え切れないのだろう。逆らいたくとも、逆らいきれずに敗北していった者も。
そちら側の人間だったと諦めて、人は生きていくのだろう。書籍や論文の中でなら、いくらでも目にしてきた。
だが。これは活字ではなく現実。まだ過去ではないから。一筋でも望みがある限り。
「……諦めない……絶対に」
この街の中で、叫び出してもいい。誰かが手を差し出してくれるまで、千パーセント無駄かもしれないけれど。世界中の人間に聞いて回るほどの時間も無いのだけれど。
携帯電話の振動は止んでいた。
もう一度、番号を選んだ。
「ええ……。フェリス・ベラーシュです。事務長? 融資の件は、ご検討戴けましたでしょうか? ええ。無理をお願いしていることは十分に承知しています。本当に申し訳ありません。ですが……」