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海斗 回想シーンから

続きです。

━━━━放課後の帰り道、一人歩を進める小学生。


━━━━人通りもない。


狙う者からすれば格好の好条件だ。

海斗を標的に定めた犯罪者は道の先で待ち構え、ほくそえむ。

いや、この段階ではまだ犯罪者ではないか。

“このあと犯罪者となる者”が海斗に襲い掛かる。

誘拐……、いやこの場合“拉致”という方が正しいだろう。暴漢は海斗の口を塞ぎ、無理やり車に乗せようとする。

今から七年前、当時十歳の海斗少年に何ができようか。

海斗は成す統べなく、車に押し込まれそうになる。


ボディーガードが付くようになったのは、この事件の後からだ。この時はまだ、彼の身を守るものはいない。

強いて言うならば自分自身しか己を守る者はいない。

海斗は必死の抵抗で車に押し込まれるのを腕でつっぱり、こらえる。

声を上げて助けを呼ぼうにも、口を手で塞がれている為、それもかなわない。

体力の差は歴然。文字通り大人と子供。連れ去られるのは時間の問題だった。

そのとき、がむしゃらに暴れ抗う海斗の手が暴漢の顔に当たり、鼻時が出た。カッとなり頭に血が上った暴漢は、渾身の一撃を腹に拳を叩き込む。

海斗はそれでグッタリとして動かなくなった。

全くもって大人げない所業だが、報復のために子供を狙う犯罪者など、そもそもからして立派な大人のはずがない。

こうして、やっとおとなしくなった海斗を車の後部座席に放り込み、自分も運転席に乗り込もうとしたときだった━━━━━━━━。














「あなたはなにをしているのですか━━━━」

怒りを押し殺したような低い声が耳元で聞こえた。

暴漢は吃驚する。


(だれだ?!━━━━ここにはだれもいなかった!

周囲に人気がないことは確認した!

今のやり取りにかかった時間はせいぜい一分足らず。

警察が来るはずがない。巡回ルートも計算済みだ。

通報もされていない、されていたとしてもまだ来られるはずがない。

ならば、ただの通りすがりの人間か!? 

それならば、ただ、殴り倒してこの場を離れればいい)

暴漢はそんなことを瞬時に考えながら、声の主に振り返る。

すでに拳を握り締め、相手の顔に狙いを定め、殴りかかる。


そこにいたのは、やや線の細い長身の男だった。

殴れば、こんなひょろい奴、一撃で吹き飛ばせる。

暴漢はそう思った。


だが、暴漢に声をかけた長身の男はやけに落ち着いていた。

この拉致の現場に居合わせ、今まさに、暴力を振るわれようとしている人間とはとても思えない。


━━━━暴漢の凶拳がうなりをあげて迫る。


その厳つい拳が男の顔面に叩きつけられる。


そう思われた瞬間、男は瞬き一つせず、その拳を手のひらで受け止めた。

ハイタッチにも似た小気味のよい音が当たりに響き渡った。


「━━━━正当防衛成立。怨むなよ━━━━」


男はそんなことを呟く。

「な、なんだと!?」

暴漢はまたも驚く。

無理もない。自慢の剛拳が簡単に受け止められたのだから。脳みそまで筋肉でできていそうな風体の男だ。さぞかし腕力には自信があったのだろう。

それが効果をなさないなど、彼にとってはありえない。

あってはならない。

「くそっ!」

暴漢は残った左手で男を殴ろうとしたが、直後、自身の体が後方に弾き飛ばされる。

「が……、ぐは!」

男の右ストレートが暴漢の鼻を打ち抜いたのだ。

暴漢の巨体はたたらを踏んで尻餅をつく。


━━━━━━━━後に海斗は語る。

「あれは閃光にしか見えなかった」と。


「ちぃ……、くそがああぁぁぁ! ぶっ殺してやる!」


暴漢はよろめきながらも立ち上がり吼える。

その顔は怒りと鼻血で真っ赤に染まっていた。

暴漢は陳腐な殺意を撒き散らし、懐から刃物を取り出した。りんごを剥く様なナイフとは違う、もっと剣呑な刃。刃渡り20センチはある、とても合法に所持しているとは思えない代物だ。

暴漢は兇刃を振りかぶる。


「しねぇぇえぇぇ!」


暴漢は刃物を構えたまま突進。

紅い夕暮れの中、昏く煌く刃が迫る。


暴漢の拳をこともなげに受け止めた男といえども、さすがに刃物には敵わない。このままでは危ない。

そう海斗少年は思った。

数秒後の赤い世界を連想する。


━━しかし━━━━━━、


「どうして、このような手合いは皆こうなのでしょうね。人として残念です」


この窮地のさなか、彼はやれやれといった様子で嘆息しながらつぶやく。

迎え撃つ救いの男は、何も恐れてはいなかった。

達観でも諦めでもない。

ただ、“恐れる必要がなにも無かっただけだ”。


「くらえぇぇぇ!」


暴漢が迫る。


「━━私は正当防衛、と、いいましたよね? 攻撃には相応の対処を行います」


一瞬だった。


刃は宙をまい、乾いた音を立てて路面を転がる。

男は一本の鉄扇を握り締めていた。家紋の刻まれた特徴的な鉄扇━━。

海斗少年の目にはしっかりと焼きついていた。

その刹那の現象を。

鉄扇で刃物を弾き飛ばし、そのまま顎をカチあげた、その電光石火の一撃を━━━━━━。


暴漢はその一撃で脳震盪を起こし、無力化された。

鉄扇をしまう。


「大丈夫だったかい?」


最初の低い声とはまるで別人のように思えるほど、男は優しい声で海斗に問いかける。


車から降りた海斗は、一言、あ、ああ。と呟いた。

その目には、感嘆と感謝に満ちていた。

そしてその驚きは、その圧倒的な武力についてだけでなく、見知った人物であったためでもある。


「君は確か、息子の友達の倉形くんだね。たまたま通りがかってね。危ないところだった」

男は尚もやさしく語りかける。


「ゆ、夕綺のおじさん。あ、ありがとうございます!」

海斗はあわててお礼を言う。

夕綺の父と目が合う。西日に照らされた左目が薄い翠色をしているのが印象的だった。

今まで何度か会っているはずなのに、海斗はこの時初めて気がついたのだ。

しかし、だからといって何も気にすることも無い。

助けてもらった感謝にはなにも変わりないのだから。


「なに、たいしたことじゃない。人として当然のことをしたまでだ。それより怪我はないかい?」

「うん、……まだ殴られたおなかが少し痛いけど、たぶん、……大丈夫」

海斗の顔色はまだ少し悪い。

「いや、大事をとって病院にも行っておいたほうがいいな。警察と救急にはすぐに連絡する。倉形くんは、楽な姿勢で待っているんだよ」

そう言って、夕綺の父は携帯電話で通報する。


すぐにパトカーと救急車が駆けつけ、海斗は病院に搬送され、暴漢は警察に身柄を拘束された。





海斗はこの事件において恩義を感じ、いつか恩返しをしようと心に決めた。だがこれから程なくして、夕綺の父は事故で命を失うこととなる。

海斗は恩を返す相手を失った。ゆえに、その借りを夕綺に返すことで、いつか恩を返そうと心に誓ったのだ。


この事件以来、しばらく海斗にはボディーガードが付くようになった。

だが、それを嫌がり、また自身の無力さを痛感した海斗は護身術や格闘技を学ぶようになる。

小学校を卒業する頃には、すでにボディーガードは必要なくなっていた。


そうして、今に至る━━━━━━━━

;回想シーンおわり


昼休みの喧騒に包まれた食堂。

食事を終えた僕と海斗は、まだ、だらだらと他愛のない話をしながらその場に留まっていた。

僕は箸袋をもてあそびながら、海斗に話しかける。

「なあ、そういえば今日も蓮見、欠席だったな」

「ん。ああ、そうだな。確かに珍しいな。あの真面目な蓮見が二日も無断欠席とは」

「僕もそう思う。昨日一日くらいなら、たまにはそんなこともあるかもしれない、なんて思ってた。でも彼は二日続けて無断欠席するような奴じゃない。体調不良にせよ、なんにせよ、少し心配だな。なんだか嫌な予感がするんだ……」

僕は箸袋から手を離して海斗に向き直る。

「…………! おいおい、お前の嫌な予感は当たりすぎるんだよ!? また、なんか事件でも起きているってのか?!」

海斗は、僕の“嫌な予感”が当たる事を知っている。

無論、僕は自分の“能力”を明かした事はない。

だが、幼い頃は、あのカゼを感じる時に、嫌な予感がする、とつい口にしたことが何度かある。

当然のことながら、その予感は確実に当たる。

なぜなら、

それは“予感”ではなく、“予兆”なのだから━━━━━━━━━━━━。

ゆえに、海斗は知っている。


だが、今回の予感は、本当の意味での予感に過ぎない。

いつもの、あのカゼは感じていない。

だからこれはあくまで、僕の人間としての感覚が感知しているもの。表現するなら、胸騒ぎがする、というところだろう。


「いや、なんというか、今まで僕が言ってきた“嫌な予感”とは少し違う……。ただ、なんとなくそう思っただけなんだ。もしかしたら、気のせいに過ぎないかもしれない」

僕は迷いを感じながらもそう言った。


「いや、夕綺がそういう時は、必ずなにかがある……。 今までの歴史がそれを証明しているしな。しかも、それは“良くない事”なんだろう? それなら、今日にでも蓮見の様子を見に行こうぜ。夕綺の言うとおり、気のせいだってんなら、それにこしたこともないしな」

海斗は力強く語る。




「……そうだな。放課後、蓮見の家に行ってみよう。やっぱり、少し気になる」

僕は海斗にそう言い、立ち上がる。

もうすぐ昼休みが終わる。随分と話し込んでしまったようだ。

「よし、今日の帰りは、蓮見の家に行く。これで決定だな。んじゃ、教室に戻るとするか。あーあ、なんだか気になって午後の授業がかったるいぜ」

海斗も席を立つ。








「海斗は、いつの授業もかったるいんだろう?」

「おいおい、そんなこと言うなよ。俺だって、たまには真面目に勉強するんだぜ?」

「テストの前日だけだがな」

「まったく、夕綺は容赦ねぇな」

「前日に『勉強を教えてくれ』、と言われる身にもなって欲しいものだ」

僕がそういうと、海斗は肩をすくめて苦笑いをした。


そんなやり取りをしながら僕らは教室に戻った。







教室の戸を開け自分の席に着く。


━━━━━━━━━━━━━━━━!


僕は自分の机の変化に気が付いた。

いや、見た目にはさほど変わったことはない。

だが、僕にとってはかなりの異常事態だ。










…………結界が、破られている…………!?


机の四隅に貼っておいた札が一枚なくなっていた。


……どういうことだ!?……


いかに簡易的に作った付箋のお札とはいえ、その効果は確かなもの。人を除ける、葉真夜の結界だ。

人為的に干渉することなど、まずありえないはずなのだが……。


…………………………………………。

しかし、所詮は紙の付箋で作ったお札だ。通りすがりに机にぶつかって、一枚ぐらい剥がれ落ちても不思議ではない。

そう思い、周囲の床を見回してみる。

……………………。

だが、いくら目を凝らして床を見ても、剥がれ落ちた札は見当たらない。

これはいったい……まさか━━━━?


…………いや、今この場に“人ならざる者”の気配はない。少なくとも、今、校内にその様な者は存在しない。ならば、どういうことか。

人除けの結界に、意図的に干渉できるような人物がこの学校内にいるとでもいうのか?

ばかな、ありえない。確かに、“絶対”とはいわないが、極々まれに結界の影響を受けにくい人間も存在するが、それはあくまでイレギュラーな存在だ。

僕の見た限り、この学校にはその様な人間はいない。

もしいたとすれば、すぐにわかる。


そうでなければ、後は余程の異能者であるか━━━━。

もし、そんな者がいたとするならば、それはとても怖ろしいことだ。

人除けの結界が及ばず、そしてその能力を僕に悟られること無く行使している。そういうことになる。

そんな人物がこの校内を闊歩している、そう考えるだけで、どこか薄ら寒い思いがした。










僕のような、“人には無い能力”をもった者は、他にも幾人かはいるだろう。だが、異端には異端のルールがある。暗黙の了解といってもいい。

異能者同士が出会った場合。存在に気づいた場合。その時は、外部から来たものが、先にその土地にいるものに“挨拶”をするべきなのだ。

これは、異端者の最低限の礼儀であり、仁義だ。

能力についてほとんど話さなかった父が教えてくれた、数少ない教えの一つ。

この礼儀を逸すれば、殺されても文句は言えない。

そう言われるほど、この仁義は厳しいものなのだ。

父が僕にこのことを教えた意図はおそらく、僕がどこか他所の土地で異能者と出会った際に、知らずに無礼をはたらき、殺されることのないように、ということなのだろう。


だが、今回の場合は、逆だ。

この土地においては、間違いなく葉真夜に主導権がある。ならば、この土地に訪れた異能者は、僕に“挨拶”をするべきなのだ。

つまりは、結界を破る行為、これが“挨拶”だとでもいうのか? だとすれば随分と無作法な“挨拶”だ。

僕は、退魔の家系として、異能者としての仁義にこだわるつもりは無いが、それでもこの行為には反感を覚える。そして、一抹の不安をも。

ただでさえ、忙しくなってきているというのに、面倒なことになりそうだ…………。






「……真夜くん、葉真夜くん? 大丈夫? 顔色悪いけど、具合でも悪いの?」

不意に声をかけられ、驚いて顔を上げる。

クラスメートの新城さんが心配そうな顔つきでこちらを見下ろしていた。

「あ、ああ。大丈夫だよ、新城さん。別にたいしたことじゃない。少し寝不足なだけさ」

僕はいまいち切れの悪い受け答えをする。

まあ、寝不足は嘘ではないが。

「そう、それならいいんだけど……。なんだか下向いて辛そうな顔してたから」

新城さんは尚も不安げな表情で続ける。

そんなに、僕は気持ちが顔に出ていたのかと、少し反省する。皆の前では、“葉真夜の事情”を悟られないように極力気をつけなければ。


「本当に大丈夫だ。ありがとう、心配してくれて。昨日は深夜アニメを見たからね。それでちょっと疲労があるだけだよ」

「え、葉真夜くん、そういうの見るんだ!? 意外~!」

新城さんが目を大きくして驚く。

「僕も一介の高校生だ。アニメくらい見るよ」

無論、昨日は見ていない。だが、アニメは嫌いではない。

「へえ~、成績学年トップの葉真夜くんがアニメとはね~。なんか、ほんとビックリ」

「それは先入観と言うものだね。勉強が得意と言うだけで、趣味は別物さ」




「人は見かけによらないものねー。って、そんな理由で寝不足なの! だめよ、そんなの! そういうのは録画して見なさい!」

大きな目が今度は、キッとつり上がる。

新城さんに説教されてしまった。

「そうだな、申し訳ない。気をつけることにするよ。でも、授業はきちんと受けるから、まあ、そんなに怒らずにたのむ」

僕は苦笑いして、新城さんに謝る。

「もう、そうやって笑ってごまかして。まあ、葉真夜くんがそう言うなら、大丈夫なんでしょうけど。だれかさんと違って」

新城さんはそう言って、席についている海斗を見遣る。

海斗はすでに机に突っ伏して寝ていた。

しかも、教科書とノートで壁を作りガードしていた。

中学生か?

「やれやれ、海斗のやつ……。まったく、あの自由さは素晴らしいな」

「ほんとにしょーがないやつよねー。ま、授業が始まったら叩き起こしてやるわ。授業中に寝だしても、後ろから引っ張り起こすけど。ほんとに手の掛かること」

やれやれ、といった感じで新城さんは自分の席に戻っていく。なんだかんだ言いながら、そんなに嫌がっていないようである。


さて、と。もうすぐ午後の授業が始まる。

僕は、欠けた付箋のお札を貼りなおし、もう一度結界を張ることにする。




━━━━人は魔を、魔は人を━━━━

チャイムの鳴り響くのと同時に詠唱を開始する。


━━━━葉真夜が命ずる━━━━

━━━━━━━━結界 始動━━━━━━━━


そして、チャイムの鳴っている間に詠唱を終える。

これで僕の詠唱にはだれも気が付かないだろう。

四枚の札からほの明るい光が漏れ出し、再び結界内に身を置く。

そうしてから、やっと一息つく。

なんだか、昼休みだというのに疲れてしまった。

だがそれよりも、今は大事なことがある。




(風花、いるか━━━━?)

僕は無声音で呼びかける。

(ええ、夕綺のすぐ左にいるわ)

耳元で風花の声が聞こえ、同時に、机の左端に置いてあった消しゴムが裏返る。

眼帯をしているので姿は見えないが、たしかに風花はそばにいるようだ。

(風花、昼休みのことなんだが。僕が教室を離れている間、風花はどこに?)

(言いたいことはわかってるわ。結界のことね。残念だけど、私はずっと夕綺についていったから、なにも見ていないわ。教室に戻って、夕綺と一緒に驚いていたわ)

風花の申し訳なさそうな呟きが聞こえてくる。

(いや、そうか。ならしょうがないさ)


(でもね、夕綺。一つハッキリしているのは、これが意図的に成されたものであるということ)

風花は確信を持って強い口調で言う。

(やはり……、そうなのか?)

逆に僕は力なく答える。

僕が否定したかったことを、あっさりと肯定されてしまった。

(ええ、夕綺の結界は完璧よ。“普通の人”は絶対に入りこめない。まして、“人以外のモノ”もここには居ない。でも、現に結界は破られている。そこで考えられることは二つ。一つは、クラスの誰かが通りすがりに誤って机にぶつかり、その拍子で剥がれた。そして二つ目は━━━━━━━━)

風花が息を飲み、言葉を続ける。

(“人外ではない者”が、意図的に札の一枚を破り、“持ち去った”……)

(━━━━━━━━っ!)

僕の一番考えたくないことを、見事なまでに代弁される。

(繰り返すけど、夕綺の結界は完璧なものよ。それ故に、もし札の一部が剥がれても、その剥がれた札に宿る霊力は感知できる。たとえ付箋で作られたお札でも、巷で売られているお札なんかとは比べ物にならないほどの力があるから。でも、この付近からは、剥がされた札の霊力は感じることができない……)

(それはつまり……)

(ええ、“夕綺の結界を破ることのできる力の持ち主が、この校内に存在した”ということ。そしてそいつは、“その能力を私達に悟られること無く、完全に気配を消すことができるほどの実力がある”)

(なんてことだ……)

僕は湿ったため息をつく。

(でも、悪い方に物事を考えるものよくないわよ。結界を破った者が、必ずしも敵対する者とはかぎらないわ。どちらかというと、これはメッセージや、警告、といったものじゃないかしら?)

(メッセージだって!? その、根拠は?)












(ええ、そうね。まず直接夕綺に対して攻撃する意志があるのなら、とっくに攻撃しているでしょう。   相手がもし“人に在らざる者”ならば、人間社会なんて、知ったことじゃないから、遠慮なく攻撃しているはず。そうしない以上、相手は高い知性のある“人外ではない者”ということになるわね。だとすると、この行為には何かしらの意図がある。または理由があるわ。少なくとも、人前で夕綺に攻撃をすることが憚られる立場にあるのはたしかね。“人外ではない者”である以上、社会通念上、問題のあることはできないでしょうから)

(随分と、迂遠な言い方だな)





(つまり、人外では無い者で、この学校内に溶け込んでいる存在。そして、その正体をまだ知られたくないという者の干渉。私はそう考えるわ。文章などを残せば足がつくし、かといって校内で直接干渉するわけにはいかない。そういう立場にある者が、夕綺になにかコンタクトを取ろうとしている。そう思うわ)

一通り話し終え、風花の言葉が一旦途切れる。

その短い沈黙の間に、僕はその内容を噛み締め、咀嚼する。








……たしかに、異端の者同士が表立って自己紹介して挨拶などできうるはずも無い。

まして、それが大勢の人が集まる学校と言う場所ではなおさらだろう。そう考えれば、このような方法で僕に存在を知らせてくるのは、まあ、理解には足る。

それに風花の言うとおり、もし、相手に敵対的意思があるならば、こんな回りくどい事はすまい。

僕の結界に干渉するほどの者だ。攻撃する気ならば、朝でも、夜でも、僕が一人のときに襲ってくれば事は簡単だ。まあ、簡単にやられるつもりは無いが。

風花の言うことはスジが通っている。道理だ。

ならば、風花の考えどおりだとするのなら、近いうちに相手から接触があるかもしれない。今はまだ敵対する意思はないのかもしれないが、警戒はおこたらないようにするべきだな……。


(なるほど。風花の言うことはもっともだ。納得した。しかし、一つだけ気になることがある)

(なにかしら?)

僕は気になっていた疑問と違和感をぶつけた。

(“人外ではない者”、とはどういう意味だ? それはつまりは人間ということではないのか?)











………………………………。

風花は、やや長い沈黙の末、語りだす。

(私も、自分で言っておきながら変な感じなんだけど、……なんと言うか、そう表現するしか方法がないの)

風花にしては珍しく歯切れの悪い受け答えだ。

(夕綺もわかるでしょうけど、あの時間、学校内に人外の気配はなかった。だからといって、人間に、あの結界が破れるとも思えない……。つまり、人でも無く、人ならざる者でもない。だから、“人外ではない者”)

風花は迷いがこもったように、たどたどしく言葉を紡ぐ。

(……なるほど、わからないでもない。だとすると、相手は未知の存在、というわけか。やっかいだな……)

僕は再び嘆息して、数回、首を振る。



(そうね……、今はこれ以上厄介ごとが増えるのは望ましくないわね。とはいえ、まだ相手が敵と決まったわけじゃない。まずは様子を見て、相手の出方をうかがいましょう。どうするか考えるのはそれからでも遅くはないわ)

(そうだな、用があるのなら、向こうからなにかしらのアクションを起こしてくるだろう。━━━━まあ、警戒は怠らないようにするが)

とりあえずそう結論し、僕は言葉を切る。

……少し、長話をしすぎたかもしれない。

いかに結界内とはいえ、あまりおしゃべりが過ぎると、不自然さに気づかれる恐れがある。結論がでた以上、この場での協議はもはや意味がない。

あとは、授業が終わるまでおとなしくしていることにしよう……。


これから忙しくなるのだ。今は少しくらい、気を休めてもバチは当たるまい……。いや、さすがにこれだけ授業をサボるとバチがあたるかな?!

すこし自嘲気味にそんなことを思いつつ、考え事が一段落した僕はふと、あたりを見渡してみた。












外の天気は良く、午後の陽光がやわらかく教室内を照らしている。夏の太陽といえど、北国ではその陽射しはうるさくもなく、気持ちの良い暖かさだ。

窓際の席に座る海斗は、食後の満足感も手伝ってか、すでに舟を漕いでいる。後ろに座っている新城さんがそのたびに海斗を起こすのだが、数分ともたず、海斗は再び悠々と船を漕ぐ。数度、同じ光景を繰り返していた。これはもう、太平洋の大海原まで漂流しているぞ。できれば、早く陸に戻って欲しいものだが。でないと、海上保安庁に捕まるぞ。

「倉形ー!!」

言わんこっちゃない。

先生に見つかって、怒声が響く。




「! っは、はい!!」

海斗は慌てて起き上がる。

当然、居眠りをしていたのはバレバレだ。

後ろの新城さんも諦めたような呆れ顔である。

「倉形。先生の授業はそんなに退屈か? 受けたくないのなら、受けなくてもいいんだぞ。成績を気にしないと言うのであれば、な」

国語の教師は、ネチネチと意地悪そうに海斗を叱咤する。

この先生は、教師というには少々人間的にいやらしい人物だ。生徒を好みで贔屓するタイプで、正直、僕はあまり好きではない。

海斗も、面倒な先生の時に粗相をしたものだ。

態度しだいでは、テストで高得点をとってもフォローできないような成績をつけられかねない。


「……、いえ、すみませんでした。以後、気をつけます……」

海斗は、しかたなく、それでいて申し訳なさそうに謝る。おそらく、内心では舌を出していることだろう。

だが、表面上は誠意を持った謝罪のふりをする。

海斗も演技が上手くなったものだ。

いや、世渡りが巧くなったというべきか。

「ふん、まあいい。今後このようなことがないように」

先生は海斗に背を向け、黒板の前へと戻る。

見れば、海斗は「ケッ」と言いたそうな顔で親指を下に向けていた。

新城さんはというと、「自業自得」とでも言うように澄ました顔だ。だが、同時に、揉め事にならなかったことに安心したようでもある。先生が、海斗に詰るような態度をとらなかった事にホッとしている。


そう、この先生はどうにもいやらしい言い回しをして、生徒を追い詰めることがある。

『次に同じ事をした場合はどうする気だ?』

『二度としません? そうじゃなくて、次に同じ事をしたらどうするかと聞いている』

『また、そうやって謝れば済むと思っているのか』

といった感じで、生徒を詰り、追い込む。

僕はそんな態度をされたことはないが、そのような光景を見かけたことはある。

ひどく、不快なやりとりだった。

今回は、海斗の誠意ある態度(演技)で場が収まった……、というよりは、先生の機嫌の問題だったのかもしれないが。まあ、とにかく、海斗は命拾いをした。

国語の成績に「1」を付けられる事はどうやら回避できたようだ。今のところは、だが。


そんな出来事がありつつも、午後の授業はなんとか終わる。

終了のチャイムと同時に教室を去っていく国語教師に、海斗が中指を立てていた。

……見られないように気をつけろよ。












こうして休み時間になり、僕は海斗達の席に向かう。

「海斗、災難だったな」

労うように、声を掛ける。

「おう、夕綺。まったくだぜ。ちょっと居眠りしちまっただけだってのによ。それをネチネチとまあ」

海斗は嘆息しながら愚痴をこぼす。

━━━━その時、後ろから甲高い声が耳に響いた。










「もう、居眠りしたら怒られるに決まってるでしょう! だから、何回も起こしたのに!」

新城さんが柳眉を逆立てて、海斗の背後に立ちはだかっていた。

その圧力に、海斗も僕も、思わず怯む。

「お、おう。悪かったな。どうにも睡魔が、強烈な魔力で襲ってきてな……」

海斗もしどろもどろに謝る。

ちなみに“睡魔”などという悪魔は存在しないからな。

海斗よ。







「もう、わたしに謝っても仕方ないわよ。今度から気をつけなさいよね。あの先生、ひねくれ者なんだから。今日は何とかなったからよかったけど、機嫌しだいですぐ態度が変わるし、贔屓も激しいし。めんどくさい事になるわよ」

新城さんが、諭すように言う。

僕も全く同感だ。










「そうだな、まったくその通りだ。海斗、今度からは、居眠りする授業は選ぶべきだ。テストの点さえ取れば文句の言わない先生ならば問題ない」

僕は冷静に判断して海斗に忠告する。

「そういう問題じゃないの!! 葉真夜くんも変なこと言わない! たしかに葉真夜くん位、テストの点数がとれるのならまだしも、倉形くんには無理でしょう。ていうか、そもそも、その発想は根本から間違ってるでしょ!」

人差し指をビシッとつきつけられ、僕も新城さんにお叱りを受けてしまった。

「ま、まあ、居眠りしないに越したことはない、な」

僕は新城さんの勢いに押され、たじろぐ。

今日一日、授業をサボタージュしていた自分には耳が痛い。


「おいおい、俺の立場はどうなるのよ。散々だな……」

そんな中、海斗が一人、嘆いていた。















「そうだ、新城さん。今日は昼休みはどうしてた?」

僕は、話題を変える意味もあるが、聞きたいことがあったのを思い出し、質問する。


「昼休み……? そうね、今日はいつもどおり教室でお弁当を食べて、そのままずっと友達と教室にいたけど……、それがどうしたの?」

不思議そうな表情で新城さんはこちらに顔を向けた。

すこし唐突に訊きすぎたかもしれない。








「━━━━実は今日、他のクラスの友人に本を貸す約束をしていたんだが、すっかり本を忘れてしまっていたんだ。今思い出して、相手がうちのクラスに来ていたら申し訳ないと思ってね。委員会のメンバーなんだが、教室に訪ねてきてはいなかったかな?」

僕は申し訳ない風を装って、そう答えた。

無論、そんな約束はしていない。

「委員会の人とは私、会った事ないから顔はわからないけど、そうね……、昼休みには特に誰も来ていなかったと思うわ。でも、葉真夜くんが約束を忘れるなんて珍しいこともあるのね。いつも正確で完璧な感じなのに。やっぱり寝不足で調子悪いんじゃない? 駄目よ、夜更かしは!」

新城さんはたしなめるように言う。

やれやれ、またしても新城さんにお説教をされてしまった……。

「ああ、たしかに睡眠時間を削るのは体によくないな。くれぐれも気をつけるよ。あと、変なことを訊いてすまなかった。彼には、とりあえずメールで謝っておくことにしよう」

そう言って、メールを打つフリをする。

「夕綺は、たまにうっかりしてる所があるからな。いつも冷静な態度だから目立たないけどな」

海斗が追撃してくる。

まあ、詰めが甘い性質なのは否定しないが。

「僕も人間だ。たまにはこんなこともある。本は、また明日にでも渡すことにしよう」

僕は苦笑しながら携帯をしまう。


━━━━━━━━チャイムが鳴る。

短い休み時間が終わり、HRの時間となる。

僕は自分の席に戻った。

担任の先生はまだ来ない。

席に着いた僕は先の会話を思い起こす。

『特に誰も来ていない』と新城さんは言った。

だが、それはおそらくありえない。

まず、前提として、このクラス内に異端の能力者が居るとは思えない。

それに気づかないほど、僕は愚鈍ではない。

そして“何者か”が昼休みの間に、僕の席を訪れたのも間違いない。

新城さんも、注意して僕の机の方を見ていたわけではないだろうし、まして、結界の効いていた間は、僕の机の存在を認識することさえかなわない。

そう考えると、新城さんが何も見ていない━━気づかなかったのも当然の事といえる。

しかし、自分のクラスメイト以外の者が教室に来れば、当然目に付くはずだ。多少は記憶に残るだろう。

だが、それでも新城さんは、

『特に誰も来ていない』

と言った。

ならば、考えられるのは━━━━、


人に認識されることもなく、感知されることなく行動することができる者━━?!


バカな……!?

“人ならざる者”というのならばまだしも、そんな人間がそうそういるものか。

だが、現に、“何者か”が僕に対してその存在を証明しているのだ。

━━そして、“人間”であるという保証すらない。

……くそっ……、考えれば考えるほどその正体がよくわからなくなってくる。

一人、考え事に耽っていると、沈黙の世界に、ガラリと扉が開く音が教室中に響いた。

その音に反応し、僕は思考を中断する。

HRの開始を告げるチャイムから数分が過ぎ、いつもよりも遅れて担任の先生が姿を見せた。

心持ち、その顔つきは険しい。

「すまない、職員会議がいつもより長引いてしまってな」

先生は開口一番、そう告げた。

なぜ職員会議が長引いたのかは、皆、想像に難しくないだろう。各々、神妙な面持ちで先生の次の言葉を待っている。

先生は息を吸い、再び口を開く。




「朝にも言ったが、“殺人事件”の犯人はまだ捕まっていません。しばらくは放課後の部活動も一切禁止することになりました。各自、単独行動は避け、帰り道が同じ方向の生徒同士で一緒に下校するように。当然、夜間の外出も控えるようにすること!」

内容的には、朝のHRで言っていたこととほぼ同じだが、全体的に言い方が厳しいものになっている。

それに、『殺人事件』の部分をやや強調して言ったようにも聞こえた。

朝の段階では、明言を避けていたように思う。

もしかしたら、いくらか情報を入手、整理され、事件の内容を把握したのかもしれない。

先生は一呼吸置いてから、顔つきをさらに厳しいものへと変えて、低く、そして大きな声で言葉を吐き出す。



「決して……事件現場を見に行ったりしない事! 絶対に警察の邪魔になることなどをしないように! これは、“殺人事件”です。遊びではありません。興味本位で現場を見に行くことなど、言語道断です。そのようなことのないよう、くれぐれも気をつけるように!」

先生はそうして言葉を切り、教室全体━━生徒の顔を見回してから、日直に号令を促した。

静まり返った教室に、起立の声が響き渡る。








礼をして挨拶が終わると先生は、「速やかに下校するように!」と言い残し、早足で教室を出て行った。おそらく、この後も職員会議や、先生たちでの見回りなども行われるのだろう。

大人も大変だな、などと思った。












こうしてHRも終わり、僕は海斗に声をかける。

「海斗、僕はこの後蓮見の家に行くが、大丈夫か?」

「ああ、もちろんだ。昼に約束しただろうが。なにをいまさら」

海斗は当たり前のようにそう言った。

「そうか、それならいいが。一応、先生の注意は聞いておかないといけないからな」

僕はわざとらしく淡々と冷静にそう言う。









蓮見の家は、僕らの帰る方向と反対の方向にある。

このまま向かったのでは、見回りの先生に見つかったとき、少々面倒だ。

「━━━━あくまでも、僕らは学校の帰りに、“プリントを届ける為に蓮見の家に寄る”ということだ」

これで、先生の注意にはなんら違反をしない。

帰り道が同じ方角の生徒同士で、そして速やかに下校をする。(この場合の下校は、学校から出る事を意味するものと解釈する)しかも、寄り道をする大義名分まである。

まったく問題ない。


僕はニヤリとしながら海斗に向き合う。




「へへ、相変わらずもっともらしい事をいうねぇ。よし、そのとおり! 俺たちは蓮見の家へ課題のプリント用紙を届けるために向かうんだ。たとえ途中で先生達に遭遇したとしても、なんら問題は無い。そうだよな?」

海斗も同じようにニヤリと歯を見せる。

さすがに付き合いが長い。僕の考えをよくわかっている。これだけの建前があれば、もし先生に見つかっても充分に論破━━━━もとい、言い訳ができる。

二人、顔を合わせ無言でうなずく。

「よし、なら、早速行くとしよう」

「おう」

僕と海斗でそんなやり取りをしていると、

「ちょっと、二人で何コソコソやってんの?」

新城さんが声をかけてきた。


……まずいな。いつもならこのままお喋りしながら一緒につるんで帰る雰囲気になりそうなものだが、今日に限って言えばそれは困りものだ。

真面目な新城さんのこと、この事態において寄り道をするなどと言えば、なんだかんだと説教をするだろう。

かといって本当の事を言うのも躊躇われる。

言えば、きっと新城さんは僕らと一緒に行く、と言うだろう。

蓮見の家に行くことには、本当に嫌な予感がするのだ。

できることなら、新城さんは連れて行きたくない。

僕は海斗と目を合わせ、アイコンタクトをする。

(━━━━新城さんは僕がごまかす。海斗は適当に合わせておいてくれ━━━━)

海斗は瞬きで返事をする。



「ああ、新城さん。ちょっと海斗に手伝ってもらいたいことがあってね。保健委員の業務なんだが……、放課後の部活動は禁止だけど、委員会の業務は一応やらないといけないと思うんだ。それで、今日のところは海斗にも手伝ってもらおうかと思ってね。お願いしていたんだ」

僕は申し訳なさそうに海斗の方を向く。

「まったくだ。めんどくさいが、まあ、しかたねーわな」

海斗は調子を合わせて、かったるそうに答える。

かったるいのは演技ではないのかもしれないが。






「一応、担当の霧島先生に今後の放課後の業務についてどうするかも判断を仰ぐつもりだが、今日のところはとりあえず委員の仕事をしてから帰ろうと思う。それで海斗に手伝ってもらって、そのあと一緒に帰ろうということだ」

僕は、真面目な表情で新城さんに説明をする。

「えー、それならわたしも手伝うよ」

やはりそうきたか。









「気持ちはうれしいけど、あんまり大人数でする作業でもないし、大丈夫だから。それに、委員の仕事を他の人に手伝ってもらうこと自体、あまりいいことではないからね。海斗に手伝ってもらうのも、放課後業務をどうするか不確定な今日だけ、帰りのことを踏まえてついでに手を借りるだけさ」

僕はさも、もっともらしくそう答える。

そして表情は変えないまま、真摯な眼差しを新城さんに向ける。

「うーん、そう……。じゃあ、終わるまで待ってようか?」






「いや、用の無い生徒が校内に残っていたら先生に注意されると思うし。それに、犯人が捕まってない以上、やっぱり早く下校した方がいいと思う。今日のところは、女の子同士で帰るのもいいんじゃないかな? 明日以降は、一緒に帰るようにするからさ」

僕は、強引にこじつけて、新城さんに先に帰るように促す。

「そう……だね。わかった。じゃあ、先に帰るね。葉真夜くんも倉形くんも気をつけてね」

新城さんは心配そうに僕らを見る。

「なーに、大丈夫だ。なにしろ俺がついてるんだからな!」

海斗がドンと自分の胸を叩く。

「うん……そうだね。倉形くん、強いもんね。犯人が現われても、倒しちゃいそうだし」

新城さんは安心したのか、かすかに笑みをこぼす。

「それよりも、新城こそ気をつけろよ。まあ、何人かで一緒にいれば大丈夫だろうが。それに、俺のプロファイリングによれば、この周辺には犯人はいない。安心して帰りな」

海斗は明るく、新城さんに声をかける。

「あはは。うん、そうだね。わかったわ。それじゃあね」

新城さんは、やっと納得してこの場を去って行く。









教室から新城さんが出て行ったのを確認してから、二人してため息をつく。

「さてと、何とかなったな」

「夕綺、お前も役者だな。よく堂々といろんなことが言えるもんだ。たいしたもんだぜ」

呆れたように、それでいて感心したように海斗が言う。

「まあ、常に優等生の演技をしているくらいだからな。悪意の無い嘘は、方便ということで許してもらおう」

僕はしれっと、そう答える。

「まあ、いいさ。んでどうする?夕綺」

「そうだな、本当なら、すぐにでも蓮見の家に向かいたい所だが、新城さんにああ言った手前、少し校内で時間を潰さないとならないかな……」


「確かに。新城に見つかったら、今度こそいいわけできん」


海斗は形をすくめる。


「とりあえず、保健室に行ってみようと思う。今日は放課後の業務は無いが、明日以降についてどうするか、本当に霧島先生に確認しておこう」


「ほお、それはいいな。亜紀先生の所に行くのか。なら、俺も一緒に行くぜ」

海斗は目を輝かせている。

「……部外者が一緒なのはどうかと思うが、まあ、一緒に下校するという建前もあるし、なんとかなるか」

僕はやれやれといった感じで許可する。

「おし、さすが夕綺だ。わかってるじゃねえか。んじゃ、さっそく保健室へ」

こうして、僕と海斗は保健室へと向かった。





放課後の廊下は、まだHRが終わってからさほど時間が経っていないため、ざわざわとした喧騒があたりを包んでいた。

下校していく生徒たちの会話がノイズとなって僕の耳に届く。

保健室は一階の一番奥、昇降口よりもやや奥にあるため、必然的に下校する生徒たちと共に廊下を移動することになる。









彼らの会話の内容はそれぞれだ。

殺人事件に関するもの。

それに怯えるもの。

関心を抱くもの。

不謹慎にも、それを楽しむもの。

部活動ができなくて、残念そうにするもの。または喜ぶもの。

まったく事件には無関心なもの。

楽観したもの。

達観したもの。

様々だ。

そんな、周囲の声を振り払い、僕らは保健室の前に立つ。




;SE ガチャ

「失礼します」

僕は保健室の扉を開け、室内に入る。

しかし、そこには僕の挨拶に答える人はいなかった。

室内は無人。机には誰もいない。

人の座っていないイスというのは、なんだかとても寂しさを感じさせる。

いつも優雅に佇むこの部屋の主は、今はここにはいなかった。








「霧島先生……、いないのか。不在のプレートも掛けずに留守にするなんて、珍しいな……」

僕は知らず呟いた。

「なんだよ、亜紀先生いないじゃんか。残念だなぁ」

海斗はガックリと肩を落とし、本当に残念そうだ。

まったく、お気楽なものだ。

霧島先生は、理由無く保健室に入室すると怒るからなぁ。海斗のような健康体が用事も無く訪れたら、説教ものだったのだが。海斗は、霧島先生の不在に感謝すべきだ。僕だって、フォローするのも楽ではないのだからな。

━━━━まあ、海斗の場合は、霧島先生に怒られるのが日課のようになっているが。まあ、それについては僕がどうこう言うことも無かろう。

それよりも、僕としては本来の用事が果たせなかった事のほうが重要だ。

新城さんにはその場しのぎに言ったことだったが、既成事実作成のため、霧島先生に放課後の業務について確認しに来ていたのだ。

しかし、不在ならばしかたない。まあ、確認しにきたという事実は作れたので、それは良しとしよう。

とはいえ、少し妙だ。やはり違和感がある。











「━━あの秘密主義のミステリアスな霧島先生が、鍵もかけずに保健室を空けるとは……、意外だな」

僕はまたも、心の声を口に出す。

「おっ、夕綺にしては、なかなか言うじゃねえか。いつもの優等生発言はどうした?」

海斗が軽いノリで突っ込む。

「海斗と二人のときにまで、優等生を演じる必要はないだろ。……それよりも、僕は一年の時から保健委員を務めているが、今までこんなことは一度も無かった。驚きだ……!」

「ほう……?! 夕綺にそこまで言わしめるとは、たいしたもんだな。それほど、か……!」

海斗が、僕の驚いた様子に驚く。

もしかしたら、今、僕の顔は随分と驚愕の表情をしているのかもしれない。


「ああ、廊下で挨拶する程度ではわからないかもしれないが、多少なりとも付き合いがあると、実感できる。

これでも、保健委員で一年以上、霧島先生と接してきているからな。まして僕は委員長だ。生徒の中では、間違いなく一番接する機会が多いだろう」

「おいおい、自慢か」

海斗が苦笑するように言う。

「茶化すなよ。海斗にとっては、うらやましいのかもしれないが、僕にとっては別段うれしいことではないんだ。━━━━話を戻すぞ」

一呼吸入れ、再び口を開く。






「霧島先生は、年齢不詳だし、どこか人を寄せ付けないところがあり、謎も多い。先生達でさえ、霧島先生のプライベートはほとんど知らないらしい。(まあ、これは霧島先生を狙っている先生の談だが、まあ、信憑性はあるだろう。他の先生も、霧島先生についての質問を生徒からされても、詳しくは知らない、という答えしか聞いた事が無いしな。)好意的に彼女を見る人は、それらを孤高と称するが、そうでない者からすれば……」

僕はそこで一度言葉を切る。

「すれば、なんだ……?」

海斗が、怪訝な顔で訊いてくる。





「気を悪くしないで聞いてくれ。あくまでもアンチの言い分だ。そこを理解してくれ。……そう、それで彼女に対して“好意的でない人たち”からすれば、それは……秘密主義で協調性がない、プライドが高い、社交的でない、何を考えてるのかわからない、年増、というような評価があるのも事実だ」

僕は冷静に語りつつも、海斗の様子をうかがう。

海斗は特に不快感をあらわにはしていない。

霧島先生のことについては、いつも熱く語る男なだけに、思ったより冷静な反応だと、正直に思った。

「それで、夕綺はどうなんだ?」

海斗は落ち着いた声で、そう僕に問う。

決して咎めるような物言いではない。

単純な本心からの質問のようだ。



「そうだな、僕は霧島先生に対しては、中立の位置から見ているつもりだ。好意的でもないし、特に嫌いでもない。あえて言うならば、“怖い”とでも言うのかな。どちらかというと苦手だ」

僕は思ったままのことを口にする。

「なるほどね、相変わらずクールだな。中立と来たか。高校生の発言とは思えんな。普通、好きか嫌いかどっちかだろ、って気もするがな。にしても一年以上接してきての感想が“怖い”とは驚きだな。お前にも怖いものがあったのか」

海斗はクックと笑いながら僕を見る。

「失礼なことをいうなよ。僕にも怖いモノは沢山あるよ。それよりも、海斗こそ随分と冷静じゃないか」

そう言うと、海斗はそれまでの態度とは一変して、

急に真顔になった。


「ふん……、まあな。俺は確かに亜紀先生が魅力的な女であると思ってる。外見に関しては、理想のタイプだ。だが、時折見せる、人を見下した眼差しが気になる。あれは……本当に他人を見下している目だ。プライドが高いとか、そういうんじゃねえ。俺以外の人間にも、あの見下した眼差しをむけているのかはわからんが、アレだけは普通じゃない。普段は、亜紀先生に見下されるのがたまらない、なんてふざけてはいるが、実際のところは、“敵意ある視線を受けている”のを笑ってごまかしているだけだ。これは秘密だぞ……」

海斗は真剣な目をしてそう言った。

「━━━━」

僕は無言でうなずく。

だが、意外だ。まさか海斗の口からこんな答えが返ってくるとは。いつもの、亜紀先生のイレ込みぶりが演技だったとは。僕なんかよりずっと演技派じゃないか。

「今日、保健室についてきたもの、丁度いい機会だから、少し話をして探りをいれてみたかったからさ。あの女は、なんだか不審な所がある。夕綺は思わないか? 俺は少し気になって、挨拶するたびにおちゃらけながら探りをいれていたが、一つわかったことがある。あの女は、“この学校の生徒全てを把握している”。生徒思いの先生なら当然だとでも思うかもしれないがな、普段の態度から思うにそうじゃねぇ。授業も持っていない養護教諭にしては、あまりにも知りすぎている。確かに気のせいかもしれん。俺の考えすぎだと言われればそれまでだ。だが、一度気になると、思うところがある。━━━━たとえばそう、夕綺。お前は何故保健委員に指名された?」




「━━━━!? ……それは、たしかに不思議ではある。まあ、そんなこともあるかもしれない、程度に思っていた」

微かに感じていた疑問を指摘され、僕は戸惑いを隠せない。

「そう、たしかにそんな感じで納得してしまうだろうな。一つ一つは些細なことだ。だが、気になりだすとどうにも謎だらけだ。気をつけろよ、夕綺。あの女はお前に対しては、妙に距離が近い。それに、なんというか、俺の嫌いな臭いがする。くそったれな両親と同じな……!」

海斗から、静かな怒りを感じる。

やはり、自分の両親について、良くは思っていないようだ。

僕は、なんとなく気まずくなったので話を戻す。


「……随分と話が逸れてしまったな。元はといえば、秘密主義の霧島先生が、鍵を空けたまま部屋を留守にしているのが珍しい、ということだったな。僕も、霧島先生とはそれなりに会話をしてきた。あの人は先生らしいお決まりのことは言うが、それ以外はまるで取り付く島も無い。用が済んだら、いつもすぐに部屋を追い出される。だから僕もこの保健室をゆっくり見たことは無いんだ。そう、保健委員長であるのに、保健室を満足に見たことも無い。いや、見せてもらっていないんだ」

そこで僕はいままで気になっていたことを思い出す。






そう、いつも霧島先生の定位置である、この机。

この机は、あまりにも綺麗過ぎるのだ。

整理されている、というものではない。

何も、無い。

いったい、この机は何に使用しているのだ?

とても、ここでなにか作業をしているとは思えない。

今、霧島先生はここにはいない。

━━━━好奇心が僕の体中に広がってゆく。


; 僕は思い切って、机の引き出しを開けてみた。

;いや、勝手に漁るのはまずい。







僕は思い切って、机の引き出しを開けてみた。


「おい、いいのかよ!?」


海斗の驚いた声が背中から聞こえてきたが、その言葉には委細構わず僕は引き出しを上から順に開けていく。


「━━まったく。意外に大胆だな。まあいいさ。夕綺だけにさせるわけにはいかん。これで俺も共犯だ」


そう言って海斗もあたりをまさぐりだす。

海斗のその言葉に、僕はささやかなうれしさを感じる。まったく、無駄に暑苦しい奴だ。


その言葉を聴きながら、僕は何の変哲も無い無骨な事務用机、その引き出しを無造作に引っ張っていた。━━中を見る。


上段の引き出し、確認━━━━何も入っていない。


中段の引き出し、確認━━━━ここも何も入っていない。


そして一番下の段をスライドさせた時だった。


カサリ━━━━━━、と軽い音がした。


僕の耳にやっと届くかどうかの、小さな音だった。

おそらく、後ろにいる海斗にはこの音は聞こえていないだろう。


━━━━それは、ほんのわずかな、紙の音だった。


━━━━小さな、とてもちっぽけな紙の切れ端が引き出しの内部に触れる音だった。


それを見た僕は、一瞬にして戦慄が走った。

━━━━言いようの無い寒気が背中に抜けていく。

━━━━━━━━ごくりと喉を鳴らす。





これは……?


これは…………!?

    

━━━━付箋━━━━だ…………












付箋など、本来珍しいものではない。

どこにでも売っている。百円で買える。

学生ならだれでも持っている。

決して特別なものではない。

だが、この付箋に限って言えばそれは当てはまらない。

この付箋……、僕にはとても見覚えがある━━━━。

この黄色い付箋は僕がいつも使っているものだ。

少し大きめの、メモ書きにも使えて僕が好んで使っている付箋だ。


“それと━━━━同じモノだ”。


そう、それは、


“━━━━今朝、僕が使用した付箋だ。━━━━”


引き出しをスライドした際、その一枚きりの付箋は裏返った。

そしてその裏面に書いてある文字が微かに見えた。


━━━━『界』━━━━


半分ほど破られている為、全部は見えないが、間違いない。

朝、僕が書いた文字だ。

筆ペンで書いてあることと、術式用の特別な筆跡で書いてあるこの字体は、間違いなく僕の書いたものだ。

これは……、なぜこれがこんなところに?

いや、答えはもうわかっている。

わかりきった答えを質問するは愚だ。

考えるまでもない。


この部屋の主、この机の使用者である霧島先生。

おそらくは、彼女が……。















もちろん、別の可能性もある。

何者かが、この保健室の引き出しに“僕の付箋”を入れた可能性も皆無であるとはいえない。

だが、もしそうだとすると、問題点はいくつか出て来る。

これが、僕に対してのメッセージであるなら、第三者が保健室にそのメッセージを残すのはおかしい。

なにより、普段はこの部屋には霧島先生が居る。

故に、この引き出しには触れられない。

ならば、霧島先生の不在だった今、何者かがこの付箋を入れた……?いや、やはりそれもおかしい。

ここに入れた付箋を、僕が最初に見つける保証など、どこにもない。

まったくない。



もし、霧島先生が無関係で、この小さな紙切れを引き出しに入っているのを見つけたのなら、どうなるか?

不審には思うかもしれないが、あの人にとってならそのていど些細なことだろう。

きっとゴミくずとして処理するに違いない。












…………いや、ありえない期待をするのはやめよう。

他の可能性など、皆無。━━━━絶無。

事、ここにいたりて、他の結論はありえまい。

謎の多い人だとは思っていたが、それでもここまでとは思ってはいなかった。

せいぜい、ミステリアスな秘密主義者程度だと思っていた。

謎の美女なんて、漫画の世界だけで充分だ。

現実に居たら、それは恐怖だ。

謎は、怖い。

美人は、━━━━━━尚恐い。






「おい、夕綺。どうだ? なんかあったか?」


海斗が、背中から呼びかける。

他の場所を探っていた海斗もこの机が気になったのか、状況を訊いてくる。


「……いや、全部空っぽだ。何も、入っていない」


とりあえず何とかそう答えた。

僕は、引き出しが空なのをアピールするよう、引き出しの底をカンカンと軽く叩いてみる。

━━その際に付箋を回収。

完了。



僕が付箋を握りこんだ直後、海斗がつられて覗き込んでいた。


「ほんとだ、綺麗さっぱりからっぽじゃねえか」


━━良かった。気づかれなかったようだ。

だが、あまりつっこまれると表情に出してしまうかもしれない。


「海斗の方は、なにかあったのかい?」


逆に海斗に切り替えし、話の矛先を変えておく。


「ん、ああ。いや、俺の方は……特に何も無い」


「そうか」


なんとなく海斗の答え方が歯切れの悪いような気もしたが、気のせいだろうか?

まあ、不在の所を隠れて調べているのだから、気が引けたのかもしれない。

いや、海斗に限ってそれは無いか。


「なんだ、そしたらこの先生はここで何の仕事をしているんだか。まったくもってよくわからんね」


海斗が両手をあげ、呆れたような素振りをする。


「さてな、書類関係は職員室のほうにまとめてあるのかもしれないが、僕にもわからないな」


そう、本当にわからない。

だが、一つ思うのは、意図的に片付けられたのではないかということ。これは、これ自体が、意味のあること、必要なこと、なのかもしれない。

これが、僕に対しての行動であるならば。







「まあ、霧島先生が居ないのなら、しょうがない。今日は諦めて、明日にでも確認すればいい。さ、多少、時間も潰したことだし、そろそろ、蓮見の家へ行ってみようか」

海斗に促す。

「そうだな、あれこれ考えてもしょうがねぇ。まずは、蓮見の様子を見に行くのが先だな」

よし、と僕は頷き、二人、保健室を後にする。

閉めた保健室の扉に、不在のプレートを掛けようかと少し迷ったが、あえてそのままにしておくことにした。

極力、いじらない方が良いような気がしたからだ。

僕は、言い知れない不安感と不快感の入りまっじた気持ちを押し隠しながら、海斗と共に昇降口へと向かった。

だが、昇降口に向かう僕らの姿を後ろから見ていた影があったことに、この時は知る好もない。

外は、僕の気分とは裏腹に、皮肉めいたように爽やかな天気だった。

夕刻が近いとはいえ、夏の日はまだ高い。朱に染まる前の陽光は程よい暖かさだ。

僕らは校門を出て、進路を西にとる。

学校から,いつもと違う道で,自宅以外の場所へと向かう。

思えば、学生にとって、友人の家に遊びに行くというのはなかなか楽しみな事ではある。とかく、他人の庭は広く見える物だ。自分の家にはないものを持っている友人の家に行くときには、言いようのない楽しさがある。





だが、今日は、遊びに行くわけではない。

もちろん、遊びで済んでくれるに越した事はない。

蓮見の様子を見て、欠席の理由が病欠であったのなら、僕らの訪問はお見舞いになる。それだけの事。

そうであれば、いい。

いや、そうあるべきなのだ。

そうでなければ、おかしい。

僕は、そう自分を納得させる。

ただの考えすぎであることを。








「夕綺、蓮見ん家は行ったことあるんだよな? 俺は行ったこと無いからさ」

道すがら、海斗がなんとなしに訊く。

「ああ、たまにゲームをしたりする」

「おまえ、結構ゲームとかアニメ見るよな。いつも思うが、イメージとギャップがあるよな。成績優秀、スポーツ万能の優等生がオタク趣味とは」

「それは偏見だな。成績優秀だろうが、趣味は別物だ。それに、優等生の方が、“演技”だ。本来は、気ままにゲームやアニメに興じていたいね。蓮見とは、そういった趣味の話を思う存分にできる数少ない友人の一人だ」

「なるほどねぇ、タイプの違う二人が妙に中が良いのはそれでか。俺はゲームとかしないからなぁ」

そんな益体もない話をしながら、二人、蓮見の家へと歩みを進める。

蓮見の家は学校からさほど遠くはない。

遠くはない、といっても、電車通いしている者達からすればそうであるというのであって、徒歩で移動すればそれなりの距離はある。

かれこれ、三十分ほどは歩いたであろうか。

やっと、蓮見の家の外観がうかがえるところまで来た。

蓮見の家は一軒家だ。

二階建ての、まだ築五年と経っていない、新築といっても差し支えないような綺麗な家だ。

その敷地面積を一杯に使った四角い建物は、表から見ると巨大な立方体のよう。

真新しい白い外壁が眩しい。

僕らは、その玄関の前に立つ。

ここが蓮見の家だ。

だが僕は、なぜだかわずかに違和感を覚えた。


;僕はとりあえずインターホンのボタンを押した。

;その前に、あたりの様子を見てみた。















僕は、インターホンのボタンを押そうと思ったが、その前にあたりを見回した。

何故、と言うほど明確な理由はない。

なにか違和感を覚えた。ただ、それだけだ。

何の気なしに、カーポートに目をやる。

車は停まっていない。

たしか、いつもなら大型セダンが停まっていたはずだが……まあ、出かけているのかもしれない。

気のせいだ。

視線を玄関に戻しながら郵便受けのポストをさりげなく覗く。

中には、チラシの類が数枚入っているだけのようだ。

これも、別段問題はない。

気のせいだ。

ただの気のせいだ。


家の外観を改めて見渡す。

━━━━ここで、やっと違和感の正体に気が付いた。

それは窓だ……、いや、正確には“窓ガラスを通して見えるその内部”だ。

最初に思ったのは、カーテン。

おそらくどんな家庭でも、窓には必ずと言っていいほどカーテンを取り付けているものだ。

だが、ここから見える窓には、どれもカーテンが付いていない。室内が丸見えだ。

そして、その室内の様子が視界に入る。

否応なしに。

まるで、見てくれと言わんばかりに。


そう、ここから見える窓の中の世界は━━━━━━

━━━━━━━━━━━━━━━━がらんどうだ。

なにもない。

「夕綺、なんか変じゃねえか?」

海斗も気づいたのだろう、訝しげに訊いてくる。

「ああ、そうだな。━━たしかにおかしい」

僕は正直に感想を述べる。

「ここが、本当に蓮見の家なのか? まるで空家みたいだぜ」

海斗は至極当然の反応をする。

当然だ。僕でもそう思う。この状態を見るならば。

「ここが蓮見の家だ。それは間違いない。僕は何度も来ている。……だが、前に来たときはこんな様子じゃなかった。これは、いったい……?」

僕は、嫌な予感が現実の物となりつつあるのを感じる。

ゾワリと、背中に嫌な感触が走る。




「ま、まあ、一応声をかけてみないか」

海斗がそう言い、インターホンのボタンを押した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━返答はない。


もう一度押す。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━無音。


インターホンに答える声も、玄関に出て来る人の気配もない。

そこで、僕はさらに気づく。

玄関の表札……、それが無い。なくなっている。

そこにあるのは、表札の収まっていたであろう長方形の跡。剥がされた痕跡だけ。


「表札も剥がされている……」

僕は知らず呟く。

「これは、どうなってんだ? これじゃ完全に空家だぞ。引っ越したってのか!?」

海斗も驚きを隠さない。

「いや、蓮見はそんなことは一言も言っていなかった。休む前日までには、そんな話は一切聞いていない」

「けどよ、現にこの家の様子は空家そのものだ。こいつは、夕綺の言うとおり、なんかあったんじゃないか?」

海斗が焦慮する。






「……たしかに、これはおかしい。……だが、本当に引越したのかもしれないし、これからリフォームでもするのかもしれない。念のため、明日にでも、学校の方に連絡が来てないかもう一度訊いてみよう。とにかく、それからだ。ここでは、もう、どうしようもない」

努めて冷静かつ事務的に、心にも無い無難な受け答えをする。

当然、額面どおりの意味ではない。

「く、たしかに、それしかないか……。ここで突っ立てても、何もならないしな。━━そうだ夕綺、携帯とか、連絡はつかないのか?!」






「なにをいまさら、できるなら、とっくにそうしているさ。残念だが、蓮見は携帯電話を持っていない。今時珍しいが、こればかりは親の理解も必要だからな。それはしかたない。とにかく、今、この場でできることは、もう何も無い、ということだ。……今日はもう、ここでお開きにするしかないな」

僕は、極力感情を抑えた声で、言外に“帰れ”と告げる。

「……そうか、そうだな。とりあえず、今日はここまでか……。わかった。後は、明日、学校側でもなにか知らないか訊いてみて、だな」

海斗も、納得する。

僕の真意までは、解るまいが。




「ああ。後は、明日次第だ。それからどうするか考えても遅くはない」

僕は、説明するように淡々と言う。


━━━━━━無論、それでは遅い。

いや、もしかしたら

もう、遅いのかもしれないが━━━━━━










「しゃーない、気になるが、どうしようもないしな。後は、明日以降だな。今日は、おとなしく帰るとするか」

海斗はそう言い、名残惜しそうに蓮見邸に背を向ける。

僕はそのまま、ここに残りたかったが、この状況ではそうもいくまい。

親友である海斗にも、僕の秘密を知られるわけにはいかないのだ。

ただでさえ、幼い頃から僕のことを知っているのだ。これ以上、僕の“能力”について感づかれるような行動をとるわけにはいかない。

海斗の安全の為にも━━━━━━

僕は、この場はとりあえず海斗と共に蓮見邸を後にする。



時刻はすでに夕刻。

それは昼と夜との境目。

学校を出た頃にはまだ高かった日も、今は既に朱が混じり始めて、街を紅く染めていく。

わずか三十分程の、幻想的な赤い時間帯━━━━。

斜陽の射すなか、来た道を再び海斗と共に歩く。

たわいも無い会話をしながらも、心中では先ほどの蓮見邸のことを考える。









━━━━━━━━おそらく、


あそこで“何か”があったのは間違いない。


現状を“見る”だけでは、たしかなことはわからない。

いくらでも、他の可能性はある。

理由をこじつける事はできるだろう。


だが━━━━、

この翠眼で“視る”ならば、

きっと、なにかがある━━━━。



━━━━そう確信する。

自らの“理”と、“勘”と、“力”によって━━━━。


僕は、焦燥を胸に抱きながらも、それを海斗に悟られないように気をつけながら帰り道を歩く。

思わず足運びが早くなる━━━━いけない、抑えろ。

意識し、自制する━━━━━━━━━━━━。

そうしながら、時が過ぎること四十余分。


「夕綺、それじゃ明日な~!」

「ああ、またな」

いつもの道に戻り、いつもの場所で海斗と別れる。

海斗は手を二~三度振ってから去っていった。

僕はその後姿が見えなくなるまで留まってから、再び同じ道を戻る。いや、━━━━駆け戻る。



もう一度、蓮見の家へと━━━━━━━━。


駆ける、駆ける、駆ける━━━━。

夕焼けの中、制服姿で僕は走る。

やはり制服は動きづらい。

━━━━足を動かすたびに、ズボンが突っ張る。

━━━━硬いブレザーが、体の動きを鈍くする。

━━━━肩に掛けたカバンが歩調に合わせて揺れる。

それでも、その鬱陶しさを無視してひたすらに急ぐ。

今は、ただ、急ぐ。

自分の感覚を信じるならば、あそこには何かがある。

それを、一刻も早く確かめたくて、気がはやる。

━━━━━━━━焦る。

落ち着け、焦ってはいけない。

焦らず、ただ急げ。

今は、ただ、足を動かし続ければそれでいい。

全力で走れば、僕の走力ならば十分程度で着くだろう。

陸上部にも負けない走りで僕は駆ける。

道を全力で走る僕に、通行人は怪訝そうな顔をする。

その気持ちは良くわかる。

たしかに、街の道を全力で走る者がいたら、誰でもそうするだろう。

ジョギングなどとは明らかに違う。そんな必死で走る人を見かけたのなら、訝しむのも当然だ。

しかも、僕は学校帰りの制服姿だ。この格好で全力疾走していれば、目立つことこの上ない。

だが、今はそれに構ってはいられない。

まあ、人にぶつからない程度には気をつけるが。

だが、すれ違いざまにカバンが当たるくらいは多めに見てもらおう。


そうして、走り続ける━━━━。



━━━━━━━━━━駆けること十余分。

途中、通行人にぶつかりそうになりながらも、なんとかそれらをかわしながら再び蓮見邸へとたどり着く。

思ったよりも早く着いた。タイムを計測していれば、さぞかし好タイムが出ていたであろう。

おそらく、僕が本気で走れば高校生の陸上の記録など更新してしまうだろう。だが、今はそんなことには意味は無い。

時間を計るための速さなど、意味は無い。

僕にとっては、速く行動する為に速く動くに過ぎない。







━━━━乱れた息を整える。

少し落ち着いたところで、改めて蓮見邸の前に立つ。

━━━━人気が無いか周囲を見回す。

あたりには、人の気配は無い。道路は無人。

━━━━それを確かめてから、蓮見邸の敷地内に踏み込む。

再び視界におさめた蓮見邸は、先ほど見た状態と何も変わってはいない。ただ、斜陽の朱が増しただけだ。

カーテンの無い窓、

がらんどうの室内の様子、

車の無いカーポート、

新聞も手紙も届くことの無い郵便受けのポスト、

剥がされた表札の跡、

━━━━何も変わらない。



だが━━━━━━━━━━━━


この眼を開けば━━━━あるいは━━━━━━━━


僕は、そっと眼帯に手をかける。


音も無く、眼帯は自然に顔から離れた。

それが、さも当然のように。

その方が自然であると言わんばかりに。








僕はゆっくりと眼を開ける。


その眼に映ったモノは━━━━━━━━



クロイ━━━━ドス黒イ空気━━━━━━━━━━











眼前にそびえ立つ“蓮見の家だった”建物から、現実感の無い黒い空気が滲み、漏れ出している。

それは、窓の淵や排気口など、室内の空気の漏れる場所から染み出ているようだった。

「これは━━━━━━━━」

僕は一驚を喫する。

これは、“念”だ━━そう言おうとした時━━━━

「これは、“念”かしら、それも結構強い……」

風花が横から呟く。

いつの間にか風花は僕の隣に立っていた。

いや、ずっとそばにいたのかもしれないが。

風花は険しい表情で目の前の建物を見据える。


そう、これは人の残した念。特に、無念や残念などといった負の感情の残り香だ。それが、この建物の中に充満している。

「ああ、そうだ……。僕の眼でも、人の念というものは見えづらいんだが、ここまではっきりと視えるのはめずらしい……。さぞかし強烈な出来事があったに違いない。それも、つい最近に━━━━」

念は、まだ薄れてはいない。

人の念は臭いのようなもの。時間と共に薄れ、消えていく。

だが、ここには未だ強い念を残している。

“悪霊の殺意”のような思念に比べれば、人の残す念は非情に儚く、弱い。

僕の眼でも、見るのがやっとだ。

だが、今、僕の翠眼に捉えるこの念は尋常ではない。

それはまるで━━━━━━━━━━━━、

死の際の恐怖、絶望、失意、そういった究極の無念ではないか━━━━━━━━━━━━━━━━━━。


「夕綺、どうするの……? 入って、みる……?」

風花が硬い表情のまま、視線を動かさずに訊いてくる。

風花は変わらず、建物を、いやクロイ空気を注視している。

「……ああ、これを見てしまった以上、何もしないわけにはいかない。ここで、間違いなく、“何か”があった。そして、それは友人である蓮見の身に起こったことなんだ。もしかしたら、なにか手がかりがあるかもしれないし…………調べてみよう」

僕は、蓮見邸の中に入ろうと思った。

不法侵入という言葉が頭の隅にちらついたが、非常事態であるということで、ここでは黙殺する。

とりあえず、ドアノブを捻ってみる。

ガチリ、とロックの効いた無機質な音が響く。



「やっぱり、閉まってるわね。どうする、壊してでも入る? 夕綺はここまできて、引き返すつもりはないんでしょう?」

風花は僕の隣でささやく。

「ああ、当然、引き返すつもりはない。とはいえ、いくらなんでも扉を壊して侵入するのは躊躇われる。それに、窓を割るのも目立つ……。そうだな……しかたない、あれをやるか━━━━」

一つ、嘆息する。

もう一度周囲を見渡し、無人なのを確認してから僕はあるものを内ポケットから取り出す。

パッと見には、六角レンチの束のように見えるかもしれないが、全然違う。

それは、いかがわしい工具の束。いわゆる、“ピッキング”用の道具だ。


「あら、随分と悪いことをするのね。普段から、そんなものを持ち歩いてるのかしら? ふふふ、優等生なのにね」

風花が、悪戯っぽく笑う。

「まあ、時には、鍵の掛かっている場所で人外と戦うこともあるからね。古びた廃墟や廃屋といえど、鉄の扉を破壊できるほどの力技はできないよ。あとは、知的好奇心で覚えた、ということでもあるけど。いまなら、ネットでもやり方が書いてあったりするからさ。ま、超法規的措置ということで、ここは一つお目こぼしを」

僕はおどけて答えてみせる。

さて、鍵を開ける前に、念のため結界を張っておこう。

さすがに、ピッキングという犯罪行為で開錠しているところを、万が一にも目撃されるのはよろしくない。


僕は、今朝、教室でやったのと同じように付箋に字を刻む━━━━。

『人』『除』『封』『界』━━━━

その付箋を敷地の四隅にすばやく配置。

風で飛ばないように、石で押さえる。

そして、言霊を詠唱。

━━━━葉真夜が命ずる━━━━

━━━━━━━━結界 始動━━━━━━━━


詠唱を終え、付箋からほの明るい光が滲む。

術は成功だ。

だが、この付箋で作った札での結界では、この規模が限界だ。

それに広さに力を費やした分、効果時間は長く持たないかも知れない。一時間も持てばいいところだろう。


「これで段取りは良し、と。さ、鍵を開けるとするか」

鍵穴に目を向け、シリンダーのタイプを確認する。

新しい家なだけあって、シリンダーも耐ピッキング性能の高いシリンダー錠だ。どうやら、防犯意識は高かったようだ。これなら、“簡単には”ピッキングはされないだろう。

まあ、それでも、時間が掛かるというだけだ。

開けられないことはない。

僕は、鉄でできた耳掻きのような怪しげな道具を手に取り、鍵穴に差し込んでゆく。

鍵の内部を触診するかのように、シリンダーを犯す。

━━━━━━━━手ごたえあり。

だましだまし、道具を前後させ、捻る。

シリンダーを蹂躙すること10分、カチリ、と小気味良い音が鳴る。

鉄の耳掻きのような道具をそっと抜き取る。

「ふうん、慣れたものね。見事なものじゃない……!」

風花が目を大きくし、純粋に感嘆する。

「いや、そんなことはないよ。これはあくまでいざという時の為に会得した、必要最低限の技術だ。プロなら一分くらいで開けるんじゃないかな。僕は、ただ開けられるだけ、だよ。それに、自慢できるものでもないしね」

「それでも充分すごいわよ。私は、扉を壊せても、こんなふうに開けたりはできないわ。でも、そんな道具を持ち歩いて、持ち物検査とかされたら大変じゃない?」

風花が、僕の工具束を眺めながら言う。





「ふふ、優等生だから大丈夫さ。僕は、学校で疑われるようなことは、まったく無いし。まあ、仮に全員検査されるようなことがあろうとも、すぐに袖の中にでも隠せる。手品も、得意なんでね。先生一人の目、くらいはごまかせる。いや、周囲の人間の目くらいはごまかせる、かな」

どちらにせよ、心配にはあたらない。

「じゃあ、警察に職務質問されたら?」

「そうならないように、こうして“力”を使ってまで結界を張ってるんじゃないか。まったく、風花はそんなに僕を犯罪者にしたいのか?」

僕は呆れた口調で風花に言葉を返す。

「あはは、そうじゃないけど。でも、真面目なのに、平気で悪いこともできるのがおかしくて」

風花はくすくすと笑う。


「平気で、とか、悪いこと、とか人聞きの悪い。これは、あくまでも“嘘も方便”みたいなものだ」

僕は口を尖らせながら、一応反論しておく。

「軽犯罪も方便なのかしら、ふふふ。まあ、夕綺をこれ以上いじめちゃかわいそうね。…………さあ、鍵が開いたのなら、そろそろ 入ってみましょうか?」

風花は、それまでのふざけた調子から、緊張した口調に変わっていく。おそらく、この建物の中の空気を敏感に感じ取っているのだろう。そして、この扉を開くことの意味を充分に理解しているということだ。







「ああ、そうだな……。いくとしよう」

僕も、緊張を隠さない。いや、隠せない━━。

知らず、口調が固いものになる。

ゴクリと唾を嚥下し、身構える。

目の前に対峙するたった一枚のドアが、まるで悪魔の口のようにすら感じる。

この中に入ったら最後、二度と出られなくなるのではないかという言い知れない不安感が押し寄せる。

落ち着け……。

一度、深く息をする。

なんてことは無い。

これは、いつもとなにも変わらない。

そう、いつも、“人ならざる者と戦うときと同じ”だ。

“その、緊張感と何も変わらない”。

だから、なんてことは無い。

気を引き締めろ。いつものように。

僕は意を決して、ドアノブを捻った。

カチャリ━━、と小さな音を立てて、今度はスムーズにドアが開く。かつて、蓮見邸だった建物は、僕たちをその胎の中へと招き入れた。

一歩、玄関に足を踏み入れる。

「くっ……」

思わず、顔をしかめる。

建物の中から噴き出してきた空気に当てられる。

「しっかり、夕綺! こんなもの、臭いと同じよ。ただの残り香となんら変わりないわ。それに、今はもう、その臭いの元はここに存在しないんだから、気にしないの」

風花が僕を叱咤する。

「あ、ああ。大丈夫だ。思っていたより空気が濃かったから、少し驚いただけさ」

多少の強がりを言いつつも、さらに中へと踏み込む。

内部の空気が僕らの体を取り巻くように流れる。

生温く、不快な空気だ。

それは、人の“死”の臭いに似ていた。

僕が、いつも感じている、あのカゼとよく似ている。

……嫌な予感を振り払う。

まだだ、まだ、そうと決まったわけじゃない。

まずは、この家の中を一通り調べてみよう。

考えるのはそれからだ。

そう、一体ここで何があったのかを━━━━








とりあえず、中へ入ろうとしたが、玄関と廊下の段差を前にして、僕はわずかに躊躇した。

「土足、でいいのかな……?」

日本人の習性として、どうしても抵抗がある。

風花は呆れた顔で嘆息する。

「……夕綺。今さっき、犯罪行為で鍵を開けたくせに、そんなところを気にするのね。まったく、変なところで真面目ね。もういまさらそんなの関係ないでしょ。それに、避難訓練で靴を履きかえる? 同じようなものよ。さ、いくわよ」

風花は、なんの躊躇いも無く、廊下に土足で踏み込む。






そうだ。

こんなことを気にしている場合じゃない。

この状況で何を考えている。

もう、ここは非日常の空間なのだ。

日常の常識など、とうに意味を成さない。

ここは、魔境。

人の立ち入れない領域と化しているのだ。

自分の認識の甘さを反省する。

僕も、靴のまま家の中に入ることにした。

無人の廊下を進む。

よく見れば、廊下にはチリ一つ無い。

つい最近まで掃除がされていたように感じられる。

まるで、“昨日掃除したばかり”のように━━━━




さて、まずどこから調べようか?

; 廊下を進み、手近な扉を開けてみる。

;蓮見の部屋は二階だ。二階から調べる。














廊下を進み、手近な扉を開けてみる。

扉には、すりガラスが嵌っている。

そこはリビングへと繋がる扉だ。

蓮見の家には何度かお邪魔したことがある。

なので、ある程度の勝手は知っている。

ここは、以前来た時には、リビングだった。

だが━━━━、

今はもう、その面影はなくなっていた。

すりガラスの嵌っている扉。

いつもなら、すりガラス越しにテレビ画面の青白い光が滲んでいたはずだ。

その、テレビの光が無い時点ですでに予想はしていたが、扉を開いた世界は空っぽだった。

空、虚、無━━━━

そういった文字が連想される。

そこには、なにも無かった。

あるのはただ、静謐な空間。

外界の音は遥かに遠く、室内にはほとんど届かない。

キーンと、耳が痛くなるほどの静寂。














「なにも、ないな」

無音を嫌い、僕が最初に声を発する。

「そうね……、まるでつい最近にでも、引越ししたみたいね」

風花も応じる。

「壁のここ……、たしかここには食器棚があったはずなんだ。この壁の跡が、ここに棚があったことを証明している。他も、同じだ」

僕は壁に指をさし、かつてここに家具が置かれていたことを意識する。

空っぽのリビング。

今は、煙草のヤニが残した影絵のような跡だけが、ここに人が住んでいた形跡を思わせる。

「でも、今はもう、なにもないわね」

風花は冷静に、起伏の無い調子でそう言った。


「ああ、何も、無い。なにか手がかりでもと思ったけど、本当になにもないな」

見事なまでに。紙切れ一つ、チリ一つない。

「しょうがないわ、なら、他の場所も探してみましょう?」

「そうだな……。とにかく、この建物内をくまなく探して、何か残っていないか、探さないと」

いったい蓮見はどうなったのか。

心配だ。なにか手がかりを見つけたい。

この状態は明らかに異常だ。

いまもなお、この家の住人が残した“念”が渦巻いている。


━━━━たしかに、

━━━━ここで、

━━━━なにかがあったのだ。

リビングの次は、奥のキッチンを調べることにした。

僕らは、虚無の空間を通り過ぎ、その奥にあるキッチンへと向かった。


そこも、リビング同様、なにも無かった。

おそらく、最新のシステムキッチンだったのだろう。

とても使いやすそうで、主婦のために考えられたような実用的なキッチンだ。それも、デザイン性も重視された、ステンレスシステムキッチン。

(うちも、こんな台所だったらよかったのに……。)

一瞬、そんなことが脳裏をかすめたが、いまは気にしないことにする。

そんなことより、次だ。

念のため、棚の中も一通り調べてからキッチンを後にした。

やはり、中には何も無かった。

さて、次はどこを調べようか?

;風呂、洗面所を見てみる。

;二階の蓮見の部屋を調べる。














風呂、洗面所を見てみる。

あと、一階で残っている場所は風呂場くらいだ。

僕は、風呂場を調べてみることにした。

本来なら、人の家の風呂場など、見るものではないのだが、今は許してもらおう。

ここには一つ、気になることがある。

それは……

;バスタブだ。

;洗面台だ。

;排水口だ。







バスタブだ。

僕は洗面所の奥へと進み、浴室の扉を開けた。

ガラガラと音を立て、薄い扉がスライドする。

そこで、浴室内を見渡す。

やはり、ここにも何もない。

シャンプーも、石鹸も、タオルも、軽石も、

およそ生活感の感じられる物は、ここにはなにも無い。

そして僕は、気になっていたバスタブへと目を向ける。

バスタブには、水気はなかった。

そして、とても綺麗だった。

まるでホテルのバスタブみたいだ。

ためしに、姑のように指で触ってみる。

キュッ、といい音がした。水垢一つ無い。

浴室の床も乾いていて、特に変わったところはない。

せいぜい、角の際や壁、サッシにカビがあるだけだ。


「どうしたの、夕綺。なにかあった?」

そんな僕の様子を見て、風花が声をかける。

「いや、昔流行ったノベルゲームで、“バスタブを調べる”って選択肢が重要なポイントだったんだ」

僕は真面目な顔をして答えた。

「夕綺……なにをいってるのかしら……!」

風花が恐い目で僕を見ていた。

獣の目だった。

「あぁ、いや、それは冗談だ。だけど、気になった理由はちゃんとある」

僕は、気を取り直して答えた。

「へえ、それでどうだったの?」

今度は、感心した様子で風花が訊いてくる。

「まあ、それで調べてみたわけだけど、残念だが証拠になるようなものはなにも無かったよ」

そう、証拠は、やはり何も無い。

「ふうん、そう。で、気になった理由はなんだったの?」

「まあ、たいしたことじゃないんだ。結局なにも見つからなかったし」

そう、口に出して言うほどのものじゃない。

「ま、夕綺がそういうのなら、別にいいけど。じゃあ、次はどうする?」

風花は少し不服そうではあったが、納得してくれた。

「そうだな……、あとは、二階を見てみよう」

重く、言葉をつむぐ。

いよいよ、そこに行くしかないと腹をくくる。

風呂場を後にして、元の廊下に出た。





二階には蓮見の部屋がある。

階下から、段上を仰ぎ見る。

二階からは、一階とは比べ物にならないほどのクロイ空気が立ち込めていた。

それゆえに、真っ先に調べるのは躊躇われたのだ。

もし、考えなしに最初に向かっていたら、なにか取り返しのつかないことになるのではないかという不安があった。

だから、周りから先に調べ、少しでも手がかりを求めたのだ。







そして、それはおそらく正しかった。


━━━━証拠は無い、だが証拠が無いのが証拠だ。

一つだけ、確信を持ったことがある。

それは━━━━

「夕綺、どうしたの? まさか怖気づいた?」

立ち止まっていた僕に風花が問う。

「まさか……。まあ、少し思うところがあってね。今、その覚悟を決めた所だよ」

そういって、階段の上を見据える。

僕の考えが正しければ、おそらく蓮見はもう━━━━━━━━━━

いや、よそう。

まだ早い。

最後の瞬間まで、可能性はある。

箱を開けるまで、中の猫の生死はわからないのだ。

「行くか……!」

「ええ」

意を決して、ついに階段に足をかける。

まだ新しいこの家の階段は、軋んだ音を立てることも無く、僕の体重を受け止めた。

後ろには、風花も続く。

段上には誰もいない。

当然だ。ここに人がいるはずが無い。

そして、人外の気配もない。

だが、緊張は緩めない。

一段一段、ゆっくりと階段を上る。

あたりに、変化は無い。

異常が無い、とは表現できない為、そう言うしかなかろう。

ここはすでに異常なのだから。

異常のまま、特に状態は変わりない。そういうことだ。

やっと、階段を上りきる。

視界が開け、二階の廊下が見渡せる。

部屋の扉は全て閉まっていた。

廊下の左側に扉が二つ。

そして、突き当りの奥に小さな物置がある。

蓮見の部屋は二階の一番手前の部屋だ。

「夕綺、どうする? どこから調べるかしら?」

「そうだな……」

僕は、


;迷わず蓮見の部屋の扉を開いた。

;慎重にあたりの様子を見る。

;奥の物置を見てみた。






慎重にあたりの様子を見る。

そう、ここが一番重要なところなのだ。

ここで気を抜くような、詰めの甘いことをしていては、命がいくつあっても足りないだろう。

不用意に、この扉を開けてはならない。

僕の、“感”と“理”がそう告げている。

体中の全身と、脳内に、警報サイレンがガンガンと鳴り響く。



落ち着いて、一歩引いて部屋の扉を見てみる。

改めてよく見れば、扉の隙間から溢れ出るクロイ空気の量の甚大さが際立っていることがよくわかる。

僕たちの足元は、すでにクロイ空気にスネまで浸かり、

まるで絡め取られているかのようにさえ感じる。

温度が幾分下がったように感じる。

背中に、通常と違う汗が一筋流れた。

……落ち着け。これはただの臭い。残り香に過ぎない。

これ自体には、なんの力も脅威も無いのだ。

問題はそこではない。

ここから、溢れ出てきていることこそが━━━━━━






そうだ。

ここだ。

ココこそが、この家で起こった“何か”の現場なのだ。

迂闊な行動はできない。

ゆえに、慎重にこの扉を開けるのだ。

息を吸い、そっと、ドアノブに手を伸ばす。

扉がわずかな軋みをあげ、隙間が開いてゆく。

僕と風花は、

開かれゆく室内の様子に目を向ける━━━━━━

意識は、室内へと注がれる。







━━━━いや、室内に意識を奪われたのは風花だけだ。

僕は、ドアノブを捻るのと同時に、すでに意識を背後へと向けていた。

だから、

たとえ“気配の無い存在に攻撃を仕掛けられようとも”、恐れはしない。

ただ、対処すればいい。

;エフェクト

家中に、甲高い金属音が響く━━━━

僕は振り向きざまに鉄扇を抜き、背後からの不意打ちを捌く。

そこにいたのは━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━霧島先生。

気配は無くとも、眼には見える。

間違いない。

蒼ヶ原高校、養護教諭の霧島亜紀先生だ。

彼女はいつもと変わらぬ美貌を携えてそこに立っていた。━━否、いつもよりも冷血な貌をしていた。そして彼女の特徴的な青いアイシャドーが、より冷たさを感じさせていた。


「夕綺!!」


音に反応して風花が瞬時に振り返る。

すぐに鎌を出現させ、柄を握り構えていた。


「……へえ、やるじゃない、葉真夜クン。よく、気がついたわね。あと、眼帯……、していないほうがいい男よ」

挿絵(By みてみん)


霧島先生は、抑揚の無い声でそう言った。

どこか、冷え冷えとするような口調だった。

その右手には、ナイフが握られている。

それを鉄扇で弾いた僕の手には、まだ痺れが残る。


━━━━━━━━━━━━本気だった…………!




この人は普段から冷淡な印象だったが、今この場においてはそんな言葉すら生温い。

冷血……、冷酷。そんな表現の方が適切だろう。

ある程度予想していたとはいえ、後ろから刺されそうになればさずがに驚く。







「ええ、だって、バレバレじゃないですか。すこし考えればわかることですよ」

僕は動揺を悟られないよう、わざと冷静な芝居じみた物言いで答える。

うまく弾いたとはいえ、内心はヒヤヒヤものだった。

備えていても、背後からの攻撃を防ぐというのは簡単なことではない。

攻撃される瞬間まで、本当にまったく気配は感じ無かった。 だが、最後のナイフを突き出すときにだけ、殺気にも似た敵意を感じたのだ。

あとは、敵意の方向に向けて鉄扇を構えただけ。

危ないところだったのは間違いない。

背中に冷たいものが一筋つたう。




「ふん……、かわいくない子ね。もう少し、うろたえるところを見たかったのに。随分と落ち着いてるのね。つまらないわ」

霧島先生は、不機嫌さを隠すこともなく言い放つ。

もはや、養護教諭らしさなど微塵もない。

「今言ったとおり、予想できていたことですからね。霧島先生も、あからさまに僕をここに誘い出しておいて、何をいまさら」

「そういうことじゃないわ。加減したとはいえ、背中から刺されそうになっても平然としているのがつまらないと言っているの。思ったより肝がすわってるのね……葉真夜クン」

霧島先生は睥睨しながら吐き捨てるように言う。




「まあ、多少、修羅場はくぐっていますからね。それに、この敷地内のどこかに潜んでいるとは思っていましたから。だって、ここ、まだ処理中なんでしょう?」

「━━━━━━」

霧島先生の表情に微かな変化。

ほんの数ミリ、目を細める。

「ここで、なにかがあったのは間違いない。それも、昨日か一昨日のことです。蓮見が学校に来なくなったのは昨日からですからね。ここまでは当たり前の理屈です。僕が気になったのは、風呂場です。正確にはバスタブですね」

「━━━━━━」

霧島先生は沈黙のまま動かない。

その反応を見て、さらに話を続ける。



「霧島先生……、あなたはバスタブで“何か”を処理したりはしませんでしたか━━━━?」

「━━━━どうして、そう思うのかしら?」

「まあ、些細なことですが……。バスタブだけが、あまりにも綺麗過ぎたんです。浴室のタイルなどには汚れが残っていたのに、バスタブだけはピカピカでした。それはもう、念入りに磨いたようにね。薬品も使っているんでしょうかね。これだけやれば、ルミノール反応も出ないかもしれませんね」

「わたしがそれをやったと言いたいわけ」

「霧島先生は、僕の“能力”について知っているんじゃないですか? 僕の眼には、霧島先生の手が血に濡れて真っ赤になっているのが見えますよ」

彼女を翠眼で真っ直ぐ見据える。

霧島先生は、思わず自分の手に視線を落とす。


「……まさか。そこまで視えると!?」

今までの淡々とした様子とはうって変わり、驚きをみせる霧島先生。

それを見て確信。

「まさか。いくら僕の眼でも、そこまでは見えませんよ」

見えるのは、人に在らざる者だけだ。

「カマをかけたのね。ガキのくせに、ほんと、かわいくないこと……。まあ、いいわ。じゃあ、本題に入りましょうか」

霧島先生は、怒りを滲ませたが、それを抑えて声を出す。





「本題、ですか……」

知らず、体が強張る。

緊張が走る。

そう、目の前にいるこの女は、断じて一介の養護教諭などではない。

引き出しに入っていた僕の付箋といい、結界を張ったこの家の中に侵入できていることといい、まともな人間でないのは明らかだ。

「夕綺、気は抜かないで」

風花が張り詰めた表情でささやく。

彼女も、霧島先生に対して警戒に値すると理解しているのだ。風花は先ほどから、毛ほども気を緩めてはいない。それは、この家の敷地内に入ったときからずっとだ。ゆえに、警戒に値する。

僕は、小さく頷く。


「そうね、まずなにから話したらいいものかしらね」

霧島先生は僕らの様子に構うことなく、口に手を当て、一人話し始める。その姿だけならば、いつも保健室で見る霧島先生となんら変わらない。

「まあ、遠回りに言うのもめんどくさいから単刀直入にいくわ。葉真夜クン、わたしに協力しなさい」

霧島先生は人を見下すような高圧的な態度で、高姿勢な物言いで告げる。

「……何をいきなり。背中から人を刺し殺そうとしておいて、随分と図々しいことですね」

僕はまだ冷静なフリをしながら答える。

だが、それもいつまで持つことか。

「あまりふざけたことを言うと、問答無用で斬るわ」

風花は静かな口調に、確かな怒りを込める。

目をぎらつかせて霧島先生を見やる。

大鎌が暗く煌く。

「かまいたちのお嬢さん、わたしは葉真夜クンに訊いているの。それに、あなたにも関係のない話じゃないはずよ。まあ、最後まで聞きなさい」

霧島先生は、大鎌を構えた風花を一顧だにせず、余裕の態度を崩さない。僕と風花の、二人の敵意を微塵も意に介さないようだ。

これが油断でないのなら、この余裕は本物だというのか。


「僕を殺していたら、協力も何もあったもんじゃないですけどね」

少し皮肉をまじえて答える。





「ふふ、刺そうとはしたけれど、殺そうとまではおもっていなかったわよ。だってほら、こうしてちゃんと手加減したでしょう? 殺しちゃったら、手伝ってもらえなくなるから。それに、この程度で死んでしまうようなら、どのみち役に立たないし」

霧島先生は、変わらず尊大な態度で戯言を吐く。

ふざけたことを。

「僕を、試した……。とでも言うつもりですか?」

「物分りが良くて助かるわ。頭のいい子は好きよ。でも、それだとまだ半分ね」

「半分……?」

「ええ、だって、テストはまだ終わっていないもの」

━━━━━━━━!!

霧島先生がそう言うやいなや、手を振りかざす。



反射的に距離をとる。

風花も間合いをとる。

僕ら二人は、廊下の奥へと下がった。

「葉真夜クン、キミの人間としての身体能力は確かめさせてもらったわ。あとは、人ならざる者を討つ葉真夜としての力も見せてもらうわ。結界を張るのは上手なようだけれど、戦いはどれほどのものかしらね。さあ、いけ、屍の兵よ!」

その声と共に、先ほど開きかけていた蓮見の部屋から、なにかが出て来る。

「「━━━━━━━━!」」

二人、息を飲む。

音もなく蓮見の部屋のドアが開き、人の手のようなものが一番最初に目に触れた。



その手は、すでに人のものではない。

それは、かつて人“だった”ものだ。

肉は半分削げ落ち、白い骨が覗いている。

廊下中に、腐臭と死臭が溢れ出す。

だが、鼻をつまむような余裕はない。

なぜなら、“その死体は生きている”、からだ。

全身をあらわにしたその“死体”は、明らかに死んでいるにもかかわらず、確かに生きているのだ。

矛盾しているようだが、事実。

腐りかけた肉体。焦点の合わない瞳。

発するうめき声はすでに人の言語ではない。

“生ける屍”ではない。“生きた死体”なのだ。

これだけの現象を前にして、“ソレ”が生きているという根拠は、唯一つ━━━━━━

それは、剥き出しの心臓が休むことなく鼓動を続けているということだ。

━━━━ありえない。

すでに血液は枯れ、肉は腐り、臓腑と骨がむき出しになっているにもかかわらず、その心臓は今も鼓動を刻み続けているのだ。

人の生死を、心臓の活動と停止で判断するのなら、たしかにこれは生きているということになる。

そう、この死体は“生きている”のだ。










不快な臭いを放ちながら、死体は僕らに詰め寄る。

ズタズタになり血に穢れた衣服が生々しい。

おそらくは白いパーカーだったのかと思われる上着。

引き裂かれ、ボロボロに痛んだジーンズは決してダメージ加工などではあるまい。

焦点の合わない眼球をこちらに向ける。

知性があるのかどうか疑わしい容貌だが、命令を聞くぐらいには知力があるのだろう。

死体は霧島先生の命令に従い、何の躊躇いもなく僕らの前に立つ。

その濁った目からは、何の感情も感じることはできないが、僕の感覚は確かに殺意と敵意を感じ取ることができる。




「夕綺、来るわよ……!」

風花の硬い声が届く。

「ああ、わかってる。大丈夫だ」

そう言い終るやいなや、死体が襲い掛かってくる。

腐りかけの筋肉が出したとは思えないほどの瞬発力で、一気に数メートルの間合いをゼロにする。廊下の奥にいた僕たちの前に一瞬で迫る。

その時間、わずかに一秒。

死体は、“骨ばった拳”で僕に殴りかかってくる。

その速度は常人を凌駕していた。

おそらく、プロのボクサー並だ。

人の動体視力では捕らえられないその攻撃。

豪腕が唸りをあげて目前に迫る。

このままでは成す統べなく、顔面を打ち抜かれるであろう。

━━━━━━常人であったなら。

「くっ、!!」

僕は首を傾け、死体の右拳をギリギリのところでかわす。左耳に、空気をブチ破る音が残響する━━━━。

その音だけでも充分にその威力を実感する。

ヒリつく空気━━━━。

早鐘を打つ心臓━━━━。











喰らえばただではすまない。こちらはあくまで生身の人間なのだ。肉体の耐久力は当然人間の範疇。

人間外の者の攻撃に、平気で耐えるなんてことはできはしない。

一つ間違えれば死━━━━。

人ならざる者との戦いは、常にその危険と隣り合わせだ。たとえ、一撃で楽に勝ったと思えるような戦いでも、それはあくまで結果として楽勝だったというだけだ。一撃でしとめなければならないから一撃で決めただけのこと。

いままで、楽な戦いなど、ただの一度もなかった。

戦えば、否応なしに命を賭けるしかない。

ゆえに、必死。真剣。死にもの狂い。

緩みなど、毛の先ほどもない。

━━━━だから、わずかにでも得た好機は決して逃さない。

振りぬいた右腕は防御には使えない。

そして左腕をガードのために構えておくほど、洗練された動きはできなかったようだ。

がら空きになった死体の胸。

その心臓に躊躇いなく鉄扇を突き刺す。

わずかな逡巡もなく。容赦なく。


━━━━一撃で“狩る”つもりで。









グチャリと肉の潰れる厭な音と、手ごたえ。

不快な臭いと腐肉の飛沫が降りかかる。

だが、そんな不快感など今は気にもならない。

気にしなければならないのはただ一つ。

確実に息の根を止めること、トドメだ。

心臓に突き刺した鉄扇で、そのままグルリと臓腑を抉り出してから引き抜く。

びちゃびちゃと音を立てて、肉片が床に落ちる。

決まったか……? いや、まだだ。

まだ、死体はまだ生きていた。

死体は心臓を潰されながらも、いまだその活動を停止させることなく襲い掛かってくる。

「ちっ!!」

舌打ちしながら素早く間合いをとる。

死体に掴みかかられるのを、すんでのところで逃れる。


死体はダメージを受けたためか、先ほどより動きが鈍かった。あの抉りが効いたのだろう。

いかに物言わぬ死体でも、内臓を抉られては堪るまい。

それでも、確実に“殺す”ならば頭を叩き潰さねばならないか。


━━━━もう一度鉄扇を構える。

だが、構えたときには、もう終わっていた━━━━









弧月を描く軌跡が閃いたと思ったら、突然、目の前にいた死体の首が宙を舞う。

そうしてから、風を切る音が僅かに遅れて聞こえてきたかのように感じられた。

それが風花による鎌の一撃であったことに気づくのには数瞬の時を要した。

人には成しえない斬撃で、風花は死体の首を刎ねたのだ。

改めて風花の、いや、かまいたちの力を実感した。

「夕綺、大丈夫?」

風花が心配そうに声をかける。

「ああ、問題ない。攻撃は、かわした」

実際には、ギリギリのところであったが。




首を無くした死体は、断末魔の声もあげることもできずに倒れ、朽ち果てる。

死体が完全に動かなくなったのを確認して、僕は霧島先生に向き直る。

「さて、霧島先生。話を伺いましょうか?」

僕はわざとらしく言葉を放つ。

「ふふふ、なかなかやるじゃない。でも手助けしてもらってもいいなんて言ってないわよ。テストで人に答えを訊くことはできないでしょう?」

いけしゃあしゃあと言う。

「…………!」

風花が霧島先生を睨む。

だが、霧島先生は、そんな風花に怯むことなく僕らを見下ろしている。



「それはあなたが勝手に言ったことで、僕がそれに律儀に応える必要もないと思いますが?」

「ふうん、そうね。まあいいわ。確かに、勝負はついていた。あのままでも、葉真夜クンは私の兵を倒したでしょうしね。まあ、合格でいいわ」

そう言って、僕に襲い掛かってきた時に持っていたナイフを懐に収めた。そうしてから、霧島先生は風花に視線を向ける。

「かまいたちのお嬢さん、あなたも鎌をしまったら。もう、この場で争うつもりはないわ。テストは終わったんだもの」

尊大な態度は変わらず。

「……まあいいわ。とりあえず話は聞いてみようかしら。そこから先は、夕綺に任せるわ」

風花は不承不承といった感じで手に持っていた大鎌の実体化を解く。鎌は風とともに姿を消した。

「……それで、目的はなんですか? あなたが普通の人間でないことはすでに理解しています。協力などと言っていましたが、僕に何をさせようと? いや、そもそもそれに従う義理があるとでも?」

僕は段々と、苛立ちをあらわにしてしまう。












「……私は、とある組織のエージェント。葉真夜クンの言うとおり、当然、ただの養護教諭などではないわ」

霧島先生は静かに淡々と語り出す。

不満はあるが、僕と風花は、ひとまずその話を聞くべくその言葉に耳を傾ける。

「簡単に言ってしまうと、人に害をなす妖怪や幽霊などの存在を滅ぼすための組織……。普通の人が聞いたら、頭がおかしいとでも思われるでしょうね。でも、キミなら、私の言っていることが冗談ではないことがわかるでしょう? 今の私達の目的は、この地に復活した鎌鼬を滅すること。言ってみれば、害獣駆除、てところかしら」





「人の世界にそんな組織が存在するなんて……!?」

風花は信じられないといった様子で驚く。

「僕も、そんな組織が在るなんて聞いたことがない。それに、僕らと目的は同じだと……?」

僕は訝しげに霧島先生を見遣る。

「あなたたちが知らないのも無理もない事。というより、そう簡単に知られては問題だもの。沽券に関わるわ。当然、人にも、人でない者にも、どちらにも知られないようにするに決まっている」

霧島先生は、フフッと鼻で笑う。

話はまだまだ続く。






「私達は長年の研究の結果、科学の最先端、最新の技術を用い、今まで解明されていなかった“怪奇現象”というものを解決させることができるようになった。つまり、“武力”で“怪奇”を打ち滅ぼすことができるようになったということよ。まあ、そこまでできるようになったのは、割と最近のことだけれど。そういう意味でも、あなたたちが知らないのも当然ね」










「まだ、実用段階に入って間もない、ということですか?」

僕は少し挑発気味に訊いてみる。

実際にどれだけの“実績”があるのか探りたい。

先ほどの“死体”といい、結界を破った事といい、ある程度の能力は証明されている。だが、それでも、実際にどれだけ“人ならざる者”を討ち果たしているというのか?

もし、その力が僕らを越えるものなら、退魔の人間の存在意義はいよいよ無に帰す。

「口の利き方には気をつけたほうがいいわよ。葉真夜クン。あまり生意気なことは言わない方が身のためよ……!」

霧島先生は目を細めて睥睨した。

凍るような冷たい視線。

背中に厭な感触が走る。

「まあ、いいわ。子供の言うことに腹を立てても大人気ないわね。しかし、一つ言っておくわ。私達の得た力は本物よ。既に、ビジネスとして成立しているほどにね。現状では、心霊現象、怪奇現象などの問題は有料で解決させてもらっているわ。例えば、そうね、長年“タタリ”で工事が進まなかったあの幽霊トンネルが、最近やっと新トンネルを完成させたことは知っているかしら。葉真夜クンなら、わかるわよね」

「あの、S市の大別沢トンネルのことか!? まさか、アレをヤッたのがあなたの組織だと。ばかな、僕はてっきり、S市を管理する真崎の家の者が打ち滅ぼしたものとばかり……」

僕は驚愕に目を見開く。まさか、これほどとは。




S市の大別沢トンネルの怪奇はあまりにも有名だ。

おそらく、地元の人間で知らぬ者はいないだろう。

いや、地方の人間でもその噂は知れているだろう。

古い時代に作られ、流れた年月をしみじみと感じさせるその不気味なトンネル。

元号が昭和に変わって間もない頃に手堀で作られたそのトンネルは、ついこの間まで現役の公道だったのだ。

人が通り、車も通る、この近辺では必要不可欠な道だ。

山を迂回することなくショートカットできるこの道は非常に重宝され、永く利用されてきた。

それが例え、“幽霊も通るトンネル”だとしてもだ。

数多い、心霊体験談。

目撃証言なども後を絶たない。

死亡事故も多く、地元ではお化けトンネルとしてあまりにも有名だった。

そのため、このトンネルを封鎖して新トンネルを開通させる計画が立ち上がった。

なにも、国が本気で心霊現象を信じたわけではない。

掘られた当初は、人が通る道として作られていたため、現代では車が通るにはあまりに狭く、一台通るのがやっとのトンネルだったためだ。

それに老朽化の問題。

昭和から平成になろうという頃には、新トンネルを開通させ、新ルートにする計画が出されていたのだが、工事に着工しようとすると、原因不明の事故で作業員が怪我、死亡するなどの事態が頻発し、作業は一向に進まなかった。

計画が足踏みすること二十余年、昨年ついに新トンネルが開通したという話だ。

……もちろん、ただで解決するわけがない。


あそこには、人ならざる者が巣くっていた。

人を巻き込み、陥れる悪霊の類が。

あのままなら、おそらく未来永劫、工事など実現しなかっただろう。


そう、ヤツを倒すまでは━━━━━━


僕は、工事の着工のニュースを聞いたときには

(やっと真崎の家が動いたのか)

と、そう思った。

あのような存在と、まともに戦えるのは、現代の退魔の家系でも真崎しかいない。そう思っていた。

だから、なにも疑問にも思わなかった。

しかし、それを成したのが、この霧島先生の組織だと言うならば、その力は━━━━━━


「信じる、信じないは葉真夜クンにまかせるわ。裏を取りたければ、ツテを使って訊いてみれば済むでしょうし、ご自由にどうぞ」

「いや、いい。納得しました」

霧島先生の言うことにおそらく嘘は無い。

そのような、すぐにばれる嘘を言うはずがない。

先ほどからの自信と尊大な態度は、実力があってのものだったのだ。

「それで、話を戻すわ。つまるところ、私達と葉真夜クンのやっていることは酷似していると言っても過言ではないわ。それが、なにを意味するか……わかるかしら?」

「先ほど言っていた、協力しろ、ということですか」




「ええ、そうね。共通の敵がいる以上、協力するのが理に適っているでしょう。私達と葉真夜クンの関係性は、一つ言い方を変えると、商売敵でもある。でも、それだと互いに不利益。ここは、同盟を結ぶべきだと思うわけ」

霧島先生は高圧的に告げる。

「本当に、随分と都合がいいんですね……!」

僕は、低く喉から声を出す。

「あら、隷属を強要しないだけ、随分と譲歩したつもりだけれど」

霧島先生はあっけらかんと言う。

さも当然とばかりに。

「本気ですか……!」

僕は思わず眼に力を込める。



「あらやだ、怒らなくてもいいじゃない。冗談よ」

霧島先生はつまらなさそうにそう言った。

どこまでが本気なのか、わからない。

「でもね、葉真夜クン━━━━━━。キミのお父さんはこの問いに“はい”、と答えたわ」


「「━━━━━━━━!?」」

僕と風花は息を飲む。









「そんなに驚くほどのことではなくて? キミのお父さんも退魔の人間だったのでしょう、そんなにおかしな話ではないと思うのだけれど」

淡々と告げる霧島先生。


「霧島先生……、あなたは父を知っているんですか? 僕は父がそのような組織に属していたとは知らなかった。退魔の家系というのは常に秘密裏に行動し、且つ孤高であるものだ。組織という集団には向かない。僕には、とても信じられない」


「驚きね……! 私も、夕綺のお父さんが相手を追い詰めたのは知っている。でも、彼に組織的な協力者がいたとは知らなかったわ」

風花も目を丸くする。


「信じようが、信じまいが、本当のことよ。葉真夜クンのお父さんも、この地の鎌鼬を滅するために、私たちと協力関係にあった。協力に応えた理由は……、きっと彼には護るべき者があったからでしょうね。しかし彼……、先代葉真夜当主は力及ばず、志半ばにして、この世を去ることとなった。それだけよ」


「なら、その時あなたたちは何をしていたんです?」

その物言いに、少なからぬ不快感を覚え、僕は詰問する。







「私達も当然、できる限りのサポートを行った。けれど、相手の方が一歩上回っていた。当時の我々の力では、あとほんの少しが足りなかったというのは、認めざるを得ないわね。けれど今は違う。今の我々は、更なる武力を手に入れた……いや、改良させた、とでも言うべきかしらね。今度こそ、我々は、あの鎌鼬を倒す。そのためにも、盤石の態勢を敷くためには、葉真夜クンには協力してもらいたいわけ。どうかしら? キミにとっても敵討ちという目的があるのなら、悪い話じゃないと思うけど」

相変わらす淡々と伝える霧島先生に、些か憤りを覚えるものの、その言い分は合理性があり、正論でもある。

だが、それでも、だまって頷くにはまだ抵抗がある。

「それは、人に物を頼む態度ではないと思いますが……」


「そうね、互いの関係が対等であればそうかもしれないわね。私は、これでも礼儀を心得ているつもりよ。同等の実力を兼ね備えた相手にはキチンと敬意を表するわ。けれど、キミはまだまだ、お父さんには及ばない。これでも随分、気を使っているわ」


「くっ━━━━━━!」

思わず、声を漏らす。

「夕綺、落ち着いて」

風花が諌める。


「ねえ、葉真夜クン━━━━━━」

それまでと口調を変え、霧島先生が諭すように語り出す。

二人、霧島先生に視線を向ける。

「蓮見クンは転校したわ━━━━━━」

最初、何を言い出したのかと思った。

しかし、次第にその意味を理解する。

「霧島先生、あなたは……!」

僕は今度こそ、怒りを隠すことなく霧島先生を睨みつける。

「蓮見クンは、今日付けで私立蒼ヶ原高校を“転校”した……。書類は受理され、手続きも完了している。なにも、おかしなことなどないわ」

何を白々しいことを。

「そんなことが許されると思っているんですか!」

僕は声を荒げる。

しかし、霧島先生はそんな僕を一顧だにせず、さらに話を続ける。




「たとえば━━━━━━、」

そこで彼女は一度呼吸を挟んでから

「━━━━━━━━葉真夜クンのクラスの、そう、確か新城さん、だったかしら? だいぶ仲が良いみたいだけれど、彼女がもし“転校”してしまうようなことになったら、きっと寂しくなるでしょうね。葉真夜クン……! ふふ……」

そんなことをのたまった。


「霧島先生、あなたは……!! 本気でそんなことを!」






「私は、この学校に潜入して、葉真夜クンの事は色々と調べさせてもらったわ。基本的なパーソナルデータはもとより、性格や人柄、思考パターン、人間関係。そこから判断したうえでの結論。キミは友人を犠牲になどできない。そして身近な人間には極度に甘い人間であることを確信している。葉真夜クン、キミは私の申し出を断ることはできないわ。強がりはやめなさい」

ギリ━━━━と、悔しさと怒りが相混じり、知らす歯軋りする。







「安心なさい。私は無粋な真似は好きじゃない。手荒なことはしないわ。別に、身柄を拘束するなんて、野蛮な行動も必要ない。そんなこと、するはずもないわ。ただ、それが可能であることさえ、知ってくれていればいいの。葉真夜クンなら、わかるわよね」

霧島先生はいやらしくニヤリと口元を歪ませた。

それでいて、目は微塵も笑っていない。

ひどく歪で不快な笑みだった。

「僕の父の時も、そうやって強制したんですか?」

睨みつけながら問う。







「強制とは人聞きの悪いこと。私は別に、強制はしていないわ。受け入れるのも、断るのも全て葉真夜クンの自由よ。あと、キミのお父さんについてだけれど、彼は物分りが良かったから、快く協力に申し出てくれたわ。だから、彼が戦闘で家を開ける際、奥様を我々の施設に預かり“お護り”していたの。これもサポートの一環ね」

キサマ━━━━━━━━!

僕は小さく叫ぶ。

「でも、葉真夜クンも無用心ね。こんな危険な事件があったっていうのに、仲良しの女の子を一人で帰すなんて。道中、なにか事件に巻き込まれたりしないか心配にはならないかしら。なんだったら、新城さんを私達で“保護”してあげてもいいのよ? そのあたりをよく考えてね」

霧島先生は、再び、冷淡、冷血な口調で告げる。

「━━━━━━━━━━━━━━わかりました」

苦虫を噛み潰したような表情を隠すこともなく、僕は頷いた。

「かまいたちのおじょうさん。あなたはどうかしら? あなたも目的は同じはず。協力してくれる?」

霧島先生は風花にも同じ問いを投げかける。

風花は、一度僕の方を見た。

その表情にはわずかな諦めのようなものが伺えたが、すぐに毅然とした態度で霧島先生に向き直る。

「私は私のために戦う。そして、夕綺についていくだけよ」

風花は僕の立場と心情を理解したうえでそう言ってくれた。




「すばらしい。頼みを聞いてもらえてうれしいわ」

霧島先生は、大げさに喜んでみせた。

不愉快極まりないが、今、この場では我慢するほかない。

血が出んばかりに、拳を握り締める。

爪が手のひらにきつく食い込む。


「…………」

それに気がついた風花が、そっと僕の手を撫でる。

落ち着け、ということだろう。

自分でもわかっている。今この場で、事を荒立てることは不利益しか生まない。

僕は、一つ深呼吸をして拳を解いた。




「交渉は成立。早速だけれども、明日の夕刻、鎌鼬のところへ攻め込もうと思うの。居場所も見当がついているわ」

霧島先生は、再び冷淡に告げる。

「ずいぶん、行動が早いですね」













「私たちには時間的猶予はあまりないわ。封印からとかれた鎌鼬は日増しに力を取り戻している。叩くなら、早いに越したことはないわ。だからこそ、こうしてキミを誘ったんだから。葉真夜クンもしっかりと準備をしておきなさい。気を抜くと死ぬわよ。あと、足手まといになるようなら、見捨てるから。そのつもりで」

霧島先生は、なんの感情もないように言い切った。

「━━━━━━」

いまさら何もいうこともない。僕にもう選択肢はないのだ。たとえ歪な共同体制でも、目的が同じならば、それを成すべく進むしかない。

その先は……わからないが━━━━。




「━━━━夕綺は死なないわ。私がいる以上、そんなことはありえない。霧島、といったかしら。あなたこそ、妖を甘く見ないことね。彼らの力は、私が一番よく知っている。彼らを倒せるのは私だけよ。……小娘!」

風花は目を細めて刃のような視線を向けた。

「へえ、おじょうちゃん。言うわね」

霧島先生も、氷の視線で受ける。

剣呑とした空気が滲み出す。

しかし、それも数秒のこと。

「まあ、いいわ。聞き流してあげる。ここで争うのは無益ね。戦いを前に余計な労力は使いたくないもの。とりあえず、形だけでも仲良くしましょうか」

霧島先生は冷めた口調で言い、僕らに背を向けた。

「葉真夜クン。明日の放課後、保健室で」

短くそう言って、どこからか取り出したドラムバッグに死体を無造作に詰める。大きめのドラムバッグなら、人一人くらいは入りそうだ。中の人間が文句を言わなければの話だが。おそらく、ここへ来る時もドラムバッグに隠してきたのではないだろうか。

普通の女性には重くて運べないだろうが、この人ならばそんなことは関係ないだろう。身体能力はその辺の成人男子をゆうに上回る。

霧島先生は、手早く“片付け”を終え、大きく膨らんだドラムバッグを肩に担ぎ、この場を後にする。



そうして、姿が見えなくなる寸前で一度だけ振り返り、

「ああ、そうそう。そこの蓮見クンの部屋、見たければ見てもいいけど、もう、そこには“何もない”わよ。この家には、もう、“誰も”、“何も”、存在していない。だって、この家の住人は、どこか遠くへ“引っ越して”しまったんだから。それじゃあ、また明日……!」

霧島先生はそう言い残して、今度こそ、この場から消え去った。

もう、霧島先生の姿は無い。

あとには、僕と風花だけが取り残される。





「━━━━━━━━くそっ……!!」

悔しさと怒りが臨界点に達し、思わず壁を殴る。

「なぜだ! なぜこんなことに。僕はただ、自分の身近な人間だけでも護りたかっただけなのに! それが逆に、近しい人間に危険を及ぼすなんて! こんな、こんなことが……! 僕が、僕が“葉真夜”だからいけないというのか……」

低く呻くように声を漏らす。





「夕綺……」

風花が後ろから僕を抱きしめる。

やわらかく、暖かな感触が伝わってくる。


「夕綺、あなたは何も悪くはないわ。あなたは常に最善を尽くしてきた。負い目に感じることなんて、何一つない。不可抗力な出来事にまで、責任を感じることはないわ」

静かに、そして慈愛に満ちたやさしい声で風花は言葉をかける。

「しかし、だからといって、平気な顔をして割り切ることはできない……。僕の存在が、周りの人を巻き込んでいることも事実なんだ。僕は、……それが悔しい」

僕は目を瞑り、唇を噛む。






「夕綺は、……夕綺のできることを精一杯やってきた。だれもあなたを責めることはできないわ。そうやって、あまり自分を責めるものじゃない。たとえ、あなたが危険を呼び寄せたのだとしても、その分、あなたのおかげで助かった人もいるのだから。何もしなければ死んでいた人を、夕綺は幾人も救ってきた。それだけでもたいしたものなのよ。褒められこそすれ、咎めを受けるいわれはない。むしろ、誇ってもいいくらいよ。でも、誰も夕綺の凄さや、やさしさ、孤高の気高さ、その偉さがわからない。だから、誰からも褒められることも無く、夕綺は自分を責め続けてきた。もう、そんなに自分を責めなくてもいいの。誰も褒めないのなら、私が褒めてあげる……」

風花は包み込むように僕の心を癒す。


今まで、受けたことのないやさしい言葉に胸が詰まる。

いままで、こんなことを言われたことは無い。

今まで僕は、ただ独りで戦ってきた。

苦労も後悔も、すべてを自分で受け止め、耐えてきた。

誰にも頼ることなく、誰にも頼られること無く。

誰に頼まれたでもなく、誰に頼むことも無い。

ずっと、ずっと独りで戦い抜いてきた。

両親が死に、一人で生きていくことになった七年前のあの日から━━━━。

いや、戦いの道を選んだあの日から━━━━━━。





━━━━すべての人は救えない。

そのような全能の力は無い。

退魔の家系とはいえ、すでに廃れたその末裔だ。

僕にできることは、ただ、自分の身近な人だけでも護っていくこと。

それだけを思った。

見返りなど求めない。

助けられたはずの人を、助けることのできなかったあの後味悪い思いをしたくない。

そう思って今まで生きてきた。

そうして、救えた者もある。救えなかった者もある。

いつも、悩み、苦しみ、後悔に苛まれた。

成功したことより、失敗したことのほうがより記憶に残る。誰にも認められることも無いのなら、なおさらだ。それでも、ただ独り耐えてきたというのに。

独りでも大丈夫だと思っていたのに━━━━━━。

「夕綺、あなたは今までがんばり過ぎるくらいがんばってきた。その血の滲むような努力と苦労を誰も知らない。でも、私はその努力を認め賞賛するわ。だから、もっと自信を持って胸を張って。決して自分を責めないで。追い込まないで」

僕はゆっくりと目を開く。

「……ああ、そうだな。僕は、僕のできることをただ、一生懸命にやるだけだ。たとえその結果、力及ばず失敗しようとも、後悔をしてはいけないんだ。僕は、自分の信じることのためにこの能力を使う。もう、迷わない」

ゆっくりと、そして自分に言い聞かせるように決意を表明する。




「やっぱり、夕綺は強いわね……。いえ、強くなった、というべきかしら。ついこの間まで子供だったのに、こんなに立派に成長して。まだ、二十年も生きていないというのに、その強さは見上げたものよ。本当の強さというのは、力が強いことじゃない。心が強いことよ。夕綺は、強い男の子になったわ。その気持ちを忘れないでいてね」

「僕は、そんなに立派な人間じゃないよ。ただ、開き直りが早いだけさ」

そう言って苦笑する。

「そんなに、謙遜することもないのに。まあ、それも夕綺のいいところなのかもしれないけど。でも、どうやら、落ち着いたみたいね。安心したわ。それじゃあ、これからどうする?」

風花は、そっと僕から離れ、問いかける。


僕は振り返り、少し考えてから答えた。

「そうだな……、もう、ほとんどわかってしまったから、ここですることは何も無い。あとは明日に備えるだけなんだが……。それでも、ケジメだ。この、蓮見の部屋だけは、見届けていこう━━━━」


「わかったわ。夕綺がそれで納得するのなら、そのほうがいいのかもしれない。しっかりと、見届けましょう」


僕は、扉の前に向き直り、今度こそ蓮見の部屋の扉を開く。





━━━━ゆっくりと、ゆっくりと。

覚悟を確かめながら、少しずつ開かれてゆく扉。

あいた隙間から、クロイ空気が漏れ出す。

これが、人の念。残留した負の念。

この部屋の主、蓮見圭の、無念。

その色の濃さや量から、蓮見の悔しさが伝わってくる。

僕は扉を半分ほど開いたところで、残りを一気に開いた。








視界が開ける━━━━。

あふれ出す残留思念。

僕と風花は視線を室内に向ける。

そこには、視界を覆うほどの淀んだクロイ空気。

そして、━━━━他には何も無かった。

あるのは、ただ、虚無の空間。

他の部屋同様、そこに人の生活を感じさせるものはもはや何も無い。

かつてそこにあった、ベッドやテレビ。本棚やゲーム機、パソコンに机。何も無い。

蓮見圭という人間が存在していたことさえ、疑わしくなるほどに。

だが、僕は決してそれを疑うことは無い。




僕は、蓮見の無念を受け止める。

忘れない。━━━━絶対に。

葉真夜という存在が招いてしまった悪しき事件。

僕はそれを受け入れ、背負っていかねばならない。

それが、葉真夜の血の業というものだろう。

これだけは、逃げるわけにはいかない。

僕は、心に、魂の中心に、蓮見のことを刻みつける。決して忘れることのないように……。

無力だった自分と、

危険を呼び寄せてしまった自分と、

そして、

……この原因を作り出した存在を━━━━!







「━━夕綺。あまり思いつめないで。また、怖い顔してるわよ」

風花が僕を見上げる。

言われて、そんな顔をしていたのかと気づく。

「……大丈夫だ。ただ、蓮見のことを思っていただけさ。気持ちは、落ち着いてるよ」

意識して表情をゆるませ、そう答えた。

「そう、なら、いいのだけれど……。でも、気がすんだら、早くここを出た方がいいかもしれないわ。ここは、私が思っていたよりも、だいぶ“念”が強いようだし。あまり、長時間、“念”に当てられると、いかに夕綺といえど、精神的に疲弊するかもしれないわ」

風花が心配そうに声を出す。

それを聞いた僕は、思わず小さい笑いがこぼれた。



「はは。それこそ、誰にものを言っているのさ。それを何とかするのが、退魔の人間という存在だ。僕が“葉真夜”である以上、この“念”に負けることはないよ。それを祓うのが、僕らの仕事だからね」

そう言って、鉄扇を取り出して見せた。

「ちょっと、せっかく人が心配して言ってるのに! これじゃ、私がバカみたいじゃない! もう!」

風花が顔を赤くして頬を膨らませる。

「ごめん、ごめん。気を使ってくれてありがとう。その気持ちは、うれしいよ」

僕は、まっすぐに答える。

「む~~、まあ、いいわ。それじゃあ、はやく、やってしまいなさいよ」

風花はまだすこしむくれていたが、次第にやさしい口調になる。


僕も、この状態でここにいるのは、確かに辛い。

“念”に当てられるからだけではなく、

この、

蓮見がいたというこの空間にいることが━━━━。













鉄扇を開き、上段に構える。

このまま、この“念”を放置しておくと、良からぬモノを呼び寄せるかもしれない。強烈な負の残留思念は、時に“彷徨うもの”を招き入れる。

迷える魂、

浮遊する霊、

そして、自身の魂さえ、自らの“念”に縛られることもままある。

蓮見の魂━━━━いや、そもそも死者の魂がどこに行き着くのか、僕にもわからないが、その魂を迷い、縛られるものにしてはならない。

蓮見の魂は、この場には存在していないが、もし、未だ彷徨い続けていたとしたら、自らの残した念に縛られかねない。

そうなる前に、元を断つのが一番だ。


「蓮見━━━━。今、お前という存在の最後の名残。残り香、残像を消すぞ! お前の負の思念は、今、僕が断ち切ってやる」

電光石火の勢いで鉄扇を振り下ろす。

;エフェクト

初手は縦に一閃━━━━、

    その後左右に振り払う。


鉄扇で巻き起こした風が、

僕と風花の髪の毛をはためかせる━━━━。

だが、クロイ空気には、物理的な風は意味を成さない。ソレに干渉しているのは、この鉄扇と、葉真夜の力だ。

鉄扇の軌跡に沿って、“念”が切り裂かれ、そして消失してゆく。

どす黒いフィルター越しのような世界が、次第にクリアになっていく。

湧き出すように溢れつづけていた“念”は、鉄扇に祓われ、ついに、その姿を失った。

残ったものは、がらんどう。

空っぽの空間だけだ。

もう、ここには何も無い。

もう、なにも━━

蓮見が居たという痕跡さえも━━━━━━










「終わったな━━」

立ち尽くしたままつぶやく。

「そうね……」

風花も静かに相槌をうつ。

僕は目を閉じ、しばし黙祷した。

蓮見の不幸を悼み、そして、心を決める。


━━━━無音が場を支配する。

━━━━耳が痛くなるほどの静寂。








「……よし、行こうか」

静寂を破り、僕は告げた。

風花は黙って小さくうなずく。


これで、ここには、もう用は無い。

もう、ここに来る必要は無いのだ。

もう……二度と……。


こうして僕らは、だれも居なくなった蓮見邸を後にした。

;第4章終わり。場面転換。



続きます。

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