3章~
続きです。
;第3章
家にたどり着いた僕は玄関の戸を開ける。
;SEガラガラ
「風花。気にしないであがって」
いいながら僕は靴を脱ぐ。
「じゃあ、お邪魔するわね。へえ、外観どおり、純和風の造りなのね。なんだか落ち付くわ」
風花は答えながら靴を脱ぐ。
キチンと靴を揃えるあたりが妙に行儀良い。
だが、そこでふと思ったことがある。
この脱いだ靴、どうしよう?……よく考えたら、この家には時折来客がある。かすみねえが来たとき、見知らぬ子供の靴があったら変に思われないだろうか?
そんなことを考えていたときだった。
「大丈夫よ。私の姿も、私の身に付けていた物も、普通の人間には見えないわ。見せようとしない限りわね。だから、心配ないわよ。だれかが来ても堂々としてなさい。細かいことを気にするのは男らしくないわよ」
ふふ、と風花は小さく笑う。
風花の靴を眺めていたからだろうか、僕の考えを読んだかのようにそんなことを言ってきた。
「ああ、いや、そうか。そうだよね。ははは。それじゃあ、こっちへ。とりあえず居間でくつろいで」
風花を案内しながら廊下を進み、ふすまを開ける。
「座布団のあるところに適当に座って。いまお茶でも用意するから」
「もう、そんなに気を使わなくてもいいのに。でも厚意に甘えようかしら。今日は力を使いすぎて、少し疲れたし」
風花は笑顔を見せながらも、少しだけ気だるそうに腰を下ろす。
「まってて、今熱いお茶をいれてくるから」
風花にそう言い残し、僕は台所に向かった。
まずはお湯を沸かす。ポットのお湯をやかんに注ぎ、コンロにかける。お茶を入れる際のお湯は、一度沸騰したお湯でなければ駄目だ。そうしないと、やはり味が違うのだ。だから少々手間でも、ちゃんとお湯を沸かす。かすみねえに、そう教えられた。
その間に急須と湯飲みを棚から出し、茶葉を準備をする。
そうしているうちに、やかんが蒸気をだして、唸り声をあげた。いいタイミングだ。
沸いたお湯をまずは湯のみについで少し冷ます。そうしてから、その湯のみのお湯を急須へと注ぐ。
そうして一分ほど待つ。その間急須を揺すったりしてはいけない。お茶の苦味の成分が出てしまうから。だから、ここは静かに待つのだ。
そうしてから、湯飲みに均等についでいく。味の濃さが均等になるように気をつける。
最後の一滴までしぼりだすようにして、二人分のお茶を注ぎきる。
湯飲みから湯気が立ち、お茶の香りが鼻をくすぐる。
「うん、良い香りだ。後は茶菓子もだな」
とりあえずお饅頭を皿にのせる。
そういえば、風花はこういうものを食べるのだろうか?いや、そもそもお茶とか飲むのだろうか?
うーむ、まあ、まずは持っていってみよう。
お盆に湯のみとお饅頭をのせ、再び居間に戻る。
「おまたせ、風花。口に合うかわからないけど、どうぞ」
そういって、湯のみを風花に差し出す。お饅頭も一緒にテーブルに置く。
「ありがとう。私、日本茶好きなの。やっぱりお茶を飲むと落ち着くわね」
そういいながら、ずず、とお茶をすする。
見た目は小学生のような風花だが、飲み方が妙におばさんくさかったのが、なんだかおかしかった。
僕も座布団に腰を下ろし、自分の湯飲みに口をつける。
「ふう━━。なんだか、やっと人心地ついた。こうして無事に帰ってこられたんだなって、やっと実感がわいてきた」
思わずそう口にする。
「そうね……、よく生きて帰ってこられたわ。さっきも言ったけど、あの空矢姉さんと戦ってよく命があったものだわ」
風花にそう言われ、わずかに弛緩した気持ちが再び緊張を帯びる。
「たしかに、本当にあの女……空矢は強かった……。今の僕では、とてもかなわないように感じた。スピード、パワー、体力、全てにおいて僕を上回っているようだった。僕はこの鉄扇があれば何とかなると思っていた。でもそれは自信ではなく、過信だったみたいだ。今回は、あくまでいくつもの偶然や、奇跡ににたすけられたにすぎない。一つ間違えれば、……死んでいた」
いくぶん落ち着いた気持ちが、再び死の恐怖を思い出し、陰鬱としたものになる。
「何を落ち込んでいるの? 私はほめているのよ。命が助かったのは、奇跡や偶然だけじゃない。夕綺の能力が高かったからこそ、助かったのよ。だからこそ、偶然を味方につけられたと言ってもいいわ。もっと自信を持っていいくらいよ」
風花は僕の顔を見据えてそう言った。
「でも……、そうだとしても、勝てなきゃ意味がない。いままで少しは鍛錬をつんで、強くなったつもりになっていたけど、全然及ばなかった。僕の力はこんなものだったなんて……」
悔しさから、思わずこぶしを握り締める。
「いいかげんにしなさい! だから私はほめてるのよ! いい、人間である夕綺が、化け物と対等に戦おうとする時点で、すでに人間の領域を超えているわ。
いかに夕綺が退魔の一族の末裔とはいえ、その肉体そのものは普通の人間とさほど変わらない。そんな中、努力や修練で、人間としては最高レベルの身体能力に鍛え上げたことは称賛に値するわ。そしてその力は、実際に化け物相手に通用した。夕綺は、人間としての能力だけで、あの妖怪かまいたちと何合も打ち合ったのよ。これはもう、尋常ではない出来事なのよ。夕綺が負けたのは、身体能力でわずかに劣ったということだけ。後は退魔の力を使いこなせるようになれば、なんとでもなるわ」
「退魔の力をつかいこなせてない……?」
「そうよ、夕綺はお父さんから力を使わないように言われていたから、力の使い方など教えてもらっていなかったのでしょう?だから、それも無理のないこと。肉体を鍛えても霊的な力━━、そうね霊力とでもいいましょうか、それを鍛えることは難しいわ。肉体を鍛えることは、確かにベースとして必要なのだけど、霊力を増大させる方法ではないわ。霊力を高める為には、日々霊力を使用するしかない。でも霊力の使い方は、人から教えられても、なかなか使いこなせるものではない。しかも教えられてもいないならなおさらよ。でも、夕綺はその退魔の武器を使ってきたことで、霊力を使う基礎体力はある程度身についているはず。なぜなら、その武器は握っているだけでも霊力を消費するのだから。あなたは、ただその力の使い方を、まだ知らないだけよ。夕綺は、まだまだ強くなれるわ」
「でも、どうやって……? いままでこの鉄扇を揮ってきたけど、まだ使いこなせていなかった、と言うことなのか……?」
「そういうことね。でもそれは夕綺が悪いわけじゃないわ。ただ、使い方を知らなかっただけのこと。そのうち、きっと使いこなせるようになるわよ」
風花は落ち着いた様子でそういう。
「でも、そのうちなんて悠長なことは言ってられないよ。僕らにはそんな時間は無い!」
僕は思わず、焦りから語気を荒げてしまう。
「落ち着きなさい夕綺。確かに、まっとうに今から修行をするのなら間に合わないかもしれないけれど、方法はあるはず。夕綺のお父さんは力の使い方を教えなかったかもしれないけど、この家にはきっとその力を伝える為の“何か”があるはずよ。いかに廃れた血筋とはいえ、退魔の家系であるのなら、その力や知識を伝えることを怠るはずがないわ。何らかの形でその力を伝えていくはず。口伝で伝えられていないというのなら、文書として何か記録が残っているんじゃないかしら。夕綺、なにか心当たりはないかしら?」
風花は僕を諌めたあと、どこか確信めいた口調で訊いてくる。いや、おそらく本当に確信があるのだろう。
その目には一切の迷いもない。
「退魔の知識を伝える記録……か。いままでそんなこと、考えたこともなかったな。父さんは葉真夜の力については、ほとんどなにも教えてはくれなかった。この翠の目が“人ならざる者”を視るものであると言ったことと、結界についての僅かな基礎以外、他には何も答えてはくれなかった。頑なにね。特に戦いに関することは一切語ることはなかった。
そんな父さんが、力の使い方を記した文書を残しているとは思えない……」
風花の言葉とは裏腹に、僕にはそんな心当たりはなかった。だが、風花はその態度を変えず、もう一度訊いてくる。
「なにも、伝えを残しているのが夕綺のお父さんだとは言っていないわ。もっと、その先代の当主たち、もしくは先祖たちが残した何かがあるんじゃないかしら? 私も妖魔として長く生きているもの、退魔の人間という物を理解しているつもりよ、少なくとも今の夕綺よりもね。退魔の家系が、後の代に何も知識を伝えないはずがない。必ず、なにか記録したものがあるはずよ。夕綺、この家には書庫、もしくは倉庫のようなものはないかしら?」
「……書庫……か、あいにくうちにはそんな立派な者はないよ。でも、そうだな、倉庫…………というか……そう、蔵……は確かにある。そうだ……庭の隅に!いまや物置にしか使われていないものだけど。いままでちゃんと中を見たことはなかったけど、風花がそういうのなら探してみる価値はあるかもしれないな」
僕はそう答え、顔を上げた。
「蔵……ね。うん、そういったものをしまっておくにはうってつけの場所だわ。探すのは大変かもしれないけど、そこなら何か見つけることが出来るかもしれないわね」
風花はうなずきながらそう言った、まるでそこにあることがわかっているかのような口ぶりだ。
だが言われてみれば、僕もあの蔵には何か秘密があるかもしれないなと、そう思った。
幼い頃から、「蔵の中で遊ぶな」と常々注意されていたが、今にして思えばやや不自然なこともあった。
危ないから中に入るなと、そういう意味だと僕は思っていたが、それにしてはあまりにもその戒め方は厳しかったように思う。
子供の頃一度だけ、こっそり中を覗こうと忍び込んだことがあったのだが、すぐに見つかり、随分としぼられたのを覚えてる。
別段、中を散らかしたりしたわけでもないのに、その時の父の怒り方は凄まじいものだった。
およそ、悪戯を叱る範疇を越えていたのではないかと思う。
当時の自分は、言いつけを破ったから怒られたものだと、そう納得していたが、普段の優しい父の態度から鑑みるに、やはりなにか違和感があった。
他にも、何度か父と一緒に蔵の中に入ったことはあったが、中の物をいじるとキツく注意された。中にあったものはただのガラクタや、使わなくなった家具、キャンプの道具など、ありふれた物置のそれであったにもかかわらず。
それ以来、僕は蔵に入ることはなかった。怒られるのは嫌だったし、それに特に変わったものがあったわけでもない。ただの物置である以上、探索もさして意味は無い、そう思ったからだ。
両親が死んだ後も、僕はこの蔵の中に入ってはいない。
なぜだか、たった今風花に言われるまで、その存在を意識したことは全くなかった。
「そうだな。よし、それなら早速調べてみよう。風花も手伝ってくれる?」
「ええ、もちろん」
そういって、僕らはすぐに立ち上がり居間を後にする。
僕は、思い出した蔵のことを忘れないうちに調べようと思った。いままで、毎日視界に入っていた蔵の存在を意識できなかった、その不自然さに気づき、その真実に気づき始める。
━━━━━━━━もしかしたら
ある仮想が頭をよぎる。まさかとは思ったが、もはやそれしかない。そう、それならば、つじつまがあう。
僕は、懐中電灯を手に取り、早足で庭へと向かい、蔵を目指した。
外は夜の群青の中、月明かりだけが辺りを照らしていた。
僕は薄闇をかきわけ、蔵へと急ぐ。
視界の中心に、それを確かに捉えながら真っ直ぐに向かっていく。決して見失わないように。
僕の後に風花も続く。早足を通り越して、もはや走り出している僕に、彼女は風をまとってついてくる。
そうして庭の端まで一気に駆け僕らは蔵の前に立つ。
そこには古ぼけた、時代を感じさせる建造物があった。
漆喰の壁は既に煤けたように薄黒く、かつての美しさは失われている。所々欠けて剥がれ落ちたその外壁は、過ごしてきた年月を感じさせた。もう、何年も手入れされていない朽ちかけたその建物は、まるで廃れた葉真夜の血筋とどこか似ているな、と思った。
そんな益体もない思いを馳せ、そして現実に戻る。
「━━━━━━━━まさかとは思ったけど、やはりそうだったか……」
蔵の扉を前にして、僕は予想が事実であったことを理解した。
「夕綺、これは━━━━!?」
風花も、同様にこの蔵の意味に気づいたようだ。
硬い表情で扉を見つめている。
「結界……。そう、これは人避けの結界だ……。だが、なぜこんなことを……?」
言うまでもなく答えはわかりきっているのに、僕は思わずそう口に出す。
子供の頃以来、なぜかその存在を意識することが出来なかったこの蔵、それは結界で隔離された故の所業だったのだ。そして、そうまでしてこの蔵に僕を近づけさせない理由とは……おそらく……。
「…………夕綺のお父さんは、本気であなたを戦いから外させようとしていたのね。それにしても、まさか結界まで張って封じているなんて……。たしかにこれなら人間である夕綺は、自分では絶対にこの蔵の存在に気づくことはないわ。夕綺がこの蔵を思い出せたのは……たぶん“人外の者”である私が近くにいたから。そう━━“人ならざる者”と共に居れば、人避けの結界は人間に対しての効力を弱めるのだから━━━━」
風花は伏し目がちに、どこか申し訳なさそうに、そう言った。
「風花は気にすることはない。僕は自分の意思で戦うことを選んだんだ。むしろ蔵のことを思い出せてくれて感謝している。それに、もう戦いは避けられない。ここまで来たら、行き着くところまで行くまでさ! たとえ何があろうと後悔はしない。あとは前へと進むだけだ!」
つい先ほどまで感じていた焦りや不安が幾分和らぎ、わずかな期待を覚えて僕は蔵の扉を見据える。
「そう━━、そう言ってもらえると助かるわ……。ならば……行きましょうか。きっとこの中には何かがあるわ……」
風花はどこか哀しみと心苦しさをないまぜににしたような、あいまいな笑顔を浮かべてそう言った。
「━━━━よし、結界を破るぞ。風花、すこし待っていてくれ」
そういって僕は扉の前に立ち、左手を突き出し、手を開く。
双眸を見開き、翠眼に意識を集中させる。
周囲の空気が張り詰めてゆく……
夜気は一段とその温度を下げ、草木はざわめき、夜空に唄う虫たちは一斉に声を潜めた。
夜風に揺れる葉の音に混じり、術者である自分は厳かに言葉を紡ぐ━━━━━━━━。
━━━━人は魔を、魔は人を━━━━
━━━━互いの真理を、理を織るべし━━━━
━━━━人の世にありて━━━━
━━━━人にあらざるものよ━━━━
━━━━魔において、魔であらざる者よ━━━━
━━━━人にあらざる全ての者よ━━━━
━━━━我が声を聞け━━━━
━━━━この血、この身は魔を討つ白羽の矢━━━━
━━━━我が言にて、その魂を解き放て━━━━
━━━━鏃 箆 一文字 杉成 麦粒 射付節 箆中節 袖摺節 羽中節 矢羽 甲矢 乙矢 走羽 頬摺羽 外掛羽 二枚羽 三枚羽 矢筈━━━━
━━━━箭つがえ━━━━━━━━
━━━━葉真夜が命ずる━━━━
━━━━━━━━結界 解除━━━━━━━━
伸ばした左手から薄明るい光が漏れる。
光はそのまま扉全体を覆い、その結界を解いてゆく。
二重の同心円を描くその結界は、詠唱の終了とともに、その存在を消失させていく。
あとに残ったものは、ただ、年月を経て時を刻んだ古ぼけた扉だけだ。
結界の解除を終えた僕は、目をつぶり、深く息を吐く。
葉間夜として唯一、父から教わったこの結界術に思いを馳せる━━━━。もしかしたら、父はいつかこんな日が来ることを予期していたのかもしれないと……。
「………………見事ね……!」
一連の動作を見据えていた風花が静かに感嘆する。
そして、僕に聞こえぬほどに、小さく何か呟いていた。
「夕綺……、あなたは結界の基礎しか教わっていない、なんていっていたけれど……これはまるで━━━━」
「よし!さあ、中へ入ろうか」
僕は風花を促して、錆びつきかけた扉を力いっぱい開く。はたして、結界にて封印するほどのモノがここにあるものか、あとはこの目で確かめるしかない。
軋んだ嫌な音を立てながら、扉はゆっくりと開放されてゆく…………。周囲に響く錆びた鉄の音は、蝶番の悲鳴のように感じられた。
幾年も開かれることのなかった封じられた扉は、ついにその内側を晒す。
幼き日より、久しく見ることが能わず、その存在すら忘却していた秘密の空間……。いまこそ、僕はそこに足を踏み入れる。
蔵の中はまさに暗闇で、開口部から差し込む月明かりだけが内部の輪郭を浮かび上がらせている。
そこへ一歩踏み込むと、何かゴミのようなものを踏んづけた感触と、足元の埃が煙のように沸きあがった。
だが、そんな雑然としたありさまとは裏腹に、何故か、蔵の中はどこか清々しい雰囲気に満ちていた。埃にまみれた雑多な物置に過ぎないこの空間が、どうしたことか、それを全く感じさせない凛とした空気に包まれている。まるでこの中の空気だけが、封印された当時のままなのではないかと思うほど、外界との温度差があった。
実際の気温と言う意味でなく、なんというか、気配が違うといった感じだ。
この空間には、たしかに特別な何かが存在している。━━━━そう確信する。
懐中電灯のスイッチを入れ、蔵の中を照らす。
僕のこの翠の眼は、暗闇でもある程度視界を得ることができる。だが、それでも光のあるところと全く同様に物が視えるわけではない。物の形、輪郭、色くらいまではわかっても、細かい探し物をして、文字を読めるほどではない。
僕は懐中電灯の明かりを頼りに、蔵の中を模索する。
丸く切り取られたように照らされたその円内には、幼い頃の記憶と同じ、使われなくなった家具やガラクタなどが所狭しと跋扈していた。
きっとここに何かがある、たとえその確信があろうとも、この中からソレを探し出すのは骨が折れそうだった。
ふう、と一つ嘆息して気を取り直す。
いや、所詮、たかだか広さにして十坪程度の物置だ。そう思えば、なんてことはない。無理やりにでもそう自分に言い聞かせる。
「溜息つかないの。私も手伝うから、あとは手当たりしだい調べていきましょう」
「ああ……そうだな。どれだけかかるかわからないけど、虱潰しに探すしかないか」
僕はやや自嘲的に笑いながらそう呟いた。
だが、そこで一つ思い出す。
「おっと、いけない。風花の分の懐中電灯も用意しないと……」
とっさに持ってきた懐中電灯は、いま僕の握っているこの一個だけだ。風花にも手伝ってもらうなら、もう一つ持ってこなければ。そう思い入り口の方へ振り返る。
「私は暗闇でも物が見えるから気にしなくていいわ。それより、早く探しましょう」
僕が振り返ると同時に、風花はそう答えた。
「本当に大丈夫なのか?」
「もう、なに言ってるの夕綺。妖怪が暗闇を苦手にしてたら笑い話にもならないわよ」
風花が小首を傾げて苦笑する。
━━━━━━そうだ。そういえば先ほどの戦いでも、あの女━━空矢といったか。空矢も、暗闇の戦いで僕の姿がはっきり見えていたようだった。僕の動きはもとより、この眼の色まで見えていたのだから。
………………また、先の敗北を思い出す━━━━。
いや……今は考えるのはよそう。そのためにこうして、葉真夜の秘密を探しているのだから━━━━━━。
嫌な気持ちを払うように二・三回、首を横に振り、気を取り直して作業に取り掛かる。
とりあえず、近くのキャンプ道具をよけて足場を確保しよう。まずはそれからだ。千里の道も一歩から、そう心に留めて動き出す。
「けほっ! げほっ!」
足元のキャンプ道具を退かすと、もわっと埃が舞い上がる。さっそく、埃を肺いっぱいに吸い込んでしまい、思わず咽る。
「けふっ!こほんっ!」
振り向くと、手近なガラクタを片付けていた風花も、同じようにせき込んでいた。
「げふっ……風花……大丈夫か?」
せき込みながらも声をかける。
「こほっ! こほっ……ええ、これくらいたいしたことないわ。それより、早く探しましょう。ここまできたら、埃や汚れなんて気にしてもしかたないし」
見れば、風花はすでに埃で服の裾が煤けていた。
さらりとした艶のある栗色の髪も、すでに所々白くなっている。だが風花は、そんなことを全く気にすることなく、埃を払うこともせず再び捜索を開始する。
そんな風花の姿を見たら、僕もうかうかしてはいられない。気を引き締め、作業を再開する。手近なガラクタを片付けながら、それらしいものがないかと辺りを物色する。
使われなくなったコタツをよけて、折りたたみ式の小テーブルを壁に立てかける。埃を払いながら物を除け、奥に進みながらしまってある物を調べていく。
ガムテープで封のされたダンボールを見つけたときは“おっ”と思ったが、中身はただの古い教科書やノートだった。僕が小学校低学年の時のものだ。
『一年一組 葉間夜 夕綺』
幼い字ながら、ちゃんと漢字で名前が書いてある。小学校にあがるときに、名前は漢字で書くように両親から躾けられたものだ。他にも当時のプリントや、テスト用紙などが同梱されていて、なんだか感慨深い。
知らず、手にとってしまう。
「夕綺! 思い出に浸ってないでちゃんと探す!」
どこから見ていたのか、思わず昔を懐かしんでいるところを風花に咎められる。
「ああ、いや、すまない。つい……ね。ちゃんと探すよ」
意外と目ざとい風花に少し驚く。
風花も作業をしていてこちらを振り向いていないはずなのだが、なぜ僕の様子がわかったのか。後ろにも目が付いているんじゃないのか?
まあ、なんにせよ、テキパキと探していかねばならないので、関係ないものに気を取られている暇はない。
風花の言うとおり、どんどん探していこう。
教科書の入ったダンボールをすぐに片付け、他を調べる。
さらに奥を漁ると、よくわからない壷や掛け軸があり、一見なにかありそうだと思ったのだが、どうやらまたしてもハズレ。よくわからない壷と掛け軸はやはり、よくわからないガラクタだった。
「うーん、こっちはまだそれらしき物はみつからないな。風花の方はどうだろう?」
「……だめね。まだ何もみつからないわ。思ったより中も広いし、物も多いから、焦らず探すしかないわね。それでも二人がかりなら、長くても五時間もあれば全部調べられるんじゃないかしら? 充分、現実的な範囲内よ。がんばりましょう」
風花はなんでもないことのように、そう言った。
虱潰しに蔵の中の物全てを調べても、五時間で余さず調べきれる。風花はそう言っているのだ。
━━━━━━━━息を飲む。
そして、僕の覚悟が足りていなかったことを反省する。
この混沌とした猥雑な空間から、どんなものかもわからないモノを探し出すのだ。そう簡単にいくものではない。そう、全部を調べても五時間程度なら安いものだ。
僕は今、葉真夜の秘伝、秘儀、その歴史を調べようとしているのだ。このくらいで根を上げたらバチがあたるというもの。
「ああ。風花の言うとおりだ。焦らず、確実に調べていこう!」
こうしてこれから数時間、二人で宝探しを続けるのであった……。
……………………………………………………
探索を続けて三時間ほど経ったであろうか。夜もだいぶ更けてきた。木々もそろそろ眠りにつく頃だ。
外の世界もすでに皆、眠りについているだろう。
今は、夜の静寂だけがあたりを支配している。
その静謐たる深夜の空気に、ノイズが響く。
探し物を続ける僕らの物音だけが、この世界の唯一の音だ。
捜索開始から三時間、いまや無駄なおしゃべりをすることもなく、お互い黙々と作業を続ける。
初めのうちこそ、互いの成果を尋ねあっていたが、作業に集中していくにつれ、おのずと言葉数は減ってゆく。そうして経た時間が三時間という時だ。
埃とカビにまみれたこの蔵の中も、すでに半分以上片付けられた。
古びた家具や、使われなくなった日曜品、捨てるに捨てられない妙なガラクタたち、それらは徐々に蔵の中で整頓されてゆく。大きな家具や道具に関してはただ、よけて、片付ければ良いだけだが、封のされた箱などが出てくれば、しっかりとチェックしなければならない。箱や、書類などが見つかる度にそれらに厳重に目を通す。書物一枚一枚にしっかりと目を配らなければならない。どこに隠されているかもわからない、そんな秘密を探ろうとしているのだから。
こうして淡々と作業を繰り返すこと幾時間、徐々に疲れも見え始め、気持ちに穴が開き始めようかという、そんな時だった。
「━━━━━━━━これは……?」
僕は知らずそう呟いた。
一際大きい、古い石炭ストーブを退けたときだった。
灰に煤けたストーブの影に、なにやら立派そうな桐の箱が隠れていた。
いや“立派だった”というべきか。
越えてきた年月を感じさせる、味の出た、くすんだ艶のある桐の箱だ。
大きさにして縦十五センチ、横二十五センチ程の直方体。ティッシュペーパーの箱をやや大きくしたような、そんな箱だった。
「夕綺、何か見つかったの?」
僕の声を耳に捕らえたのか、風花がそう訊いてくる。
「ああ、ちょっと気になるものを見つけた。風花も見てくれるか?」
そう声をかけると、風花はこちらに歩み寄ってくる。
「━━━━━━夕綺、これは……!?」
そして、くすんだ桐の箱を見据えて風花は目を見開く。
「ああ、やっとそれらしい物が出てきたよ」
僕は落ち着いた口調でそういった。だが内心は、バクバクと鼓動が高鳴っている。
もし、これがハズレだったら、僕はもう、このあと探す気力は全く無いだろう。それだけ、この箱には特異な雰囲気、気配が滲み出ている。
━━ごくり、とつばを飲み込みながら古びた箱を手に取る。
埃にまみれたその箱は、見た目よりも重みがあり、ズシリとした確かな手ごたえがあった。
「……夕綺、開けてみないの?」
なかなか箱を開こうとしない僕に、風花が上目使いに声をかける。
「……いや、今、開ける……!」
そう答えて、箱の蓋に手をかける。
緊張と好奇心、そして期待に震えながら、恐る恐るその箱を開封する。
手指に付く埃など委細構わずに、そっとその蓋を持ち上げる。桐でできたその蓋は、音もなくスッ……とその封を解いた。
風花と共に、その内容物を注視する。
「これは……、本……か?」
もっとよく見るために箱を床に置き、懐中電灯の光を当てて確かめる。
箱の中には、衝撃緩和材がわりの布の上に、一冊の書物が鎮座していた。
いつの時代のモノなのだろうか?こうしてきちんと保管されていても、紙の色はかなり黄ばんでおり、決して短くない時の経過を感じさせた。
表紙にはタイトルのようなものは何も書かれてはおらず、ただ一つの記号が記されているだけだ。
円の中に、スペードを直線的にしたようなマークが入っている。
そう、僕はこれをよく知っている。
円は的を、中のスペードのようなマークは、鏃を模したものだ。
「これは……、葉真夜の家紋だ……!」
この家紋が入っているということは、この本は間違いなく葉真夜に関係するものだということだ。
喜びで思わず拳をグッと握り締める。
「へえ、大当たりじゃない。やっとみつかったのね!」
風花も明るい声を出す。
「ああ。おそらくは、これが僕らの探していたものだろう……。風花、すまないがちょっと灯りを照らしててくれるか」
「ええ、いいわよ」
懐中電灯を風花に渡し、僕はそっとその書物を手に取った。
古色蒼然としたその本は、古びた紙独特のにおいをさせていた。その手触りも、カサカサとした年季の入ったものだ。
━━━━━━━━パラリ、と一枚ページを開いてみる。
“我は葉眞夜。魔を討つ者なり。”
“ここにその歴史と知識を書き記すものなり。”
旧字体で書かれたその特徴ある字は、歴史を感じさせるには充分なものだった。
他のページもぱらぱらと捲ってみたが、文章は文語体で表記されており、現代の口語体で慣れた僕には少々読みづらい。
「へえ……、昔の文語体で書かれてるのね。まあ、それも当然か。少なくとも戦前に書かれたものなのは間違いなさそうだけれど」
横で灯りを照らしながら見ていた風花がそう口にする。なつかしい言葉遣いね……なんて遠い眼で呟いている。
「僕には少し読みづらいかな……。読めないことはないだろうけど、落ち着いて読んだほうが良さそうだ。もしかしたら他にも何かあるのかもしれないけど、まずは成果もあったことだし、一旦家へ戻ろうか?」
「そうね、少し疲れたし……。その方が良さそうね。それに、本を読むなら明るいところでゆっくり読んだほうがいいでしょうし」
風花は眼を細め、少しだけ気だるそうにそう言った。無理もない。ほんの何時間か前には戦闘もして、ここに来てすぐこの探し物に付き合わせてしまっているのだから。それに疲れてきているのは僕も同様だった。風花に傷を治してもらって幾らか元気になったとはいえ、疲労は全く別の物だ。
「ああ、僕もそう思う。手伝ってくれてありがとう、風花。とりあえず戻って休憩にしよう」
そういって風花を促し、家へ戻ることにした。
古びた箱に書物をしまい、二人、蔵を後にする。
すでに外は、深夜の闇だけが辺りを支配している。
ただ、細い月だけが僕らの足元を照らしてくれていた。
(場面転換 アイキャッチ)
室内に戻った僕は、もう一度お茶を入れなおしていた。
時間は既に午後十一時というところ。
際ほど、飲みかけのお茶を放り出して蔵に行ってから、実に三時間以上が経ったと言うことだ。
だが、こうして無事に目当てのものが見つかったのは、僥倖ともいえる。三時間程度なら御の字だ。僕一人では探し出すことも、いや、その存在さえも知る得ることができなかっただろう。改めて、風花に感謝の念を抱く。
━━━━ピー、という甲高い音が意識を呼び覚ます。やかんが、怒ったようにシュンシュンと水蒸気を上げている。
「おっと。もう沸いたか」
僕はあわててコンロの火を止めた。考え事をしている間に、あっというまにお湯が沸いていた。
風花も待っているし、早くお茶を持って行ってあげないと。そうしてお茶をつぎ、居間へと持っていく。
「おまたせ」
そう言って、風花の前にお茶を置く。
「ありがとう。うん、良い匂いね」
風花は湯飲みから立ち上る湯気の匂いを嗅いでから、そうお礼を言った。
僕もテーブルに自分のお茶を置き、どさっと腰を下ろした。
「ふう、さすがに今日は疲れたな。一日が随分長かったような気がする」
「そうね、夕綺は今日は随分と頑張ったもの。疲れて当然だわ。死んでもおかしくない位の大怪我もして……。むしろ、早く休んだほうがいいくらいよ。私の力で傷そのものは治癒したかもしれないけれど、夕綺の体力は自分で思っているよりも消耗しているわ」
風花はやさしく、そして諭すようにそう言った。
ズズ、とまたオバサンくさくお茶をすする。
「うん、そうかも知れないけど、せっかくだから少しだけこの本に目を通してからにするよ。大丈夫、明日も学校があるから、そんなに遅くならないうちに休むよ」
そう言ってお茶をすすり、もう一頑張りする気力を回復させる。
「そう……、夕綺がそういうのなら……。でも、あまり無理しないでね」
「ああ、今日のところは少し読んだらすぐ休むようにするよ。あとは明日にするさ」
「わかったわ。でも、ちゃんと早く寝るのよ。あんまり遅くまで起きてちゃ駄目なんだからね!」
「はは、わかったよ。気をつける」
なんだか、随分と子供扱いされているような気がしないでもない。まあ、風花の実年齢を思えば、それも当然かもしれないが。見た目には小学生……よくて中学生位の女の子に、早く寝ろと注意される高校生男子。そんな様子をふと客観的にとらえると、なんだかちょっとおかしくて、わずかに笑いが漏れた。
「……あと、ちょっとお願いがあるんだけれど……」
風花は申し訳なさそうに小さくつぶやいた。
━━なに?と顔を向ける。
「うん、……あのね。よかったらお風呂使わせてもらってもいいかしら……? だいぶ埃まみれになっちゃったし……ずうずうしいかな?」
言われてハッとする。
だいぶ埃をほろったのだろうが、風花の姿をよく見れば、それでも服や髪にはよごれがついていた。
「あ、ごめん! 気がきかなかったね。全然かまわないよ、すぐにお風呂の準備するから!」
言って、すぐに立ち上がる。
「あ、そんなに急がなくてもいいわよ! シャワーだけでもいいし……、それに場所さえ教えてくれれば、後は自分でするわ……」
風花があわてて引き止める。
「なんも、かまわないよ! ちょっと待ってて。今お湯を張ってくるから。風花は、お湯は熱い方がいい? 温めがいい?」
そう僕が訊くと、風花は少々恐縮した笑みを浮かべて「じゃあ、熱めで……」と答えた。
「わかった」、と言い残し僕は浴室に向かって廊下を進む。
いつもは僕一人しかいないこの家に、客人が居るというのはなんだか不思議なものだ。かすみねえも時折訪れるが、彼女の場合はどちらかというと家族のような感じなので、“お客さん”という概念とは違う。
そういう意味では、僕が一人でこの家に住むようになってから、客人を迎えるのは初めてのことではなかろうか。
会話をして風呂の好みを訊く。普段一人で居ることに慣れていた僕には、こうしたささいなやり取りだけでも、とても新鮮なものに感じられる。
当たり前になっていた、冷めた日常の生活に、まるでどこか暖かい風が吹き込んだようだ。
そんなことを考えながら浴室にたどり着く。
「さて、と。お湯は熱めで……、四十三度位かな?」
湯沸かし器の温度を調節して、浴室のガラス戸を開ける。
浴槽にお湯を出しながら、手で温度を確かめる。
うん、こんなもんだろう。
お湯の具合を確認した僕は、栓をして浴室を後にした。
「お待たせ。今お湯を出してきたから、あと十分もすれば入れると思うよ」
居間に戻り、腰を下ろしながら伝える。
「ありがとう……悪いわね、疲れてるところ気を使わせて」
「いや、全然気にしなくていいよ。これくらい大したことじゃない。風花も、自分の家だと思ってくつろいでくれていい」
言いながら、残っていたお茶をすする。
ふと見れば、茶菓子に出していたお饅頭が半分くらいなくなっていた。
「風花は甘いもの、けっこう好きなほう? 間に合わせで出したものだったけど、お饅頭、口に合ったかな?」
「ええ、大好きよ。特に和菓子は一番ね。最高の贅沢だと思っているわ」
「そうか、よかった。風花の食べ物の好みかわからなかったから、心配だったんだ」
「ほんとに、そんなに気を使わなくてもいいのに……。――――そもそも、基本的には、物質的な食事をしなくても私達には問題がないから……。生きるためのエネルギーを得るには、ただ、あたりの“気”━━そうね、妖気、霊気、生気、とでも言えばいいかしら、それを吸収すればいいだけだから」
風花は、すこしだけバツが悪そうにそう言った。
私達、とはかまいたちのことを指しているのだろうか。ならば、廃病院に居たあの二人のかまいたちも、本来ならば、■■を喰う必要はなかったということか?
「え……、じゃあ、なにも“食べ”なくても平気なのか? 生きるために、“食事”は必要ない……と?」
僕はついそんなことを訊いてしまう。
「そうね……、食欲がないわけじゃないわ。人間と同じように、食事をすれば美味しいとも感じるし、満足感もある。でも、生きるための養分を得るには、“気”を吸収するほうがよっぽど効率的なの。だから、食べ物を食べなくても生きていける。あえて人間の感覚でたとえるなら、性欲に相当するのかしらね。しなくても生きていくには全く問題ない。でも、それを楽しんで生きることもできる。だから、私にとって食事をするというのは、ただ、贅沢をしているだけ……そんなところかしら」
僕の考えていたことを察したのか、風花は難しい顔をしてそう言った。
沈黙の空間に風花のため息が流れる。
「そうなんだ……、でもいいじゃないか。贅沢でも! せっかく食を楽しめるんだから、楽しめばいい。風花はどんな料理が好き? リクエストがあれば、今度用意するよ!」
わずかに気まずくなりかけた空気を払拭しようと、僕は努めて明るく言い放つ。
「……ありがとう。……そうね、そしたら、……お刺身がいいかな。魚料理は全般好きだから。じゃあ、よければ今度ごちそうしてね」
風花も僕に合わせて明るい声を出し、ぎこちない笑顔を作った。
「ああ、わかったよ。次に食材の買出しに行くときには、ちゃんと新鮮なのを見繕って買ってくるから。楽しみにしてて」
僕が答えると風花は笑顔でうなずいた。今度は、自然な笑みだった。
「おっと、そろそろお風呂の様子を見てこよう。いい頃じゃないかな」
居間の時計を見上げてから立ち上がる。
気を使うなと言う風花を制して、僕は再び浴室へと向かった。長い廊下を進み、突き当たりを右へと曲がる。
洗濯機のある脱衣場の奥が浴室だ。
ガラス戸を開けると、湿った熱気が僕の顔に張り付いてきた。風呂場の蒸した空気が心地よい。
中に入ると、視界をさえぎるほどに、もくもくと湧き上る白い湯気が立ち込めていた。僕は湯気の中を進み、浴槽を覗き込む。お湯は七分目くらいまで溜まっていた。ちょっと早かったかな、そんなふうに思ったが、お湯の温度を確かめながらお湯が溜まるのを待つことにした。
お湯に手を突っ込み、かき回す。
「うん、いいお湯だ。ちょっと熱めで、オーダー通りだろう」
すぐにお湯も溜まり、僕は居間へと戻る。
「風花、お風呂の準備ができたよ。どうぞ」
ふすまを開けてそう伝えると、風花はお礼を言って立ち上がった。
「浴室は突き当たりを右に曲がったらすぐだから。ゆっくり浸かって」
「ええ、じゃあ、そうさせてもらうわ」
場所を説明すると、風花はそう言って廊下を進んでいった。
居間に残った僕は、先ほどの書物に目を通そうと、ソレを手に取った。
時代の波をくぐりぬけたその書物は、改めて見ると、さらにその刻んできた年輪を感じさせた。
古びて脆くなった紙が破れないよう気をつけながらページをめくる。そしてその内容を通覧する。
━━━━━━━━黙読すること十数分、ざっとだが、書物の構成を把握する。
冒頭は、この書を記した、過去の葉真夜の当主、その前書きから始まる。
本来は、葉真夜の能力、歴史は口伝により伝えられてゆくものだが、時代と共に能力や記憶、記録が劣化してゆく事を懸念し、書に残すことを決意した。その経緯が語られていた。
その先は葉真夜の歴史が綴られている。
驚くべきことに葉真夜の歴史は、人類が初めて知性を持った頃からすでに始まっているという。
これが原始時代からを意味するものなのか、さらに太古の超古代文明の時代をも意味するものなのかはわからない。だが、カタカムナ文明などを思えばあながちありえない話ではない。日本の歴史、いや世界の歴史にも記される以前から、葉真夜はすでに魔と戦っていた、そういうことになる。
そして、その後には先代たちの武勇伝が綴られている。
古くは、獣を狩る時代━━━━
人間の敵は、凶暴な獣だけではなかった。文明が発達する以前。人の力が大地に広がるより前は、人ならざる者も地上を闊歩していた。その時代から葉真夜は魔と戦っていたという。その戦いについて書き記されている。
他には、
怪物に生贄を捧げる儀式が本当に信じられていた頃。
━━━━否、生贄を本当に必要とされていた時代。
その、生贄に選ばれてしまった幼き女の子を救う為に魔物と戦った葉真夜の祖先、その死闘の顛末が記されていた。
戦国の時代━━
あまりにも有名なこの歴史の裏で、決して人に知られることのない妖魔大戦があったという。
敵はかつて無いほどの強大なものだった、そしてその戦いは長く熾烈を極めた。この戦いにおいては、葉真夜だけでなく、他の退魔の家系とも協力して事に当たったとされている。葉真夜本家はもとより(厳密にはこの戦いの直後、分家する)、火四里、真崎といった面々と共に戦い、辛くも勝利したとある。
そして戦乱の後━━
大戦中であったため、一子相伝とされていた退魔の家系で、葉真夜は息子二人にその力を伝えてしまう。しかし、戦いにおいてその兄弟の貢献が他の二家に認められ、一子相伝であるはずの退魔の家系でありながら、次男は分家することを許された。
そうして分家した次男が、今の僕の祖なのだ。
そしてそれ以降、本家の歴史は語られていない。分家してからは、ほとんど本家と関わりを持つ事は無かったのかもしれない。ここから先は、分家した葉真夜の短い歴史がわずかに記されているだけだ。
だが、この書を残した葉真夜は、この廃れゆく血を憂慮したのだろう。ゆえにこの書を書き記したに違いない。代が進むにつれて衰えるこの力を維持したかったのだと冒頭にもあるが、この先の内容がさらにそれを如実に語っている。
そう、この先の内容こそがこの書の本題であり、僕の求めていたものだ。
この第三章には、退魔の術についての基本が記されている。代々、葉真夜の得意とした術が記載されていた。
━━━━結界術、葉真夜の血筋は特に封印の結界術を得意としたようである。これにおいては、他の退魔の家系の中でも並ぶべき者は無かったという。
封印結界、防壁結界、領域結界と、結界を窮めたのが葉真夜なのだ。ここに、その魔法陣、及び法具について詳しく記されている。
僕の持つ鉄扇についても、この章で記述がある。本来は一対で使用するものであるということ。分家した際に、本家から受け継いだものであることが記されていた。
だが今現在、鉄扇は一つしかない。もう一つはおそらく、父が持っていたのだろう。僕は肌身離さずこの鉄扇を所持し、一度として手放したことは無い。そして父が、かまいたちと戦った時に鉄扇を使用していた事から鑑みるに、それは間違いないだろう。対になるべき片割れの鉄扇の行方はもうわからない。これは僕にとってマイナスだ。だが、今はそんなことを嘆いても詮方ないこと。それよりも、他の方法で対策を考えるべきだ。気持ちを切り替えて、さらに書を読み進める。
そして、程なく最終章へと辿り着く━━━━。
葉真夜における秘中の秘、その真髄が記されている。
著者曰く━━━━━━━━
━━━━葉真夜の眼目は翠眼にあり━━━━
葉真夜の書最終章は、そう始まっている。
ここまで斜め読みにしてきた書見を止め、熟読に切り替える。気持ちを引き締めて、ここからの文章を眼光紙背に徹する気持ちで精読してゆく。
この最後の章は、そう長い物ではない。ページ数にしてわずか六。だがこの六ページに葉真夜の秘密が凝縮されているのだ。
改めて、その文章に目を走らせていく。
我は最後に記しておこうと思う。
━━━━葉真夜の眼目は翠眼にあり━━━━
ひとたびその翠の眼を開けば自ずと力は解放される。
しかし、その真の力の行使には多大な霊力を必要とする。その眼を開き、その眼に霊力を籠めるのだ。
だが、ここで霊力について語っておこう。
霊力とは、肉体の力とは別の、文字通り霊的な力のことである。もっと分かりやすくいうならば、魂の力と言い換えることもできる。これは、本来、人が皆持ち得ているものだ。だが、文明の発達、時の流れとともに人類はその力を衰えさせていった。現在、この霊力を自在に扱える者は極々僅かである。此の國では退魔の家系である御三家以外には無いだろう。
敢えて言うなら、一部の神主など神職の者は並の人間より多少その力が高い程度ものだろうか。
葉真夜はその中でも数少ない、霊力を扱える血筋である。分家し、本家より劣るものではあるが、それでもそのその力は常人の比ではない。とはいえ、おそらくこの先、代が進むにつれ葉真夜の血も、能力も廃れていくことだろう。だが、危ぶむなかれ。
たとえ時が経ち、霊力が扱えなくなろうとも、それは霊力を失っているわけではない。
ただ、肉体が使い方を忘却しただけのこと。
日々の訓練で如何様にも取り戻すことが可能である。
霊力、先に魂の力と説いたが、すなわち精神の力と関係があるとも言える。畢竟、心を鍛えること、心の在り方を身に付けることで霊力は鍛えられる。
だが、これは一朝一夕でできるものではない。
あくまで日々の心がけ、訓練を伴うものである。
日々、心を研鑽し、精神の耐力を養っていくことだ。そうすれば自ずと力は得られるだろう。
すでに霊力を扱える者ならば、常にその霊力を使用して、さらなる力の向上に努めることだ。
そして、そうした下地があれば、更なる力も使いこなすことができよう。葉真夜の真の力を。
葉真夜の能力とは、“魔を見通すことに非ず”。
葉真夜の能力とは、“人ならざる者を受け入れること”。
努々間違えること無かれ。
そして退魔の術を使用する際において、個々に合った言霊の詠唱を行うことによってさらにその力を向上させることができる。己に関わる力ある言葉に魂を込めて、その全てを紡げ。さすれば、自身の力を解放することができよう。
最後に、一つ伝えておくことがある。
心して読め。
そして知っておけ。
だが、決して実践してはならない。
固く、忠告しておく。
そのことを理解したうえで、この先を読め。
ここまで、自身を鍛え、術を纏い、法具を使い、それでもかなわぬ敵があったなら、その時は鉄扇の玉を外すのだ。そうすれば、使い手の霊力を強制的に搾り出す。その魂の全てを失うその時まで、その力を発揮することができよう。葉真夜の魂は、決して魔に敗北はしない。
だが、心せよ。魂のすべてを使い切れば、そこにあるのは、本当の死。
いや、死という言葉さえ生温い。それは魂が消滅し存在そのものが死に絶えるということ。輪廻転生することも無く、未来永劫、永遠にその存在を無に帰するということ。
覚えておくことだ。
魂は不滅ではない。
魂を捨ててまで手に入れるほど、勝利など崇高なものではない。
葉真夜といえど人の身なれば、人間らしい死を迎えてだれがそれを責めようか。
たとえ相手が神であれ、悪魔であれ、
魂を捧げてまで叶えるに値する願いなどないのだ。
その先には何も無い、無限の死なのだから。
そして、ここまでこの書を読んだ我が末裔よ。
この発言はおそらく、本家の意志、思想、信条に反するものであると思われる。
だが、無限の死などという非情な末路を、先の世代のものに選択して欲しくはない。自己を永遠に犠牲にしてまで得られるものなど微細であると知れ。英霊も、その魂を失っては英霊たりえない。肉体を死なせることはあっても、決して魂を粗末にしてはならぬ。
;振り仮名
「葉真夜 朝」 ここに記す。
読み終え、僕は思わず鉄扇に目を向ける。
扇の要に、確かに、蒼く輝く宝玉がある。
すこし触って確かめてみる。……が、そう簡単に取れるような代物ではなさそうだ。要に誂えられているだけあって、造りはとてもしっかりしたものだった。
それに、戦闘中は要の部分は手で隠れることになるので、不用意に封を解いてしまうという事だけはなさそうである。
「そうか、この鉄扇にはそんな秘密が……。だが、まだわからないこともいくつかあるな」
鉄扇をしまい、再び思案にくれる。
“━━━━葉真夜の眼目は翠眼にあり━━━━”
これに関しては言うことは無い。まさにその通りだ。
そして
“魔を見通すことに非ず”
“人ならざる者を受け入れること”
とあるが、これは正直、ピンとこない。
僕はいままで“魔を視る”ことがこの眼の力、ひいては葉真夜の力だと思ってきた。
それに、“人ならざる者を討つこと”が葉真夜の命題だとばかり思っていたが、この文を読む限りでは、何か違う意味があるように思う。だが、現時点では、僕にはその答えがわからない。
とりあえずここは保留としよう。
他の部分も考えてみることにする。
霊力は魂の力、ひいては精神の力……とある。
鍛えるには日々、心の研鑽、耐力を鍛えろ。とあるが、具体的にどうしたらよいものなのか。だが、想像するに、いわゆる滝に打たれて修行するような意味合いではないだろうか。だが、いままでそういった霊力を鍛える修行はしてこなかった。仮に、今から滝に打たれても、もう遅いだろう。
だが、風花は言っていた、この鉄扇を握っているだけで、霊力を使用しているのだと。
そしてこの書にも、
霊力を使用できるのなら、常に使うようにして、鍛えろ、と。
ということは、一応は僕には霊力を使える下地ができているということになるのだろうか?
風花は、「すでに基礎体力は身についている」と称した。
ならばやはり基礎的な力は、日々の生活やトレーニングで身になっていた。ということなのだろう。
そして、父がこの鉄扇を、僕が幼い頃から預けていたのは、ただの護身の手段の為だけではなかったということではないのか?
それに、結界の初歩だけは、確かに教えてくれた。
「これはあくまで自衛の手段だ」と、そう何度も言いながら僕にその術を授けた。
そして、書にもある、“言霊の詠唱”とは間違いなく、僕が結界の使用の際に唱えたモノだろう。
父が僕に教えた唯一の術だったが、これが全てに通ずる基本となるものだろう。
そう考えると父は、力を使うなと言っていながら、僕に選択の余地を残してくれていたことになる。
なぜなら、こうして最低限のことだけはこの身に授けてくれていたのだから。
力を使わないようにと釘を刺しておこうとも、いつの日か、こうして戦いに身を置くと父はわかっていたのかもしれない。父がそれを望んでいたかどうかは別として……。
そして……最後の、本当に最後の奥の手として書かれた手段については、忠告の通り、できうる限り実行したくはない。
そう、よほどのことがないかぎり━━━━━━━━
さあ、ここまでのことをまとめて、結論を出すとしよう。
1、肉体的な力については、日々の訓練で既にある程度の力は得ている。
2、霊力についてであるが、これに関しても、日々鉄扇の使用において、霊力の基礎力が身についている。━━らしい。
3、葉真夜に伝わる力について。翠眼の力は問題なく機能している。そして葉真夜の結界術についても、その基礎は知っている。
総合して考えると、今現在、一番確実な戦力アップの方法は、他の結界術について、その方法を覚えることだろう。結界は基礎ができていれば、他の術に応用することは決して難しいことではないと思われる。さきほど、本文を読んだ限りではそう思う。
ゆえに、今後は、戦いに有利になるような結界術を一つでもいいから覚えることだろう。そうすれば、この戦いに勝機が見えてくるというものだ。
そう決心すると、いくらか気持ちが落ち着いてきた。
数時間前までの不安な気持ちも、ウソのように薄らいだ。拠り所さえあれば活力、元気がだせる。人間とは現金なものだ……。
そんなことを思いながら居間の中心で息を吐く。
時計をなんとなしに見上げる。
どうやら一時間近くも読んでいたようだ。
そういえば風花は風呂からまだあがってきていない。けっこう長風呂なんだなぁ、なんて思った。
そこで一つ大切なことを思い出す。
「いけない。バスタオル用意してあげるの忘れてた!」
お風呂の用意をしたはいいが、その後のことを考えていなかった。さすがにびしょ濡れのまま服を着るわけにはいかないだろう。
というか着替えとかどうしよう?
いや、そもそもそれは僕が心配する範疇ではないか?
いくつもの思いが錯綜しながら僕はとりあえず廊下を走る。洗濯済みのバスタオルを引っつかんで僕は走る。
風花が浴室から出る前にタオルを脱衣場に置いておけば全ては問題なし。用意し忘れた僕の罪はチャラになる。
というわけで急げ。急ぐのだ。
バスタオル片手に僕は脱衣場の扉を勢い良く開く。
ガラガラガラッ!、と扉のスライド音が廊下中に響く。
「…………………………………………………………」
風花と目が合う━━━━━━
「━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━」
しばし沈黙━━━━━━━━
「…………夕綺、どうしたの?あわてて入ってきたと思ったら、今度は彫刻みたいに固まっちゃって」
沈黙を破り風花が平然とそう言う。
生まれたままの姿で、体を隠そうともせず堂々と脱衣場に立っている。小皿をひっくり返したような、膨らみかけの胸が罪悪感を際立たせる。
「……いや、その。バスタオルを用意し忘れたから、さっき、それに気づいて……」
動揺してしどろもどろになりながら、目をそらして答える。女性の裸……というにはまだまだ程遠いが、それでも女の子(?)の裸を見るには抵抗がある。
「そう、ありがとう。私もお風呂から上がってどうしようかと考えていたところだったの。濡れたまま服を着るのもどうかと思ってね。ふふ、気が利くわね」
そう言って風花は涼しい顔で僕の手からバスタオルを取る。
「いや、どちらかといえば気が利かなかったんじゃないかと……。先に準備しておけばよかったから、礼には及ばないよ、気にしないで……というかゴメン!」
とりあえず謝っておくことにした。
そして、すばやく回れ右をする。
「せっかくお風呂沸かしたんだし、夕綺はお風呂に入らないの? いい湯加減よ。それに寝る前のお風呂は睡眠にもいいわよ」
こともなげに風花はそう言い放つ。
ここまで堂々とされると、動揺しているこっちが恥ずかしい。これじゃ逆だろう。
「いや……僕はいいよ!今日は……それよりもすぐ寝たいから!えっと、タオルはその辺に置いといていいから!」
適当にその場をしのぎ、今度こそ脱衣場をあとにした。
居間にもどり、嘆息しながらヘナヘナと座り込む。
なんだか、妙な疲労感だ。
さて、今日はもうほんとに休むとしよう。あとは、風花が戻ってきたらどこか寝室を用意しないといけないな。
まあ、使っていない部屋はいくらでもある。客間代わりに使えそうな部屋を案内するとしよう。
程なくしてふすまが開き、風花が入ってくる。
「お風呂ありがとう。いいお湯だったわ。やっぱり熱いお湯が一番ね。でもごめんね、夕綺。疲れてるとこ随分と気をつかわせて。夕綺、今日はもう休むんでしょう?」
風呂あがりの熱気で顔を桜色にした風花が、申し訳なさそうに僕を覗き込む。
「あ、ああ、そうだね……。うん、そろそろ寝ようと思うから……風花の部屋も案内するよ」
先ほどの動揺がまだおさまりきらず、風花から視線を外して答える。
「そう、夕綺と一緒の部屋じゃないんだ……」
すこし残念そうに風花が言う。
「いや、一応それはまずいんじゃないかなと。風花も女の子なわけだし……」
「あら、私は別に気にしないわよ」
「僕が気にします!」
風花があまりにも普通に言うので、僕は即答で切り返す。
「ふーん。前は、『風花おねえちゃんとずっと一緒にいたい』なんて可愛いこと言ってたのに」
風花はからかうように言う。
「それは子供の頃の話でしょう!」
「あら、夕綺はまだ子供でしょう?」
くう、まあ、確かに未成年ではあるが。
「もう高校生なんだけどな……、さすがに子供ではないと思うんだけど……」
一応抵抗はしておく。
「ふふ、私からすれば充分子供よ。まあ、お子さまから、男の子にはなったかしらね」
風花はけらけらと笑っている。
繰り返すが、見た目には小学校を卒業してるかどうかの幼い女の子に、こんなことを言われてる僕は、はたから見たらどんな風に映るのだろうか。
いや、もう深くは考えまい。
「とにかく、別の部屋で、ということで頼む」
僕は半ば強引にお願いする。
「んー、まぁ、しょうがないわね。あんまりからかってもかわいそうだし」
よかった。どうやら納得してくれたらしい。
「でも、真面目な話、用心の為に夕綺の部屋から近い方が望ましいわね」
風花はそれまでの笑顔から一転、冷静な表情を見せる。
僕もおもわずハッとする。
「うん、そうか。そうだね。ありがとう……。じゃあ、風花には、僕の部屋の隣を使ってもらおうかな。そこも空き部屋だから」
風花に感謝しながら、そう答える。
「ええ、わかったわ。まあ、しばらくは安全だとは思うけれど、一応念のためよ。じゃあ、案内してくれる?」
そう風花に促され、僕は立ち上がり、二階へと二人で進む。軋む階段を上りきり、自室の手前で立ち止まる。
「じゃあ風花、この部屋で休んでもらっていいかな?隣は僕の部屋だから、もし何かあったら遠慮なく声をかけてくれ」
そう風花に言いながら、空き部屋の扉を開く。
しばらく使われていない部屋であるにも関わらず、ドアは嫌な音一つ立てずに僕らを迎え入れる。
日頃の手入れの賜物である。
中は、ごく普通の和室。六畳間だ。一人で過ごす分には過不足ないだろう。
「へえ、綺麗な部屋ね。空いてる部屋なんていうから、もう少しほこりっぽいところかと思ったわ」
「はは、さすがにお客さんにはそんなところへ通さないよ。まあ、たしかに中には物置同然の部屋もあるけどね。この部屋は、数少ない客間に使える部屋なのさ。定期的に掃除もしてあるから、安心してよ」
実は、空き部屋の掃除はかすみねえがしてくれているのだが、あえてここでは言うまい。
僕は押入れから布団を引っ張り出し、床に敷く。
「ほんとに何も無い部屋で悪いけど、こんな感じでいいかな? ああ、そういえば寝間着とか、パジャマとかはどうしよう? 風花、着替えとか持ってきてないんだよね」
「もう、そこまで気にしなくてもかまわないわよ。そもそも寝るときは下着しか着けないし。ああ、でも着替えは明日取りにいこうかしら。しばらくは夕綺の家にお世話になるでしょうから」
「そうか、わかったよ。これからのこともあるけど、とりあえず今日はもう休もうか。それじゃあ、おやすみ。またあした」
風花に挨拶をして僕は自分の部屋へと戻る。
服を着替えることも忘れてドサリとベッドに突っ伏す。
━━━━ああ、今日は一日が長かった……
明日からはどうしようか?
いや、明日のことは明日考えよう……
今日はもう疲れた…………
……………………………………………………
そうして僕は泥のように眠りにつくのであった。
;第3章終わり アイキャッチ
; “Another”2
時間は一日遡る━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━あたりは既に薄暗い闇であった。
━━━━━━━━人気の無い路地裏。
まだ時刻は午後九時を回ったばかり。
今日日小学生でも起きているような時間であるにもかかわらず、この空間だけは屍のように終わっていた。
遥か遠くから聞こえる車のいななきだけが、静寂を微かに破る。
━━━━━━━━彼は運が悪かった。
ただそれだけである━━━━━━━━
この日、
この時、
この瞬間に、
この場所にさえ居なければ、
きっと何も起こらなかったはずなのに。
なんという悪魔の悪戯なのか。まるで魅入られたかのように彼“蓮見圭”はこの場に居合わせた。
━━━━まるで運命のごとく、
必然であったかのように━━━━━━。
蓮見は一介の高校生だ。
とりたてて目立つ存在ではないが、人より劣るわけでもない。
勉強も運動も、可も無く不可もなく、いたって平凡な学生である。
しかしどうやら、運だけはそうではなかったようである。
━━━━━━━━悪い意味で━━━━━━━━
今から遡ること二十分━━━━━━
蓮見圭は母親に頼まれ、近所のスーパーまで買い物に行くことになった。
近頃は当たり前になった、二十四時間営業のスーパーマーケットだ。遅い時間でも、必要なものはなんでも揃う。たしかに便利な時代になったものだ。
しかしそれと同時に、彼にとっては厄介なものでもあった。いつ何時でも買い物が可能であるというその利便性ゆえに、彼はこうして行きたくも無いお使いをしなければならなくなったのだから━━━━━━。
「ふう、けっこう重いな。まったく人使いの荒いこと……」
足を止め、蓮見は独りごちる。
昼間、母親が買い忘れていた牛乳や油を買いに行かされることに、わずかな不満から思わず愚痴をこぼす。
それでも、微々たる小遣いのためだと思い直し、再び歩を進めた。
スーパーから家までは、裏道を使えば五分ほどでたどり着く。表通りから行くと十分近くかかるので、彼はいつもこの路地裏を利用していた。
いつもと変わらない道。
いつもどおりの日常。
あたりまえの行動。
そう━━━━━━蓮見圭はいつもと同じようにこの暗がりの路地裏を闊歩していた。
街灯も無く、他に道行く人などありはしない。
ただ独り、壁と壁の間の細い道を歩く。
━━━━━━いや独りではなかった。
往路ではなにも無かったことは間違いない。
だが今、復路を行く蓮見の前には“ナニカ”がイた。
無機質なコンクリートの壁に挟まれるようにして、その影はうずくまっていた。
影は影であり、それ以上の表現のしようが無かった。
あえていうならば、“人のような形”をしていた。とでも言うべきだろう。
ソレはあきらかに人ではなかった。
━━━━━━蓮見は戦慄する。
いままでに見たことの無いモノに対する未知の恐怖だ。
蓮見は目を逸らすことができないでいた。
ただ、呆然とその現実を見つめるのみ。
人は、自身の限界を超える恐怖に遭遇した場合、その思考をも停止させる。
蓮見はただ、立ちつくす。
恐れも、慄きも、今はその全てがないまぜになり、わずかに現実を逃避した悪夢へと思考をそらす。
━━━━━━影が立ち上がる━━━━━━
蓮見はただ見つめている。
目の前の出来事を━━━━━━。
そのありえない、現実を━━━━━━。
━━━━━━アカイ
マッカダ━━━━━━
ソレが第一印象だった。
目の前には、闇に浮かぶ警報灯のように真っ赤な人影が立っていた。
一瞬、赤いコートでも纏っているのかと思ったが、それは違うとすぐに気づく。
人影はただ赤かった━━━━━━━━━━━━。
━━━━━━剥き出だしの臓腑が赤かった。
━━━━━━首の無い首から流れ出す血で赤かった。
不自然に繋がっている四肢の付け根から染み出す血で赤かった━━━━━━━━━━━━━━━━。
蓮見は認めることができない。
このあまりにも異常な事態を。
そして、自身の危険をも認めることができない。
なぜならこれは悪夢なのだから━━━━━━。
そう━━━━━━これはただの悪夢なのだから。
赤い“死体”はその不自然な脚を動かし、蓮見に近づく。
動くたびに、ネチャリという嫌な音が蓮見の鼓膜に、脳髄に直接響いてくる。
「━━━━━━━━━━━━!」
暗闇でも視認できるほどに接近した赤い“死体”を見て、蓮見は息を飲む。
首の無い時点で既に驚異に値するが、さらにその上を行く異常に目を奪われる。先ほどから不自然だと思っていたその手足、その理由を理解したからだ。
手足はたしかに胴体と繋がってはいるが、その結合部はあきらかにおかしい。
そう、四肢の付け根には、骨が見えるほどに深く、そして生々しい傷が刻まれていた。そして、四肢を動かす為の腱は、見るも無残に断ち切られ、すでにその役割を果たしてはいない。……いや、“死体”に対してそのようなことを気にすること自体、既に誤りかもしれないが。
しかし、当然、異様であることは必至。
そして、蓮見が目を留めたのはもう一つ。
赤い“死体”が纏っている服━━━━━━。
おそらくは、元は白いパーカーだったのだろう。
“死体”の着ている服はすでにズタズタに引き裂かれ、血に汚れ、見る影も無くなっていたが、特徴のあるデザインからそれは容易に判断できた。そして、胸元にある某大衆洋服店のロゴがやけに目に付いた。
ジーンズにはあちらこちらに切り傷や破れがあるが、その破れ方は決してダメージ加工などではないだろう。明らかに、“外部からの力”がかかったものだ。
本来ならば、何の変哲も無い極々平凡な服装である。
しかし、それ故に、事の異常さが際立つ━━━━。
日本中の誰もが知っている大衆洋服店、そのロゴのアルファベット━━━━━━。
そんな“服”や“ブランド”という日常の具体さが、彼に現実感をわずかに取り戻させた。
━━━━━━思考は単純、結論は逃避のみ。
蓮見は現実逃避を止め、実質的逃避へと行動を変える。
手に持っていた買い物袋などとうに投げ捨て、わき目も振らずに走り出す。
なりふりかまってなどいられない。髪を振り乱しながら蓮見は来た道を戻り、人気のある表通りを目指す。
走り出して数秒、一度振り返って“死体”を確認する。
不自然な脚を交互に動かしながら不気味に追ってくるものの、その速度は思ったよりも速くはなかった。
蓮見は恐怖を感じつつも、逃げ方を考えて逃げれば、逃げ切れるのではないかと徐々に冷静さを取り戻していく。
━━━━━━“死体”の足はけっして速くは無い。
ならばただひたすらに走るのみ。息が切れようと、躓こうと、何かにぶつかろうとも、何にもかまうことなく今は走りぬく。
視界も悪く道も狭い路地裏を、蓮見は必死に駆ける。
ざらついたコンクリートの壁に腕を擦り、ズボンの裾を錆びた柵に引っ掛けながら、しゃにむに足を動かす。
擦り傷から流れる血など、まるで意に介すこともない。
そうしてどれだけ走ってきたのだろうか。
蓮見は路地裏を抜け、表通りへとたどり着いていた。
通り沿いの街並みはまだ眠ることなく、喧騒につつまれていた。
普段ならば鬱陶しく思うことさえある、道ゆく人々や爆走する車がとても愛しく感じられた。
街灯に照らされた歩道に立ちどまり、彼は非現実から現実に帰ってこれたのではないかと思わず安堵する。
だが、まだ気を抜くわけにはいかない。
先ほど見たものが何であれ、できうる限りこの場から離れるのが正しい選択だと結論し、再び走り出す。
表通りを必死の形相で駆ける蓮見を、道行く人は怪訝そうな顔で見遣るが、彼にはそんなことを気にする余裕までは無い。
ただ、悪夢を振り払いたくて必死に逃げているのだ。
度々後ろを振り返り、あの“死体”がついてきていないかを確認する。
(大丈夫だ、もうついてこない)
自分を安心させたくて、彼は心の中でそう何度も叫ぶ。
後ろを見ても、追いかけてくるモノはない。
歩く死体に驚く悲鳴などもない。
街はいたって尋常だ。
程なくして彼は自宅に帰り着く。
震える手で鍵をあけ中に入り、乱暴に玄関のドアを閉めた。まるでそうすることで、すべての恐怖を締め出せるかのように。
玄関でへたり込む蓮見は、先ほど家を出てから三十分と経っていないのに、まるで一年ぶりに家に帰ってきたかのように感じられた。
ドアの音に気づいた母親が「うるさい」と注意をしながら玄関に現れる。
だが、息子の異様な雰囲気にすぐに気づき、心配する声をかける。
だが、彼は「大丈夫だ」と告げて、尚も声をかけ続ける母親を無視して自分の部屋へともどる。
階段を上りきるまでその声は耳に届いていたが、途中で諦めたのか、そこでパタリと声が止んだ。
そうして部屋の扉を開けたときだった。
━━━━━━━━━━━おかえり……!
背後から、冷たい女の声がした。
母親の声ではない。そして、どこかで聞いたことのあるような声だった。
背中に凍えるような痺れがはしる━━━━━━━━。
息を飲み、体が強張る━━━━━━
いや、硬直する━━━━━━。
冷たい指が首に添えられ、首筋からゾワゾワとした不快な悪寒が体中に染み出してゆく。
蓮見は動くこともできず、ただ震える唇から小刻みに息を吐き出す。
━━━━冷えた指が首にジワリと食い込んでくる。
長い爪が喉に噛み付き、肉体の痛み以上に不安と恐れを抱かせた。
「…………だ、誰だ……おまえは……」
蓮見は自身に訪れる危険を想像し、慄然としながら搾り出すように誰何の声をだす。
「━━━━キミはアレを見てしまった……」
声の主は誰何には答えなかった。
ただ、女の冷淡な声だけが吐息と共に耳元に届いた。
女の発言は、“今の事態”と“先ほど見たモノ”との関連性があることを明らかにしていた。
蓮見はそれを理解し、さらなる恐怖に苛まれる。
「残念だけど、こうなってしまった以上━━━━━━━━」
女の声はすぐ近くから聞こえているはずなのに、蓮見には遥か遠くの音のように、どこか現実感のない無機質なものに感じられた。
「━━━━━━いえ、でも見つかったのは私の落ち度も認めざるを得ないわね。だからキミには情状酌量の余地がある。今回は特別に、やさしく■■■■してあげる事にしましょう」
抑揚の無い声が淡々と流れる。
「……!!━━━━━━━━━━━━━━━━━━」
蓮見にとっては理解ができない言葉が、音が、彼の耳を静かに突き抜ける━━━━━━。視界は歪み、自分が真っ直ぐ立っているのかさえわからない。
これまで平穏に生きてきた蓮見にとっては、今まで感じたことのない“本物の死の恐怖”というモノを覚え気が遠くなる━━━━━━━━。
だが
━━━━━━嫌、だ、死んでたまるか。
本能が叫ぶ、生への欲求を。
今、後ろに居る者が何者であるかはわからない、が所詮は若い女性にすぎない。後ろから首を掴まれているとはいえ、そのまま絞殺できるほどの膂力などありはしないだろう。
そう“考えることにして”、一か八か反撃を試みた。
首に掛けられた手を力ずくで解き、距離をとって武器になるような物を手にする。
━━━━━━━━━━━━はずだった。
蓮見が女の手を掴み、引き剥がそうと力を込めた時、その瞬間にとても女性だとは思えないような力で首を、いや喉を潰された。
「がはっ――!」
息が止まり、目の前が瞬時に暗くなる。
「無駄よ。やさしくしてあげると言ったんだから、おとなしくしなさい」
氷のような声が彼方から聞こえる。
それでも命のかかったこの状況において、おとなしくなど出来ようはずも無い。
蓮見は最後の最後まで抵抗し、女の手首を爪で抉らんばかりに握り締める。
最後の力を振り絞る蓮見の両の手は、確かに女の手を抉った。
だが、それでも首を絞める圧力は弱まることなくその力を増し、蓮見の意識はそこで失われた━━━━━━。
; “Another”2終わり アイキャッチ
;第4章
アラームが無慈悲に朝を告げる。
僕は重い目蓋をどうにかこじ開け、のそのそと目覚まし時計を止める。時刻は6:45
昨日の疲れからか、若干寝覚めは悪い。
窓から差し込む爽やかな朝の陽光が、今朝はなんだか恨めしい。
だが、それでも朝が来た以上は起きねばなるまい。
そう覚悟を決め、気合を入れてがばっと布団から起き上がる。
窓の外は今日も天気が良い、見渡す限り青一色の空。
太陽の光を浴びて、幾分目も覚めてくる。
「さて……と、顔でも洗ってくるか……」
僕は部屋を出て洗面所へと向かった。
鏡の前で顔を洗う。
冷たい水が頬を刺激し、やっと意識がスッキリとする。
「ふう……、そういえば昨日はいろんなことがあったな……」
先日の出来事を一通り回想し、今、自分が無事なことをしみじみと実感する。
ああそうだ、風花はどうしているだろう?
もう起きているのだろうか。
洗顔を終えた僕は居間へと向かう。
ふすまを開けると、そこには正座して佇む風花の姿があった。風花は僕に気づき顔を上げる。
「おはよう、夕綺」
太陽のような笑顔で彼女は声をかけてくる。
「おはよう、早いね」
「私も今起きたばかりよ。ふふ、夕綺ったら、寝癖付いてるわよ」
「え、どこ!? ちゃんと鏡で見たはずなのに」
「後ろのほうよ。自分じゃ見えないかもね。直してあげる」
そういって風花は居間に置いてあった櫛で僕の髪を梳かす。恥ずかしいが、動くに動かれず、流れのままじっとしている。
「はい、直ったわよ。身だしなみは整えなさいよ。年頃の男の子なんだから」
「あ、ああ。ありがとう。それじゃあ、これから朝ご飯の用意するから」
とりあえずお礼を言っておき、朝食の準備をしようとする。
だが、その時、客人の来訪を告げるチャイムが鳴った。
朝の葉真夜家に電子音が鳴り響く。
この時間に訪れる者は一人しかいない。
間違いなく、かすみねえだろう。
「どうぞ~!」
僕は居間から大きな声で来訪者に答えた。
玄関の開く音が聞こえ、足音が廊下を進んでくる。
ふと見ると、風花は部屋の隅で佇んでいた。
風花の姿は普通の人間には見えないはず。この場に居ても、かすみねえに見咎められることはないはずだ。
それと同時に、自分が眼帯をしていないことを思い出す。
まずい、かすみねえにもこの眼は見せたことがないのだ。
僕は急いでポケットから眼帯を取りだし、左目に装着する。
ほどなく、居間のふすまが開かれる。
「夕くん、おはよう。お邪魔するわね」
かすみねえが、やさしい笑顔で挨拶する。
「おはよう、かすみねえ」
僕はいつもどおり、答える。
大丈夫、かすみねえには風花は見えていないようだ。
そして、眼帯を装着した僕にも、今は風花の姿は見えない。
「夕くん、朝ごはん作ったから。よかったら食べてね! 育ち盛りなんだから、朝はちゃんと食べなきゃ駄目よ!」
かすみねえはそう言って、プラスチック容器のセットをテーブルに置いた。
「うん、ありがとう。おいしくいただくよ」
「わたしはもう仕事に行かなきゃならないから、今日は一緒に食事できないけど、ゆっくり食べてね」
「うん、……ほんとにいつもありがとう。いってらっしゃい。気をつけて」
僕はかすみねえに声をかける。
「もう、あまり気を使うんじゃないの!じゃ、夕くんも勉強がんばるのよ」
かすみねえはそう言って、居間から出て行った。
かすみねえを見送り、玄関から外に出るのを確認してから、僕は眼帯を外す。
そうしてから再び居間の中に視線を戻すと、風花は変わらず部屋の隅で佇んでいた。
「へえ、綺麗な人じゃない。いまのが夕綺のお姉さんなの? というか、保護者と言ったほうがいいのかしら?」
風花は感心したように言う。
「うん。概ね間違ってはいない。後見人のおじさんの娘だから、僕の姉代わりでもあり、保護者代わりでもある。こうしていつも食事を持ってきてくれるし、本当に感謝しているんだ」
「そう、いい家族に恵まれたのね。たとえ血は繋がっていなくとも、その愛情は本当の家族となんら変わらない。果報者ね、夕綺は。……いえ、夕綺の人柄がそうさせるのかしら」
風花はすこし羨ましがるように僕を見つめてそう言った。
「……果報者なのは確かかもしれない。かすみねえのおかげで僕はこうして生きてこれた。両親を失った僕をかすみねえは慰め、そして励ましてくれた。かすみねえが居なかったら、いまの僕はなかっただろう」
「……そうなんだ。でもよかったわね、きちんと導いてくれる人がいて。夕綺が、夕綺のままに成長してきたのは、きっとあの人のおかげなのね。私は、夕綺をここまで育てた事に敬意の念を表するわ」
風花は神妙な面持ちでそう言い、瞑目した。
「ああ、……そうだな。僕も、本当に如月家の人たちには頭が上がらない。大人になったら、必ず恩を返さなければと思っているよ。両親には親孝行できなかったからね、その分も、孝行しようと思っている」
そう言い、知らず遠くを見遣る。
「そう……、いい心がけだわ。でも、夕綺は年のわりには、少し大人になりすぎてるかもしれないわね。生い立ちや、日々の暮らしがそうさせたのでしょうけど、
あまりに背伸びをしていると、逆に少し心配ね。戦い以外の場では、もう少し年相応にしていてもいいものよ」
風花は真面目な顔をしてそう言った後、
(━━━━だって可愛げがないじゃない)
と、すこしだけ拗ねたように呟いた。
「そ、そうかな? 僕は充分年相応にしているとおもうけど……」
「夕綺はもう少しだけ、子供らしさがあっても良いと思うわ。たぶん、さっきの夕綺のお姉さんもそう思っているわよ。まだ高校生なんだから、ちょっとくらいわがまま言うくらいでも丁度良いのに」
「そう……なのかな? まあ、たしかにわがままを言ったことはほとんど無いかもしれないな。でも当然だろ? あまり迷惑かけるわけにもいかないしね」
「ふう……、ほんとに夕綺は真面目なのね。まあ、それも良い所なのでしょうけど……」
風花はなんだか呆れるようにそう言った。
「さ、それよりご飯にしよう! かすみねえの料理はおいしいんだよ。風花も一緒に食べよう」
僕はそう言って、先ほどかすみねえの置いていった容器を見せた。中につめられた食材たちは、プラスチックの容器越しでも、その魅力を溢れさせていた。
「へえ、これはおいしそうね……!」
風花は目を大きくして、感嘆の声を漏らす。
「ふふ、かすみねえの料理だからね。それに、盛り付けて温めたら、もっとおいしくなるよ。待ってて、今用意するから」
そう言い、台所へ向かう。
皿を用意し、プラスチックの容器から取りだし盛り付ける。今朝は、焼き鮭とジャーマンポテト、ほうれん草のお浸しに、だし巻き卵だ。
鮭とポテトは電子レンジで温め、その間に味噌汁の準備をする。朝は横着をしてインスタントの味噌汁だ。
ポットからお湯を注いで完成。
そこでご飯を用意しようとして、気づく。
そうだ、昨日はいそがしくてご飯炊いてなかった━━。
しかし、あわてず冷凍庫を開ける。
そこにはラップにくるまれた白いご飯が幾つか並んでいる。こうした時のために、ちゃんとご飯も冷凍してあるのだ。
でも、晩ご飯のため、お米を研いで、炊飯器のタイマーをセットしておこう。
おかずを温め終えた後、すぐにご飯も温めて用意する。
自分一人だけなら焦ることも無いのだが、風花を待たせていると思うとなんだか、知らず、急いでしまう。
そうして朝食の準備を終えた僕は、お盆にお皿を乗せて居間へと戻る。
「さあ、どうぞ。遠慮しないで食べて」
お皿をテーブルに並べ、風花に促す。
「わあ、いいにおい……。でもいいの? これ夕綺の食事でしょ?」
「大丈夫。かすみねえ、いつも多めに作ってくるから、一人で食べるときは少し量が多いんだ。普段は、余りを昼のお弁当用にしたりしてるくらいだし、だから気にしないで食べて。それに、一緒に食べた方がおいしいしね」
「ありがとう、じゃあ、お言葉に甘えていただくわ」
「うん。どうぞ、めしあがれ」
僕が声をかけると、風花は姿勢を正したまま、頭を下げてから箸を手に取った。
「……おいしい……!」
風花は目を丸くして言葉を漏らす。
「ふふん、僕の師匠、かすみねえの作った料理だからね」
思わず、ちょっと得意げに言ってしまう。
「ええ、これは本当においしいわ。人間の料理は何度か食べたことがあるけど、これはその中でも一番ね」
風花は器用に箸を使い、料理を口に運ぶ。
「はは、僕が作ったわけじゃないけど、褒められるとなんだかうれしいな。さてと、風花に全部食べられちゃう前に、僕もいただくとするかな」
軽口を叩きながら、僕も箸を手に取る。
「ちょっと、私はそんなに食い意地張ってないわよ」
風花がむくれたように言う。
「ふふ、冗談だよ。さ、ゆっくり食べよう」
「もう! 夕綺ったら」
そんなことを言いながら、テレビをつける。
テレビには、おなじみの朝の情報バラエティー番組が流れる。「お目覚めテレビ」のメインキャスターは、毎日変わらぬその笑顔で日本中に情報を伝えていた。
僕は、実は軽辺アナの芸能コーナーがお気に入りだったりするのだが、まあ、そんなことはどうでもいい。
今は風花との食事が優先だ。
僕らは、テレビの音声をバックグラウンドに朝食をすませた。
風花は、「ご馳走様、おいしかったわ」と深々と頭を下げてから、「夕綺はこれからどうするの?」と声をかけてきた。
「え、ああ。もちろん学校に行くけど、どうかした?」
僕がさも当たり前のように答えると風花は目を丸くした。
「夕綺、本気!? あなたは命を狙われている身なのよ。のん気に学校に行っている暇があるの!?」
「のん気とは酷いな。学生は学校に行くべきだろ? 一応優等生で通っているしね。あまり不自然な休み方はできれば避けたい」
「はぁ……、夕綺はどこまでも真面目なのね。命の危険があるかもしれないのに、普段どおりの生活をしようなんて」
「風花が心配するのもわかる。でも何も考えていないわけじゃないよ」
「と、いうと」
「学校には、この家と同じ破邪の結界が張ってある。邪気を持った妖や亡霊の類は著しくその力を衰えさせるだろう。僕が入学してすぐ、施しておいたものさ。もしもの時のために、念のために、ね」
「へえ……それは大したものだわ。でも、それならこの家に閉じこもっていた方が安全じゃないかしら?」
風花は当然の疑問を口にする。
「たしかにそうかもしれない。だが、考え方を変えれば、別の見方もある。あの“かまいたち”は力を取り戻し、体が万全になれば、誰彼構わず人を襲うつもりなのだろう? 襲う対象は僕一人だけじゃない。それなら、学校に居た方がなにかあったとき、いくらか友人達は助けられるかもしれない」
僕は風花の黒い瞳を真っ直ぐ見据えてそう答える。
「そうね……、夕綺の言っていることは間違ってはいないわね。でも、キツイ言い方かもしれないけど、肝心の“助ける力”は今のあなたにあるのかしら? 今はわずかな時間も惜しいんじゃないの?」
風花は顔を上げ、僕の翠の眼を覗き込む。
だが、僕は自信を持って冷静に答える。
「大丈夫だよ。葉真夜の書の内容はだいたい記憶した。どうやら結界術に関しては、基本は全て一緒のようだったから、おそらくは問題なく使用できそうだ。それに破邪の結界内なら、相手がなんであろうと、何とか太刀打ちはできるさ。あの結界だけは、時間と手間をかけた特別制だからね」
「…………おどろいた……! 随分と余裕があるのね。昨日の落ち込みようがまるで嘘みたい。たった一晩でこんなに心の強さをとり戻すなんて……。男子三日会わずんば即ち刮目して見よ、なんて言うけど、これがまさにそうね。それだけ言えるなら、心配は要らなさそうね」
僕の言葉に風花は感嘆し、納得する。
「それに、風花もついて来てくれるんだろう?」
僕は風花に向かって確信を込めた笑みを送る。
「ええ、もちろんそのつもりよ。今の状況で夕綺一人にさせておけるわけないじゃない。夕綺は私が守ってあげる。だから、あなたは自分の大切な人たちを守りなさい」
風花は、その黒く澄んだ瞳に力を込めて、そう答えてくれた。
「ありがとう、風花。……とはいえ猶予があるといっても時間は限られている。この葉真夜の書、学校にも持っていって、授業中にでもきちんと読み直すさ」
越後屋よろしく、ニヤリと笑って僕は葉真夜の書をカバンに入れた。
「あら、優等生じゃなかったの? 授業中に読書なんて、ふふ」
風花も悪代官よろしく、ニヤリと返す。
「まぁね、優等生だから、授業を聞かなくても大丈夫なのさ。それに、授業の間だけ僕の周りに人除けの結界を張っておけば万事問題ない。大掛かりな物と違って、僕の周囲のみに結界を張るくらいなら、朝飯前さ。それでも、まさか授業をサボるために葉真夜の力を使うとは、思ってもみなかったけどね」
僕は、手を上げるジェスチャーも加えて、おどけたように続けた。
「まったく、たいした優等生だわ。優秀なのも考え物ね、うふふ」
僕の言葉に、風花は楽しそうに笑った。
「おっと。もうそろそろ家を出る時間かな。ニュースが流れてる」
僕はいつもテレビのコーナーを時計代わりにしている。このニュースが終わって、朝の占いを見たら、学校に行く時間だ。
「そう、支度は大丈夫?」
「ああ、後は制服に着替えるだけだからね」
そう言い、僕は居間に掛けてある制服をすばやく着る。
「忘れ物はない?」
「大丈夫だって」
答えながらカバンを手に取る。
「ふ~ん、昔は忘れ物して先生に怒られたとか言って泣きそうになってたのに。立派になったわね」
風花は口の端を上げ、含みのある笑みを浮かべてそう言った。
「む、……よく覚えているな……、そんな昔のこと。ま、まあ、とにかく今は大丈夫だ!」
僕がそう答えると、風花はニヤニヤと満足げな表情を浮かべていた。
「そう、それならいいんだけど」
やれやれ、昔の僕を知ってるだけあって、たちが悪い。
だが、とりあえずは気にしないことにする。
気を取り直してニュースを見ることにしよう。
画面には地元局のアナウンサーが事件を伝えていた。
『昨日深夜、幌札市南区の旧桐嘉病院跡にて、バラバラにされた人の遺体の一部が発見されました━━。見つかっているのは右腕と頭部のみで━━━━。周囲に散乱していた所持品や服装などから、蒼ヶ原高校に通う市内在住の高校生、松浦慎さんとみられていますが、遺体の損壊が酷く、現在警察で身元を確認中━━━━。現場には犯人への手がかりはなく、犯人はまだ捕まっていない━━━━━━━━━━━━』
耳に飛び込んできた音が、僕の意識を揺るがす。
凍えるように冷たい現実が、鼓膜をすり抜けて直接脳髄に打ちつけられる━━━━。
そう、昨日、あの戦いの場となった惨劇の魔境だ。
救われない、悲運の被害者。
助けることもできず、弔うこともできなかった。
僕は、あれからすぐにでも警察に通報するべきだったのかもしれない。だが、あの直後に通報しては、駆けつけた警官も同じように死ぬ事になっただろう。
故に、かまいたちがあの場を去ったことを確認してから通報しようと思っていた。
だが、これは消極的な見殺しだ。死者に対して見殺しとはおかしいかもしれないが、そういうことだ。
彼の遺体を放置していた以上、その後死体が蹂躙されることはわかりきっていた。
遺体の一部しか見つかっていない━━━━否!
遺体は一部しか“残っていない”だ。
警察で残りの部位を捜索中だと伝えていたが、もう二度と見つかることは無いだろう。
━━━━なぜなら、
見つかっていない残りの体は、
すでに化け物の腹の中だ━━━━
僕は覚えておかなければならない。彼の名を。
━━━━松浦慎。同じ学校に通う同級生。
その亡骸を見捨てた罪を僕は忘れるわけにはいかないのだ。
それがたとえ、不可抗力だったとしても━━━━。
だからせめて、その名を刻んでおく。僕の心へと。
そして、通報しなかった理由はもう一つある。
人ならざる者の所業は、人間に知りうる術はない。
だから、僕が真相を知っていようとも、それを明かすことは出来ない。
この世の人間が“知り得ないこと”を、未知の視点からの情報で“知って”しまってはいけないのだ。それは“セカイ”に対する冒涜というものだ。それを知っていいのは、僕のような異端の存在と、一部の観測者と、存在するのならば神だけだ。
麻雀で例えてみよう。
卓という“セカイ”がある。
一人一人、個々の視点から見える自分の手配と、卓上の牌。それが人間の知りえる情報の限界。決して他人の手配や、裏を向けている牌を知ることはできない。
そして、卓に積み並べられた牌はまさに運命に等しい。そう、ツモる牌は最初から決まっているのだから。
決められた運命というものに、とても酷似している。
そして、運命は変えられる、というところまでそっくりだ。ほんの、ツモの順番が入れ変わるだけで、運命は大きく変わってしまう。
そして、捨て牌の選択。これはまさに人生での選択に等しい。選択を繰り返す人生というものに、これまた酷似している。
そう、麻雀というゲームは、小さな“セカイ”と言える。
そして、その“セカイ”において、“知りえない方法”で情報を知ることは、その“セカイ”における反則であり、脅威だ。
第三の視点からの情報。
全ての牌を透かしてみるような神の視点。
運命を意図的に変える牌の操作。
これらのことは、あってはならない、知ってはならないものだ。
見えない情報を知っていいのは、観測者と、やはり神だけかもしれない。
だから、これらの行為は“セカイ”への冒涜なのだ。
すこし話がそれてしまったようだ。
つまりは、“人の知らないセカイ”を知ってしまっている僕は、その事実や、手がかりとなるようなモノをこの“セカイ”に残すわけにはいかないのだ。
僕自身は、退魔の人間としての役割を全て果たそうなどとは思っていない。けれど、それでも異端の存在として最低限の義理がある。
未知のモノが絡んだ事件が起これば、首を突っ込んでくる輩もいる。未知なる存在に憧れる者は、今尚、必死にその存在を探し続けているのだから。
人の知りえない“セカイ”は、これからも“未知”であり続けなければならない。それだけは、守らなければならない。
廃れた血筋とはいえ、このくらいの義理は果たさねばスジが通るまい。
「……綺、……夕綺! ……夕綺ったら!」
風花に大声で呼ばれ、意識が現実へと戻る。
どうやら、随分と考え事に没頭してしまっていたようだ。
「あ、ああ……。ど、どうした、風花」
「どうしたじゃないわよ! 夕綺ったら、急に顔色が悪くなって、固まっちゃって。心配もするわよ!」
「……いや、もう、大丈夫だ。ただ、少し思い出してしまっただけさ。もう、僕の心は揺れない。そう決めたんだから」
僕は自分に言い聞かせるようにそう言った。
「そう━━━━、それならいいんだけど。……でも夕綺は真面目すぎるわ。必要以上に重荷を背負ってはいけない。半分は私が背負う、夕綺はただ前へと進みなさい。あなたに負い目なんてないわ。胸を張りなさい」
風花はやさしくそう言ってくれた。
「ありがとう、風花。その気持ちはとてもうれしいよ。そう言ってもらえると、だいぶ楽になる。でも、大丈夫だ。僕は、風花が思うほど思いつめてはいないよ。心配ない」
力強く僕は答える。
「そう……。わかったわ。でも無理はしないようにね」
「ああ。わかったよ。無理はしない、気をつけるよ。さ、もう学校に行かなきゃ。占いが終わりそうだ」
いつもの時計代わりの占いコーナーが終わろうとしている。もうそろそろ、家を出るタイムリミットだ。
眼帯を装着し、家を出ようとする。
だが━━━━
「しまった、自分の星座を見逃した」
そう思ったとき━━━━
『今日の12位は……ごめんなさい!蟹座のあなた!』
━━━━━━━━━━━━見逃していなかった。
;場面転換 アイキャッチ
今朝の蒼ヶ原高校は、いつもとは少し違う違和感と、ざわめきに包まれていた。
そしてその空気は、学校の敷地をも越え、校門前にまで漏れ出していた。
続々と校門をくぐる生徒たちが、口々に不穏な事件の内容について口にしていたからだ。
皆、今朝のニュースを見たのだろう。校門や昇降口で友人と合流すると、事件の話を上げていた。
僕は、それらの会話を極力聞かないようにして教室へと向かった。
なぜなら、
聞かずとも、全ての真相を知っているのだから━━━━━━━━。
2年A組の扉を開ける。
いつもの教室と、いつもと変わらないクラスメイト。
しかし、今日に限っては、それは少し違っていた。
このクラスも例に漏れず、同様のざわめきの中にあった。耳に入ってくる惨劇の内容は、すでにいささか食傷気味だ。嘆息しながら席に着く。
「おはよう、葉真夜くん」
そんな僕の気持ちなど知る由も無く、新城さんは声をかけてくる。
「おはよう、新城さん」
僕はいつもどおりに答える。
だが、新城さんの次の言葉は大体予想が付く。
いや、だれでも見当が付くだろう。さすがに、今日の話題はこれしかありえまい。
同じ学校に通う同級生の訃報だ。たとえ新聞の一面が米国大物スター選手のスキャンダルを報じようとも、この学校の生徒ならば、故人への敬意を表してその話題を出すであろう。
「ねえ、葉真夜くん。今朝のニュース見た?」
端正な顔を歪め、沈痛な面持ちで新城さんはそう口にする。
やっぱりか……、とは言うまい。むしろ、ここで話題にのぼらなければ松浦君は報われない。ここは、そう解釈しよう。
「ああ、見たよ。C組の松浦君のことだろ。酷い事件だ。今日はもう、その話題で持ちきりだね」
とりあえず無難な受け答えをしておく。
「うん、わたしもそう思う。今朝ニュースを見たときはビックリしちゃった。松浦くんとは一年の時、同じクラスだったから……。まさかこんなことになるなんて……。なにかの間違い……だったりはしないのかな……」
「そうだね……、もしそうだったら、それはどんなにいいことか━━━━」
僕は目蓋を閉じ、あの血に濡れた惨状を瞬時に思い出す。むせ返るような生臭い血の香りが再び鼻腔に蘇り、わずかに顔をしかめる。
「でも、犯人はまだ捕まってないんだよね!? もしかして……、今も犯人はこの付近にいるかもしれないのかな……?」
新城さんは俯き、不安げにそう呟いた。
「いや、そうとは限らんぞ!」
僕らの会話に割って入るように、海斗が僕の机に身を乗りだしていた。それ自体は構わないのだが……少し暑苦しい。
そんな僕の気持ちもお構いなしに海斗は続ける。
「俺のプロファイリングによると、犯人はもうこのあたりにはいない可能性の方が高い。とっくに逃げ出してるに決まってる。犯罪者ってのはそういうもんだろ。とにかく、現場から離れたがるもんだ。仮に、近くにいたとしても、この警戒された中、そう簡単に次の犯行には及べないさ。だから安心しな、新城!」
不安がる新城さんを安心させる為にか、海斗はつばを飛ばしながら力強く自説を展開した。まったく、暑苦しい奴だ。
そして海斗よ、いつからお前はプロファイラーになったのだ?
「う、うん。そうだね、倉形くん」
「ああ、僕もそう思うよ。油断はできないけど、気をつけて集団で行動していれば、まず大丈夫だと思うよ」
僕も海斗に倣い、新城さんを安心させる為に同意する。
「そう、そうだよね! でも、早く犯人、見つかるといいね」
新城さんはそう言って、顔を上げる。
━━━━━━━━犯人を“見つけるだけ”なら容易いのだが。
「ああ、そうだね。早く捕まるといいな。そうじゃないと、安心して学校にも行けやしない」
僕がそう答えると、
「まったくだ! 早いとこ事件を解決してもらいたいもんだ」
と、海斗も同調した。
━━━━ああそうだ、確かに早く解決しなくちゃな。
;キーンコーンカーンコーン
三人でそんな話をしているとチャイムが鳴った。
もうHRの時間か。
新城さんと海斗も、それぞれ席につく。
しかし、それから数分が経つが、なかなか先生が現れない。
いつもならチャイムと同時に来るはずの担任の先生が、今日は少し遅い。
やはり、事が事だけに、朝の職員会議が長引いているのだろうか。
そんなことを考えていると、教室の扉がゆっくりと開いて、担任の先生が入ってきた。
先生の表情からは、やはり普段とは違う緊張した気配が見て取れた。
そして、それを見た生徒たちにもそれは伝わって、教室内に張り詰めた空気が立ち込める。
そうして、沈黙の中、先生は重い口を開いた━━━━。
「今朝のニュースでしっている人もいるかもしれませんが、C組の松浦君が、事件に巻き込まれた……可能性があります━━━━」
……確かに、死体の損壊が酷い為、厳密に言うとまだ遺体が松浦本人であるかは、完全には確定されていない。
ゆえに、先生は可能性が皆無と知りつつ、便宜上そう口にしたのだろう。
しかし、それも時間の問題ではあるが。
「犯人も、まだ捕まっていません。しばらくは放課後の部活動も禁止とします。帰りも、可能な限り同じ方向の生徒同士で集団下校し、単独での行動を極力避けること」
担任の先生から語られることで、事件はいっそう現実味を増す。皆、身近に起こった惨劇を実感し、度を失う。
そんな息苦しい緊張感の中、一通りの注意事項を伝え終えた先生は、最後に、取り乱すことのないよう一括した。
そして、後はお決まりの儀式のように、出欠を取る。
かりそめの落ち着きを取り戻した教室に、出欠の確認をする声だけが流れている。
そうしてHRが終わり、今日も一日が始まってゆく。
欠席者は一名。昨日から続けて、蓮見が欠席だった。
特に連絡などは無かったという。
わずかな引っ掛かりを覚えつつも、僕は出欠黒板に記入をしに、職員室前へと向かった。多少わずらわしくも思うが、これも保健委員の業務である。
HRと一時限目の間のインターバル、人気の少ない廊下を進む。
朝の校内はシンと静まり返り、どこか閑散としていた。
他のクラスは、まだHRが長引いているのだろう。教室の扉から、顔を曇らせた先生の顔が覗いている。
どうやら、うちのクラスは比較的早くHRが終わった方らしい。
僕は廊下を進み、職員室前の欠席黒板の前に立つ。
黒板の前で、他クラスの保健委員とすれ違った。
軽く会釈をし、それを挨拶とする。
むこうも同じように会釈を返し、教室へと戻っていく。
2年A組の欄に、欠席者一名、と記入する。
立ち去る前に、ふと2年C組の欄に目を向けた。
そこには“欠席者”一名、と記入されていた。
まもなく授業が始まろうとしていた。
教室に戻った僕は、席につき、カバンから教科書とノート、そして付箋を取り出す。
一時限目の開始を告げるチャイムが鳴り響き、程なくして国語の担当教諭が入ってくる。
だが、僕はそれには委細構わず、付箋に、ある文字を刻んでゆく。
取り出した付箋を四枚剥がし、それぞれに一文字づつ、
『人』『除』『封』『界』と揮毫する。
本来なら、筆と、特別な墨を持って札に記すものだが、今回の場合は簡易的なものなので、付箋と筆ペンで代用する。一日限り、一回限りの結界ならば、これでも充分すぎるくらいである。
そうして、文字を記された付箋を机の四隅に貼り付けていく。念のため、目立たぬように文字は裏側に書いてある。
左上から順に、反時計回りに貼り付け、最後の右上に『界』の付箋を貼り、準備完了。
あとは人に聞こえないように、周りに気づかれないように、小さく無声音で言霊を詠唱する。
━━━━人は魔を、魔は人を━━━━
━━━━互いの真理を、理を織るべし━━━━
━━━━人の世にありて━━━━
━━━━人にあらざるものよ━━━━
━━━━魔において、魔であらざる者よ━━━━
━━━━人にあらざる全ての者よ━━━━
━━━━我が声を聞け━━━━
━━━━この血、この身は魔を討つ白羽の矢━━━━
━━━━我が言にて、その魂を解き放て━━━━
━━━━鏃 箆 一文字 杉成 麦粒 射付節 箆中節 袖摺節 羽中節 矢羽 甲矢 乙矢 走羽 頬摺羽 外掛羽 二枚羽 三枚羽 矢筈━━━━
━━━━箭つがえ━━━━━━━━
━━━━葉真夜が命ずる━━━━
━━━━━━━━結界 始動━━━━━━━━
詠唱を終え、術を発動させる。
付箋からほのかな、そして淡い光が放たれる。
四枚の付箋を全てつなぐように光は走り、結界は完成する。
これでこの机、及びその周囲五十センチ程度までは、だれも“人”は近づくことができない。
━━━━いや、それでは少し正しくない。
正確には、“人から認識されなくなる”、だ。
たとえ網膜には映っていても、それを認識できなくなるということだ。
この人除けの結界の中にいる今の僕は、ただの石ころ同然。
つまりは、はたから見れば無人の空席に限りなく近い。
出席はすでに取られているので、無人のように扱われても大事ない。
これで、今日はゆっくりと、この葉真夜の書を読むことができるだろう。
僕は教科書とノートをしまい、悠々と古ぼけた書物を取り出した。
さてと……、こんなときばかりは長い授業時間がありがたい。時間はたっぷりとある。今日はこの書を熟読させてもらうとしよう。
国語教諭がチョークで黒板を叩く音が響く中、蒼ヶ原高校の一日は始まっていった。
書を読みふけること数時間、一通り読み終えた僕は思い出したように時計を見上げる。長針と短針が寄り添うように並び、時刻はもうじき正午をむかえようとしていた。
随分と没頭してしまっていたようで、まるで時間の経過に気づかずに昼をむかえてしまったようだ。
まあ、丁度昼休みになったと思えばいい。
どうせ今日は、授業を聞く気など初めから無かったのだから、かえって都合が良いくらいだ。
それよりも、この葉真夜の書を読み終えたことの方がよっぽど重要だ。
昨日はざっと斜め読み程度にしか読んでいなかったが、改めて読むことでその内容を再確認することができた。
大体の内容は昨日の時点で把握していたが、精読することで、さらに葉真夜の結界術について理解することができた。
まず、葉真夜の結界術とは、基本的に法具を介して使用するものらしい、ということだ。
そして、その術の発動に必要な言霊の詠唱、必要な法具、魔法陣。各術において必要になる、それらのものは一通り記憶した。
そして、なんの媒体も無しに術を行うことは、非情に高度であるということも同時に記されていた。
いかに退魔の一族とはいえ、その身だけで術を行使することはかなわない。もし、できる者がいるとするならば、それは既に人の領域をはるかに凌駕する存在だろう。たとえ、本家の人間でも、そのような事が可能だった者はいないとされている。
つまり、葉真夜の力の本質は、翠眼による“視る”力だけでなく、法具を使いこなすことにある。と言っても過言ではないだろう。
この鉄扇を使いこなすこと、それが、葉真夜の力を使いこなすこととほぼ同義だ。
この書には、様々な結界術についての記載があるが、大半のものはこの鉄扇を使用して行うというものだった。
他の術に関しては、御札を使用することで発動させるものもあるが、あくまで補助的な物のようである。
とりあえず、ここまで術の使用法についてはある程度学ぶことができた。あとは、戦いに役立ちそうなものを特に選んで、実際に試しておこう。いくらなんでも、ぶっつけ本番で術を使用するほど、愚かではない。
現状でできることは、こんな所だろうか。
そして、ここまで葉真夜の書を読みつくしても、一つだけ、わからないことがある。
━━━━葉真夜の能力とは、“魔を見通すことに非ず”。
━━━━葉真夜の能力とは、“人ならざる者を受け入れること”。
僕には、いまだにその意味を理解できないでいる。
僕自身の認識では、この翠眼の力は、“魔を視ること”だとばかり思っていた。
だがそうでは無いと、この書の著者である先代の葉真夜は言う。
そして“人ならざる者を受け入れること”だと。
今はまだ、正直なところ、この真意がわからない。
だが、わからないものを、いつまでも考えていても仕方ないという結論に達し、今は自分にできることをやっておけばいいと、自分を納得させた。
━━━━さてと、もうチャイムが鳴る頃だ。
切りもいいし、後のことは昼食を取ってからまた考えることにしよう。
僕は古ぼけた書物を丁寧にカバンにしまう。
見上げると、ピタリと時計の針は一本に重なった。
さあ、昼休みだ。
午前の授業から開放された生徒たちが、思い思いの昼食を取り、それぞれの休み時間を満喫する。
朝の緊張した空気は、幾分やわらいだようだ。
今は、弛緩した気配が場を満たしている。
いや、食事時に凄惨な事件の話をする者もあるまいか。
そんなことを思いながら席を立つ。
さて、昼はどうするかな……、まあ、売店に走り出していない時点で、すでに答えは決まっているのだが。
今日は海斗をさそって、学食に行くとしよう。
僕は海斗の席に近づき声をかける。
「海斗、よかったら一緒に学食に行かないか?」
海斗は驚いたように振り返る。
「お、おう! 夕綺か?! チャイムが鳴った時にはもう姿が見えなかったから、とっくに売店に向かって走り出してるもんだと思ったぜ。珍しいな、夕綺が学食に行こうだなんて」
「僕もたまには学食へも行くさ。それに昨日、さそえと言ったのは海斗だろ?」
「ああ、たしかにそんなことも言ったな。わりーな、気を使わせて」
「気を使うのはかまわない。かまうのはお金を使うことかな」
「おいおい。言うようになったじゃねえか。優等生とはおもえん発言だな」
「ふふ、冗談だよ。今月は節約してたから、まだ昼飯に困るほどじゃない」
「そうかい、相変わらず生活感にあふれた奴だな。とても男子高校生とは思えん」
「お褒めの言葉をありがとう」
「褒めてねえよ。まあ、しっかりしてるとは思うけどな」
「さ、早く行かないと食堂も混む。そろそろ行こうか」
「おう、そうだな」
僕は海斗を促し、食堂へと向かった。
海斗と一緒に廊下を進む。
昼休みの校内は雑然としていて、人のにぎやかさが溢れている。だが、それに混じり、どこかしこから不穏当な単語が聞こえてくる。
━━━━C組の━━━━━━━━
━━━━松━━が━━━ころ━━━━
━━━━病院━━廃墟━━に━━━━
「へ、どうにも感じ悪りいな。どいつもこいつも、興味本位で話してら! まったくよ。少しは喪に服す気持ちは無いのかね」
海斗は苛立ちげにそう言った。
「ああ、海斗の言うとおりだな」
まったく僕も同感である。
人の死を悼むのならまだしも、興味本位で話題に上げるのはあまり良いものではない。
「ふん、まあいい。それより飯だ飯だ」
海斗は、そんな思いを断ち切るかのようにぶっきらぼうにそう言った。
「そうだな。まずは昼飯が大事だ」
僕も、この話題を切り上げることに賛成し、そう答える。
食堂の扉をくぐると、人と厨房の熱気がフロア一杯に満ちていた。
時刻は12:10
食堂内は食事を求めて訪れる生徒でごったがえしている。久しぶりに来ると、なんだか人に酔いそうな気さえしてくる。
僕と海斗は、列の最後尾に並び、注文の順番を待つことにした。
並びながら、注文するメニューを考える。
「夕綺、お前はなんにするんだ?」
と海斗。
「そうだな……、今日はラーメンにでもするかな。ここの醤油ラーメンはなかなかスープが旨い。学食とは思えないほどだ」
僕は腕組みしながら答える。
「ああ、たしかにな。うちの学食は、レベルの高さが市内でも有名だしな。じゃあ、俺は何にしようかな」
海斗も腕組みしながら唸る。
意外に列の進むのは早く、海斗が食事のメニューを考えている間に、もう僕らの番が迫ってきた。
さすがは、毎日昼時の修羅場をこなしている食堂のおばちゃんたち。客の捌きは完璧だ。動きに全く無駄が無い。味だけでなく、手際の良さもプロだな。
「はい! おまたせー! ご注文は?」
元気の良い掛け声が僕らに向けられる。
いよいよ、僕らの番が来た。
「僕は醤油ラーメンで」
「はいよ! 醤油ね!」
「倉形君は? 決まったかい!」
割烹着のおばちゃんは、海斗に向かって大きな声で話しかける。海斗は常連なだけあって、おばちゃんにも名前を覚えられているようだ。
「よし、決まった! 日替わりA定食!」
海斗は組んでいた腕を解き、A定食の札をビシっと指す。
「はい! 日替わりA定食ね! 醤油と日替わりA入りまーす!!」
おばちゃんは振り返り、厨房に向かって叫ぶ。
僕は代金を支払い、引き換えの札をもらった。
“8”と書いてある。
注文した料理できあがったら、この番号で呼ばれるという仕組みだ。
海斗も同様に、お金を払って札をもらう。
「俺は9番だ。後は座って待つとするか。さて、どこに座るかな?」
海斗は番号札をひらひらさせながら、フロア内を見回す。
「あっちの隅の方が少しすいてるな。あそこにするか?夕綺」
「ああ、僕はどこでもかまわないよ」
そう答えて、僕らは隅の席に腰を下ろした。
ここからだと、食堂内全体が見渡せる。
昼時の混雑した様子が一望でき、つい先ほどまでいたカウンター前は戦場であったことがよくわかる。
今尚、混雑は続き、戦いは熾烈を極めている。
しかしさすがかな、戦況は五分五分。おばちゃんたちも、決して負けていない。てきぱきと仕事をこなす。
まったく、どこかの居酒屋のアルバイトも見習って頂きたいものだ。
いや、僕は未成年だからお酒は飲みませんよ。あくまでも例えです。
「8番、9番でお待ちの方! カウンターまでどうぞー!」
マイクを通した声がフロア内に響き渡る。
「へえ、早いな。もうできたのか」
僕は思わずそう言った。手際がいいとは思っていたが、思った以上に早かった。
「そりゃあそうさ。そうじゃなきゃ、これだけの生徒の昼飯をカバーできねえだろ」
僕と海斗は、カウンターに料理を取りにいき、再び席に戻る。
「さてと、いただきます」
言いながら箸を割る。
「今日の日替わりは旨そうだぜ。いただきます!」
海斗も元気よく箸を割り、箸のささくれを擦り落としてから口をつける。
「うん、やっぱりここの醤油ラーメンはなかなかだな。味噌もおいしかったが、僕はやっぱり醤油派だな」
一口、麺をすすって僕は言う。
「こっちの定食もいいぜ~! 定番だが、カツ丼定食だ。ボリュームもあって、育ち盛りの高校生にはもってこいだぜ! 学食は、量をケチらないところがいいよな!」
海斗は満足げにカツ丼をたいらげていく。
僕も昼食に充足感を感じながら、ふと海斗に質問する。
「なあ、海斗。海斗は毎日こうして学食を利用しているのか? 前にも言ったが、たまには弁当とかにしたりはしないのか? 思えば、今まで一度も弁当を持ってきたのを見たことがない」
「ん? まあ、たしかに毎日こうして学食で済ましているな。どうもうちは親が忙しくていらっしゃるようでな。仕事が大事で、子供の弁当なんざ作ったりする雰囲気じゃねえやな~。それにまあ、別にいまさら母親の手作り弁当を楽しみにする年でもないしな。こうして食費を現金でもらってるほうが気も楽だ」
海斗が顔を上げ、少しかったるそうに答える。
心なしか、時折両親に対してわずかに棘のあるようにも感じるのは気のせいだろうか。
「そうか……、いや、少し気になっただけだ。気にしないでくれ。毎日学食だと食費もバカにならないだろうし、たまには皆で弁当をつつきあうのも楽しいだろうと思ってな」
あいまいな笑顔でごまかす。
そういえば、海斗は今まで自分の両親のことを語ったことはほとんどない。僕と海斗は子供の頃からの付き合いだが、昔からあまり家のことは話さない。
こうして、時折家の話になっても、どこかバツの悪そうな顔をしてはぐらかす。僕ですら知っていることは、海斗の父親が大会社の社長であるということ位か。
たしか、エステ業界トップの大企業と記憶している。それゆえ、子供の頃は本気で誘拐などを心配されて、側近の人間をボディーガードとして登下校に付き添わされていた時期もある。
事実、━━━━海斗は一度不審者に襲われそうになったことがある。
やはり、大会社の社長ともなれば何かしらの恨みを買うものなのか、自宅に匿名の脅迫文が届いたり、火炎瓶を投げ込まれたこともあるという。
おそらく、海斗の両親は中々に豪胆なのだろう。そうした行為に一切臆することも無く、むしろ屈することのないように過ごしていたようだ。
そんな中、ついに息子である海斗がその標的となった。社長に恨みを持った人間が報復行為として、より力の弱い者へと、弱点へと、その矛先を変える。
続きます。




