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「幼馴染が濡れるから」と婚約者が傘を持っていったので婚約破棄したら、公爵閣下の傘がいつも私に傾いています

掲載日:2026/11/06

「コレットが濡れるから、これ借りるよ」


婚約者のフェリクスはそう言って、私の手から傘を抜き取った。

今年に入って、三度目だった。


夜会の終わった玄関先には、細かい雨が斜めに降っていた。

フェリクスは空色の傘を開いて、幼馴染のコレット様の肩にさしかけ、そのまま馬車へ駆けていく。

振り返りもしなかった。


私は外套の襟を立てた。

慣れている。雨の中を歩くのは、子どもの頃から私の役目だった。


一歩踏み出したとき、頭の上で、ばさりと音がした。


雨が止んだ。

いや、止んだのは私の上だけだった。


見上げると、黒い大きな傘があった。

その柄を握っているのは、夜会のあいだじゅう壁際で誰とも話さずにいた、リヒテンベルク公爵アルフレート閣下だった。


「入れ」


低い声だった。

私が戸惑っていると、閣下は少しだけ眉を寄せて、付け足した。


「俺は濡れても困らない顔をしている」


確かに、そういう顔だった。

氷の公爵、と社交界で呼ばれている人の、雨粒ひとつ似合わない硬い横顔。


なのにその傘は、ずいぶん私の側に傾いていた。


◇


私、リーゼロッテ・ハルトマンは、伯爵家の長女として生まれた。


二つ下の妹のミーナは体が小さく、よく熱を出した。

だから雨の日、家族の傘はミーナのためにあった。


「リーゼは丈夫だから、大丈夫よね」


母は笑ってそう言い、ミーナを抱いて馬車に乗った。

迎えの馬車はいつも一台で、乗れるのは三人までだった。

母と、ミーナと、ミーナの乳母。


私は学舎から屋敷まで、雨の中を歩いて帰った。

靴の中に水が溜まって、一歩ごとにぐしゅりと鳴った。

濡れた肩は冷たいのを通り越して、そのうち何も感じなくなった。


八歳の冬、古くからいる下働きのマルタが、傘を一本くれたことがある。

骨が一本曲がった、灰色の小さな傘だった。


「お嬢様の傘ですよ。お嬢様だけの」


嬉しくて、その夜は枕元に立てかけて眠った。

翌朝、傘はミーナの部屋にあった。


「ミーナが気に入ったのですって。あなたはお姉さんでしょう」


それきり、私は傘を欲しいと言わなくなった。


十七歳でフェリクスと婚約したとき、私は初めて自分で傘を買った。

刺繍の内職で一年かけて貯めたお金で、空色の傘を。

婚約者と並んで歩くなら、傘くらいは自分で持っていたかったのだ。


けれど雨の日、フェリクスの隣には、いつもコレット様がいた。


コレット様はフェリクスの幼馴染で、子どもの頃、雨に打たれて高い熱を出したことがあるのだという。

「あのとき僕が傘を差していれば」と、フェリクスは今でも言う。

悪い人ではないのだ。ただ、守る相手が最初から一人に決まっているだけで。


「リーゼは丈夫だから、平気だろ」


傘を持っていくとき、フェリクスは決まってそう言った。

母と、同じ言葉で。


◇


閣下の傘の下で、私は馬車寄せまで歩いた。


たった二十歩ほどの距離だった。

なのに、雨の音がまるで違って聞こえた。

頭の上で、ぱらぱらと布を叩く音。

足元で跳ねる音。

それが自分に当たらないというだけで、雨はこんなに優しい音になるのかと思った。


「ありがとうございました、閣下」


ハルトマン家の馬車の前で頭を下げると、閣下は短く言った。


「あれは、君の傘だろう」


フェリクスが持っていった、空色の傘のことだ。


「……はい」


「三度目だな」


驚いて顔を上げた。

数えていたのは、私だけだと思っていた。


閣下は何か言いかけて、やめた。

それから黒い傘を私の手に押しつけ、御者に「出せ」と告げると、雨の中を自分の馬車へ歩いていった。


その背中は、すぐにずぶ濡れになった。

本当に、少しも困っていない歩き方だった。


◇


翌朝、私はベルント子爵家に婚約解消の申し入れを書いた。


不思議と手は震えなかった。

二年分の雨の日を思い出したら、書くことはいくらでもあった。

けれど結局、一行だけにした。


『傘は返していただかなくて結構です。その代わり、婚約をお返しします』


フェリクスからの返事は、その日のうちに届いた。


『わかった。君ならきっと、一人でも平気だろう』


最後まで、同じ言葉だった。


父は激怒した。


「格下の子爵家から婚約を返されるならまだしも、こちらから返すとは何事だ。お前のような可愛げのない娘に、次の貰い手などあるものか」


返す言葉を探していると、執事が青い顔で応接間に飛び込んできた。


「旦那様、リヒテンベルク公爵閣下がお見えです」


◇


閣下は応接間のソファに浅く腰かけ、出された紅茶に手をつけず、父に向かって一礼した。


「リーゼロッテ嬢に、婚約を申し込みたい」


父の手から、カップが落ちかけた。


「こ、公爵閣下が、うちの娘に? なぜ……」


閣下は少し考えて、それから、まっすぐ私を見た。


「昨夜、傘に入れた。責任を取らせてほしい」


そんな責任があるだろうか。

私は思わず笑ってしまって、慌てて口元を押さえた。

閣下は、私が笑ったのを見て、ほんの少し目を細めた。

それが閣下の笑い方なのだと知ったのは、もう少し後のことだ。


帰り際、お借りした黒い傘をお返しすると、閣下は「乾かしてくれたのか」と、それをとても大事そうに受け取った。


◇


リヒテンベルク公爵家に移ったのは、それから十日後だった。

婚約期間を公爵家で過ごし、半年後に式を挙げる。

父は二つ返事で頷いた。


公爵家の人々は、拍子抜けするほど温かかった。


「お嬢様、お部屋はこちらです。寒くはございませんか」


侍女のアンナは、私の荷物の少なさに目を丸くしたけれど、何も言わずに暖炉に薪を足してくれた。


執事のヨーゼフさんは白髪の穏やかな人で、初日に屋敷を案内しながら、玄関の傘立てを指さした。


「お嬢様の傘は、どちらにお立てしましょう」


「私、傘を持っていないんです」


ヨーゼフさんは一瞬だけ動きを止めて、「さようでございますか」と微笑んだ。


その日の夕食のあと、閣下に聞かれた。


「雨は、嫌いか」


「いいえ。慣れていますから」


答えてから、閣下の顔が少し曇ったのに気づいた。

変なことを言っただろうか。


「では、望みは」


「望み、ですか」


「何でもいい。ここで暮らすなら、欲しいものの一つくらいあるだろう」


欲しいもの。

考えたこともなかった。

欲しいと言ったものは、いつも誰かのものになったから。


黙りこんだ私に、閣下は「急がなくていい」と言って席を立った。


◇


答えが出たのは、三日後の夜だった。


アンナに髪を梳いてもらいながら、窓の外の星を見ていて、ふと口からこぼれた。


「……雨の日に、誰かと一つの傘に入ってみたいの」


アンナの手が止まった。


「一度でいいの。あの夜会の帰りの、二十歩だけじゃなくて。最初から最後まで、誰かと並んで、雨の中を歩いてみたい」


言ってしまってから、恥ずかしくなった。

十九にもなって、子どものような願いだ。


「ごめんなさい、今のは忘れて」


「忘れません」


アンナは、なぜか目を潤ませて、きっぱりと言った。


「絶対に、忘れません」


◇


翌朝から、屋敷の様子がおかしくなった。


まず、庭師のペーターさんが、朝食の席にやってきた。

七十を過ぎた、腰の曲がったおじいさんだ。


「お嬢様。わしの右膝は、雨の二日前になると痛むんでございます」


「は、はい」


「今朝はまだ痛みません。痛んだら、すぐにお知らせいたします」


それだけ言って、深々と礼をして帰っていった。


昼には、料理長が厨房の窓から燕の飛び方を見ていた。

燕が低く飛ぶと雨が近いのだという。


夕方には、厩番の少年が「蛙が鳴いたら教えます!」と走ってきた。


そして夜、ヨーゼフさんがそっと教えてくれた。


「閣下は今朝から、夜明け前に屋上へ上がって、西の空をご覧になっております」


「閣下が?」


「雲の形で、半日先の雨が分かるのだそうです。ご本人は、領地の作付けのためだとおっしゃっておりますが」


ヨーゼフさんは咳払いをした。


「作付けの時期は、先月終わっております」


私はその夜、なかなか寝つけなかった。

屋敷じゅうの人が、空を見上げている。

私の、子どもみたいな願いのために。


胸の奥が、熱いのか痛いのか分からなかった。


◇


雨は、なかなか降らなかった。


一週間、晴れが続いた。

ペーターさんの膝は痛まず、燕は高く飛び、蛙は黙っていた。


閣下は毎朝屋上に上がり、毎朝少しだけ不機嫌な顔で降りてきた。


「……今日も晴れだ」


「良いお天気ですね」


「良くない」


真顔でそう言うので、私はまた笑ってしまった。


五日目の朝、私は思いきって、閣下のあとについて屋上へ上がってみた。


夜明け前の空気は冷たく、東の端から差しはじめた薄明かりが、西の空の雲をかすかに照らしていた。

閣下は手すりにもたれて、じっと西の空を見ていた。

私に気づくと、驚いたように振り返った。


「なぜ来た。寒いだろう」


「閣下こそ。毎朝こんなに早く」


「作付けのためだ」


「作付けは先月終わったと、ヨーゼフさんが」


閣下は黙りこんだ。

それから、ばつが悪そうに上着を脱いで、私の肩にかけた。

上着には、閣下の体温がまだ残っていた。


「あの雲は、巻雲という」


閣下は、西の空に刷毛で掃いたように伸びる白い筋を指さした。


「あれが厚くなって、空が低い灰色に変われば、半日ほどで雨になる。今日はまだ薄い」


「お詳しいのですね」


「……昔、雨の日が嫌いだった。いつ降るのか分かれば、少しはましだと思って覚えた」


「今は、お好きなのですか」


閣下は少しだけ考えて、言った。


「今は、早く降ってほしい」


それは、私の願いのためだった。

そう分かってしまって、私は上着の襟元をぎゅっと握った。

借りた上着の中で、頬が熱かった。


晴れが続くあいだに、私は公爵家の人たちのことを少しずつ知った。

アンナには弟が三人いること。

ヨーゼフさんが、閣下のおむつを替えたことがあること。

閣下が実は甘いものが好きで、それを隠していること。


そしてある日、ヨーゼフさんが閣下の馬車の手入れを見せてくれた。


座席の下の物入れを開けると、傘が二本、きちんと並んでいた。

一本は閣下の黒い傘の替え。

もう一本は、真新しい、淡い若草色の小さな傘だった。


「五年前から、閣下の馬車には傘が二本積んでございます」


「五年前?」


「お嬢様が学舎に通っておられた頃です。雨の日、学舎の門の前を通ると、いつもお一人で濡れて歩いている令嬢がいらした。閣下はそれを見て、次の日から傘を二本積むようになられました」


私は、言葉を失った。


「けれど閣下は、あの通りのお顔とお声でございましょう。知らない男が急に傘を差し出せば、怖がらせてしまう。そう悩んでおられるうちに、お嬢様にはご婚約者ができてしまわれた」


ヨーゼフさんは、若草色の傘をそっと撫でた。


「この傘は、五本目でございます。古くなるたびに、新しいものに替えておられました。一度も使われないまま」


あの夜会の夜、閣下は「三度目だな」と言った。

数えていたのは、きっと三度だけではなかったのだ。


◇


八日目の明け方、屋敷じゅうが騒がしくなった。


「膝が! 膝が痛みますぞ!」


ペーターさんの声が中庭に響き、続いて厩番の少年が「蛙が鳴いた!」と叫び、料理長が「燕が地面すれすれです!」と窓から身を乗り出した。


そして、屋上から降りてきた閣下が、私の部屋の扉を叩いた。


「午後から、降る」


それだけ言った閣下の頬が、少し赤かった。


昼過ぎ、空が灰色に沈み、ぽつり、と最初の一粒が窓を打った。

やがて、しとしとと柔らかな雨になった。


アンナが、私に薄手の外套を着せてくれた。

いつもの、襟を立てて雨をしのぐための厚い外套ではなかった。


玄関に降りると、閣下が待っていた。

手には、あの黒い大きな傘が一本だけ。


「若草色のほうは、使わないのですか」


「今日は、一本でいいと聞いた」


アンナを振り返ると、彼女は真っ赤な顔でそっぽを向いた。

ヨーゼフさんは咳払いをし、ペーターさんは膝をさすりながらにこにこしていた。


扉が開いた。

雨の匂いがした。


閣下が傘を開き、私の頭上に差しかけた。


「行こう」


◇


私たちは屋敷の門を出て、町へ続く並木道をゆっくりと歩いた。


雨が傘を叩く音がする。

足元の石畳が、しっとりと濡れて光っている。

並木の葉から落ちる大粒の雫が、時々ぼたりと傘の上で弾けた。


私の肩には、一粒も落ちてこなかった。


靴の中も乾いていた。

外套の襟を立てなくても、首筋が冷たくなかった。


雨の中を歩くのが、寒くない。

そんなことがこの世にあるなんて、知らなかった。


並木道の終わりにある小さな橋の上で、私はふと閣下を見上げた。


そして、気づいた。


閣下の左の肩が、ぐっしょりと濡れていた。

上着の黒がさらに深い黒に染まって、袖口から雫が垂れている。

傘は最初から、私の側に大きく傾いていたのだ。


「閣下、肩が」


「知っている」


「どうして」


閣下は、少し困ったように視線を泳がせた。


「君の肩が濡れていないか、そればかり見ていた。自分の肩までは、見ていなかった」


その瞬間、何かがほどけた。


雨の日の学舎の門。

ぐしゅりと鳴る靴。

ミーナの部屋にあった灰色の傘。

「リーゼは丈夫だから」という、母の声とフェリクスの声。


誰かが私のために濡れてくれたことは、一度もなかった。


「……っ」


涙が落ちた。

傘の下なのに、頬が濡れた。

止めようとしても、止まらなかった。


「リーゼロッテ」


閣下が、ひどく慌てた声を出した。


「寒いのか。どこか濡れたか。すまない、傘が小さかったか」


「ちが、違うんです」


私は首を振った。

声が震えて、うまく言えなかった。


「生まれて初めて、雨が、冷たくないんです」


閣下は、しばらく黙っていた。

それから、空いているほうの手で、ぎこちなく私の頭を自分の胸に寄せた。

濡れた上着は冷たいのに、その奥が温かかった。


「これからは、雨のたびにこうする」


「閣下が風邪を引きます」


「引かない。俺は濡れても困らない顔をしている」


私は泣きながら笑った。

閣下の胸の奥で、どくどくと速い音が鳴っていた。

困らない顔の人の心臓は、ずいぶんと困った音を立てていた。


橋の下を、雨に打たれた川がさらさらと流れていく。

しばらくして、私は閣下の胸に額をつけたまま聞いた。


「ヨーゼフさんから、聞きました。馬車の、若草色の傘のこと」


閣下の体が、ぴしりと固まった。


「……あいつめ」


「学舎の門の前を、通っていらしたのですか」


「領地から王都の屋敷へ戻る道が、あそこしかなかった」


閣下は、ため息のように言った。


「君は、いつも背筋を伸ばして歩いていた。ずぶ濡れなのに、下を向かなかった。それを見るたびに、傘を持って降りようと思った。思って、毎回やめた」


「どうして」


「俺が急に降りていったら、君は泣いて逃げると思った。ヨーゼフにもそう言われた」


私は、思わず噴き出した。

十四歳の私が、雨の中で氷の公爵に傘を差し出される。

確かに、逃げたかもしれない。


「でも、あの夜会の夜は、降りてきてくださいました」


「三度目だったからだ」


閣下は、低く言った。


「一度目と二度目は、君の婚約者が戻ってくると思って待った。三度目は、もう待たないと決めていた」


雨の音が、少しだけ強くなった。

私は閣下の濡れた上着に頬を寄せたまま、目を閉じた。

もう待たなくていいのだと、私も思った。


◇


屋敷に戻ると、門から玄関まで、ずらりと人が並んでいた。


ヨーゼフさんも、アンナも、ペーターさんも、料理長も、厩番の少年も。

全員が傘を差し、その傘を少しずつ重ね合わせて、門から玄関までの屋根を作っていた。


傘の回廊の下を歩くあいだ、誰も私の涙のことには触れなかった。

ただ、アンナがこっそり温かい手巾を握らせてくれた。

厨房からは、生姜湯の湯気が流れてきた。

閣下の濡れた肩には、ヨーゼフさんが無言で大判の布をかけた。


「閣下の肩の分までは、わしの膝も予報いたしませなんだ」


ペーターさんがそう言って、皆が笑った。

閣下だけが、少しむっとした顔をしていた。


その夜、着替えを済ませて居間へ降りると、閣下が若草色の傘を手に待っていた。


「これは、君のだ」


差し出された傘を、私はすぐには受け取れなかった。


「でも、今日は一本で」


「一本で歩くのは、俺がいるときだけでいい。俺がいないときに、君が濡れるのは困る」


閣下は、少し言いにくそうに続けた。


「ここでは、誰も君の傘を持っていかない。妹御も、元の婚約者もいない。だから、安心して自分の傘を持っていてほしい」


私は両手で傘を受け取った。

柄は細くて、私の手にちょうど合う太さだった。

きっと五本とも、この太さだったのだろう。


「……私の、傘」


「そうだ。君だけの」


八歳の冬に聞いた言葉と、同じだった。

今度は、朝になっても、誰の部屋にも行かなかった。


翌朝、玄関の傘立てには、閣下の黒い傘の隣に、若草色の傘が立っていた。

ヨーゼフさんが、満足そうに何度もその前を通り過ぎていた。


◇


それから半月ほどして、フェリクスが公爵家を訪ねてきた。


雨の日だった。

応接間に通された彼は、見覚えのある空色の傘を手にしていた。


「リーゼ、これを返しに来た。それと……話がある」


フェリクスによれば、コレット様は先日、別の家の令息と婚約したのだという。


「僕が傘を差しに行ったら、コレットに言われたんだ。『私、自分の傘くらい持ってるわ。昔からずっと』って」


彼は、困惑したように眉を下げた。


「だから、戻ってきてほしいんだ。君は僕のことを一度も責めなかっただろう。君は丈夫だし、文句も言わないし、一緒にいて楽だった」


隣に座る閣下の気配が、すうっと冷えた。


けれど私が口を開くより先に、フェリクス自身が言葉に詰まった。


「楽、だった……」


自分の言った言葉を、自分の耳で聞いたのだろう。

フェリクスの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。


「……僕は、君が濡れているところを、一度もちゃんと見ていなかったんだな」


「ええ」


私は、静かに頷いた。


「丈夫な人でも、雨は冷たいのよ、フェリクス」


フェリクスは長いこと黙っていた。

それから空色の傘をテーブルに置き、小さく「すまなかった」と言って帰っていった。


彼が自分の傘を差して雨の中へ出ていくのを、私は窓から見送った。

その背中を、もう追いかけたいとは思わなかった。


「追いかけなくて、いいのか」


後ろから、閣下の声がした。

振り返ると、閣下は腕を組んだまま、ひどく不安そうな顔をしていた。

氷の公爵が、こんな顔をするなんて。


「追いかけません。私の傘は、ここにありますから」


玄関の若草色の傘を指さすと、閣下は「そうか」とだけ言って、そっぽを向いた。

耳まで、赤かった。


◇


半年後、私たちの結婚式の日は、朝から雨だった。


ペーターさんの膝は二日前から痛んでいたし、閣下は夜明け前から屋上で空を見上げていたけれど、誰も式を延ばそうとは言わなかった。


教会を出ると、石段の下まで、屋敷の皆が傘の回廊を作って待っていた。


閣下が、黒い傘を開こうとした。

私はその手をそっと押さえて、自分の傘を開いた。


空色の傘だった。

フェリクスが返しに来た、私が初めて自分で買った傘。


「今日は、私が差します」


閣下が目を瞬かせた。

私は背伸びをして、傘を閣下の頭の上に差しかけた。

そして、閣下の側に、うんと傾けた。


「入ってください。私、濡れても困らない顔をしていますから」


閣下は、しばらく私を見下ろしていた。

それから、ふっと目を細めた。

あの、閣下だけの笑い方で。


「……困る。俺が」


閣下は私の手ごと傘の柄を握り、真ん中に戻した。

結局、二人とも片方の肩が少しずつ濡れた。


公爵家の玄関の傘立てには今、傘が三本ある。

閣下の黒い傘と、若草色の傘と、空色の傘。


それなのに雨の日、私たちが開くのは、いつも一本だけだ。


そしてその一本は、今日も、少しだけ私の側に傾いている。


(了)


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