独奏・ 花岡健二 一度目の人生 【鳥籠の設計図と、決して勝てない音】
俺は、花岡健二。自他ともに認めるトップ証券マンだ。
高校時代は、松本で俺の名前を知らない奴はいないくらい有名なサックスプレイヤーであり、カリスマ的な学生指揮者だった。自分の才能と見栄えの良さには、昔から絶対的な自信があった。
大学は、同期の「人間計算機」こと唯一無二の親友である佐藤誠が進んだT大……とまではいかなかったものの、W大学に現役合格し、ジャズ研でさらにウデとセンスを磨き上げた。
証券会社に入社して数年。順調に出世街道を歩んでいた俺に、キャリアアップのための地方転勤の話が出た。
俺は迷わず、地元である松本を選んだ。東京での激しい競争に勝つための、ほんの短い凱旋のつもりだった。
松本に戻り、俺は誠が所属している市民吹奏楽団を覗いてみることにした。
思えば高二の時、母親を亡くして抜け殻になったアイツに毎日張り付いて、再び立ち直らせたのは俺だ。あの時、「新薬を作るためにT大へ行く」と誓ったアイツの目に宿った執念の炎を、俺は誰よりも知っている。
それなのに、アイツは親父さんの介護のために、あっさりと東京でのエリート研究者の道を諦め、松本の大学病院で薬剤師として堅実に働く道を選んでいた。立派な職業だが、かつてのアイツの底知れない才能を知る俺からすれば、せっかく俺が救い上げてやった人生を再び家族のために犠牲にして窮屈に収まっている、相変わらず真面目で不器用な奴だと内心で鼻で笑っていた。
俺が久しぶりに楽器をケースから出し、軽く一息吹き込んだ瞬間。
団員たちの目の色が、明らかに変わったのがわかった。
圧倒的な華と、人を惹きつけるカリスマ性。やっぱり、俺はこうでなくっちゃな。
案の定、女性団員たちは俺の登場に色めき立ち、熱っぽい視線を送ってきた。だが、俺は冷ややかに受け流していた。俺みたいな男に本気になったら火傷するぜ、と。
……そんな中。
キャーキャー騒ぐ周囲の熱気の中で、ただ一人、俺の音にまったく媚びない女がいた。
聞けば、浅野真由子とかいうらしい。
上品で凛とした佇まいで、クラリネットを丁寧に吹きこなしている。だが、彼女の瞳はどことなく虚ろで、深い諦観のようなものを宿していた。
それは不思議なことに、自らの将来を諦めたまま生きている最近の誠が纏っている「すべてを諦めたような沈黙の雰囲気」と、ひどく似ていた。
俺はなぜか、彼女のその虚ろな目が気になって仕方がなかった。
欲しい。俺のものにしたい。
東京に腐るほどいる、積極的で化粧の濃い、計算高い女たちはもう飽きた。
仕事で戦い抜いて家に帰った時、「お帰りなさい」と温かいご飯を作って、俺のためだけに微笑んでくれる。そんな、汚れを知らない完璧な女が欲しい。
この俺様が、自分から声をかけたいなんて思うとはな。
ニヤリと笑って、俺はとうとう真由子に声をかけた。
「浅野さん。次の日曜、空いてる? 俺、暇なんだけど……よかったらお茶でもしない?」
真由子は突然の誘いに訝しげな顔をしたが、やがて少しだけ頬を赤らめて「……ぜひ」と返してくれた。
(……可愛い)
実際にサシで話してみると、真由子は驚くほど賢く、そして可憐だった。俺の話を静かに聞き、控えめに笑う。
ますます欲しい。自分だけのものにしたい。俺だけの妻にしたい。
自分でも、ここまで一人の女に執着する気持ちに驚いていた。……これが『恋』なのか。
だからこそ、俺は慎重になった。焦らず、急がず、ゆっくりと。ランチや買い物を重ね、少しずつ外堀を埋め、確実に距離を詰めていった。
ところが。
ある日の練習中、俺の視線の先で、誠が真由子に親しげに話しかけているのを見てしまった。課題曲の解釈について相談しているようだったが、二人の間に流れる空気は、俺が絶対に立ち入れない「聖域」のように穏やかだった。
しかも、その会話の直後の合奏だった。
誠の音が、明らかに変わったんだ。
ただの正確な数式だったはずのアイツの音が、高校の全盛期すら生ぬるいと思えるほど、数段深く、豊かな音に化けた。
まるで、真由子という存在と触れ合ったことで、アイツの中で眠っていた何かが強烈に熱を帯びたかのように——少なくとも、俺の耳にははっきりとそう聞こえた。
誠は俺の親友だ。T大という学歴では勝てなくても、サックスの腕と音楽の華やかさだけは俺が上だと思っていた。
だが、俺はずっと……アイツの「音」には逆立ちしたって勝てないことを、魂の底で理解していた。
正確で、丁寧で、すべてを包み込むような深い愛情を持った、バンド全体を支えるホルンの音。俺がどれだけ派手なサックスのソロで観客を魅了しようと、俺には絶対に、アイツのあの温かい音は出せない。
誠には、絶対に負けたくない。
俺の胸の奥で、ドロリとした黒い感情が渦巻いた。
俺は、人生で初めて「女のこと」で強烈に嫉妬したのだ。アイツの音に包まれて安心しきっている真由子の顔が、無性に腹立たしく、そしてどうしようもなく欲しかった。
直後、予定よりも早く東京に戻る内示が出た。
俺は、賭けに出ることにした。
まだ正式に付き合ってすらいない。だが、俺は有無を言わさぬ勢いで真由子にプロポーズした。エリート証券マンとしての肩書き、自信に満ちた言葉、すべてを駆使して彼女の逃げ道を塞いだ。
真由子は、戸惑いながらも頬を赤らめ、静かに頷いてくれた。
(勝った)
その瞬間、俺の中で強烈に征服感と安堵が弾けた。
これで、真由子は一生俺のものだ。
あの虚ろな目も、可憐な微笑みも、もう誠に見せる必要はない。外の世界で自由に羽ばたく必要なんてない。俺が用意した完璧な鳥籠の中で、俺の金で飯を食い、俺の帰りを待っていればいい。
その扉を開けて初めて『女』にするのは俺だ。これこそが、誠への完全なる勝利だ。
誠の音なんて、聴かなくていい。
俺だけを見ていればいい。
俺だけを、感じていればいいのだ。
——だが、俺の完璧だったはずの鳥籠は、数年後にあっさりと軋み始めた。
真由子が、俺の子供を身籠ったのだ。
最初は、俺の遺伝子を残すという事実に強烈な優越感を覚えた。これで俺たちの絆は完璧なものになると確信していた。
だが、妊娠中からすでに、奇妙な違和感は始まっていた。
つわりや体調不良を理由に、あいつが横になる時間が増えた。俺が疲れて帰宅しても、笑顔での出迎えもなく、完璧に整えられた温かい食事が食卓に並ばない日が増えていった。俺を最優先に労う余裕をなくしていく真由子を見て、俺たちの完璧だった空間に、少しずつ、不快な不協和音が鳴り響き始めていた。
そして——『遥』という娘が生まれた途端、すべてが決定的に狂い始めた。
家に帰っても、真由子はもう完全に俺を見ない。常に泣きわめく赤ん坊にかかりきりで、俺のための温かい食事も、俺を労う可憐な微笑みも完全に消え失せた。彼女の瞳の中の「一番」が、俺から赤ん坊へと完全にすり替わったのだ。
「……誰の金で生活できてると思ってるんだ」
苛立ちに任せて怒鳴りつけると、真由子は怯えた目で俺を見る。
違う。俺が欲しいのはそんな目じゃない。俺だけを慕い、俺だけを見つめていた、あの温かい微笑みが欲しいのに。
俺はあいつを愛している。愛して、俺の妻にしたんだ。あいつは俺の所有物だ。
だからこそ、たとえ自分の娘であっても俺以外のものに彼女の心が奪われるのが、耐えられないほど苦しかった。
俺は息の詰まる家から逃げるように、夜の街で他の女を抱いた。
俺の肩書きと見栄えに群がる、安っぽい女たち。彼女たちは俺をちやほやし、手軽に優越感を満たしてくれたが……決して心は満たされなかった。
どれだけ他の女を抱いても、俺の心の底にこびりついているのは、真由子の姿だけだった。
一番愛している女に、一番愛されたかっただけなのに。
俺は、自分の手で完璧なはずだった鳥籠を壊し、中の彼女を傷つけ、怯えさせることでしか、彼女の視線を自分に繋ぎ止める方法がわからなくなっていたのだ。




