断片・徹【計算停止の魔法と、陽気な侵入者】
ある日の夜。
週末、誠の家に泊まりに来ていた真由子は、不意に鳴った玄関のインターホンに肩を揺らした。
急いでモニターを覗き込むと、夜の暗さで少し不鮮明ではあるが、そこに映っていたのは間違いなく愛する恋人の顔だった。ただ、いつも病院へ着ていくカチッとしたスーツとは違う、少しラフで派手な服装をしているように見える。
(誠さんは研究の都合で大学に行っていて、そろそろ帰ってくる時間だ。ちょっと驚かせようとしてるのかも)
真由子はふふっと微笑み、急いでチェーンを外し、ガチャリとドアを開けた。
「お帰りなさ――」
「ただいま、マイハニー!」
勢いよく飛び込んできた男は、バチンッ!と効果音が鳴りそうなほどの完璧なウインクを飛ばしてきた。
「…………えっ?」
真由子は完全にフリーズした。
顔は、間違いなく誠だ。骨格も、鼻筋も、あの少し切れ長で涼しげな目元も、寸分違わず同じである。しかし、そこから放たれるオーラが、高校時代の出会いから今日に至るまで、誠から一度たりとも感じたことのない異次元のチャラさだった。
誠の顔でこんなことをされると、脳の処理が追いつかない。
(なんか変……! どうしよう、鳥肌たってる……!)
真由子が腕をさすりながら後ずさっていると、男は人の良さそうな笑い声を上げた。
「いやー、ごめんごめん! 驚かせちゃったね。隣に住んでる、誠の兄の徹です。君が誠の彼女の真由子ちゃん? はじめまして」
「あ……お隣の。お兄、さん」
「君の事は、誠からたっぷり聞いてるよ。なんでも、君が女子高生の頃からずっと大好きだったんでしょ? 筋金入りだよねえ」
「えっ……!?」
真由子は目を丸くした。誠は、家族にそんなプライベートなこと(しかも数年越しの激重な片思い)をペラペラと話すようなタイプには到底見えない。
(誠さんって、お兄さんには何でも話してるのかしら……?)
真由子の疑問を見透かしたように、徹は口角を上げた。
「まぁ、あいつが自分から話すわけないから、俺が巧みに聞き出したんだけどね。あいつの口を滑らせるための『合言葉』があるんだよ」
徹が再びパチンとウインクを飛ばしたその時、背後から殺気立った足音が近づいてきた。
「兄さんっ!!」
血相を変えた誠が、息を切らして駆け寄ってくる。
「何度言ったらわかるんですか! 隣だからって、家に来る前には必ず電話をすると約束したでしょう!」
「だってお前が、いつまで経っても俺に真由子ちゃんを会わせてくれないからさ〜。待ちきれなくて来ちゃった」
あっけらかんと言う徹に、誠は深々とため息をつき、真由子を庇うように自分の背中へ隠した。
徹はその日を境に、ちょこちょこと二人の様子を見に(冷やかしに)やってくるようになった。
時は巡り、真由子の妊娠が確定した日のこと。
誠はめずらしく、夜遅くに徹を家に呼び出していた。
「本来なら僕たちが出向くべきなんだけど、夜遅いから義姉さんたちに迷惑がかかるからね」
そう言う誠を見ながら、真由子は一月ほど前に結婚の報告をするために初めて会った徹の家族——優しく穏やかな義姉・恵と子供たち——を思い出していた。
つい先程、真由子の実家で浅野家の父に対し、汗だくで悲壮な土下座をして入籍の許しを得てきた誠。婚姻届の証人欄に署名をもらった足で、今度は兄である徹に証人の署名をもらうためだった。
テーブルの上に置かれた婚姻届と、まだ全く目立たない妊娠八週の真由子のお腹を交互に見比べ、徹は目を丸くした。
「いやー、お堅い誠が『できちゃった婚』とはね! お前も案外やるなあ」
ニヤニヤとからかう徹に対し、誠は眉間に深いシワを寄せ、イラッとした声で即座に訂正した。
「順序が違います。僕のプロポーズと、あちらのお義父さんへのご挨拶が先です。兄さんたちにもご報告しましたよね。妊娠がわかったのはその後、今日です」
「んなわけないじゃん! 完全にフライングだろ! ハハハ!」
徹は豪快に笑い飛ばすと、ペンを取ってスラスラと証人欄に署名をした。
そして、真由子に向かって満面の笑みを向けた。
「イェーイ! これで俺にも、美人で賢い妹ができた!! 真由子ちゃん、この堅物をよろしくね!」
そして、結婚式当日。
新婦の控室で出番を待っていた真由子のもとに、親族代表(新郎の父代わり)としての格式高いモーニングコートに身を包んだ徹が、ひょっこりと顔を出した。
「真由子ちゃん、おめでとう。すごく綺麗だよ」
「お義兄さん……ありがとうございます」
徹は部屋の中央まで歩み寄ると、いつものチャラチャラした雰囲気をスッと消し、誠にそっくりな真面目な顔つきになった。
「あのさ、少しだけ、真面目な話をしてもいいかな」
「はい」
「うちは父さんはもう……亡くなって四年になるのか。母さんも僕が大学生のときに亡くなってもう二人きりだから、僕が話しておく。
誠はね……小さい時からまるで計算機みたいで、家族と特定の人以外には一切の感情を見せないような子供だったんだ。まぁ、誠も大人になったいまはうわべだけは愛想あるんだけどね。……でも、真由子ちゃんを好きになってから、あいつはすごく変わった」
徹の瞳に、弟への深い慈愛の色が滲む。
「あいつの感情は、ずっと止まっていたんだよ。だから、まだまだ年齢に感情が追いついていないところもたくさんあると思う。極端すぎて、真由子ちゃんが戸惑うことも多いはずだ。……それにね、誠は昔から、辛いことがあると全部一人で抱え込もうとするんだ」
徹は少しだけ目を伏せ、遠い過去を思い出すように言った。
「親父が亡くなった時もそうだった。あいつ、本当は誰よりも真由子ちゃんに縋りたかったはずなんだ。でも、真由子ちゃんの隣に立派に立つ男でいるために、一人きりで耐えてたんだよ」
徹は、真由子と真っ直ぐに視線を合わせた。
「だから、もし誠が辛そうな時は……あいつが一人で抱え込んでいるその辛さを、真由子ちゃんがそっと半分持ってあげてほしい。誠は間違いなく、一生真由子ちゃんが好きなままだと思うから。真由子ちゃんも、どうか誠のこと、ずっと好きでいてやって。そして、あいつの不器用な気持ちを支えてやってほしい」
真由子は胸がいっぱいになり、静かに頷いた。
「……はい。私も、誠さんを一生愛し抜きます」
その答えを聞いて、徹はパッといつもの明るい顔に戻った。
「よかった! あとね、あいつが理屈っぽくなって本音を言わない時は……」
徹は真由子の耳元に顔を寄せ、ゴニョゴニョと内緒話をするように囁いた。
「——って言うと、一発で黙るから。俺が使ってた合言葉。そうだな、ためしに『なぜ薬の研究を始めたか』とか、聞いてみたら?」
真由子が目を丸くした直後、バタンッ!と控室のドアが勢いよく開いた。
新郎姿の誠が、鬼の形相で立っていた。
「近いです! 僕の奥さんが綺麗だからって、いくら身内でも近すぎます!!」
誠はものすごい剣幕で徹を引き剥がし、真由子の前に割り込んだ。そして、間近で真由子の花嫁姿をまじまじと見つめた瞬間。
「…………」
誠の動きがピタリと止まった。怒りのオーラがスッと消え去り、代わりに耳の先から首筋まで、ゆでダコのように真っ赤に染まっていく。
「ま、真由子ちゃん……き、きれ……っ」
言い終わる前に、ガクンッ。誠はへなへなとその場に崩れ落ちてしまった。
「えっ!? ま、誠さん!?」
「あっはっは! 計算機が完全にショートしちゃった」
徹はお腹を抱えて笑いながら、床にへたり込んでいる弟の背中を叩いた。
「ほら、しっかりしろ! 自分の花嫁だろ!」
「……うう……っ」
真っ赤になった顔を両手で覆いながら、誠はひねり出すように呟いた。
「真由子ちゃんが……綺麗すぎて……腰が抜けた……」
「ぷっ……あっはっはっは!」
S大病院で「冷徹な人間計算機」と恐れられている男の、あまりにも情けなく愛おしい姿だった。 徹はひとしきり笑い転げた後、涙を拭いながら満足そうに頷いた。
「誠、もう大丈夫そうだね。じゃあ俺は向こうに行ってるから。二人とも、お幸せに!」
嵐のように去っていった徹。残されたのは、完璧なウェディングドレス姿の美しい花嫁と、床で真っ赤になって固まっている不器用な計算機だけだった。
その日の夜。
ホテルの一室で、夫婦として祝福されたあとの初めての夜を迎えた二人。
穏やかな時間の流れの中で、真由子は控え室で徹に言われたことを尋ねた。真由子もずっと聞いてみたかったことだった。
「ねえ、誠さん。どうして……T大の研究室で、薬の研究をしようと思ったの?」
誠は少しだけ瞬きをし、いつものように理路整然と語り始めた。
「それはね、当時のドラッグデザインにおいて、標的タンパク質の立体構造解析が急務だったからだよ。僕の計算能力を用いて、コンピュータ上でレセプターとの結合親和性をシミュレーションすることで……」
専門用語を機関銃のように羅列する誠。
真由子は小さく息を吸い込み、徹から授けられた魔法の言葉を唱えた。
「——『計算停止!』」
ビクッ!!!
誠は肩を跳ねさせ、目を見開いて完全にフリーズした。
沈黙が降りた部屋の中で、真由子は誠の瞳を優しく見つめ返した。分厚い計算機の装甲が剥がれ落ち、そこには一人の不器用な青年の素顔があった。
やがて、誠は観念したように、ぽつり、ぽつりと本当の理由をこぼし始めた。
「……母さんが亡くなってすぐ、新しい薬が開発されたってニュースを見たんだ」
誠の声は、かすかに震えていた。
「もし、あと少しだけ早くその薬が世に出ていれば、母さんはあんなに早く亡くなることはなかったかもしれない。……だから、僕が、作る側に回ろうと思った」
ただの、「母親を救えなかった息子」としての素顔。
真由子は胸の奥が熱くなるのを感じながら、誠の背中に腕を回し、そっと抱きしめた。
「……教えてくれてありがとう。もう、計算していいよ」
真由子の温もりに包まれながら、ハッと我に返った誠は、みるみるうちに耳まで真っ赤に染め上げた。
「あ、兄さんの仕業だね……! それは反則だから、使っちゃだめだって何度も言ってるのに……!」
あわあわと狼狽える夫が可愛くて、真由子はふふっと吹き出した。
「うーん、どうしようかな。とっても便利だから、誠さんが浮気してるんじゃないかって疑う時があったら、また使おうかな?」
いたずらっぽく笑う真由子に対し、誠は赤面したまま真剣な顔つきに戻り、真由子の額に自分の額をコツンとくっつけた。
「……うん、その確率はゼロパーセントだ。だから、君がその言葉を使う機会は、もう一生来ないよ」




