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暗闇からの警告

作者: 紅花
掲載日:2026/05/26

こちらの作品、ジャンルはホラーとして書いています。

まだ若かった頃に見た夢を文章にしたものです。

どうぞお楽しみください。

 暇だった。そう、暇だったんだ。そうとしか表現できないような時間だった。今なら天井の染みを数えたっていい。そう思うほどに暇な時間だ。大学から出された課題は視界の端に映る机の上に山積みだ。提出期限も迫っている。そんなことはわかっている。

 だが、手をつける気になれなかった。多少は関心があるからと選択した民俗学。本当に少しだったんだ。課題を出されてやる気になるほどには、のめり込んでいなかった。つまるところ、俺は現実逃避をしているのだ。目の前の課題から逃げて天井を眺めている。

 窓の外はもう真っ暗で空にはわずかに見える星が瞬いている。田舎では星がよく見えるというが、実際はどうなのだろうか。寒空の下で見る星の瞬きには何か特別な美しさがあるのか?

「……行ってみるか」 

 田舎に行く、という意味ではない。そんな情熱はないし第一、金もない。だから、手軽に住んでいるマンションの屋上に行ってみることにしたんだ。暇を持て余した金のない大学生には似合いの選択だ。寒いから少しだけ空を見上げてすぐに帰ってくるつもりだったから鍵はかけなかった。そう、すぐに帰ってくるつもりだったんだ、俺は。

 古ぼけたコンクリートの階段をタン、タン、と響く足音を聞くともなしに聞きながら登っていく。本来なら屋上への扉は鍵がかかっているものだ。だが、以前どこぞの悪ガキが鍵を壊してから屋上への出入りは自由になった。その内に管理人が気づいて、余計な出費が出たとぼやきながら修理業者を呼ぶだろう。

 しばらく登って見上げれば鉄の扉が見える。所々に錆がある、これまた古ぼけた扉だ。ドアノブを回して開けば蝶番が軋み、ホラー映画のような金属音をたてる。今となってはチープな演出だが、暗闇の中で一人ならまた話は変わってくる。闇を恐れるのは人間の本能というものなのだろう。

 けれどその時の俺はもっと恐れなければならないものがあったんだ。それは人間だ。あの時の俺は鈍くて気づけなかったが。一応は先人としてここで忠告をしておこうか。何か違和感を感じたら良心も道徳も投げ捨てて逃げたほうがいい。人生を台無しにしたくないのなら。

 さて、話を戻そう。扉を開いた俺を寒風が迎える。肌に刺さるような冷たい風だった。もうそれだけで元の暖かな部屋に帰りたくなったが、一応は目的を果たそうと扉を閉めて屋上に出る。そこで俺は奇妙なものを見つけたんだ。いや、ものという言い方は適切じゃない。そこには少女が二人、全裸で立っていたんだ。







______________時が止まった。








 俺はまず自分の正気を疑った。頬をつねったり、瞼を閉じてみたり、そんなことをしてみたんだ。もちろん少女たちは消えない。そこに立ち、笑みを浮かべてこちらを見ていた。こんな寒空の下、全裸で微笑む少女たち。薄気味悪かった、さっさと背中を向けて見なかったことにして帰りたかった。だが、俺はそこで道徳心なんてものを引っ張り出してしまったんだ。中途半端な良心で少女たちに声をかけてしまった。口を開くには少しばかりの勇気が必要だった。

「……き、君たちどうしたんだ……? け、警察に……。そうだ、すぐ近くに交番があるんだ……」

 そんな間抜けなことを言ったと思う。長い黒髪の少女が年齢に似合わぬ蠱惑的な笑みを浮かべる。

「お兄さん、私たちを心配してくれるの? 優しいのね」

「私たちはね、おじさんが服を持ってきてくれるのを待ってるの」

「お、おじさん? そいつが君たちをここに置き去りにしたのか?」

「置き去り……?」

 不思議な様子で首を傾げる少女を見てじわじわと焦燥感が湧いてきた。俺が二十年の人生で培った常識というものを、少女は持ち合わせていないように見えたからだ。このままではいけないと本能的に思ったんだ。思ってしまったんだ。中途半端な良心がまたも働いた。さっきも言っただろう、良心や道徳は投げ捨てろと。

「お兄さんよくわからないことを言うのね」

「ねぇ、姉さん。ここは寒いわ」

「ああ、そうね。凍えてしまいそう。お兄さん、聞いてくれる?」

「……な、何をだ……」

「ほら、あそこに倉庫があるでしょう? あそこで風をしのぎたいの。お兄さんも一緒に来てくれたら嬉しいわ。そのほうが暖かくなるから」

「…………」

「……駄目かしら?」

 冷や汗が止まらなかった。頭の中はぐちゃぐちゃの真っ白で、何を言うべきなのかもわからなかった。ただひとつだけ、この少女たちを放っておいてはいけないと理性が叫んでいた。それほどに、彼女たちは無垢で哀れな被害者に見えた。見えたんだ、その時の俺には。

「……わ、わかった……。俺も行こう。倉庫に入ったら俺の上着を貸すから……、それを着たら俺の部屋に行こう……」

 俺は鍵と一緒にスマホも部屋に置いてきてしまった。本当に間抜けなことをした。だがそれも仕方ないだろう?こんなことに出くわすなんて夢にも思わなかったんだから。蝶番の鳴き声を聞きながら倉庫の扉を開く。中は真っ暗で、外からの明かりでわずかに内部を見ることができた。コンテナや角材が置いてある、なんてことはないただの物置だった。

「よし、君たち中に入れ。すぐに上着を貸すから」

「ありがとう、お兄さん。本当に優しいのね」

「ええ。とっても優しいから、これはお礼よ」

 少女たちの裸をなるべく見ないように、背中を向けて上着を脱いでいた俺の耳に奇妙な言葉が届く。お礼?今はお礼を言うような状況じゃない、だから少女たちにそう伝えようと思って振り返ろうとした瞬間、腕にチクりとした痛みを感じた。それが何なのか考える間もなく俺の視界は暗転していく。最後、目に入ったのはわずかに光る針だった。







■■■■■■■■■■■■■■■■







パッと意識が浮上するような感覚があった。夜中に悪夢を見て逃げるように目覚めるあの感覚だ。だが、目覚めたはずなのに周囲は真っ暗で何も見えない。手で周囲を探ってみてもなんの感触もなかった。おかしい。なにか、床だったり空気の動きだったり、そんなものを感じるはずじゃないか。なんで何も感じないんだ。

 周囲は黒一色で感覚は何もない。えらく現実感を欠いた状況だった。俺はまだ夢でも見ているのか?さっき目覚めたような感覚があったのに?意味がわからなかった。とりあえず立ち上がってはみたものの、自分が本当に立っているのか、それさえも曖昧で自信を持てない。人の意識がこんなに脆いとは知らなかった。最初は混乱していた俺は、だんだんと恐怖を感じるようになってきた。考えてみれば当然の感情ではある。

 普段当たり前にある感覚が全てないんだ。地面を踏みしめる感触も、空気を吸い込み心臓が鼓動する感覚も、自分の体すら触ってみてもなんの感触もない。なんだこれは。俺はゾンビにでもなっちまったのか!?

 今の俺の状況は本当に意味不明だ。こんな状態になっても恐怖を感じない人間のほうが嘘だろう。俺はここで何をすればいいんだ。どうすればいいんだ。そもそもここは出られる場所なのか?疑問ばかりが湧いてきて、歩けど歩けど何も変化はないしどこにも辿り着かない。恐怖に急かされるように足早に歩いていた俺は、その内どこからか湧きあがる絶望なんてものに足をすくわれて止まった。歩いてどうなる、何も変わらないじゃないかという絶望、歩けど歩けどなんの変化もないことへの諦観。そんなものが俺を蹲らせた。

 闇だけをじっと見つめている内に、後悔が顔を覗かせはじめてきた。あんな薄気味悪い子どもなんて助けようとするべきじゃなかったんだ。思い返せばあの少女たちと関わってから、こんなわけのわからない状況になったんじゃないか。それに、俺が意識を失う寸前に見た鈍く光るあれは針だったように思う。そうだ、あいつらが俺に何かをしたんだ。でなけりゃおかしいだろう。そう考えれば、俺を取り巻いていた絶望と諦観が少しずつ怒りへと変化していく。

 あんな子ども助けなきゃよかった。助けようとなんてしなきゃよかったんだ。道徳も常識も良心も投げ捨てて部屋に帰ればよかった。俺の人生は今日ここで台無しにされたんだ。ふざけるな、ふざけるな。しばらく塞ぎこみ恨み言を吐き続けていた。けれどそれも次第に衰えていく。人間は極限の状態に追い込まれ、どうしようもないとわかると思考をシャットダウンするようにできてるらしい。俺はもう、考えることも億劫になってきていた。

「……どうしてだ……。なんでこんなことになったんだ……」

 俺は何か取り返しのつかない間違いをしたのか?そんなささやかな問いかけも闇に溶けて消えていった。これが俺の顛末。二十年続いたつまらない人生の終焉。

 だから言っただろう。人生を台無しにしたくないのならさっさと逃げろと。この世は善人が馬鹿を見るんだ。
















 僅かな星が輝く空を通す硝子窓から視線を外して、少女はエアコンから流れてくる温かな風を享受する。通り抜けた風は、少女の美しい黒髪を靡かせてふわりと壁に衝突した。

「快適ね」

「そうね、姉さん」

 青年を昏倒させた後、少女たちは青年が住んでいる部屋を探しあてていた。鍵のかかっていない部屋は然程時間もかからずに見つけ出すことができた。その手慣れた様子は、今回が初めてではないのだろうと容易に察することができる。

 しばらく温かい風を堪能した後、少女たちは布団に潜りこみ他愛のない話でクスクスと笑い、指を絡ませ合う。そうして二人で過ごしていると、玄関から嗄れ声が聞こえてきた。余命幾ばくなのかと勘繰りたくなるような、掠れて、聞き取りにくい声だったが少女たちは聞き取ることができたようだった。

「おじさん! 遅いわよ。私たち草臥れて部屋を見つけてしまったわ」

「ああ、それはすまなかったな。今回も上手くやったかい。誰にも見られなかったろうね?」

「ええ、もちろん。私たち捕まりたくないもの」

「それにおじさんがくれたこの薬すごい効果だわ。お兄さん、倒れてピクリとも動かなくなってしまったんだもの」

「ああ、そうだろう、そうだろうとも。その薬は手に入れるのに苦労した」

「適当に腕に刺してしまったけど、大丈夫だったかしら」

 白く滑らかな手に握られている注射器は中身がほとんど空になっていた。まだ少しばかり残っている液体は、鮮血のように赤くどこか毒々しさを感じさせた。

「刺した相手が倒れたのなら大丈夫だろう。その薬は効果覿面だからねぇ」

「へぇ、そうなのね」

 少女は然程興味がないようで注射器をさっさと老爺に渡す。老爺が注射器を黒い鞄にしまっているのを見て、少女は思い出したように目を煌めかせて話しかける。

「そうだわ、おじさん。服は買ってきてくれた? 可愛いものじゃないと嫌よ?」

 少女は甘えるような上目遣いで唇を尖らせる。そのあどけなく無垢な様子は見る者の心を和ませるだろう。何も知りさえしなければ。

「ああ、ああ、もちろん、買ってきたとも。可愛らしいワンピースを二着さ。見てごらん」

 少女たちに渡されたワンピースは一着は胸元に黒いリボンをあしらったブラウンのもの。細部にレースの装飾があり、控えめながらも少女の愛らしさの中に潜む妖しい美しさをささやかに主張させていた。

 もう一着はパープルのワンピースであった。袖口にレースのリボンが装飾されたハイネックのワンピースは控えめながらも気品があり、着る者の美しさを引き立てるようだった。

「どうだい、気に入ったかい?」

「ええ、もちろんよおじさん。私にも妹にもよく合う素敵なお洋服だわ!」

「そうかい、そうかい、そりゃあ良かった。私も悩んだ甲斐があるというものさ。それじゃあ、お礼にいつものアレをやってくれるかい?」

「いいわよおじさん。今日はどんな趣向をお望みかしら?」

「そうだな、そろそろ妹と一緒にやってくれてもいいんだよ?」

「あら、おじさん。最初の約束をお忘れなのかしら。私の妹には何もさせないわ。その約束を違えたのなら、おじさん。妻子を失う覚悟はあって?」

「あ……、ああ、そうだったね。忘れていたよ。悪かった」

「これからは、決して忘れないでね。おじさん」

 少女の言葉尻は肌に刺さる風のように冷たかった。だが、その冷たさすらも盛り上がるためのスパイスであるかと言うかのように、老爺は性急に服を脱ぎ始めたのだった。老人が少女に覆いかぶさる、その光景は異常と言えるものだったが、それもずっと遠くから見れば人々の営みと変わらない。空から見る窓の明かりには何一つ違いはなく、陰りもなかった。ただ一人の青年が闇に沈んだという、それだけの一日。



余談ですが、青年が閉じ込められている真っ暗闇の世界は植物状態になって見ている夢という設定があります。


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