親父のレ・バンナ
ここは兵庫県神戸市……とは言っても、誰もが思い浮かべる異人館やポートタワーの輝きとは無縁な、西の山を越えた先にある田舎町だ。
『市街化調整区域』という、家を建てることすら制限された土地。 見渡す限りに広がるのは、パッチワークのように入り組んだ田畑と、歴史だけは無駄に古い農家がポツポツと点在する、お世辞にも都会とは言えない風景だ。 最寄りの駅までは車で二十分。バスは一時間に一本あればマシな方で、自転車で三宮へ行こうものなら、山越えの試練に足が死ぬ。 ここは、エンジンを唸らせて軽トラが走り抜ける、完全なる車社会の領域だ。
東を向けば、深緑を湛えた荒々しい山々が屏風のようにそびえ立つ。南に 目を凝らせば、巨大な吊り橋が申し訳程度に小さく見える。
農道の乾いた砂が、青い稲穂を揺らす風に混じり、夏の匂いを運んでくる。 そろそろ蝉たちが、命の限りに鳴き声をぶつけ合おうとする季節。 俺の物語は、そんな土と草の匂いが染み付いた場所から幕を開ける。
俺は、いつもの若宮神社で仕事の依頼を受けていた。
※若宮とは、本宮から分霊された、言わば本家と分家のような存在で、日本各地に点在している。
自分で言うのもなんだが、今の流行りをこれっぽっちも意識していない、寝癖のまま跳ね散らかしたボサボサの頭。剃るのが面倒で放置された無精ヒゲ。 身長だけは無駄に高いが、低い人に合わせるのが癖になったのか、あるいは重力に負けているのか、常に身を屈めた猫背が定位置だ。
ジャージのポケットに両手を突っ込み、顎を突き出しながら社の壁に背中を預けているその姿は、お世辞にも『若者の爽やかさ』なんて言葉とは縁がない。
「ふぁ〜……あ……」
社の静謐な空気をぶち壊すような、緊張感のない欠伸がこぼれるピッチピチの二十二歳。
本来なら人生で最も輝いているはずの時期だが、俺の場合は初対面の相手から決まって『落ち着いている』だの『貫禄がある』だのといった、精一杯のオブラートに包まれた評価をいただく。 要するに、ただ単に老けて見えるだけだ。
自分でも鏡を見るたびに『三十路を越えた苦労人』に見えることがある。そんな、精神年齢よりも外見の劣化速度が先行している男、それがこの俺、『紫楠 采六』だ。
「采六。次の『直し』は、ちと厄介そうなんだが……俺様の『堕居州』が、どうしてもおめぇを指名したがってるんだよなぁ」
「……」
顔に深い皺と複数の傷をもつ白髪の男が、白い髭の生えた顎をポリポリと掻きながら、六面ダイスを社の石畳に転がした。
ダイスは、物理法則を無視したような慣性で、カラカラと転がり続ける。
まるで意思を持っているかのように、石畳の凹凸を縫い、執拗に俺の足元を狙ってくる。
俺の仕事は、業種で言えばサービス業。 職種は……『魔狩勅』だ。
ちょっと聞き慣れないし、検索しても出てこない。 変換ミスか中二病の造語にしか見えないが、これでも歴とした日本の職業だ。
一般人に気付かれないように悪魔を倒したり管理したりして、人々を守る。そのための特殊な訓練(という名の虐待に近いシゴキ)を受けた連中だけがなれる仕事。
『悪魔を倒すだけの簡単なお仕事です。残業なし、有給消化率百%、ボーナス四.五ヶ月分。今なら就職お祝い金十万円!』なんて、ホワイト企業を装ったキラキラ求人広告に引っかかって始めたわけじゃない。
実態はこうだ。
『悪魔を倒すだけの、この上なく死に近いお仕事です。二十四時間三百六十五日、常にオン! 二十四時間戦えますかって? 戦えるかじゃない、戦う以外選択肢はない。ボーナスはないが、命の値段だけは無茶苦茶に高い……とは言え、死ねば無料奉仕だ』
俺だって好きで、こんな血生臭いバケモノ相手のボランティア紛いのことをしているわけじゃない。 家業なんっすよ、家業。 断れば『一族の恥晒し』として親父に物理的に消されるか、破門されて路頭に迷うかの二択しかない究極の同族経営。
社長は家族、社員も家族。
今、楽しそうにサイコロを振っている『頭』が社長で、俺をこの世に産み落としやがった元凶の親父。
俺は『番』という名の、使い捨て上等の平社員で、息子。
そんな、絵に描いたようなブラック同族企業の構図がこれだ。
親父の振った六面ダイスは、不気味なほど鮮やかに【6】を上にして止まった。
「な? 6だろ? こんなこたぁ滅多にないんだがなぁ」
親父は不思議そうな顔でダイスを拾い上げた。 叩いたり、耳に当ててみたりしている。海の音でも聞こえるんだろうか。
この『堕居州』と呼ばれる六面ダイスは、一族の家宝なのだそうだ。 代々その時代の『頭』に受け継がれ、今は、この浴衣に雪駄履きの七十代ジジイの持ち物だ。
七十代と言っても、その辺の縁側で茶を啜っている年寄りとは威圧感が違う。
百八十センチある俺と負けず劣らずの長身。その背筋は、定規を当てたかのように真っ直ぐだ。 何より、浴衣の袖から覗く前腕の肉密度がおかしい。
血管が浮き出ているのではない。鋼鉄のワイヤーを編み込んで皮を被せたような、生物としての説得力を欠いた筋肉量だ。
言いたくはないが、俺より二回りは太い腕をしている。
往年のジェロム・レ・バンナの腕に、宿儺の残虐を足して、エシディシの不死身さを纏った理不尽の化身。
親父の名は、閒間 飛八
本人は『ただの引退間際の老人』を自称しているが、裏の世界では知らない者がいないほどの有名人らしい。 日本古来から続く『魔狩勅』の一族、『明鏡衆』の最高権力者にして、この呪われた会社の社長さんだ。
この『明鏡衆』ってのがまた、ややこしい組織図をしてやがる。 基本構成は三段階。全体を束ねる指示役の【頭】。現場で体を張る実行役の【番】。そして、一線を退いて若手をシバき倒す指導役の【外番】だ。
例外を除いて全員が血の繋がった親族なんだが、ここからが面倒くさい。
現在の『頭』は親父だが、実働部隊である六人の『番』は、全員が腹違いの兄弟姉妹。つまり、親父が方々で種を蒔いてきた結果の産物だ。
さらに一族の奇妙な掟で、俺たち兄弟は全員『母方の姓』を名乗ることになっている。だから俺は親父の『閒間』ではなく『紫楠』を名乗ってるし、他の兄弟も苗字はバラバラだ。これは悪魔に一族の拠点を特定させないための、古臭い防衛策らしい。 ちなみに、現在俺たちを指導している七人の『外番』は、親父の兄弟姉妹。つまり俺にとっての叔父・叔母にあたる連中だ。
頭は代々、『堕居州』の出目に従って番に【直し】と呼ばれる、悪魔退治の仕事を依頼することになっている。 だから、立て続けに仕事が来ることもあれば、全く回ってこない時もある。 で、今回は6番を指名したもんだから、俺の出番ってわけだ。
「で、どう厄介なんだよ?」
「あぁ、これだ」
親父は浴衣の胸元から六枚の写真を出した。
ひったくるように写真を受け取った俺は、トランプのカードを切るような手慣れた動作で、一枚ずつ後ろへと回していく。 コンマ数秒の視覚情報。脳が弾き出した結論は、『共通点ゼロ』だ。 性別も、年齢も、背格好もバラバラ。 まるで無作為に選ばれた通行人のスナップ写真のように、一貫性のない六人の男女がそこに写っていた。
「今回の標的は、六匹か」
「いや、これが全て『同じ個体』だという話だ」
「へえ……姿を変える能力ってやつか」
「ああ。だがどうやら、その姿以外にはなれねぇみたいでな」
「なら話は早ぇじゃねぇか。五種類のどれかを殺ればいいんだろ?」
「まあ、そうなんだろうが……」
「楽勝じゃねぇか」
「だが、問題があってな」
「なんだよ?」
「……数が多いんだ」
「あぁん? でも、そいつ一体を殺せばいいんだろ?」
「ああ、でもな、見分けがつかねぇんだよ」
いつもは『悪魔? 殺しゃぁ終わりだ』と豪語し、バケモノ相手に鼻歌まじりでクナイを振るう親父が、どういうわけか今回は言葉を選んでいる。 その眉間の皺は、ただの老け顔によるものではない。獲物の喉笛を狙う猛獣が、逆に死角を突かれるのを恐れているような、ヒリついた警戒心だ。 配下の悪魔がいくら多くても、本体を一匹仕留めれば、他の個体は霧のように消えて済む話なのだが、親父の沈黙はその『当たり前』が通用しないことを示唆していた。
「ははーん、頭も耄碌されましたなぁ〜?」
「ぁあ?」
「6種類の姿も覚えられねぇなんてなぁ~、わかりまちゅか〜? むっちゅでちゅよ? む・っ・ちゅ♥ いーち、にー、さーん……ほら、お手々をグーからパーにして、もう一本でちゅよ〜! よちよち、じーじ頑張れ〜い!」
俺は両手を使って大袈裟に指を六本立て、おちょくるように唇を突き出して挑発した。
親父の額に青筋が浮き上がる。ギチィ、と奥歯が鳴る音が聞こえたかと思うと、網膜に焼き付いていた親父の姿がブレた。『あ?』と思った時にはもう遅い。
視界から完全に消え去った親父が、物理法則を無視したような鋭さで俺の死角へと滑り込む。気づいた瞬間には、背後から冷たい殺気と、丸太のように太い、『左レ・バンナ』が俺の喉元を容赦なく、猛烈に締め上げていた。
脳への酸素供給が断たれ、急速に現実と夢の世界との境界線が薄まる。
だが大丈夫、脱出方法はこうだ。肘の部分を両手で押し上げて、その隙間から首を抜く。こんな時のためにあのシゴキをがあったんだ。
俺は藻掻きながらも必死に肘を押し上げた……だが、親父のレ・バンナはビクともせず、更に締め付けを増した。
「んんっぐっ!」
マジかっ! 嘘つき! こうなったら自力でこじ開けるしかねぇ!
俺は残った力を振り絞り、全体重をかけて強引に首を引き抜こうと暴れた。
だが、それは完全な悪手だった。 隙間を作るどころか、摩擦で余計に頸動脈が締まり、目の前に火花が散った。
「ぐっ、げっ……!」
視界が真っ白になり、意識が遠のきかけたその時だった。
「あら〜、甘ちゃん坊や〜、いい子でちゅねぇ〜。え? おちりでちゅか? あ、おちりが痒いんでちゅか〜? 掻いてあげまちゅねぇ〜、えいっ、えいっ、えいっ♥」
背後から聞こえるのは、殺人鬼のごとき恍惚とした親父の裏声。と同時に、右手のクナイが俺のケツをリズミカルに、かつ正確に突き刺した。
まるで鶏肉の皮を包丁の先で突いて、縮むのを防ぐかのようなプロの職人めいた手際だ。
「痛ってぇ!!」 ケツに走る鋭い痛みで、沈みかけていた意識が強制的に叩き起こされる。
クソ、これならいっそ気絶してた方がマシだったんじゃねぇか!?
「わかった! わかった、ギブ! 降参! 降参ッ!!」
俺が腕を連続でタップすると、ようやく締め付けが緩んだ。
「プハッ! ゲホッ……スゥ~」
酸素! 酸素が美味い! だが、呼吸は確保したものの、首元の腕はまだ離れてくれない。
「んふふふ〜、わかればいいのよっと!」
「痛てぇぇっ!」
親父はトドメの一突きをケツに見舞ってから、ゴミでも捨てるような手際で俺を突き飛ばした。
俺は砂利の上に無様に転がり、ケツを抑えながら「ヒィーヒィー」と、陸にあげられた深海魚のように目が飛び出し、ピチピチと悶え痙攣した。
「まだまだ鍛錬が足りねぇぞ〜? 采六ちゃ~ん♥ ムッフッフ〜、おむつ変えまちゅか〜?」
完全に調子に乗っている。この七十代ジジイ、孫を愛でるような顔をしながらやってることは暗殺術の披露だ。
悔しい、あまりに悔しい。 だが、ここで汚名返上とばかりに飛びかかっても、さらに深い「ケツの穴」を増やされるのが関の山だ。
俺は震える手で地面を這い、何とか立ち上がってジャージの砂を払った。
見てろよクソジジイ……。てめぇだって、あと十年もすりゃ腰も曲がって、その自慢のレ・バンナも『ソフトさきイカ』みたいにヒョロヒョロになるんだ……。
そしたら、毎日そのクソ重てぇクナイを俺がケツに叩き込んでやるからな……!
心の中で精一杯の呪詛を吐き散らし、隣で仁王立ちしている親父の、血管の浮き出た前腕を見上げた。
…………ダメだ、こいつが老衰するビジョンが1ミリも浮かばねぇ。
むしろ百年後もピカピカの頭で俺の孫のケツをクナイで突いてそうな気がする。
「ハァ……。んで? 何をそんなに心配してんだよ」
「言葉の通りだ。数が多いんだよ」
「だからぁ、この写真の奴を見つけて倒せばいいだけだろ?」
俺はしゃがみ込み、神社の冷たい石畳の上に一枚ずつ、丁寧に写真を並べてみた。




