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R SQUARE  作者: あんこ
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1.不在証明

 浮野辰(うきの たつる) 15歳 秋


 その日俺は獣と出会った。それは猛々しく、雄々しい。月光に艷めく赤い毛並みと、鋭い爪。牙から滴り落ちる血液。

 それは人間か、はたまた怪物か。境界線の揺らめきが、輪郭をぼやかす曖昧が。

 俺の心の奥を魅了した。

 

 それまでの陰鬱で悲哀な俺の人生を、大きく変えてくれた運命の瞬間。


 人生で二度はないと思える特異点。

 それはきっと 今 だ。






ーーーーーーーーーーーーーーーー



 考えるべきは明日。今日でもなく、昨日でも、明後日でもない。

 ただ明日のことを考えていた。

 何を食べるかとか、何をするかとか、何もしないかとか。

 それは別に守らなくていい。

 ただ遠い未来の事を考えると、暗闇が広がっている感覚に陥る。

 過去を振り返ると、トラウマが心を染める。

 今を考えると、悲観的な自分が嫌いで仕方なくなる。


 だからこその明日。

 不安定でも少しだけ鮮明で、ハッキリしてないけど明日はすぐそこにある。

 その矛盾が俺の心を大きく支えていた。

 

 嘘だ。

 支えられてなどいない。

 少しずつ、削られている。 

 その先にある暗闇が、少しずつ形を帯びているのを感じている。

 俺は、俺が強くないことをよく知っている。

 

「つまりイオンとは、原子に帯びる電子が過不足することで起きる不安定な状態を指す。この状態の原子は電子が減ると陰イオン、増えると陽イオンとなり....。」

 中学三年生の秋。文化祭が終わり、全ての生徒が部活動を引退。受験に対する大きな不安が高まり、クラス全体に緊張感が立ち込めると共に、もう少しで終わりを迎える中学生活に最後の思い出を作ろうとする時期。

 良くも悪くも活気にあふれる教室の中で、俺は一体何をしているんだろうか。

 勉強もろくに集中せず、将来も考えず、ただ明日の事を考える。

 ノートには何も書かれていない。問題を解く気もない。

 俺にはやるべきことも、やりたいことも思いつかない。

 やれないことが多すぎるのだ。

 俺には何もない。何もできない。

 何かをする余裕もない。

 ...駄目だ。また悲観的になっている。

 注意していないといつもこうだ。

 無理にでもポジティブなことを考えろ。そうでなければ何も考えるな。

 

「...それで、後期の中間テスト。つまるところ高校受験前の最重要のテストでこの点数。あと約三か月は地獄が待ってると思っとけよ。」

「俺、別に高校行きたくないですし...。」

 進路相談室兼、生徒指導室。ここに呼び出された俺は、明石(あかいし)先生に呼び出されていた。

「中卒で働くことが別に悪いとは言わない。しかし高校を出ないとお前の夢は叶わないぞ。」

「いつの話をしてるんですか。」

「辰が小学2年生の時だな。」

 明石先生と俺には長い関わりがある。というのも、当時の家の隣に彼女は住んでいたのだ。

 俺の両親との仲が良く、俺からすれば姉の様な存在と言えるのだろうか。

 だから俺のことを彼女はよく知っている。

 俺がここの中学を選んだ理由も、彼女がいるからという理由で母から半ば強制的にだ。

「...もうそんな夢、見れないですよ。」

 俯き、ひとりごとのように呟く。

「そんなことを言うな。生活のサポートは私が行おう。分からないことがあったら教えよう。辰は自分の夢を追いかけてもいいんだ。」

「そんなこと!!!」

 彼女の励ます言葉に憤りを覚えた俺は、思わず声を荒らげる。

 そしてすぐに、冷静さが心を支配する。

「もういいんです。本当に、子供の頃の夢ですし。」

「それは変わったのか?それとも無くなったのか?」

「どうなんですかね。でも最近になって、少し考えが変わってきたような気がします。」

「....それならいい。」

 俺の手元に多くの冊子が手渡される。

 それには主要5教科のまとめテキストだった。

「必要ならやっておけ。そうじゃなければやらなくていい。」

「...はい。」

 多分俺はこれをやらない。やりたくない。やれない。

 しかし感謝の気持ちもある。そう思って鞄に入れようとした時だった。

「待て。」

 その一言と共に、俺の手首が掴まれる。

 滲むような痛みが俺の顔を歪ませる。

 その表情によって、彼女は確信を得たのだろう。

 彼女のもう一方の手がワイシャツの袖に触れようとした時に、俺は痛みには目もくれず瞬時に手を引っ込めた。

「責めはしない。怒りもしない。私は辰の置かれている現状を知っているから気持ちは分かる。でも指標は示すべきだと思っている。児相の奴らは適当な部分が多いしな。」

「そんなことないですよ。彼らは距離感を重んじているだけです。」

 その言葉に彼女はため息を零す。

「私が過干渉と言いたいのか?」

「そうは言いませんけど....。」

「まぁ過干渉でもいい。兎に角今はその手首に関してだ。」

 彼女の目線が厳しいものになっている。

 自分でも何故こんなことしたのか分からない。

 始めは包丁で手を滑らした時だった。傷口から滲み出す血と、ピリピリとした痛み。激痛とは言えないぐらいの傷に何となく安心感を覚えたんだ。

 それからというもの、夜中限界が近いと感じた時に逃げるようにしてやっていた。

 自分を問い詰める時もあった。意味はあるのかと。

 しかし、それでも、落ち着いたのだ。

「私の言いたいことは分かるな。」

 やめろと言いたいんだろ。

 それぐらい気付かれた時点で察してるよ。

 でもさ、じゃあ何が俺の心を落ち着かせるっていうんだよ。結局別の自傷行為に走って、それもまた禁止にして。

 いたちごっこで、俺はどうしたらいいんだ。

 そもそも....

「そもそも、何か迷惑かけましたか?」

「なんだと?」

「何したって別にいいじゃないですか。誰にも迷惑はかけてないんだし。今回はバレましたけど、普段から見えないように生活してるし。」

 寧ろ自傷に済んでるんだ。自暴自棄でも物事の分別はあると褒めて欲しいぐらいだ。

「あのなぁ、お前が傷つくと...」

「誰が悲しむっていうんですか。」

 暫くの沈黙。

 作ったのは俺、そして破るのも俺だ。

 そのまま俺は立ちあがり、荷物を纏めて部屋を立ち去った。

 

 



「明石先生、辰君はどうでしたか?」

「まぁ悪い意味でいつも通りですね。...手首に跡が出来てましたよ。」

「それは....なんとも。」

 職員室に戻ると、私と仲の良い教員が辰の状況を伺った。彼は現在辰の担任を務めているので気になるのだろう。

 両手に持ったコーヒーの片方を私に差し出して来た。

「昔は敬語なんて私には使わなかったんですけどね。今ではほとんど敬語で、敬称も他人の様に....」

「辰君はきっと距離を開けたいんだと思いますよ。」

「距離?」

「ええ。辰君はご両親を....失礼、少し特殊な環境に身を置いています。最も身近だった人間が突如としてほぼ同時期に居なくなったのです。『また同じことになる。』そう考えたら、誰とも距離を置きたくなるでしょう。その人が他人なら自分には傷を負いません。或いはその逆か....。実際、彼に話かけるクラスメイトは日を追うごとに少なくなっています。」

「...そんなことが。」

「明石先生。もう少しで彼は卒業して手の届かなくなりますが、それでも焦りは禁物です。」

「そうでしょうか。私は寧ろ逆の様に感じます。もしここで私が距離を離してしまったら、もう二度と掴めない気がするんです。いや、きっと掴めなくなるでしょう。」

「...明石先生は長い付き合いですから、そういう直観は私より働くでしょう。私には出来ることは少ないですが、サポートは惜しませんのでなんでも相談してください。」

「ありがとうございます。」

 彼はそのまま自分の席へと戻っていった。

 一人になった今、私の頭には辰の心配のみが残る。

 あいつの場合、明確な敵というものが存在していない。

 だからこそ目標、夢みたいな何かを抱いて欲しいのだ。

 最悪の結果だけは絶対に起こしてはいけない。


「私は、一体どうしたいんだろうな。」

 

 私は何故、「私がいる」とあの時言えなかったんだろうか。

 まだ小さかった頃の辰の姿が脳裏に過る。

 私が初めて会ったその時のことは忘れられない。

 玄関で天体望遠鏡を覗く彼の姿を。

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