第9話 霧の中で
薬草の匂いが濃く漂う治療院の一室。
窓から差し込む光は淡く、布で覆われた寝台に横たわるイレーネの顔を照らしていた。
包帯に覆われた体。首筋や腕には痛々しい切り傷が覗き、その呼吸は浅くかすかに揺れているだけだった。
あの気丈な彼女の姿を知っているからこそ、目の前の光景は胸を締めつける。
「イレーネさん……」
ミリアが小さな声で呼びかけ、そっとベッド脇に膝をついた。震える指先で彼女の手を握りしめる。
「絶対に……絶対に、仇を取ります。だから、どうか……目を覚ましてください」
その声は涙に濡れ、言葉の最後は掠れて消えた。
俺は横で黙って見つめるしかできない。握られたイレーネの手は、冷たさと温もりの狭間にあるようで――命の境目を思い知らされる。
胸の奥で、怒りが燃え上がる。
――アレンが声をかけてくれた日のことを思い出す。
「一緒に行かないか」と、俺とミリアを受け入れてくれた。
――ブラムが無言で肩を叩いてくれたあの時。
言葉少なくとも、認めてくれた重み。
――カイルが弓を構え、俺たちを信じて背中を任せてくれたこと。
口数は少なかったが、その矢がどれだけ俺たちを支えてくれたか。
――そして、イレーネ。
訓練に付き合ってくれ、厳しくも温かい言葉で導いてくれた。
その全てを、誰かが踏みにじった。
楽しむように斬り刻み、命を奪った。
許せるわけがない。
――俺たちがやるしかない。
怒りはただの激情ではなく、確かな力へと変わっていく。
暁の環の無念を晴らすこと。そして、ミリアの想いに応えること。
しばらくの沈黙の後、ミリアは袖で目元を拭い、小さく息を吸った。
「……ユウタさん。行きましょう。私たちがやらなきゃ」
「……ああ」
短い返事に、燃える決意を込めた。
その決意の奥底に、これまで感じたことのない感情が芽を落とす。
怒りでも憎しみでも足りない。――殺意だ。
奪われた命の重みが、俺の中で形を変える。
胸の奥で静かに、だが確かに燃える刃となって宿った。
「必ず……見つけ出してやる」
自分でも低く呟いた声に、血の温度がわずかに上がるのを感じた。
その瞬間、俺は初めて明確に“人を殺す”という覚悟を抱いていた。
◆
夜明けとともに、調査隊は街を発った。
鎧の擦れる音、馬車の車輪が土を軋ませる音、冒険者たちの低い声。
三十名を超える大所帯は街道を進み、やがて森の入り口に辿り着いた。
名の通り、濃い霧が木々の間を漂っている。
陽光さえ霞ませる白靄は、足元すら曖昧にし、森全体が不気味に沈黙していた。
「ここからは各隊ごとに散開だ」
指揮役の兵士が声を張る。冒険者たちは頷き、それぞれの小隊ごとに森へと踏み入っていった。
俺たちの小隊――蒼雷の守護、ラウガン、そしてレオン。
霧の中へ足を踏み入れた瞬間、前夜の打ち合わせが脳裏に蘇る。
◇
――前日
宿の一角、粗末なランプの灯りに照らされた卓を囲む。
濃霧の森に踏み込む前に、俺たちは顔を合わせて互いの力を確認していた。
「……まずは俺からだな」
ラウガンが腕を組み、落ち着いた声で言う。
「刀一本だが、受け流しとカウンターなら任せろ。相手の攻撃をいなして、倍にして返す。それが俺の戦い方だ」
「俺は……弱点を見抜くことができる」
続いて口を開いた。
「看破で急所を突けるし、特効で確実に仕留められる。ただ、身体能力は並だ。正面から押し切る力は足りない」
「じゃあ私ですね!」
ミリアはラウガンに少し慣れてきたのか、俺にくっついてはいるが元気よく手を挙げる。
「速さには自信があります! 《迅雷》と《跳躍》で相手を翻弄して、注意を引きつけてみせます!」
「ぼ、僕は後ろから援護できます!」
レオンが少し緊張した声で続けた。
「火球と豪火球で前を援護して、小回復で支えます! まだ駆け出しですけど……絶対に役に立ちます!」
一通り言い終えると、ラウガンが静かに頷き、口元に笑みを浮かべた。
「……なるほどな。じゃあこうだ」
指を一本ずつ立てていく。
「一番前は俺が受ける。ユウタはすぐ後ろで隙を突け。嬢ちゃんは横から機を見て攪乱。レオンは後衛で火力と回復。基本的には距離がある奴のみを狙え。これが俺たちの形になる」
簡潔で迷いのない言葉に、俺たちは順に頷いた。
◇
濃霧の森は、昼でもなお暗い世界だった。
陽光は霧に遮られ、木々の合間から差す光はぼんやりと滲んでいる。白い靄が絶えず漂い、数歩先すら霞んで見えなくなる。
「……気味が悪いな」
思わず呟いた声も、霧の中に吸い込まれて消える。
前衛に立つラウガンは、刀に軽く手を添えたまま振り返らない。
「ここじゃ目も耳も当てにならん。だが安心しろ、霧は動物も人間も分け隔てなく惑わせる。つまり、連中の足も鈍る」
陣形は昨日の打ち合わせどおり。
ラウガンが先頭、その斜め後ろに俺とミリア。殿をレオンが務める。
「火を灯せば目立つ。だが視界が悪すぎては守れん」
そう言ったラウガンの判断で、レオンの掌には淡い火球が浮かび、小さな灯りが俺たちを包んでいた。
「ひとりになるなよ」
低く響く声が、重苦しい霧の中に溶ける。
俺は思わずミリアの背中を軽く叩き、彼女も小さく頷いた。
「はい……大丈夫です」
――その時。
風もないのに、どこかで枝が擦れる音がした。
即座に【看破】を発動する。
視界に赤い光点が浮かび上がり、霧の奥に無数の気配が見えた。十……いや、十五はいる。こちらを囲むようにじりじりと動いている。
「……来るぞ。十数体、ぐるっと囲まれてる」
声を押し殺し、仲間へ伝える。
ラウガンが口の端をわずかに上げた。
「察知できるのか……上等だ。なら俺が正面を抑える。左右を任せたぞ」
「わ、わかりました!」
ミリアが短剣を握り直し、レオンも火球に魔力を込めて光を強めた。
靄の中から低い唸り声が響く。
白銀の毛並みが霧と混じり、闇夜の幻のように揺らめく。
一匹が吠えると、森全体が震えるように響き渡った。
――霧隠れ狼の群れが牙を剥いた。




