22 嵐の前
シェリルの手がドアノブに触れるより早く、カラコロとベルが鳴った。
「おはよう、シェリー」
「おはよう、ハヤト」
隼斗はシェリルの本当の姿を知った今でも、二人でいる時はシェリーと呼ぶ。
「朝飯は?」
「この前のがいいわ」
「OK フレンチトーストだな」
迎え入れられた店内には今日も他の客はいない。杢田もまだ来ていないらしく、いつものカウンター席は空席だ。
店内には隼斗の作業する音と、控えめに流れる音楽だけ。そのうちに、コーヒーの香りとジュワリという音とともに甘い香り。
「おまちどうさま」
「ありがとう」
ほど良い焦げ目のついたフレンチトーストを切り分けて口に含む。カリッとした外側、そして内側からやわらかい甘さが広がった。シェリルはシナモンをたっぷり目にかけるのが好きだ。スパイスが甘さと混ざり合って、複雑な奥深さを出してくれる。
「おいしい」
「そうか。それは何より」
いつかの会話をなぞるように。
ここではじめて出会った頃は、まさかこんな事になるとは思ってもいなかった。
レンジャー部隊本部の襲撃作戦。決行日は本日。
「ねぇ、ハヤト。…………大丈夫?」
「問題ないよ」
何が、と言えない。
言葉にできるほど限定的なことではない。
「…………と、言いたいところだが、正直自分でもよくわからないんだ」
心というのは、いつだって曖昧で。目には見えやしないのに、色も形もコロコロ変わっていくものだ。二面性どころか数え切れないほどの面があって、一つにまとまることはない。
絶対など、ありはしない。
決心はすぐ揺らぐ。気持ちなんてすぐブレる。
「そう。ならいい」
「いいのか」
「全然平気、なんていうよりよほどマシ」
大切なのは、心なんて所詮そんなものだと知っていること。
わからないのを、わかっていること。
「なぁ、シェリー。もしも……」
「なに?」
「もしも俺が大丈夫じゃなかったら、その時は慰めてくれるか?」
カウンターから出てきた隼斗が、シェリルの銀髪を一房とる。するりと手で梳いて、流れた髪が指の間を抜けていく。
シェリルは返事の代わりに隼斗の襟を掴んだ。そのままぐいっと引き寄せて、小さな音を立てて唇が触れる。
あの日、隼斗がはじめてバルバドス海賊団の本船に来た日からもう何回キスをしただろうか。そんなものいちいち数えてはいない。そうやって何回も繰り返して、シェリルはやっと本来の恋愛感覚を取り戻した。
キスくらい普通にできるのだ。
以前は柄でもなくドキドキとしていただけで。
「甘いな」
「おいしいでしょう?」
嘘。
今だってドキドキしているし、昔のシェリルには程遠い。過去にそういう関係になった男たちと隼斗は何かが違う。どうして隼斗にだけこんなにも胸が高鳴るのか、シェリルは未だにわからない。これが「惚れた」ということなのだとザバシュは言ったが、はたして本当か。
ただ、そんなものはポーカーフェイスの下に隠して。
「もう一回」
「だめ。本当に慰めて欲しくなったら、ね」
これ以上は、フレンチトーストの味が分からなくなりそうで。この甘い食べ物よりももっと甘い、隼斗のキス。ふわりと香るのは体に染み付いたコーヒーのほろ苦い香りなのに、どうして。
「じゃあ、無理矢理にでも落ち込まないとな」
自分で言ったことなのに、笑いながら離れていく隼斗を引き止めたくなる。それを誤魔化すために、ちいさく切った四角いパンを口に放り込んだ。クリームをたっぷりとつけたというのに、やっぱりこれじゃあシェリルが欲しい甘さには程遠い。
「それじゃあ、あとで」
「ああ、またな」
食べ終わって、席を立って。
今日、また昼過ぎに。
その時は、戦場で。