第35話 ジュラシック・クライシス⑥
氷の一本道を駆けながら、シオン・エヴァージェイルは考えていた。
どうして、自分はこの役目を引き受けたのか。
断ることはできたはずだ。
怖くないわけじゃない。
命が惜しくないわけでもない。
それでも――腹が立った。
父を奪った暴力に。
自分を壊した暴力に。
弱い者を笑いながら踏みにじる暴力に。
だから、やり返したかった。
あの理不尽そのものに。
あの“暴力”という概念に。
「小娘ぇええええぇッ! 今度こそその面、潰してやるァァァッ!」
ガルバースの怒号とともに、巨竜が飛びかかる。
ブラドがひらりと身を躱す。
――腐呪渇閃。
詠唱を捨てた斬撃が、指先から紫の閃きとなって奔る。
一発、二発、三発。
狙うのは脚。落とすのはまず足場だ。
巨竜の前脚に深い裂傷が走る。
「ブアァアァアッ!」
悲鳴とともに、その巨体がぐらりと傾いだ。
「……ごめんね……」
シオンは小さく呟く。
相手が元はリザードマンだと分かっていても、止めなければこちらが死ぬ。
巨竜はなおも止まらない。
痛みにのたうちながら靭尾を振り抜き、顎を開いて食らいついてくる。
だが、ブラドには当たらない。
シオンはさらに脚へ斬撃を集中させた。
紫の線が、同じ箇所を何度も裂く。
ついに巨竜が耐えきれず、盛大に体勢を崩した。
その背から、ガルバースが投げ出される。
「小娘ェェェェッ!」
転がりながらなお、ガルバースは黒珠の力を解き放った。
どろり、と。
まるで澱んだ泥が生き物のように、禍々しい力が全身へまとわりつく。
筋肉が膨れ上がる。
骨が軋む。
肩が裂けるように広がり、腕が異様に太く伸びる。
膨らむ。
なおも膨らむ。
「……嘘……」
「コレが俺の力ダ……! 舐めた真似ハ……モウサセン……!」
そこに立っていたのは、もはやリザードマンではなかった。
騎乗していた巨竜に似た輪郭。
だが、それよりも禍々しい角。
濁りきった翼。
不自然なまでに発達した両腕。
ひと回り大きく、ひと回り醜い、狂気の巨竜。
ガルバースは、自らをも恐竜へと変えてしまった。
◇
氷壁の外では、恐竜たちの群れが雪崩れ込んでいた。
あるものは凍った地面に足を取られ、
あるものは氷の壁に阻まれ、
あるものは狭められた進路の前で怒号を上げている。
だが、その中に混じる“戦士”由来の巨竜は違った。
力任せに氷を砕き、足場ごと押し潰し、無理やり進軍してくる。
ズシン、と大地が鳴った。
ジェラルドがそのうちの一頭をハルバードで真正面から受け止める。
「全員、足を止めることに集中しろ! 狙うのは脚と鼻先だ!」
「了解ッ!」
サクマの戦士たちが一斉に矢を放つ。
悲鳴と怒号と、氷が砕ける音が戦場を満たした。
「ジェラルド! まだ来る! 壁、増やせない!?」
「もう地面に使える金属がない! お前は!」
「こっちも大気の水、使い切ってる!」
ネモとジェラルドの声が飛び交う。
「チッ……やっぱりシオンの方に回る余裕はねぇか……!」
ジェラルドは舌打ちする。
前回とは違う。
数も質も違う。
今度の材料は下層民ではない。
ガルバースに従っていた“戦士”たちだ。
だから強い。
だから止まらない。
「流石に手強いなっ……!」
ハルバードを振り抜き、巨竜の顎を跳ね上げながら、ジェラルドは毒づいた。
◇
「バオオオオォオォッ!」
咆哮とともに、ガルバースの巨腕がシオンへ振り下ろされる。
速い。
さっきまでとは比べ物にならない。
巨体のくせに、間合いの詰め方が異様に鋭い。
一撃が振るわれるたび、風が悲鳴のような音を立てる。
――腐呪渇閃!
シオンは指先に斬撃を溜め、ガルバースの顔面へ撃ち放つ。
「ウグァッ!」
紫の刃が頬を裂く。
そのまま二発、三発、四発。
目の際、首筋、口元――狙える急所を迷いなく刻んでいく。
だが、止まらない。
ガルバースは顔を歪めながらも突っ込んでくる。
その顎が目前で噛み合い、歯が火花を散らした。
「……っ!」
ブラドが身を沈め、紙一重で躱す。
その背でシオンはさらに斬撃を撃ち込む。
一発。
二発。
三発。
傷は増える。
血も弾ける。
なのに。
「……ムダダゾ?」
「……まずい……」
どす黒い煙のようなものを上げながら、傷口がみるみる塞がっていく。
裂けた皮膚が盛り上がり、抉れた肉が繋がり、ついさっき刻んだはずの傷が消えていく。
再生している。
しかも、速い。
ガルバースの体内に埋まってしまった炭の棺が力を底上げしている。
「ソコダッ!」
一閃。
巨尾が振り抜かれる。
「……あぐっ!」
ブラドごと、シオンの身体が横殴りに吹き飛ばされる。
肺の中の空気が一気に押し出され、視界が白く弾けた。
「マダマダァッ!」
地に伏したシオンに、ガルバースが踏みつけを放つ。
――嗤軽薄鉄面皮!
吹き飛ばされながらも詠唱していたシオン。
白い仮面の盾が二枚、空中に重なって現れる。
だが、押し込まれる。
「う……ぐぅ……!」
重い。
あまりにも重い。
踏みつけ一つで、盾ごと地面にめり込まされる。
仮面の表面が軋み、砕ける寸前まで押し込まれていく。
耐えきれない。
次の瞬間、その下を黒い影が滑った。
「ウォウッ!」
ブラドだ。
砕けかけた仮面と地面のわずかな隙間へ潜り込み、シオンを咥えて強引に引き抜く。
「ブラドッ! ありがと……えっ?」
数十メートル先で、ブラドが着地に失敗したように崩れ落ちた。
「……あ……」
前脚が、不自然な方向へ折れていた。
先ほどの一撃でやられたのだ。
もう走れない。
そこへ、どす黒いオーラを纏ったガルバースが、ゆっくりと、だが確実に距離を詰めてくる。
「コムスメェェ……」
「ウグルルゥウウ……!」
ブラドが鼻先でシオンを押す。
逃げろと言っているのだ。
「……ダメだよ……私が魔力を流し直してあげるから……一緒に……」
「ガルルルルゥッ!」
ブラドが怒る。
そんな時間はないからだ。
「……大丈夫……」
シオンはそれでも治療に手を伸ばす。
自分が痛む時なら、まだ冷静でいられた。
でも、ブラドのことになると駄目だった。
頭では分かっている。
ここで離れなければ、二人とも終わる。
それでも出来ない。
大切なものを置いて逃げるという判断が、少女にはあまりにも重すぎた。
「バカナコムスメダ」
ガルバースの尾が閃く。
「きゃあっ!」
シオンとブラドが、まとめて吹き飛ばされた。
今度は地面を二度三度と跳ね、ようやく止まる。
口の中に鉄の味が広がった。
頬を強く打ち、片目の奥がじんじんと痛む。
倒れ伏すブラドの姿が、ぶれた視界の向こうで揺れていた。
「ドウダ? コレが俺の暴力ダ……!」
ガルバースが嗤う。
「ホコリタカキリザードマンノ暴力ダ! 軽く撫でるダケで、相手を壊せる暴力ダ!」
虚ろな片言の演説。
なのにその内容だけは、嫌にはっきり耳へ届いた。
軽く撫でるだけで。
敵を壊せる。
その言葉が、妙に胸の奥へ刺さる。
ガルバースがさらに近づく。
自身が死ぬのは、無念ではあるがあまり怖くない。
なのに今、違う恐怖が蘇ってくる。
父を失った時の、あのどうしようもない喪失。
何もできず、ただ奪われるしかなかった時の恐怖。
最後に見た父の姿と、倒れたブラドが重なる。
「……いや……」
喉が震える。
「怖い……ヤダ……」
動悸が激しくなる。
息が浅くなる。
身体の芯が冷えていく。
でも同時に、腹の底では別の何かが煮えていた。
怖い。
嫌だ。
逃げたい。
なのに、これで終わりたくない。
また奪われるだけで終わるなんて、そんなのは嫌だ。
暴力への恐怖と怒りが、心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
押し潰されそうなほど苦しいのに、何かが内側からせり上がってくる。
「シネ」
ガルバースの巨脚が、勢いよく振り下ろされた。
その瞬間。
紫の光が、炸裂した。
◇
「……これっ!?」
「……シオン」
乱戦のただ中で、ネモとジェラルドが思わずそちらを振り向く。
強い力のうねり、魔法がこの瞬間、生まれ落ちる気配だ。
顕現暴発とは違う。
強力な魔法の産声【顕現圧】。
ネモが、にやりと笑う。
「この勝負……勝ったね」
◇
「ナンダ……!?」
地を舐めたガルバースが、混乱に吠える。
今、踏み殺したはずの小娘に、自分の方が弾き飛ばされたのだ。
半狂乱のまま顔を上げる。
紫の光の中で、シオンが立っていた。
静かに、自分の掌を見つめている。
やがて、詠唱が始まった。
――紫の頬に鉄の味。
繕う笑顔に凍てつく心。
沸々燻る昏冥鬱屈。
愛を騙ったねとつく拳、
訓を嘯く鋭き掌、
狂愛混泥――
紫のエネルギーが掌に渦を巻いて集まり、圧縮され、凝り固まる。
そして、締めの一句が放たれた。
――澱みの潰槌。
生成魔法。
シオンの手に、身の丈ほどもある漆黒の槌が握られていた。
「…………」
無言のまま、それをくるりと回す。
まるで軽い杖のように。
そのまま、ガルバースへ突きつける。
「ありがと……たぶんもう……私の勝ち……」
「コノッ! その軽い槌で勝った気ニデモなったツモリカァ!?」
ガルバースが激昂する。
小娘を何度も仕留め損ね、プライドはとうにずたずただ。
ただそれを取り戻すためだけに、咆哮し、突撃する。
「ヴァオオオオオッッッ!」
鉄拳が振り下ろされる。
だが、シオンは無表情のまま、その槌を軽く振り抜いた。
ズン――。
落石が降ったような轟音が響く。
吹き飛んだのは、ガルバースの方だった。
「……は!? エ……!?」
一瞬だけ、巨竜の眼に正気が戻る。
そこへシオンが一気に距離を詰めた。
一撃。
「ウヴォアッ!」
二撃。
「ブゲッ!」
三撃。
「アギィッ!」
重い打撃音が三つ、連続して戦場に叩きつけられる。
巨竜と化したガルバースの巨体が、地面へ転がされた。
「な……なんだソレは……!? なんなんだソレハァッ!!」
「……暴力」
槌をひゅるりと回しながら、シオンは答える。
「自分には空気みたいに軽くて、相手の人生を壊してしまうほど重い」
「ふざけるナっ! そんな理不尽なっ――」
「……軽く撫でるだけで……相手を壊してしまうのが……暴力……」
静かで、冷たい声でシオンは言い放つ。
「さっき、貴方が教えてくれたんだよ……?」




