第4話 涙探しの迷い魔女−3
その夜。
県政庁舎の裏口で、クリストは最後まで視線を泳がせていた。
「……くれぐれも、大騒ぎにはしないで下さい。騒ぎとなれば、上が——」
「わかってますよ」ジェラルドは鍵束を受け取り、懐へ落とす。
「静かに入り、静かに終える」
ネモは肩をすくめた。
「夜の図書館って、ちょっと幽霊出そうだよね」
「まあ出るのは魔術師だがな」
「しかしさ、すごいよね。公共施設のワンフロアを公権力から奪って籠城するなんて……」
「全くだ。油断するなよネモ。そんなことができる奴なら、俺らが瞬殺されてもおかしくない」
「……わかってる」
蔵書会館の扉は、軋む音ひとつ立てずに開いた。
ひやり、と湿った紙の匂いが肺を撫でる。月明かりが棚の列に斜めの刃を落とし、館内の影を長く伸ばしていた。
二人の足音だけが、コツコツと響く。
四階へ続く階段へ差し掛かり、ジェラルドが鍵を差し込む。
——ギイ……。
大きく軋むドア。
「……ちっ」
小さく舌打ち。気づかれちまいそうだ。その瞬間。
ぱたり。
本を閉じる音。
木造で、シックな高級感のある広間の中心。
高そうなテーブルと椅子がぽつんと置かれ、ゴシックな衣装に身を包んだ銀髪赤眼の少女が、無表情でこちらを見ていた。
テーブルの上には本の山。彼女はさっきまで読んでいたのだろう一冊を、山のてっぺんに丁寧に戻す。
そして、ぽつり。
「誰も入れるなって……お願いしたのにな……」
「え……魔術師って、あの女の子?」
「……そうみてえだな。漂う魔力、よく見ろ」
「……っ!?」
少女の周りには紫色の濃密な魔力が漂っている。
ネモの見立てでは、イベルダルク最高神官クラス。
予想外の風貌、想定外の圧に、二人が一瞬だけ逡巡した。
——その“隙”を、少女は逃さない。
少女は突如、詠唱を開始する。
【臓腑に溜めて、吟醸重ねた私の愛しき混鬱を、
涙一滴解き放つ、腐呪渇閃!】
人差し指が紫に煌めいた。
次の瞬間、指先が“振られた”だけで——紫光の刃が走る。
ガキンッ!
鎧が鳴り、火花が散った。
ジェラルドの肩口が、薄く裂けて血が滲む。
速い。
「ジェラルド!」
「問題ねえ! 鎧と薄皮が切れただけだ! 行くぞ、取り押さえる!」
その二人の様子を見て、少女は首を傾げる。
「……切れない?」
そう呟くと椅子を蹴り、少女は身を翻して逃げ出した。
「待て!」
ネモが追う。身体能力ではネモが圧倒的に上。
すぐに彼女は捉えられるはずだった。
だが−−。
少女は逃げながら、口元を隠すように小声で詠唱を紡いでいる。
【我を見つめるヘカテーよ、ブラックドッグをお貸しいただく、闇と混濁、血肉と悲劇のその中で。散歩を共にしお返し申す、狂転・惨歩・影遊び】
ネモが伸ばした手は、するりと空を掴む。
「なっ——!?」
「召喚獣……!」
犬のような四つ目の獣。
「ブラド、よろしく」
「ウォウッ!」
ブラドは雄叫びを上げると、ありえない速度で広間を跳ね回る。
「甘く見ないでよっ!【一夜破金の霜剣!】」
「——っ!」
ネモはその速度すら捕捉し、一気に距離を詰めて獣に斬りかかる。
紙一重で躱す少女と獣。
「逃がすか!」
その進行方向を——
【女媧転寝ノ夢遊っ!】
ジェラルドの呪文で木床がのたうち、壁となって立ちはだかる。
「悪いけどこれで終わりっ!」
「ブラドッ!」
少女の一喝。
その瞬間、獣と少女は月明かりの作った影に溶けるように消え失せた。
「っ!?」
気配が、消える。
だが次の瞬間、声が“入口側”から聞こえてくる。
【臓腑に溜めて、吟醸重ねた私の愛しき混鬱を、
涙十滴解き放つ、腐呪渇閃】
少女は入口に陣取り、ブラドの背で滑るように指をひらめかす——彼女の指の全てが紫に光る。
「影を使った瞬間移動……!」
二人の隙を突いて計十発の斬撃が断続的に連射される。
「うぐっ……!」
「クソッ!」
二人の身に纏う結界なら致命傷ではない。
だがその刃は、まるで——近寄るな、と言わんばかりのストッピングパワー。
しかしそれでも二人は膂力で踏み込む。
「これでも止まらない……」
少女は悟る。止めきれない。
彼女はならば次の手と言わんばかりに、斬撃を撃ち込みながらさらに詠唱を始める。
【私の心を抉る者、聖者、賢人、お空に煌めくお星さま、醜い面をひた隠す、傷から流れる涙で創った清き仮面を我に貸せ、全てを謀る無敵の防壁、嗤軽薄鉄面皮】
白い仮面が二枚、ぬるりと出現し、二人の行く手を塞いだ。
「畜生っ!」
ネモが跳ぶ。だが、仮面がネモと少女の間を塞ぐように合わせて動き出す。
距離が、詰めきれない。
少女は再び、詠唱。
【臓腑に溜めて、吟醸重ねた私の愛しき混鬱を、
涙十滴解き放つ、腐呪渇閃】
撃ち、逃げ、影に消え、仮面で止める。
三つの術が同時に回り続け、ネモとジェラルドを妨害する。
「コイツ……同時に三つ……なんて力だ……」
ジェラルドは、己の甘さを悔やむ。
この少女は強敵だ。戦いの組み立て——そして“少女ゆえの油断”すら材料にして、完璧にハメてきている。
——そしてハメる、ということは。その先に“倒し切る札”がある。
「急げ、ネモ! 補足して——」
その矢先、広間に詠唱が響く。
【夢中説夢の蒼き薔薇、外道が語りて日が昇る、
心底奥底煮凝る慟哭、明けても暮れても心の臓から引き摺り潰す】
「クソッ、マズい!」
「ああっ、もうっ!」
【もう希望は要らぬ、大義等知らぬ、
辛く愛しき鬱屈よ、不条理とともに愉しく踊り、あの憎き、不平不服を磨り潰せ】
天井に、禍々しい紫のエネルギー球が展開する。
空気が——暗く重くなってゆく。
少女は指差し、淡々と告げる。
【動悸を鎮める鎮魂歌、血涙微笑傀儡ノ仮初】
エネルギー球が炸裂する。
濃く、重い、紫の光が四階の全てを静かに包み込んだ。




