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正月二日目の富士急ハイランド(お馬鹿になれる場所)

 一月二日。テレビの天気予報では、多摩地方の午前六時現在の気温は三度と報じられていたが、日射しがあり風は無いのでそんなに寒くは感じない。

 町田駅の南口から階段を降りると、落ち着いたグリーンカラーのミニが、ハザードランプを点けて停まっている。幌が開き始め、自動的に後部に収納された。霧島さんが運転席から降りてきた。

「おはよう、高野君」

「おはようございます」

ミニ・コンバーチブルの前に立つ霧島さんは、昨日とはうって変わってカジュアルスタイル。風を通しにくそうなグレーのフード付きのジャケットに、黒のタイトなデニムのパンツだ。この人のクローゼットの中はいったいどうなっているんだろうか。

 気のせいか、昨日よりもさらに若く、いや幼くなっているような気がしてならない。

 僕はといえば、カーキ色のダウンジャケットに、いつものデニムパンツ。ちょっと引け目を感じるが、今のところ霧島さんから僕のファッションセンスについて、コメントはない。

「さあ、乗って」

 助手席側のドアを開けてくれる。僕が乗り込むと霧島さんは運転席に座り、シートベルトを締めた後、パーキングブレーキを解除してアクセルペダルを軽く踏む。エンジンが心地よく唸り、ミニはスルスルと発進した。

 今日の目的地は、富士山の麓にあるテーマパーク、富士急ハイランドだ。昨日の帰り電車の中で、横浜線から中央線に乗り、さらに富士急行線に乗り換える鉄道ルートを提案したが、霧島さんはスマホでNAVITIMEのアプリを立ち上げ、町田→富士急ハイランドのドライブルートを探した。

「車だと順調に行けば、電車より一時間早く着くみたい。私、車出すから、それで行かない?」

「え、いいんですか?」

「うん、久しぶりにドライブしてみたかったし……ところで高野君は運転できるの?」

「えー、高校卒業した春休みに免許とって、実家に帰った時に少し乗り回すくらいで……」

「じゃあ、途中で運転交代しよう。オープンカーを運転するの、気持ちいいよ」

 ということで、ドライブデートが決まった。

 真冬に幌を降ろして走るのは寒いのではないかと思ったが、シートのヒーターがじんわり温かく、両側の窓を閉めていると風も気にならない。

「今日なら、ゆっくり走れば高速でもそんなに寒くはないわ」

 ミニは、国道一六号から県道に入り、中央連絡道のインターチェンジを目指す。

「このミニ、霧島さんの車ですか?」

 霧島さんは、少し間を置いてから答える。最近わかってきたが、何か答えにくいときにできる『間』だ。

「そう。元々は親のものだけどね。もらったの。……でも、私もバッテリー切れにならない程度に乗るくらい」

 霧島さんは話題を変えてきた。

「今日の行き先、富士急ハイランドを提案してくれたのは意外だったわ。どうして、ここにしたの?」

「すみません、逆に質問しちゃいますけど、霧島さんは、富士急ハイランドに行ったことはあるんですか?」

「ううん、初めて。高野君は?」

「僕は一度だけサークル仲間と行ったことがあります」

「どんなところ?よく世界で一番大きいとか長いとかの絶叫マシンの広告は見かけるけど」

「そうですね、その印象は強いですよね。でも、なんか全体としての統一感が無いんですよね。どこかのテーマパークの『夢と魔法のナントカ』みたいな」

「無秩序ってこと?」

「そうですね。何でもありっていうか……本当はここを運営している会社に何か目指すものはあるんだと思いますが……絶叫マシン系が多いですけど、お化け屋敷やサバイバルアトラクションがあり、アニメのフライトシミュレーションがあり……かと思えばティーカップみたいな普通のアトラクションもあります。他にも機関車トーマスのテーマパークがあったり、アイドルのイベントをやっていたり……この季節にはアイススケートリンクもあったりしますし」

「……それは確かに『何でもあり』ね」

「でも、大学の仲間と行ったとき、やたらはしゃいでいるそいつらを見て思ったんです」

「?」

「最近、僕らって『お馬鹿』になってないなって」

「オバカ?」

「はい、世の中少し、まじめすぎるっていうか」

「……確かにそうかもね。災害や感染症などが続いて、世の中が浮かれている雰囲気はあんまりないかもね」

「僕もそう思います。だから、『誰にも咎められずに、ちょっとお馬鹿になれる場所』って必要なんじゃないかと」

「なるほど……そうしたら、今日は私に『お馬鹿』になれってことね?」

 霧島さんは悪戯っぽく歯を見せた。今まで見せたことがない表情だ。

 僕がこのテーマパークを選んだのは、確かにそれが狙いだ。ここでなら、霧島さんも声に出して笑ってくれるのではないか。

 談合坂サービスエリアで運転を交代した。外車に乗ったことが無いので、と躊躇していると、日本車と変わらないから大丈夫よと霧島さんが笑う。

 ミニを発進させる時、ボタン式のパーキングブレーキに戸惑ったが、その他は特に問題は無かった。大月ジャンクションで分岐した後、河口湖インターで降り、無事、富士急ハイランドの駐車場に車を停めることができた。カーナビと霧島さんのナビのおかげだ。目の前には富士山がドーンと裾野を広げており、車を降りるとさすがに寒い。

 現地に十一時前に到着したので、ランチにはまだ早かったが、遊ぶアトラクションの作戦会議も兼ねて、お店を探した。屋外にあるハンバーガーとコッペパンの店で、僕はバーベキューソースの大きなハンバーガーセット、霧島さんはパリパリした焼き上がりが美味しそうなコッペパンのセットを頼んだ。

 その場でスマホにダウンロードした、富士急ハイランド公式アプリ『Qちゃん』を立ち上げ、マップを表示させテーブルに置く。現在の待ち時間が表示されアトラクションの説明を読むことができ、便利だ。

「霧島さん、何かリクエストありますか?」

「そうね……」

 真剣に画面をのぞき込む。

「あ、あの、ココに誘っておいてあれですけと……できれば絶叫系は一つくらいにしておいてもらえませんでしょうか?」

 僕は、小学生の時に、上下一回転するコースターに乗って、それがトラウマになってしまった。ぐるりと回るヤツとか、いきなり落下するヤツとか、できれば乗らずに人生を全うしたいと思っている。以前にサークル仲間と来た時も、FUJIYAMAに乗って、その後はほとんど『おひとり休憩タイム』だった。でも今日は違う。霧島さんのためなら特別だ。何でも(一つくらいなら)乗ってやろうじゃないか。

「あら、そうなの? でも、FUJIYAMAと高飛車は必ね」

「え! 二つも?」

「フフフ、冗談よ。実は私も絶叫系はそんなに得意じゃないし……じゃあ、絶叫とホラーを一つずつ、あと、せっかく富士山がこんなに近いから、観覧車には乗りたいわ」

「り、了解しました」


 選択を誤った。

 アプリによると『鉄骨番長』は『天空の回転ブランコ』ということだったので、高をくくっていたが、コレは回転ブランコというシロモノではない。高さと回転スピードが半端ない。強烈な遠心力で外側に投げ出されそうだ。唯一の救いは、霧島さんと二人並んで座れたこと。憧れのその人が『キャー』とか言いながら怖そうに、でも嬉しそうにしている姿を拝める日が来るとは。

 続いて、『戦慄迷宮~慈急総合病院~』。

 まず、造りがリアルだ。廃墟になった病院をそのまま持ってきたみたいな佇まい。あと、脅かし役の中の人たち。迫真の演技で本気で怖がらせにくる。我々『笑かせ屋』も見倣うべき気合いの入れ様だ。

 無意識に霧島さんは僕に密着してくる。もっと正確に表現すれば、体の凸部分の感触が伝わってくる。別にこういうことを狙って僕がこのアトラクションを選んだわけではない。

 この後、休憩を挟んで、「NARUTOの忍道館、幻影劇場」という屋内施設でNARUTOのバトルシーンを楽しんだ。

 今、大観覧車のゴンドラの中で女性と向かい合っている。初めての経験だ。いや、これに限ったことではない。去年のクリスマス以来、霧島さんと二人の時間を過ごしていることは奇跡でしかない。

 何度も湧いてくる疑問。どうして僕なんかと霧島さんは一緒にいてくれるんだろう?

 眼前に富士山がそびえ、確かにいい景色だが、間近かでは、絶叫マシンが大活躍し、歓声というか叫び声が聞こえてくる。

「ふふっ」

 僕が黙ってコースターの動きを目で追っていると、霧島さんが笑う。

「霧島君、ちょっと目が泳いでない?大丈夫?」

「……はい、全然問題ないです」

「じゃあ、今度またここに来て、絶叫系、制覇しようね」

「そ、そんなあ!」

「アハハ」

 こんな風に霧島さんが笑ってくれるなら、FUJIYAMAだろうがZOKKONだろうが、もう何でもこいだ。

「それから、今日は本当にありがとう。車の中で君が言ってた『お馬鹿になる』っていうの、何となくわかったような気がする。私にはそれが必要だったんだなって……」

 そして、霧島さんは、右手を差し出してきた。僕はつられて右手を出し握手をする。か細くて柔らかい手だった。

 観覧車が地上に戻るころ、空には雲がかかり始めていた。富士山の絶景も拝めたし、天気はここまでよくもってくれた。感謝。

 正月の元日は、日本全国ノドカに晴れ上がり、二日目は天気が崩れる。自分の少ない人生経験上、何となくそんなものだと思っていたが、今日は夕方になって『風雲急』を告げてきた。

 駐車場の車が置いてある場所まで来たとき、寒い風がさーっと吹き、それには雪が交じっていた。

 そして。

 ピカッ

 霧島さんが、車のキーのスイッチを押したのとほぼ同時に、空一面が光った。


 ドカーーーーーーーン 

 けたたましい雷鳴が轟いた。

 その音が富士山に当たって跳ね返ってきたのか第二撃がきた。

 ズーーーーーーーーン

 と地響きのような、超低音が体を芯から振るわせる。

 冬の稲妻だ。この時期、日本海側で雷が発声したというニュースをよく見かけるが、関東地方では珍しいんじゃないだろうか。

「びっくりしましたね!」

 ……僕が声をかけた先に、霧島さんの姿がない!

「霧島さん!」

 慌てて運転席の方に回ると、霧島さんはその場でうずくまり、両手で頭を抱えている。

「だっ、大丈夫ですか⁉」

「…………」

 霧島さんから返事がない。

 僕は霧島さんを抱きかかえ、助手席側に連れて行き、ドアをあける。霧島さんの体はこわばっていて、なかなかうまくシートに座れない。何とか手を貸して座らせるとシートの背を倒した。

 その瞬間 再び空が光り、雷鳴が轟いた。

 霧島さんは、シートを調整していた僕に抱きつき、というより強くしがみついてきた。

「大丈夫ですか?」

 霧島さんの耳元で小声で訪ねる。

「ごめんね」

 霧島さんはそう言ったきり、同じ姿勢を崩さず、僕にしがみついている。

 十分ほどそのままの状態が続いた。雷の方は、二発で収まったようだ。


「帰りは、僕が運転します」

「ごめんね」

 再び謝る。僕はゆっくりと霧島さんの腕をほどき、シートの背を少し戻し、シートベルトを締めてあげた。

 助手席のドアを締め、運転席側に回る。地面に車のキーと霧島さんのバッグが転がっていた。ドアを開け、バッグを後部座席に置く。そしてダウンジャケットを脱ぎ、霧島さんにかけた。彼女はそれをぎゅっと抱きしめた。

 エンジンをかけると霧島さんが弱々しい声を漏らす。

「カーナビ、『ホーム』を選んだら、家まで案内してくれるから」

 自動的に点灯したライトが、ちらつく雪を照らす。積もるほどではないと思うが……

 僕はゆっくりと車を出した。


 何とか無事に町田まで戻ってきた。自宅に近づくまで霧島さんは姿勢を変えず、びくりとも動かなかったが、家のそばまで来ると、細い道のどっちに曲がるかとか、ガレージにどう入れるかを小さく震える声で教えてくれた。

 僕はエンジンを切り、後部座席に置いたバッグを持って助手席のドアを開けた。

「歩けますか?」

「……うん」

 差し伸べてきた霧島さんの手をとり、ゆっくりと車の外に連れ出した。僕のダウンジャケットを片手で抱きかかえたままだ。車のキーをロックした後、霧島さんにバッグを渡し、両肩に手を添え玄関の方まで抱えるように歩いた。彼女は、バッグから家のドアの鍵を取り出し、解錠する。

「お願い、一緒に来て」

 僕がここで帰ろうかどうか迷うまでもなく、霧島さんは僕の目を見て懇願する。

「わ、わかりました」

 ドアを開けて中に入ると彼女は一旦玄関に座り込み、三分ほどして立ち上がった。こんなとき、どうしていいのかわからなかったが、僕は再び霧島さんの体を支えながら彼女がヨロリと進む方についていった。

 霧島さんがリモコンのスイッチで間接照明をつけたリビングルームは、家の外観と同様に、木の素材感を全面に押し出した、コテージ風のおしゃれな造りだ。

 木の壁には、フォトフレームに入って写真が何点も飾られていたが、とりわけ大きなフレームに納められている写真が目に止まった。

 真ん中に霧島さん。

 その後ろでは、青い瞳で金髪の女性と、黒髪の男性が霧島さんの両肩に手を置いている。多分、お父さんとお母さんだろう。ただ、この家には人の気配が無い。

 バサッと物音がしたので振り返ると、霧島さんは部屋の真ん中に置かれている大きめのカウチソファーに倒れ込んでいた。

「大丈夫ですか⁉ もし具合が悪いようでしたら、救急車を呼ぶか、救急病院を探して連れていきますんで」

 表情をのぞき込もうと思ってかがんだら車の中でそうしたように、霧島さんは再び僕にしがみついてきた。

「大丈夫。しばらくしたら治ると思う。だから、今夜はずっとこのまま一緒にいてくれる?」

 どう返答すればいいかわからなかったけど、そうするしかない。わかりましたと返事をし、ソファにすると、彼女はフード付きのジャケットを脱ぎ、代わりに僕のダウンジャケットを身にまとって、隣りにいる僕にもたれかかった。

 その体は、初めて出会った時に比べると、ずっと小さく幼くなったような気がする。そういえば、声もだ。

 三十分ほど同じ体勢のまま動かないので、霧島さんはもう寝たのかなと思って顔を覗く。その視線に気づいたのか目が開いた。壁にに飾ってある写真の中の、霧島さんの背後にいる女性と同じ瞳の色だ。

 彼女は再び目を閉じる。そして、ぽつりぽつりと語り始めた。

「あの写真はね、私と、父と母」

「多分、そうじゃないかと思ってました」

「でもね……もういないの」

「⁉」

「去年の夏、雷に撃たれて死んだの」

「え!……そうなんですか?」

 その後、霧島さんは、那須高原で起きた落雷事故の概略を話してくれた。

 木に登って降りられなくなった女の子のために、お父さんとお母さんと霧島さんが協力し、その子を助けた瞬間に雷が落ちたとのこと。

「で、私だけが生き残った……父と母は、焼け焦げた衣服の切れ端以外は何も見つからず、遺体なしで、お葬式をあげた」

「そ、そんな……」

 去年の夏は、ニュースで落雷の事故がいくつか報じられたが、その中の一つだったのか。

「親が雷に撃たれて死んだのに、生き残っている私ってどう思う?」

「どう思うって……こんなやりきれない事故でご両親を亡くした霧島さんの悲しみをとてもとても想像できません。」

「確かに、ここに父と母がいないのは、ずっと悪い夢を見ているようで、辛くて寂しいわ。……でもね。正直、現実感が無いというか、醒めてしまっている自分もいる。こんな馬鹿なことってあるわけないじゃない、って」

 慰めの言葉が見つからなかった。

「そんな自分が憎い。情けない」

 ダウンジャケットに潜り、震えて泣く霧島さん。僕はダウンジャケットごと彼女を抱え、寄り添うことしかできなかった。



 パタン、カタンと物音が聞こえ、目を覚ます。

 気づくと僕はソファーに横になって寝ていてやわらかい毛布がかけられていた。カーテンの端から光が漏れている。もう朝になったようだ。

 パタパタとスリッパの足音がし、ドアが開く。霧島さんは一足先に目を覚ましたようで、部屋着に着替えている。

「おはよう」

「お、おはようございます……調子はどうですか?」

「うん、もう、大丈夫」

 霧島さんはそう言って微笑んだ。

「朝ご飯作ったけど、食べる? ……だいぶ 手抜きだけどね」

「え、あ、ありがとうございます。いただきます」

 僕の目を覚まさせた音はキッチンで発生していた。

 ベーコンエッグとプチトマトとグリーンアスパラのサラダ、クロワッサンと冷たいジャガイモのスープ。

「あ、感想を言う前に断っておくけど、このビシソワーズは、レトルトの出来合い。だから、褒めるなら他を褒めてね」

 テーブルの向かいに座ってフォークを持つ、青い瞳、亜麻色の髪の女性がニコリと笑う。その表情から察すると、本当にもう大丈夫なんだろう。

 ごちそうさまをし、コーヒーをいただいていると、霧島さんから申し出があった。

「あの、もしよかったらでいいんだけど……これから羽田空港に行きたいので、つきあってくれないかな?」

「え、どなたかの送迎とかですか?」

「いえ、そういうんじゃなくって。ただ飛行機を見に行くだけ」

 霧島さんのその要望と行動は謎だったけど、昨日の件もあるので、一人にするのは不安だ。食後の休憩の後、僕たちは東名~首都高で羽田に向かった。もう大丈夫だからとハンドルは霧島さんが握った。

 霧島さんのお勧めは、国際線の離発着がよく見える第三ターミナルだそうだ。ターミナルに近い『P5』ゾーンの駐車場に車を停めターミナル目指して歩く。彼女の足取りは軽い。エスカレーターで五階まで上がり、展望デッキに出る。

 朝見たニュースによると、昨日は東京でも落雷があったそうだが、今朝はすっかり晴天の冬空に戻っている。

 空気が振動するような、低くうなる音が常に耳に入ってくる。空港独特の響きだ。

 霧島さんはフェンスに近づくと、目を閉じて空に向かって顔を上げた。

「私ね、この香り、好きなんだ」

「香り?」

「そう。何の香りか当てられるかな?」

 僕は、霧島さんの真似をして、目を閉じ、顔を上げる。

「香りって……飛行機のジェットエンジンの排気の匂いしかしませんが?」

「そうそれ! 何かの匂いに似ていない?」

 そういえば、何か馴染みのある匂いだ。

「石油ストーブ?」

「当たり」

「でも、何でこの匂い、いや、香りが好きなんですか?」

「うん、父の実家が岩手なんだけど、祖父と祖母の家に大きな石油ストーブがあってね、寒い冬の暖かい部屋を思い出すの。懐かしい香り」

 懐かしい香りか。確かに最近が石油ストーブが置いてある場所は少ないなと思った。

「あとね、空港も好き。子供のころは毎年、母の実家に帰っていたの。あ、母はイギリス人で、ロンドンの郊外に実家があるの。だから空港に来ると、イギリスのおじいちゃん、おばあちゃんに会えるんだってワクワクした。おじいちゃんは私が高校生の時に亡くなってしまったけど。……ホントは、ロンドン行きは成田なんだけどね。家からはこっちの方が近いから、時々来るの」

「そうなんですか、空港は霧島さんにとって、二つの楽しい思い出の場所なんですね」

「うん!」

 亜麻色の髪がなびく。

 滑走路を背に振り返って微笑む姿は、高校生くらいの女の子に見えた。

「高野君、この三日間、本当にありがとう。私……仕事の合間のこの時期……多分去年の夏のことを思い出して辛いだろうな、と思ってて。ハプニングはあったけど、おかげで少し元気になれた」

「いえいえ、僕の方こそ楽しかったです……それに、霧島さんが笑ってくれるのが何よりも嬉しいです」

 僕たちは、町田まで戻り、昨日待ち合わせをした駅の南口で別れた。

「じゃあ、次会えるのは、お店の予約の日ね」

「はい、よろしくお願いします」

「待ってるわ」

 そして三週間後、霧島さんが働くヘアサロン「Arlecchinoアルレッキーノ」を訪れたが、彼女の姿はそこにはなかった。

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