EYES
「とうとう、見つかっちゃったね」
隠れんぼの後の子供のみたいに、彼はそう言った。ゆったりと心地よい静かなテノールの声。
いつも微睡んでいるみたいなグレイの瞳は、まっすぐに私に向けられている。ほっそりと長い指先がもてあそんでいるのは、蔦の葉の模様がからまる銀色のコンパクト。
それは今夜…彼の正体を私に教えてくれた小さな密告者。
パチンと音をたてて留め具を開くと、現れた鏡面を彼は覗きこむ。何かを確認するように、二、三度滑らかに指先を走らせて、けれど彼はすぐにコンパクトを閉じた。
くすくすと薄い唇から、壊れやすい硝子のような笑い声がこぼれる。
「やっぱり映らないか…あたりまえだけどね」
彼は私の手を引き寄せて、開いた手のひらの上にコンパクトを落とす。
「僕は、吸血鬼なんだから」
コンパクトの重みが手のひらに伝わる直前に届いたつぶやきは、かすかに震えながら彼の髪と同じ色をした夜の中にゆっくりと沈んでいった。
「本当はね、もっと早く君の前から姿を消すつもりだったんだけどな」
会っていたのは、いつも彼のマンション。飾り気のない白い部屋。窓はみんな磨りガラスで、鏡はひとつもなかったことに、あらためて私は気がつく。
「なかなか、さようならが言えなくてさ」
軽く肩をすくめて彼は言う。
「いつから存在してるのか忘れるくらいの長い時間を生きてきたからね。誰かが側にいてくれるのが、ちょっと嬉しかったのかな。僕に近づく人はなかなかいなかったから」
彼とはじめてあった時に、異国の古い硬貨の肖像みたいって思ったことを思いだす。幾つかの時代をすり抜けて、不明瞭になった輪郭。そんな風に謎めいた彼の本当の輪郭を知りたくて、人の輪から一歩離れて立っている彼を見かける度に、近づいて話しかけて、ゆっくり恋人にしてもらった。
「本当に長い長い時間を生きてきたんだよ。映画や小説の中の吸血鬼とは、だいぶ違った風にだけどさ」
そう、彼は言った。私はおとぎ話の続きを待つ子供みたいに彼の言葉を待つ。
「太陽の光、十字架、そんなものじゃ僕は死ねない。身体に杭を打ち込まれたって平気だ。馬鹿らしいから試したことはないけど炎に焼かれてもね。……不死者だな。ありがたくはないけど」
グレイの瞳に不思議な影が宿る。、私の知らなかった暗い影。彼は続ける。
「でも、この通り。僕の姿は鏡に映らない。それから薔薇もダメだ。なぜだかわからないけど触ると枯れてしまうからね。この辺は映画や小説と同じかな……異端者の印さ」
そう言った彼は迷うように言葉を切って、それから明るい調子で言う。
「覚えてる?ここで一緒に見た映画。恋人に部屋いっぱいの薔薇を送った男の話。君がうらやましいがってたから、あんなにたくさんの薔薇が欲しいの?って聞いたら一輪だけでいいんだって言ったよね。僕は一度も君に薔薇の花をあげられなかったけど…」
白い壁をスクリーンにして、写してもらった映画。壁一面の赤い薔薇が綺麗で、私は無邪気にうらやましがった。その時、彼がどんな顔をしてあの言葉を聞いてたかなんて知らずに。
「受け取って…もらえる?」
躊躇うように私を見て、彼は私に一輪の薔薇を差し出した。砂のように乾いて、色褪せた一輪の薔薇の花を。
あの映画を見て買ってくれてたの?
渡せるはずのない薔薇の花を?
私は急いで手をのばす。だけど薔薇は、私の手が届くまえに、脆く崩れて…砕けて散った。
「ごめん…」
何か、どうしようもない何かに傷つけられたように息を飲んで、それから彼はそう言った。何度も何度も諦めてきたように疲れた声で。
「僕が、怖い?」
涙をこぼさないように、ぎゅっと噛んだ唇を見て、彼がそう聞いた。私はあわてて首をふる。
「違うの、考えてたの」
「何を?」
優しい彼の声。私の鼓動は早くなる。早く早く、勇気がくじけてしまう前に、早く。
「私も吸血鬼になれる?」
そのとたん、彼の瞳が冷たく、厳しく…凍った。
「どうして、そんなことを聞くの?」
「一緒に…いきたいから」
「馬鹿だ。いいことなんか…ひとつもないのに」
聞き分けのない子供を見るように私を見てから、ため息をひとつついて、彼は私の髪を撫でた。
「自分の顔も忘れるくらい、長い時だ。それを生きていかなきゃならない。人間じゃないものとして、ずっとずっとね。…辛いよ。僕は君にそんな思いして欲しくなんかないんだ」
私は答えない。顔をあげて彼を見る。彼だけを見る。
「ああ、その瞳だ」
困ったように、瞳をそらせて彼が言う。
「そんな風に、あんまり君がまっすぐ僕を見るから、僕はいつも君にさようならを言いそびれてしまったんだ。
ねぇ、僕は嬉しかったんだよ。君の瞳の中には、いつだって僕がいて。忘れはててた、僕の顔がいつだって写ってて…だから」
私は微笑う。困った顔をする優しい吸血鬼にむかって、多分誰よりも幸せに。
「あなたの知らないこと、教えてあげる」
共犯者の顔で私は告げる。
「あなたの瞳の中にも私がいるの」
「だから、私。鏡に写らなくなっても、きっと平気」
「つれていって…くれるでしょう?」
「何だか…」
長い夢から覚めたみたいに瞳を見開いて、はじめて言葉を話す人みたいに戸惑いながら彼が言った。
「おとぎ話みたいだ」
「おとぎ話みたいね」
嬉しそうに笑い続ける私を見て、彼は降参だと言うように軽く両手を挙げる。
「鏡にも写らない、薔薇の花もあげられない、そんな男が恋人でもいいなんて、君はずいぶん風変わりなお嬢さんだけど…
どうやら僕は、君には負けてしまうようだね」
そして、晴れやかに笑う彼を私は抱きしめる。私は私の恋人の本当の輪郭をはじめて見つける。
かりり、と優しく果実を噛むように
彼は白い牙を、私の喉に埋めた。