5 夢舞台の魔女
週明けの休み時間、疲れ果てた様相の薬師寺えいるは自身の席に突っ伏していた。
それは今日返却された中間テストの成績順位がお小遣いアップ要件の二十位に満たない二十一位だったことでも、週末に控えたものの落選していた『EIGHT∞N』セカンドライブの最終抽選でチケットが「ご用意」されなかったことでもなく、クラスのトップグループに位置する服部結人と一緒に登校したためか他のクラスメイトから嵐のように話しかけられ、精神力を使い果たしたからだった。
もちろん、自分から話しかける勇気はないので話しかけてもらえるのはありがたいことなのだが、えいるは自身の対応力のキャパシティが予想以上に低いことを見落としていた。
それに加えて結人との関係についての言及だったりで、男女関係の経験に乏しいえいるにとっては十二分に刺激的で、あの日のことを思い出せば思わず顔面が沸騰してしまうので憶測が憶測を呼び、危うく収集がつかなくなるところだった。
赤煉瓦の魔女との戦いの日に起きたえいるの気絶は、魔力の枯渇だったという。
赤煉瓦の魔女・ツェンとの戦いに加え満身創痍に近い状態の結人を治癒するため、ほとんどの魔力を使い果たして気絶したのだ。
えいるより早く意識を取り戻した結人は状況を察し、「夕食を共にした後、港を散策していたのもあって疲れが溜まったみたい」だと断りを入れて彼女を自宅まで送り届けたのだという。
母が言うにはえいるが自ら歩いてベッドまで飛び込んだとのことだが、あいにく何も覚えていない。お父さんが職場の飲み会から帰ってきた後に食卓に突っ伏して寝ているときの「記憶がない」とはこのような感覚なのだろうか。
憂鬱を纏い、席に突っ伏したままなんとなく顔を上げたえいるは、眼前に迫りくる存在に思わず息を呑んだ。
可愛らしく着崩されたブレザーに、いやらしさを感じさせない程度に短く折られたスカート。そこから伸びるすらりと細い足に、整った歩調。
「薬師寺えいるちゃん、だよね?」
えいるが顔を上げると、さらさらの金髪をまとった推しのアイドル――本牧飛鳥がえいるに微笑みかけていた。
「へ?ひゃ、はい……」
「聞きたいことがあったの!ちょっとだけ来てくれる?」
本牧飛鳥は小鳥がさえずるような声でえいるに呼びかける。反射的に席を立ったえいるは、まともに言葉も交わせないまま、彼女に従って屋上へと赴いた。
「ごめんね、疲れてるところ急に呼び出しちゃって!」
「え、あ、いえ、あの、大丈夫!です」
限界突破した緊張が、えいるの言葉を暗号に仕立て上げようと画策していた。
「緊張しすぎ!もっと楽にしてよ」
飛鳥はころころと笑った。それです、その笑顔が尊すぎてこんなに緊張していますと言う胆力は、えいるには無かった。
「ご、ごめんなさい」
ようやく吸い込んだ空気を円滑に吐き出す準備を終えたえいるは、やっとの思いで答えた。
「えいるちゃん、飛鳥のファンでしょ?」
「な、なな、なんで知って――!」
「なんでって、顔に書いてあるよ!」
にしし、と飛鳥はいたずらっぽく笑った。そんな飛鳥のからかいを真に受け、えいるは思わず両手で自身の顔をぺたぺたと触る。
「あははっ!ウソウソ、えいるちゃんのスマホについてるストラップ、1stのときのグッズでしょ?だから分かったの!」
「あ、えと、チケットは当たらなくて、その、配信勢ですけどあの、グッズはどうしても欲しくて現場入りしただけであの」
目の前に推しが居るというのに、えいるは斜め下を見下ろすように早口で答えた。
「でも嬉しいよ!もしかして、2ndも外れちゃった?」
見下ろす視線を覗き込むように視界に割り込んできた飛鳥の問いかけにドギマギしながら、えいるは申し訳無さそうにこくりと頷いた。
「そっか。じゃあ特別に……」
そう言って一枚、えいるの手に一枚の紙を握らせた。細長く、つるつるとした感触。それが何たるか、覗き込むまでもない。だがやはり確認したい。おそるおそる開いた手にあったのは、「EIGHT∞Nセカンドライブ」のチケットだった。
「ど、どうして……」
「ん?嫌だった?」
飛鳥は無邪気に首を傾げる。
「い、嫌なんかじゃなくて、全然、本当に嬉しいんだけど、その、どうして……」
「取引材料!」
「取引……?」
笑顔で答えた飛鳥に重ねるようにえいるは聞き返した。
それを笑顔で受け流した飛鳥がくるりと振り返る。
「それじゃあ本題なんだけど」
飛鳥はそういって屋上唯一の出入り口である扉に鍵を掛けると、さっきまでの柔らかい笑顔から一変、険しい表情でえいるの両肩を掴んだ。
「あんた、なんであんなのとつるんでるのよ!殺されちゃうわよ!」
「え?え?」
「服部のこと!分かるでしょ、あいつが忍者だってことくらい」
「ななな、なんのこと、ですか?」
ギクッ、という効果音さえ出そうなほど如実にのけぞったえいるは、飛鳥へおそるおそる聞き返した。
飛鳥は大きなため息をつき、
「あんた、これ見て分かんない?」
その場でくるりと回ってみせる。フィギュアスケートのようにその場で回転しているかと思われた飛鳥が虚空を掴むと、まるでポールダンスのようにふわりと浮き上がる。
彼女が掴んだ虚空はたちまち実体化し、銀色のスタンドとコンデンサーマイクが現れた。
そのマイク、もとい杖から発せられているのは、魔力だ。
「え、え、え、えええ〜〜〜〜〜!!!!あす……本牧さんも魔女――むぐっ!?」
「口にしないの!いつどこで忍者が聞いているか分からないでしょ!」
「ご、ごめんなさい……」
飛鳥に詰められたえいるは、思わずしゅんと肩をすぼめた。
「あんたも魔女でしょ、どうしてそんな無神経で居られるかな」
「……分かる、の?」
「嫌でも分かったよ。あんたの体中から魔力がポタポタ垂れてるんだから」
「垂れ――!?」
なぜかあまり快くない物言いに、えいるは思わずきょろきょろと肩越しに後ろを見回した。
確かに、魔女となってからはっきりと見えるようになった魔力が、自身の表層から靄のように滲み出ているのを感じる。対して飛鳥はというと、どれだけ目を凝らしても本人から魔力を感じ取れない。
彼女の魔力を感じ取ろうとじっと見つめたえいるは直後、飛鳥とばっちり目があっていることを認識して顔中から蒸気を噴出した。
顔が良すぎるのだ。キリッと整った顔立ちとほんの少しだけ残されたあどけなさ。黄金比と言ってもいい。
顔を覆って天を仰ぐえいるの行動に首を傾げた飛鳥はほんの少し息を吸うと、また切り出した。
「ていうか、どういう関係なの?あいつと、忍者と付き合ってるわけ?あたしから言わせれば相当悪趣味」
「つ、つつ、付き合ってなんて、ない、です」
「じゃあ何?」
「い、いやー、それは、その」
しびれを切らした飛鳥はまた大きなため息をつく。
「まあいいけど、あんた、もしかして何も知らずにあいつに利用されてない?」
「り、利用なんて、服部くんがそんなこと……」
えいるは思わず言葉に詰まる。それは言い負かされそうなほど反論の材料が不足しているというよりは、単純に眼前の少女の意見を伺いたいというほうが正しかった。
「いい?あいつら忍者は、自分たちのために片っ端から魔女狩りをして、勢力を広げてるの。魔女ってだけで、聞く耳もなしに……」
当初の勢いを失った飛鳥はその表情を曇らせ、少しだけ俯いた。
「飛鳥ちゃん……」
「ねえ」
言葉に詰まったえいるに、飛鳥はまた切り出した。
「魔女って、珍しい存在だと思う?」
「それは……どう、なんだろ」
飛鳥の問いかけに、えいるは上手く答えられなかった。
「忍者がいつ魔女と敵対するようになったかはわからないけど、あたしが知ったときには強い魔女も弱い魔女も、忍者に狩られていた。その殆どが奴らの情報操作で事故とかに仕立て上げられて、平気でニュースに流れたりするの」
飛鳥はその言葉の節々に確かな怒りを抱いていた。確かに、赤煉瓦の魔女と戦った時は彼女の石像に建物が破壊されたが、ニュースの見出しは施設内の飲食店で起きたガス爆発事故となっており、原因究明と危険防止のため現地は封鎖されているらしい。
「少なくとも、魔女はあんたが思っているほど珍しい存在じゃない。生まれた魔女は片っ端から忍者に狩られているだけ」
「あたしたち魔女はどんな時も忍者の襲撃に怯えなきゃいけない。それがたとえ、神話生物との戦いで疲弊した後だとしても」
「ーー待って!……神話生物?」
えいるの疑問は奇しくも意図した回答を誘うものではなかった。
「ああ。魔女になったばかりだから分かんないよね。この世界にはね、常識で考えられないような恐ろしい怪物がいっぱいいるの。言うなれば魔力の塊で、無尽蔵に増えていく魔力が一定数に達すると眠っていた神話生物が目覚めて暴れ始めるの。魔女は奴らを眠りにつかせるために命がけで戦うの」
「どうして……」
「あたしたちが魔女だから」
飛鳥はきっぱりと言いきった。
「死んじゃう魔女だっているんだよ。奴らの力は強大で、対峙したら生きて帰れるかどうかは五分五分。――まあ、このあたりに出る神話生物は全部ラミアがやってくれるからね、あたし達弱い魔女にとって、あの子は神様みたいなものだよ」
「ラミアって、あの……」
「そう、『大観覧車の魔女』ラミア。飛鳥も一回だけ見たことがあるんだけどね、その時はまともに話せなかったから、もう一回くらい会ってみたいんだけど……」
飛鳥は話途中で何かを察したように口をつぐむ。彼女の杖は虚空に消え、微量ながら発せられていた魔力はことごとく消え去った。
「薬師寺、いるのか?」
扉越しに、結人の声が聞こえてくる。
「服部くん!?んぐっ――!」
思わず口にしたえいるは、飛鳥にヘッドロックを掛けられながらまた口元を抑えられた。
「薬師寺!どうした!」
結人は激しい剣幕で鍵のかかった扉を蹴破り、屋上へと侵入した。
そこで結人が目にしたのは、スマホのインカメに笑顔を向ける、二人組の女子高生だった。
「ちょっと、どうしたの?」
飛鳥が素で驚いたような声を上げた。
「ああいや、これは……」
想定外の事象に思わず取り乱した結人の言葉を遮るように飛鳥が手でジェスチャーした。
「ちょっと待って、思い出す!同じクラスの、えっと……服部、結人くん!」
「本牧か。珍しいな。薬師寺に用があったんだが、取り込み中だったか?」
「ごめんね服部くん。彼女ちゃん、ちょっとだけ借りてた!」
「か――!」
からかうように言って見せた飛鳥に、結人は分かりやすく赤面した。
「えいるちゃんが飛鳥のファンだって聞いたから!こっそりファンサしてたの!ね?」
飛鳥はえいるにもう一度腕を絡めて目配せする。
「う、うん」
「じゃ、私はこれで!またね、えいるちゃん!」
ふわりとした足取りで本牧飛鳥は屋上を後にした。
「すまん、邪魔をしてしまった。本牧とは、仲がいいのか?」
「ううん、今日はじめて話したの。わたしのストラップ見て、話しかけてくれたんだ」
「そうか。早々にすまないが、今週末――」
「ご、ごめん!」
結人の誘いに先行して、えいるはぐいっと頭を下げた。
「週末は予定があって……飛鳥ちゃん、そう、『EIGHT∞N』のライブがあって」
「何だって?」
「『EIGHT∞N』を知らないの?”僕らは、大人でも、子供でもない”をコンセプトにした新鋭アイドルグループで、ファーストライブを異例のドーム開催、しかも満席御礼でセカンドライブの倍率は推定数十倍、先週から始まったドラマ主題歌に抜擢されて、主演もなんと飛鳥ちゃん!本当にすごいんだから!」
「お、おう……」
人が変わったようにえいるがまくしたてるので、結人は思わず半身ほどのけぞった。
「あ……」
結人のリアクションに気付いたえいるは、やってしまったと言わんばかりにしゅんと縮こまった。
「ご、ごめん……」
「いや、気にしないで良い。俺も調べておく」
「え?」
予想外の反応に、えいるは拍子抜けした。
「ライブに行くんだろ?薬師寺が好きなアイドルの」
「そう、だけど」
「俺も行く」
きっぱりと、結人は躊躇なく答えた。
「ええええええ!っていうか、チケットは?」
「なんとかする」
「なんとかって……一つだけ約束してほしいんだけど」
「何だ?」
「チケットは定価以上の値段で買うの禁止!」
「分かった、善処する」
そういった結人は屋上を後にした。えいるの念押しは、あまり手応えを感じられなかった。あとは彼を信じるしか無い。……とはいえ、えいる自身も特別中の特別で飛鳥本人からチケットを渡されたのだ。
あとから気づいたことだが、結人は家庭の事情とやらで学校を早退したらしい。
チケットのために奔走しているのか、忍者の臨時の召集のような何かがあったのかは分からない。
(わたしのことは監視するくせに、何してるか教えてくれないんだ)
その日の午後、えいるは少しだけ不機嫌だった。飛鳥がチケットを譲ってくれなかったら、きっと暴れていたことだろう。
会話もなく、久々に一人となった帰り道は、少しだけ寂しかった。
ライブ当日。天候は曇り空を保っているものの、降水確率の予報通り決壊は間近という模様だった。
アリーナ前の物販スペースでは、白んだ視界の中に多数のファンがひしめいている。
「ご、ごめん!遅くなっちゃった」
「大丈夫だ。目当てのものは買えたか?」
「うん!」
柱にもたれかかりながら時間を潰していた結人の問いかけに、えいるはありえないほどの上機嫌で答えた。
オーバーサイズのライブTシャツにメンバーカラーのエクステ、首から下げるのはお小遣いを貯めて購入した超高倍率の双眼鏡、右手には袋いっぱいの限定グッズ、左手にはこれまた袋いっぱいのケミカルライト。心の底から楽しんでいるえいるの無邪気な笑顔に、結人は思わず頬を染めた。
”最高の音響体験”をテーマに設計されたこのアリーナは最新設備が整っており、最寄り駅から会場へのアクセスを除けば評判もそこそこだ。
ライブ会場に赴くと、ファンメイドや協賛をはじめ、数多くのフラワースタンドがえいるたちを出迎えた。
「そういえば、どうやってチケット取ったの?」
「ああ、ちょうどここに」
「え、うそ……!フラスタ!?」
えいるはややオーバーリアクション気味にのけぞった。どうやら、忍者の資金を使ってライブ運営企業に協賛することで関係者席のチケットを一枚譲ってもらったらしい。結人のチケット獲得手段について、えいるは「ま、まあ合格!」と謎目線の認可を出していた。
関係者席といっても、えいるたちの席はアッパースタンドと呼ばれる最上階の座席からステージを見下ろすような位置付けだった。
見下ろすとかなりの高低差があり、胃の浮くような感覚が背筋を撫でる。しかしステージを正面から見通すことができ、スクリーンの映像もばっちり見られそうだった。
二席分だけ離れてしまった位置取りをチケットの交換という形でえいるの隣まで調整した結人は、物珍しげに周囲をきょろきょろと見渡していた。
開演前、会場に流れるバックグラウンドミュージックは徐々にその音量を上げてゆき、心地よい爆音へ昇華すると残響とともに会場が一転、暗黒に染まった。
まばらに灯るペンライトを残して訪れる沈黙。直後、強烈なイントロが会場内に響き渡る。
影として存在を示唆されていたメンバーたちが、スポットライトに照らされその全身を波打つようにステップを刻んだ。
「いきなり新曲!!」
えいるが叫ぶ。
花開くように会場を次々と染め上げてゆくメンバーカラーのペンライト。攻撃的なエレクトロサウンドが、レーザービームとともに大空間へ轟いた。
「飛鳥ちゃん!!!」
堂々のセンターで登場した本牧飛鳥は、胸元を大胆に開けた衣装で観客を釘付けにしていた。
パフォーマンスで沸く会場も、夢中でやったコーレスも、皆で笑ったMCも、過ぎ去ってしまえばあっという間だ。
プログラム終了のアナウンスで規制退場が宣言されると、結人は眉をひそめてえいるに耳打ちした。
「なあ薬師寺、何か変じゃないか?」
「変?……何が?」
「……俺達のブロック以外、すでに規制退場が済んでいる。それなのに俺達だけずっと残されているんだ」
「大丈夫、ライブではよくあることだよ」
先輩面をして諭すように答えたえいるは、結人の反応が期待していたそれとは違うことに気づく。
「俺達二人以外、全員退場していてもか?」
「え……?」
間の抜けた声が、えいるから発せられた。その声が数万人規模のアリーナとは思えないほど反響していることは、瞬時に理解できた。
轟音。耳障りな疲労破断の金属音とともに、えいるたちが位置する空中階のスタンドが瓦解した。
「わ、わ、わ!」
亀裂が走り、立っていた床が砕け散る。直後、瞬間的に宙へと浮いた状態となった二人はその重力に従うよりほかなく、底の見えない眼下の奈落へと加速していった。
「落ちる!落ちる落ちる落ちるー!!」
涙を浮かべ、混乱状態に陥りながら叫ぶえいるの手を、結人が掴んだ。
「落ち着け!これは幻影だ!薬師寺、俺の目を見ろ!」
結人がえいるに呼びかける。彼を見つめ返したえいるは泣き止んだ赤子のごとく沈黙し、直後、二人を襲っていた浮遊感は消失した。
気づけばステージへと降り立っていた二人。えいるも結人も、状況を理解しようと必死に周囲を見渡した。
「ど、どうなっているの……?」
「やられた……!結界だ。魔女の結界に引きずり込まれたんだ」
「け、結界!?」
えいるは思わず聞き返す。
「へー、案外鋭いじゃん、忍者も」
「本牧……」
全身から強烈な魔力を放つ本牧飛鳥は、ステージ衣装のまま舞台袖から現れた。
「飛鳥、ちゃん……」
「ごめんね、えいるちゃん。あたしも生きるのに必死だからさ、ここで忍者を殺す。いいよ、恨んでくれても」
コンデンサーマイク状の杖をぎゅっと握った飛鳥は、その儚げな瞳で結人を視界に捉えた。
「――まずい!」
直感、結人は飛鳥に向けてクナイを投擲した。後を追うように駆け、距離を詰める。
「無駄だよ」
飛鳥に向かっていたはずのクナイは突如推進力を失い、からんと鳴る金属音とともに力なく落下した。
結人が咄嗟に飛び退く。次に踏み込もうとしていた足場が突如白熱し、爆発したのだ。
駆けながら結人は頭上を見上げる。天井に取り付けられた発光機から照射されるレーザー光が、肉体をも切り裂く高出力の刃となってステージを次々と切りつけた。
魔力で強装した忍者の筋力も瞬発力も、光の速さには敵わない。熱光線に切りつけられた足首が、踏み出そうとした結人の意思に逆らって少年の身体を床に叩き伏せた。収束したレーザー光が、ステージを溶断しながら結人に迫る。
『寒威・六花!』
倒れ込んだまま、結人は床に手を押し当てた。
瞬間、巨大な氷晶が出現した。急速に冷却された氷晶は白濁を見せながら成長し、迫りくるレーザー光を瞬時に散乱させると天井まで到達し、レーザー装置ごと凍結させた。
「それ、本当に腹立つ!」
飛鳥は苛立ちを顕に叫ぶ。怒りに呼応するようにせり上がった発炎装置が、結人めがけて断続的な火炎を噴き出した。
離れていても感じる熱波は、たとえ直撃しなくともその威力を物語っている。包囲するように迫る弾速の遅い火球は徐々に結人を追い詰め、収束しては爆発を引き起こした。
黒く煙る中、炎の弾幕を切り裂いた直刀が、飛鳥に迫る。迫る斬撃を回避する隙は、飛鳥に残されていなかった。
刹那の躊躇、結人はえいるに横目をやった。その悲しそうな少女の顔が、脳裏に焼き付く。しかし手は止めない。振り上げた直刀が、魔女の首を跳ね上げようとした、その瞬間。
結人は大きくバランスを崩し、繰り出した斬撃は飛鳥の目先を掠めるに留まった。切断された金色の前髪が数本、はらりと落ちる。
結人の足元が、泥のように溶け出していた。通常では考えられない、金属製のステージが、どろりとした流体のようにうごめいている。
ここは夢舞台の魔女・本牧飛鳥の結界の中。彼女の想像が具現化し、嘘が本当に、本当が嘘になる。
「薬師寺!――クソッ!」
金属の沼に沈みゆく結人は、不安げな表情のえいるに最後、言葉をかけていた。
破壊され尽くしたステージに、静寂が訪れた。
「服部くん……」
「飛鳥の直感だけど、まだあいつ、死んでないよ」
呟くえいるに、飛鳥が歩み寄った。ぼこぼこと波打つ液状化ステージは、すでに凝固していた。
「えいるちゃん、聞いて」
飛鳥が振り返る。壊れかけの照明が、飛鳥を儚げに照らしていた。
「たぶん、飛鳥じゃ服部に勝てない。あたしの能力ね、こうやって幻影を見せる魔法なの」
飛鳥の背より伸びた純白の羽毛が、美しく輝いた。
えいるの頬をそっと撫でた翼の感触はまさしく本物で温かく、くすぐったかった。
「相手が幻影を現実と認識すれば相手にその結果が訪れる――高いところから落ちる夢、見たことあるでしょ?あれって夢から目覚めなければ、本当に死んじゃうんだって」
「でも、それが見破られちゃったら、飛鳥に勝ち目はない。持つ魔力のほとんどを使って結界を作ったからなんとかなってるけど、それももう限界」
飛鳥の声が震えている。それでもなお、彼女は口を開いた。
「飛鳥、アイドルでしょ。最年少でグループ入ってセンター獲って、立ち位置っていうか風当たり、ちょいキツイんだよね。あ、メンバーの仲が悪いとかじゃ全然ないよ!」
「飛鳥ちゃん……」
「あたし、二世だし、クォーターだし、実家が金持ちで現役JK。それがアイドルって、属性盛りすぎっしょ」
自嘲気味に語る飛鳥に、えいるは声をかけられなかった。
「それで、こんなアリーナでライブできてるけど一般知名度はまだまだ。追ってくれてるのは男の人ばっかり。嬉しいんだよ、もちろん!でも――」
飛鳥は一度息を飲み込むと、一呼吸置いてまた口を開いた。
「やっぱ欲しいじゃん、同年代の友達。えいるちゃんが1stのストラップ持ってるの見て、本っっ当に嬉しかった!」
花開くような笑顔に、えいるは思わずドキッとした。
「芸能忙しくて、すり寄ってくる奴らは顔とか体とか人脈目当てばっかり。この間は忍者のことで突然呼び出しちゃったけど、えいるちゃんとはそういうの抜きに、友達になれる気がしたんだけどな」
飛鳥を照らす照明が明滅する。直後、地中より響いた衝撃が、ステージを突き破った。全身に創傷を負いながらも結人が飛び上がり、直刀を咥えながら九字印を結ぶ。
「えいるちゃん、見てて。飛鳥の、最後の舞台」
本牧飛鳥は静かに笑いかけると、決意の眼差しで忍者を見据える。
無数の矢のように撃ち出された純白の羽毛が、結人の直刀に斬り伏せられる。斬られた羽毛はたちまち膨張し、結人の手から彼の武器たる直刀を奪い去った。
それを待ち構えていたようにトラス構造の天井が崩落する。数トンにもおよぶ無数の鉄骨が、結人めがけて落下した。
結人の手より繰り出される炎の鞭が鉄柱を焼き切り、溶かし、振り払う。
「きゃあっ――!」
落下の衝撃が作り出す突風が、えいるを襲った。土煙が去り、崩落した天井から見えた空には美しい夕日が輝いている。
背より生えた羽で空を舞う飛鳥。それを撃ち落とそうと、結人のサブマシンガンが次々と弾丸を打ち出した。それを見て、右へ左へ旋回する飛鳥。ついに一発、二発と、飛鳥の羽を銃弾が貫通した。
飛鳥の動きが鈍った、その一瞬。
『風遁・辻風!』
九字印を結んだ結人が作り上げたのは、小型の竜巻。突き上げるような突風に抗えず、飛鳥は乱気流へと吸い込まれていった。
ばさばさと、純白の羽毛が千切れ舞う。風が収まる頃には、ただ空より夕日の中を墜落する、羽を失った魔女の姿があった。
「飛鳥ちゃん!」
思わず叫ぶえいる。受け身も取れずに落下した飛鳥の身体は、すでにボロボロだった。
結人が直刀を構える。それを振り下ろすとき、忍者はもう、えいるの方へ振り返らなかった。
――ごめんね。飛鳥の口元が、そう動いた気がした。
赤が弾ける。えいるの半身を、生暖かい鮮血が染めた。刹那、チョコレートが溶けるように、ドーム状の結界は幻影を失い、次第に現実の色を取り戻してゆく。
幻想と現実はかけ離れており、美しい夕日の姿は既になく、どんよりと黒く濁った空だけが冷たい雨を降らせていた。発光ダイオードの街灯が夜道を明るく照らし、道路を走り抜ける無数の車両のライトに照らされた雨は風にあおられていた。
「どうして……」
雨に濡れるのも厭わず、えいるはただ空虚な気持ちを吐き捨てていた。
「薬師寺……」
結人も、かける言葉は見つからない様子だ。たとえ魔女だとしても、同級生を刃に掛けたのだ。降りしきる雨に、二人は長く沈黙を重ねた。
突如現れた、びりびりと震撼する強大な魔力。二人がそれを、その正体を知覚するのは造作もない。戦闘を身構えたのは、結人ただ一人だった。
大観覧車の魔女・ラミアがふわりと舞い降りる。本牧飛鳥の身体から抜け出した光がラミアの腰に付いたカンテラに吸い込まれる。小さな光がぽわりと籠の中を灯し、儚げな表情でそれを見届けたラミアは、えいるの方へゆっくりと歩み寄った。
ラミアと目が合う。氷のような美しさを放つ魔女だった。
「伏せろ!薬師寺!」
怒号とともに、結人が手裏剣を投擲した。その数は無数にあり、下手をすればえいるにすら当たりかねない。
刹那、ラミアはえいるを守るように、身に纏う漆黒のマントをひらりと翻した。
えいるを包みこんだマントの感触は、すべすべとしていて暖かかった。
布だったはずのマントは瞬時に硬化し、激しい金属音とともに手裏剣の雨を防いだ。
酸化鉄を思わせる赤いマントの裏地が硬化を解除すると、えいるの身からふわりと離れた。
その隙を、結人が見逃すはずがない。ラミアの寸前に、直刀を構えた結人が迫る。ゆったりとした足取りのラミアはそれを視界には捉えているが、まるで反応は出来ていない。赤煉瓦の魔女・ツェンは別だが、固有魔法での戦闘を主とする魔女には高速の近接戦闘が有効だ。本牧飛鳥がそうであったように、遠距離からの攻撃をかいくぐってしまえば、状況は忍者に分がある。
「レードル」
迫りくる直刀を見つめたラミアが、そう口にした。
上空から落下してきた、鋼鉄製の杖。少女の身の丈ほどの杖に見合わない質量を持ったその杖は地面にクレーターを穿つほどの衝撃波を作り出し、結人を吹き飛ばした。レードルと呼ばれたそれは意思を持つように浮かび上がると、ラミアの周囲をぐるりと飛行しては結人の眼前に立ちはだかった。
杖の先端に膨らんだ、鬼灯のような鉄籠。その中空で輝く、煮えたぎるような光球が赤々と輝いた。まるで武の心得があるかのようにひとりでに連撃を繰り出す杖は防御に徹することを強要された結人をラミアから引き剥がした。
「薬師寺えいる、私と話をしない?」
ラミアはあの日の言葉をもう一度、えいるに投げかけると、手袋越しでも分かる細くて華奢な手で、えいるの頬をそっと撫でた。
「可哀想に、薬師寺えいる。あなたについたこの血は、いったい誰のために流れたというの?」
ラミアは自身の手袋が汚れることも厭わず、ひんやりとしたその手でえいるの頬を伝う。
彼女はえいるにもう一度、手を差し伸べた。
「やめろ薬師寺!魔女の言葉に耳を傾けるな!」
必死の形相で、結人が直刀を放つ。あまりにも大振りなその投擲を躱した杖によって、結人は強烈に地面へと叩きつけられた。結人にとって致命的な一撃。だがそれは、計算通りの結果だ。
投擲された直刀は、ラミアめがけて放たれたものだ。ラミアはとっさにマントを翻し、直刀はそれに突き刺さる形で静止した。
叩きつけられた地面で、結人は激しさを増す雨音にその身を投げ出していた。地面にぶつかって激しく弾ける雨は、その荒れた天候をよく現していた。
『誘雷!』
目を見開き、九字印を結ぶ結人。
呼応するように、直刀がにわかに発光する。
「紫電!」
直刀めがけて落ちた、空気を切り裂く電光。魔女が鋼鉄製のマントで体を覆っても、そこに流れる高電圧の電流までは防げない。
瞬間、巨大な衝撃音とともに、閃いた雷光が霧散した。
ラミアを守ったのは、不可視の障壁。結人の攻撃は、薬師寺えいるによって防がれていた。
「魔女だよ」
えいるは力なく呟き、伸ばした手をだらりと垂らす。
「私だって、魔女だよ」
ぽろぽろと、えいるの目から涙が溢れた。
「ねえ、服部くん」
えいるの問いかけを、ラミアは静観している。
「ラミアは、悪い魔女なの?」
「そうだ」
「魔女は、全部悪いから、殺さなきゃいけないの?」
「……そうだ」
「悪い魔女を、ラミアを殺したら、そのあと、私のことはどうするの?」
「それは……」
結人が言葉に詰まる。俯いた少年が応えようと顔を上げた先に映っていたのは。
大観覧車の魔女・ラミアの手を取る、癒療の魔女・薬師寺えいるの姿だった。
「薬師寺!」
結人がとっさに火遁を放つ。だがそれはあくまで、ラミアに向けられたものだった。
しかしそれが虚空に消えた彼女達に到達することはなく、炎の軌跡は暗黒に溶けるばかり。
降りしきる冷たい雨が、立ち尽くす少年をただ延々と穿っていた。