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3 記憶の魔女

 Ⅲ 記憶の魔女


 少し恥じらいを残したえいるの提案によって、式神は一時解除された。

 それもそうだ。年頃の少女が、着替えやメイクの最中に発生する音を聞かれるのはいい気分ではない。入浴なんてもっての外だ。

「お、おまたせ……」

 頭を抱えながらソファに腰掛ける結人(ゆいと)に、身支度を済ませたえいるが声をかけた。

「薬師寺。さっきは――」

 そう言いかけた結人は顔を上げるやいなや、再び言葉をつまらせた。

「な、なに……?」

「ああいや――すまん、その、何でもない」

 不安げに聞き返したえいるに、結人はまた曖昧な返答を返した。

 えいるが不安げな表情になったのは、先程の結人の行動に対する不信というよりは、自分への自信の無さだった。それもそのはず、制服以外に着られるものといえば高校デビューを意気込んで買った数点しか持ち合わせておらず、しかもそのセンスがしっかりと流行に乗り切れているか、また子供っぽく映りすぎてないかなど、はじめて一緒に出かけるクラスメイトの異性の前とあれば特に敏感になる。

 対して結人のほうも、見慣れた制服姿ではないクラスメイトの新鮮な私服姿に照れていた。そして直前までの言動で自身に対する不信感を募らせていることを自覚し、気合を入れ直して口を開いた。

「薬師寺、先ほどはすまない、二度と不快にさせないように配慮する」

「い、いいよ、もう気にしてないし」

 気にしていないと言ってみたものの、実はえいるには少し気恥ずかしさが残っていた。むしろ思い出したくないので、話題に上げたくないというのが本音だった。

 えいるはコホンとわざとらしく咳払いをすると、

「それで、どこに行くの?」

「ああ、それはな――」

 結人に案内されるがままに向かったのは、市内でも特に郊外のエリアだった。ちょうどホームに停車していた当駅始発の列車に乗り、揺られること数十分。

 旅行に出かけるときに使う新幹線の停車駅も通り過ぎ、乗り換えた単線列車で田園の只中をゆっくりと通過してたどり着いた巨大な公園は、えいるも小学生の頃に訪れたことがあった。

「すごい……!昔のまんまだ!」

 平日にも関わらず、園内は多くの子連れで賑わっていた。結人に連れて来られたのは良いものの、こんな人目のつくところで忍者の式神について説明するのだろうか。

「こっちだ、薬師寺」

「へ?あ、うん」

 結人に呼びかけられ、声の方向へ振り向く。向いた先はえいるが見ていた開けた広場ではなく、園内通路ともいうべき小さなトンネルだった。

 結人はトンネルを抜けるかと思いきや、自然光でかすかに見える内壁の隙間に

クナイを突き立てた。

 石の擦れる重厚な音とともに、隠れた通路が現れる。灯りもなく果てしなく続くその下り階段は、えいるを歓迎しているものだとは思い難かった。

「先に入れ。俺は扉を閉める」

「うええ……」

 えいるは暗く湿った空間に、おずおずと足を踏み入れた。

 再び閉じられた扉により、光は完全に遮られる。

「ちょっ……服部くん?」

「ああ、ここにいる」

「ひゃっ……!」

 思いの外自分の近くで(ささや)いた結人の声が鼓膜をくすぐり、えいるは思わず声を漏らした。

 視覚が遮断されると、聴覚が敏感になる。これはある意味、服部くんとおあいこかもしれないな、などと思ったえいるは、頬に血が巡ったことを知覚した。

火遁(かとん)(かがり)

 結人が呟くと、彼の指先に小さな炎が灯った。ぼわりと照らされた煉瓦(れんが)の内壁からは、ところどころ水が染み出している。

「離れるな。そこら中、罠だらけだからな」

「罠!?わ、わかった」

 えいるはその物騒な単語に身をすくませると、先を行く結人の袖をきゅっとつまんだ。

 果てしないのではないかと思わせるほど長く続く階段。天井から染み出した地下水の落ちる、ぴちゃんという音が不気味に反響していた。

「ここだ」

「わぷっ!ご、ごめん」

 急に立ち止まった結人の背にぶつかったえいるは、真っ暗な通路からようやく開けた空間へたどり着いたことを理解した。

 結人は緑がかった鉄色の古めかしい扉を開く。その先に広がっていたのは、地上と比べても遜色ない広大な地下空間だった。

 真新しさは無く、多少の年季は感じるもののしっかりと整備されていることが分かる地下空間では複数の男たちが各々鍛錬を行っていた。

「昔、この場所が軍の弾薬庫だったことは知っているか」

「う、うん。見たことはないけど、学校で習ったから」

「かつてこの場所は、忍者の隠れ里だった。有事で軍の管轄となり、戦争が終わって閉鎖となったが、表向きには児童公園として、そして地下は非常用シェルターとして整備が進められたんだ」

 広大な空間を歩きながら結人が状況を説明する。現在二人が居る巨大な地下空間は、数十年前に危機が迫った終末戦争から国民を守るために建設されたシェルターで、忍者はこの設備を維持整備する代わりに拠点として活用しているのだという。

 結人に案内されたのは、先程までの大空間よりは少し小さい、使われていない倉庫だった。

「式神」

 結人が手を合わせると、意思を持った二枚の折り紙がふよふよと浮かび上がった。うち一つはえいるの背にぴたりと張り付き、もう一枚はえいるの眼前に浮遊した。

「それで、使い方だが」

 結人の説明に、えいるは耳を傾けた。

「本来であれば九字印――忍者が使う呪文のようなものを覚えてもらうのが好ましいが、習得は容易ではない」

「くじ――え?」

九字印(くじいん)だ。『(りん)(ひょう)(とう)(しゃ)(かい)(ぢん)(れつ)(ざい)(ぜん)』手の組み合わせに意味をもたせ、魔力を流す。するとプログラミングの要領で忍術が発動するんだ」

「はえー……私にはちょっと、難しいかも」

 感心するえいるは結人の複雑に組み絡まった手を見てため息を漏らした。

「心配ない、式神に対する指示はそんなに難しいものではない。手を使った動きには、自然と意味が備わるものだ」

 例えば、と結人はパンと両手を鳴らしてみせた。練られた魔力が弾け、式神に注ぎ込まれた。

「こうして手を叩けば、式神は薬師寺の命令に従うようになる」

「こ、こう?」

 えいるは言われるままに手を叩く。ぺちっという微かな不発音が鳴り、えいるはやけに小っ恥ずかしい感情を覚えた。

 しかしそんな音でも主の命に律儀に従い、えいるの背に張り付いていた式神は彼女を守護するかのように浮かび上がった。

「魔力が限られるのであまり派手な使い方はできないが、多少の攻撃も可能だ」

 結人はそう言って、倉庫の隅に置かれたドラム缶を指さした。

「え、あれを?じゃ、じゃあ、『あれを壊して』」

 えいるの言葉に反応した式神は小鳥のように広がったその身体を槍のように細め、矢のようなスピードで撃ち出された。

 直後、ドラム缶に式神の体当たりが命中し魔力の爆発が引き起こされた。

 えいるの身の丈ほどあったドラム缶が、アルミ容器のようにいとも簡単に引き裂かれて散らばった。

「な?簡単だろ」

「ちょっと待って……」

「難しかったか?それならもう一度試すと良い」

「いやいやいや、大丈夫、大丈夫だから!」

 えいるはその威力に思わず腰を抜かしていた。ふらりと倒れこみそうな肩を、結人がとっさに支えた。

「大丈夫か?……式神の負荷が思ったより大きかったか」

「い、いやいや、大丈夫。思ったよりすごい力だったから、びっくりしただけ」

 えいるは慌てて体勢を立て直した。確かに、こんなのを家の中でぶっ放されればひとたまりもない。

「まあ、薬師寺の身に危険がありそうなら式神の防御術式が自動的に発動する。使う必要があるときに、手を叩いてから命じれば良い」

「う、うん。分かった」

 こくりと頷くえいる。ズウンという大きな地響きが轟いたのは、その直後だった。

「――!まずい!」

「な、なになに!?」

 鳴り響くブザーのような警報音に、えいるは思わずうろたえた。

「薬師寺、ついてこい。俺から離れるなよ」

 結人は険しい表情でそう告げると、えいるの手を引いて走り出す。

 地下の大空間で鍛錬をしていた忍者と思しき男たちの姿は、すでにそこにはなかった。

「こっちだ!」

 結人が走る。とてもじゃないが、運動不足のえいるには追いつける速度ではない。向かうのは先程の真っ暗な階段ではなく、緊急出動路と書かれた小さな部屋だ。

……部屋?

 部屋の出入口は二重の格子扉で塞がれ、部屋と呼ぶにはあまりにも狭いその空間の上方から光が差し込んでいることに気づくのに時間はかからなかった。

 上部を見上げれば煙突状の機構が果てしなく伸びており、足元には幾重にも傷が

ついた警戒色の直線が四方を囲うように施されている。

「待ってこれ、もしかして……」

 えいるの脳裏に、口ずさめば誰もが歌えるような国民的アニメソングが鳴り響いた。

「おそらく想像通りだ。――術式、起動!」

 結人が叫ぶ。部屋、もとい足場から強烈に突き上げるような力を感じ、全身が地に押し付けられるような感覚を得る。自分たちが凄まじい勢いで垂直方向に加速しているのだと嫌でも気付いた。

「やああああああああああだあああああああああああああああああ!!!!!」

 悲鳴を上げるえいるを気にもとめず、そのカタパルト状の足場は二人を上空に打ち上げた。

 視界が白に染まる。暗い室内から一気に外へ放り出されたのだ。その眩しさに、

えいるは思わず目を閉じた。

「薬師寺、気をつけろ!」

「何を!」

 えいるは絶叫した。空中に放り出されているのだ。忍者の結人はともかく、えいるにとってはたまったものではない。

 ほぼ半泣き状態で空中を舞ったえいるを、姿勢制御に成功した結人がぎゅっと抱きとめた。

「大丈夫だ」

「はゎ……」

 不安と驚きで情緒が不安定になっていたえいるは、呂律が回らない故にあまりにもあざとすぎる声を漏らしたことを自覚して赤面した。

「見ろ。あれがさっきの地鳴りの正体だ」

「え?……ええええええ!?」

 結人に抱えられるまま彼が示すまま振り向いたえいるが目にしたのは、鎧のような鱗を逆立てて暴れまわる、半獣半魚の怪物だった。

「なに、あれ!」

和邇(わに)だ」

「わに?」

「古事記、および日本書紀に記載されている神話生物。かつては体についた海産物を掃除した人に恵む共生関係にあったが、有史以前に裏切られて以来、人間を恨み暴れるようになった」

 和邇と呼ばれた神話生物はその巨体をくねらせ、公園中央広場の木々を無差別になぎ倒した。

「ちょっと待って!公園に来ていた人たちは!?」

 えいるは叫ぶように結人に問いかける。

「大丈夫だ。『職員』から全員の避難を完了させたと連絡が入っている」

「良かった……」

 結人とともに着地したえいるは安堵のため息を漏らした。

「それで、あいつはどうするの……?」

「無論、倒す」

「――ちょっと!」

 結人はそう言うと人間離れした脚力で跳躍し、巨大な神話生物の頭上へと迫る。

結人が手を伸ばすと、タイミングを合わせるように一振りの刀が彼のもとへ投擲(とうてき)された。

 飛んできた抜身の刀を身を翻しながら握り込んだ結人はその刀身に魔力を込めると、虚空を斬りつけるように複数の斬撃を繰り出した。

 わずかに空間を歪めるように飛ぶ真空の刃は怪物の頭に直撃し、逆立った鱗がばらばらと剥がれ落ちた。鱗が落ちた怪物の頭部に刀を突き立てた結人は前方宙返りのようにその場でくるりと回転すると、かかと落としの要領で刀の()を深く蹴り込んだ。

 先ほどよりも深く突き刺さった刀に、怪物は苦悶の咆哮を上げる。

誘雷(ゆうらい)紫電(しでん)!」

 結人が叫び、怪物の頭上から飛び退くと、その頭に突き刺さった刀に向けて天上より一筋の雷撃が落ちた。

 その怪物は大きくのけぞったかと思えばたまらず体勢を崩し、その巨体を支えていた脚を投げ出して地に倒れ伏した。

「今だ!」

 結人の指示に、他の忍者が呼応した。どこからせり出してきたのか、二基の連装高射砲が轟音とともに砲弾を次々と吐き出していた。

 その爆音に思わず耳を塞ぐえいる。はじめは火花とともに砲弾を弾いていた頑丈な鱗も次第に剥がれ落ち、苦しそうにのけぞった怪物の腹に砲弾が次々と命中しては爆発を引き起こしていた。

 赤熱した砲身が打ち止めであることを主張すると、怪物は再び立ち上がり、耳をつんざくような咆哮を上げる。

 その喉元。怪物の大きく開けた口に、服部結人が迫った。

 両の手を複雑に組み合わせる。九字印だ。

「火遁・金剛!」

 煌々たる熱戦が、怪物の喉元を射抜いた。

 ぼこぼこと泡立った怪物の身体は、ついにその内圧に耐えきれず爆発した。

「うわあっ!」

 爆風の余韻が、えいるのはるか後方まで吹き抜けた。戦場と化した広場にはほどなくして静寂が訪れる。

 愕然とし立ち尽くすえいるの元に、結人がすたりと着地した。

「倒した、の?」

「ああ。これであいつはしばらく動けない」

「しばらくは……って」

和邇(わに)のような神話生物が死ぬことは無い。時間をかけ、その身を形作る魔力を取り込むことで、あいつの肉体は再生する」

「そ、そんな……」

「ひとたび暴れれば大災害となる神話生物の存在は一般に知られてはならない。混乱を招くからな。俺達忍者は、人知れず奴らを鎮めなければならないんだ」

「それって、すごく危ないんじゃ……」

「そうだな、和邇程度であればいくらか余裕はあるが、災厄級の神話生物となると俺達も命懸けだ。ああ、命懸けなんだ……」

 そう言って、結人は憂い気な表情で俯いた。それは、彼が過去に何か悲しみを背負ったものだということを物語っていた。

「服部くん……」

 えいるは言葉をかけようにも、それ以上の言葉が見つからなかった。

 風切音。

 瞬時に顕現した式神が、その身を代償に二つの手裏剣を受け止めた。

 バリバリと魔力の波動が解き放たれる。えいるの背に張り付いていたもう一枚の

式神が彼女の前に漂うと、それはみるみるうちにその姿を膨張させ、大盾(シールド)槍斧(ハルバード)を構える甲冑騎士へと変身した。

「薬師寺!伏せろ!」

 結人の絶叫に、思わず身をかがめるえいる。彼女を覆うように頭上に跳躍した結人はどこから取り出したのか、小型のサブマシンガンをバラバラと速射した。

 無数の金属音が断続する。直後、えいるの周辺に勢いを失った手裏剣がからからと甲高い音を立てながら散らばった。

 前方より迫りくる大鼠の大群を折り紙の甲冑騎士は長大な槍斧で薙ぎ払うが、その数に圧倒されついにその身を食い破られて沈黙した。

 魔力を失った折り紙がぱらぱらと舞い落ちると、大鼠たちはたちまち結人が放った火遁の餌食となった。

 先程までとは比べ物にならない激しい金属音が鳴り響いた。おそるおそる目を開けたえいるの視界に映ったのは、黒装束の少年により彼女めがけて振り下ろされた短刀が、結人のクナイによって抑え込むように防がれた瞬間だった。

「趣味が悪いぞ、服部(はっとり)

「――鵜飼(うかい)!」

 鵜飼と呼ばれた小柄な少年は、結人との戦闘に埒が明かないことを認識すると呆れたように納刀した。

「よりによって忍者の隠れ里に魔女を連れてくるなんてな、どういうつもりだ?」

 ぶっきらぼうに問いかけた鵜飼に、結人はただ口をつぐむ。

「……それが答えかよ。お前、すでに魔女の手に堕ちたな」

「違う!」

 結人は口を開いた。

薬師寺(やくしじ)は、後天的に覚醒した魔女だ。こいつがラミアに(ほだ)されれば、俺達はいよいよ奴に勝てなくなる」

「ラミア、って……『大観覧車の魔女』か?」

「そうだ。話を聞いてくれ」

 ラミアという名を聞いた途端、鵜飼と呼ばれた忍者の少年は態度を急変させた。

そして結人の言うがまま、話を聞くという素振りを見せて押し黙った。

「こいつには特別な力がある。治癒魔法だ。そして攻撃魔法は使えない。魔女と違い、魔力で肉体の再生が出来ない俺達にとって、この能力が状況を変えると思わないか?」

「治癒魔法だと?笑わせんなよ、忍者が二千年の間研究を続けても完成させられない、未知の体系だぞ。文献でも伝説級の魔女が使えるかどうかってレベルではっきりとは書かれていない。そんなのを、こいつが――」

「見れば分かる。――薬師寺、頼めるか?」

 結人はそう言うと着ていたシャツをたくし上げ、自分の腹に切り傷をつけた。

「ええええ?わたし、本当に分かんないよ……?」

「大丈夫だ。言葉や思いに、意味は宿る」

 傷としては浅いとはいえ、血が滴るさまは見ていて痛々しかった。

「わ、わかった。えっと、じゃあ……傷よ、治れ!」

 えいるはそれなりに勢いを込めて結人の傷へ手を伸ばした。

 が、何も起こらない。

「あ、あれ?傷!治って!」

 慌てたえいるはもう一度言葉に出す。しかし、彼女自身からその「治癒魔法」が放たれることはなかった。

「服部……」

 はじめは大人しく見ていた鵜飼も、あきらかに苛立ちを隠せない声を上げた。

 どうしてだろう。えいるは確かに、あのとき結人の傷を治していた。それが達成されない理由とは何か。

(ああもう!)

 えいるは若干に頬を染めながら、その手を傷ついた結人の腹へと触れさせた。

(お願い、治って……!)

 忍者として鍛え抜かれた少年の見事に割れた腹筋。かちかちとしたその感触から伝わる体温が、なんとも言えない中毒性の片鱗を感じさせた。

 直後、結人の身に変化があった。先程切り裂かれた腹の傷が、瞬く間に塞がっていたのだ。

「できた!」

「……マジかよ」

 鵜飼は思わず舌を巻く。対してえいるは、安堵のため息を悟られぬようにゆっくりと吐き出した。

 本当に安堵したのは結人の方だった。

「もちろん、お前の懸念も承知している。だから俺が、責任を持ってこいつを監視する」

「ハッ、どうだかな。俺だって馬鹿じゃねえ、そいつの治癒魔法は認めるが、俺達を裏切らないって保証がどこにある。少なくとも近衛衆(このえしゅう)、ひいては上忍頭目(じょうにんとうもく)――お前のじいさんに意見具申したらどうだ」

「それは……」

 強く言い放った鵜飼に、結人は言葉をつまらせた。

「まあいい、お前には借りがある。だがいつまでも隠し通せると思うなよ。第一、あの頑固者のじいさんだ」

「分かってる。――行くぞ、薬師寺」

「う、うん」

 わずかに遅れて結人の後を追うえいる。振り返ると、そこに先程までの忍者の姿はなかった。

「ねえ、服部くんの、おじいさんって……」

「あ、ああ……」

「ご、ごめん、何でもない。忘れて?」

「いや、すまない。話しておいたほうが良いだろう」

 結人はもう一度垣間見えた躊躇(ちゅうちょ)の後、

「……三年前のことだ」

 唇を噛み締め、おもむろに口を開いた。


 それは、鮮明な記憶だった。

 巨大な地底湖から漂うひやりとした空気が一瞬にして灼熱の蒸気へと変化した。

 洞窟に響き渡るのは地鳴りのような咆哮。その首を八つに分けた大蛇の頭が、その巨体に見合わない速度で岩壁を削り取った。

飛散する砂礫を跳ね除けながら跳躍した黒装束の少年は、視界の隅で血を撒き散らし肉片に砕けた同胞を観測すると歯を強く食いしばった。

「結人、お前は逃げろ!」

「はあ!?何を言って――」

 仲間に名を呼ばれた少年は、思わず反発する。

「俺はもう生きて帰れそうにない、だがお前は違う」

 片腕を失った壮年の男は、眼前の少年に冷静に告げた。

「あいつを止めなければこの世界は終わる、分かっているだろ!」

「ああ分かっている。だからこそ、俺一人で十分なんだよ」

「無茶だ!そんなボロボロの身体で、あの怪物相手に数刻と持たないぞ」

「……結人、これからは、お前が隊を率いるんだ。お前には母さんから受け継いだ資質がある。その力で、世界を――」

 編隊を組む戦闘機のように少年に並んで飛んでいた男はくるりと身を翻し、怪物の元へ降りてゆく。

「よう、大蛇野郎」

 男は悪巧みするように歯をむいて笑う。大きな八つの頭が、男をぐるりと取り囲むように天上より迫った。

 大きな口を開け、見下ろす先のちっぽけな存在を肉片に帰そうとした刹那。

「奥義――『氷瀑(ひょうばく)』」

 閃光が弾けた。轟音とともに貫かれた大蛇の巨大な頭からは巨大な氷柱がせり出していた。ところどころ切断された、肉片と言うにはあまりにも大きい大蛇の頭が肉塊となって湖面に落ち、激しい水柱を拭き上げる。

 片腕の男が自爆したのだ。強大な魔力の波動が、余燼となってびりびりと押し寄せた。

 首を落とされた大蛇はたまらず体勢を崩し、かろうじて残されたただ一つの頭からは苦悶の如く甲高い咆哮が鳴り響いた。

「親父……」

 押し寄せる暴風をその身に受けながらもなんとか高台に着地した少年は、力なく倒れ込む大蛇を見据えて空虚なため息をついた。

 残響ののち、いっとき訪れる静寂が立ち尽くす少年の心臓を冷やした。

 少年はただ、拳を強く握り込む。声にならない声を漏らし、己の未熟を悔いた。

 しかしその後に訪れた異音が、彼のこれ以上の落胆を許さなかった。

 落とされた大蛇の首がボコボコと泡立ったように見えた次の瞬間、その首には再生された頭が形作られたのだ。

 新たに見開かれた大蛇の眼は、先程よりも明確に怒りの色を増して少年をぎょろりと睨みつけた。

 直感。少年はその場を飛び退いた。一瞬前まで立っていた足場が、果物のように切断された。

 大蛇が水を噴射したのだ。全身の筋肉を収縮させて放つ、岩すら砕く高圧の水流だ。

「ぐあっ――!」

 不規則に入り乱れながら放たれる八つの水流を間一髪で躱すも砕かれた石片まで避けることは能わず、次の瞬間に少年の身体は無数の砂礫とともに水中へと没していた。

 宝石のように深い青で透き通った地底湖の水は冷たかったが、澄み渡る絶景に思わず息を呑んだ。しかしその安寧も、次の瞬間には焦燥へと置き換わることになる。眼前に巨大な口を開けた大蛇の頭が迫る。

 秘伝の高速泳法は心得ているものの、人間の速度などあの怪物の前では蟻のようなものだ。凄まじい速度で迫った大顎が少年を飲み込もうとした、その瞬間。

 轟音とともに、大蛇の顎が裂けた。

 水中より迫った複雑な水流は少年を押し流し、平衡を失った少年は死を覚悟した。薄暗い地底湖の水中で上下感覚を失えば、水面がどこか分からず息絶えるのみだからだ。

 少年の推測に反して、水上と思われる方向から光が差し込んだ。その理由を考える前に、必死に水上への脱出を試みて水を掻く。寸刻の間を経て懸命な生への執着が結果をもたらし、水中より這い出た少年の耳孔より湖水が流れ出た時には、全てが終わっていた。

 僅かな水を残して干上がった地底湖。崩落し、空が見えた天井。八つ首の大蛇は二つほどの首を残して頭を吹き飛ばされ、残された頭の目は死んだ魚のように力なく白く濁り、溶け出している。

 その怪物を前に浮かんでいたのは一つの影、否、少女の姿があった。

 黒くたなびく漆黒のマント、華奢な体に見合わぬ大きなとんがり帽子、人ならざるものであるかのように白銀に輝く長い髪、振り返ったその瞳は、今倒された大蛇と同じ縦長の瞳孔。こちらを見据える彼女の眼光は、間違いなく人間のそれではなかった。

 少年の肌が粟立つ。数十人が命がけで挑んでも倒せなかった巨大な大蛇。それを、彼女が一人で倒したというのだろうか。

 瞬間、感じるおぞましい魔力の波動。少女が放ったものだろうか。その答えは、ボコボコと泡立ったように肉体を再生する大蛇を見て認識した。

 再生した一つの頭が少女に噛みつこうとした刹那、虚空より現れた鉄塊が大蛇の頭を押しつぶした。鈍色(にびいろ)に光を放つ、鋼鉄の杖。少女が声をかけるようにそれに向かって何かを口にすると、杖の先端に付けられた鬼灯のような形状の鉄籠、その中空で煮えたぎるように漂う光球が眩く輝いた。

 空気を震わせるほどの魔力の波動。巨大な大蛇は、悲鳴のような咆哮を轟かせた。

「魔力を、吸い取っている……?」

 びりびりと肌を痺れさせる強大な魔力は、底なし沼のように少女の杖へと吸収されてゆく。大蛇はやがて干からびたように生気を失い、音もなく湖底へと沈んでいった。

 陥没した天井から覗く夜空が、薄ぼんやりと少女を照らす。ひゅうと、乾いた一陣の風が吹き抜けた。

「お、お前は、何者だ」

 少年は唇を震わせながら問いかけた。

 陽炎のように揺らめく少女が振り返る。光を歪めるほどの魔力を全身から溢れさせ、吸い込まれるような深く赤い目がこちらを捉えたことを認識すると、恐れからか金縛りのように少年の身体は硬直した。

 言葉をかけられた少女は何も答えない。白い髪をたなびかせ、ゆっくりと空に溶けて消えてゆく。

 無音の空間には、少年以外誰一人として存在しなかった。 


「それで、言いたいことはそれだけか」

 異様なまでに広い屋敷の広間で、御簾越しのしゃがれた声に少年は口をつぐんだ。

「上忍の大隊一つ潰しておいて、よくぞまあのこのこと逃げおおせてきたものよ」

 座する少年の寸前に、虚空より召喚された直刀が突き立てられた。

「出来の悪い愚息の置き土産もまた出来損ないだったか」

 少年はぎりと歯を噛んだ。

「まだ反抗する気力が残っているか、小僧。よいか、強きは残り、弱きは絶たれる。変わることのない、世の理よ」

 御簾越しの声は更に語気を強める。

「大蛇をも喰らう魔女、それすなわち災厄。護国のためにも、野放しには出来まい」

 立ち上がった少年の手には、眼前に突き立てられていた直刀が握られていた。

「仇の仇は己の仇。魔女を狩れ、結人。我が愚息、貴様の父の仇を取り、国のために死ね!」

 少年の瞳が、炎のように揺れていた。


「服部くんに、そんな過去があったなんて……」

 揺れる電車の最後尾の座席で、えいるは神妙な面持ちで呟いた。学生がまばらに乗っている以外、車内は閑散としていた。

 先程の和邇による地鳴りは、公園内での不発弾の爆発と報じられていた。民間人は現地からの避難を命じられ、報道のヘリコプターがバタバタと目障りな音を立てる中、二人は帰路についたのだった。

「気にしなくていい。それよりもすまなかった。本当は俺達忍者だけの問題なのに、お前を巻き込んでしまった」

「いいよ、もう。だって知られちゃいけないんでしょ?他の人に」

「ああ。……すまない」

 結人はまた俯き、膝の上で拳を強く握り込んだ。やはり、父の死は彼にとっても相当堪えているのかもしれない。

 バクバクと心臓が暴れるのをえいるは自覚する。それをろくに制御できないまま、おそるおそる、結人の拳に自身の手を重ねた。

「薬師寺……」

「私は怖くないよ。だって、服部くんが守ってくれるから」

 カタンカタンと列車が揺れる。並んで座る二人に、茜色の西日が差し込んだ。

「……そうだな」

 ふっと、それまで仏頂面だった結人の表情が和らいだ。それを見たえいるも、ほんの少しだけ、嬉しくなった。

 列車はあっという間に終点のホームに滑り込み、視界には見慣れた高層ビルやロープウェイが戻っていた。

「そうだ、薬師寺」

「なに?」

 改札を出て間もなく反対方向に別れようとした時に、結人が切り出した。

「今日は助かった、感謝する。それから週末、また付き合ってもらって良いか?」

「週末?うん、良いけど……今度はどこに?」

「……魔女狩りだ」

 結人は少しだけ言葉を発するのに時間をかけたが、その表情は至って平静だった。

 自宅に戻り、ルーティーンのごとくベッドへぽふりとダイブするえいる。

『だって、服部くんが守ってくれるから』

 ……もしかして、とんでもないことを言ってしまったのではないか。

 えいるは全身のむず痒さに耐えきれず、暫くの間ごろごろとベッドの上でのたうち回っていた。


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