2 癒療の魔女
温かな奔流が、全身を包み込むような感覚が巡る。
少年の視界に、微かな夜光が戻った。脱力した肉体が、脳からの指示を受領しないと主張している。虚ろな視界で見上げる先には、彼を不安げに見つめ続ける少女の姿があった。
「お、起きた?」
「お前は……」
服部結人が呟く。自身の後頭部に接する柔らかな感触を知覚したのは、その直後だった。
「ご、ごめん、腰、抜けちゃってて……」
ぺたりと座り込んだ膝元で結人を受け止めていた薬師寺えいるは、顔を真赤にしながらはにかんだ。
「すまない、薬師寺。お前を巻き込んでしまった」
「えと、私、実は何が起きてるのか分からなくて。あはは……」
話したこともない同級生の男子に名前を呼ばれ、完全に動揺したえいるは、精一杯の言葉で現在置かれている状況に疑問を呈した。
「ああ、説明しよう。その前に、ラミア――さっき空に浮かんでいた魔女がどこに行ったか分かるか?」
「うん、服部くんが倒れた後、私をじっと見て、遊園地の方に飛んでいっちゃった」
「そうか……命があるだけでも奇跡だな」
結人はそう吐き捨てると、ゆっくりと体を起こした。そして、
「――ッ!」
全身の違和感に気付いた。魔女から攻撃を受け、満身創痍だったはずの身体の傷が、治っている。飛び起きた結人は勢いよく、えいるの方へ振り返った。
「お前、俺に何かしたか?」
「な、なな、何かって、何を……?」
激しい剣幕で詰め寄る結人。怯んだえいるは、特に後ろめたいことがあるわけでもなかったが思わず唇を震わせた。
「ああいや、すまん、その、傷のことだ。さっきの戦闘で確かに致命傷を負ったはずだが、痛みも、傷跡すら残っていないのが不思議だったんだ」
「わ、私もびっくりした。服部くん、血だらけだったのに、どんどん傷が治っていって……」
「薬師寺、少し良いか?」
「へ?」
結人はえいるの額に指先を近づける。
「痛っ!な、なにを……」
突然走った電流のような感覚にえいるは思わず口走る。実際に痛みは殆どなかったが、驚きのあまり声を上げてしまっていた。
「やはりか……すまん。順を追って説明させてくれ」
小さなため息をついたように見えた結人は一言謝ると、その生い立ちを述べるべく口を開いた。
「俺は――」
びゅうと、一際強い風が吹き抜けた。
Tシャツにジャージを羽織ったのみのえいるは、冷たく当たる秋の夜風に思わず身を縮めた。
「寒う……!」
「すまん、話すと長くなるな。場所を変えよう」
「ひゃっ」
立ち上がった結人は、肩を捕まれて思わず声を上げたえいるを軽々と抱き上げると、先程の負傷が全快したと言わんばかりに華麗に飛び上がり、刹那の滞空を経て建物屋根から道路へ衝撃もなく着地した。
「薬師寺、家は近いか?」
「う、うん、すぐそこ、だけど」
「そうか、なら丁度良いな」
「へ?」
無意識の疑問がえいるの口から発せられる。束の間、二人がたどり着いていたのは他でもない、えいるの自宅があるマンションのエントランスだった。
彼女の記憶は、そこから少しばかり飛んでいる。それは結人に何かをされたというわけでもなく、単に目の前で進行してゆく未体験の出来事が目まぐるしく推移し、混乱したからだ。
「すみません、こんな時間にお邪魔しちゃって」
「良いのよ、気にしないで。それにしても驚いたわ、まさかえいるに友達、しかも男の子が居たなんて」
ダイニングテーブルについた二人に、えいるの母はどこから取り出してきたのか、すごくいい香りのするコーヒーと焼き菓子を振る舞った。
「すごくいい香りです、普通の豆じゃないですよね?」
「あら、気づいちゃった?これはね――」
結人の好青年ぶりに母は嬉しそうに答える。それを見て、えいるはなんとも言えないモヤモヤとした気持ちに包まれた。
おかしい。そう、おかしいのだ。どうして服部結人がえいるの自宅に上がり込んでいるのか、そして母はなぜそれを嬉々として受け入れているのか、すべてが疑問だった。
「服部くん、ありがとうね。えいると仲良くしてくれて。この子、人見知りだから」
「いえ、僕の方こそ、薬師寺さんには親切にしてもらってて」
母に対し、服部結人は爽やかに答える、が。
(ウソウソウソ!だって話したの今日が初めてだし!)
内心ブンブンと首を横に振ったえいる。しかしそこに口を挟む余裕は、彼女の母が許さなかった。
「あら、そうなの?」
「え、えと……うん」
「まあ!」
例に漏れず、えいるの付和雷同が発動した。母にさらなる言及を受けたときにどう切り返そうかなんて妄想していると、「そうだ」と思いついたように母が両の手を叩いた。
「ごめんなさい、服部くん、私、明日代打で早番入っちゃったのよ。申し訳ないんだけど、私は職場まで行っちゃうわね」
「ああ、すみません、それでしたら僕、お暇します」
申し訳無さそうに立ち上がりかけた結人を、被せるように母が言葉をかける。
「良いの良いの、ゆっくりくつろいでいって。えいる、ちょっと来て」
母の呼びつけに大人しく従ったえいるは、結人に申し訳なさそうに振り返ると彼もまた無表情のまま微かに首を動かした。
「えいる、でかしたじゃない!」
「な、なにが!」
「服部くんよ!あんなイケメン、よく捕まえたわね!」
「つ、捕まえた、って……」
満面の笑みの母に、えいるは思わず頬を染めた。
「まあいいわ、お父さんは今夜も手術で戻れないみたいだから、明日の朝は一人でご飯食べていって」
「うん」
「冷蔵庫のものとかお菓子とか、何でも出していいから、とにかくあのイケメン君をもてなしなさい」
「や、やめてよお母さん!」
えいるはまた声をあげる。そんな彼女に構う間もなく母はさっさと玄関を飛び出してしまい、がちゃりという音とともに静寂のみが残された。
「はあ……」
声にならないため息を付きながらリビングに戻ったえいるは、依然としてダイニングチェアに腰掛けている異性のクラスメイトの姿を再認識してじんと耳を染めた。
「……」
えいるは眼前の少年――服部結人に声をかけることは出来なかった。
気まずいし、何を話せばわからないし、そもそも状況が理解できない。そんなえいるを見て口を開いたのは結人の方だった。
「すまない。混乱しているよな」
「――はい」
「まず結論から話そう。俺の正体は隠密、つまるところ忍者だ」
「えええええ!忍者?忍者って、あの忍者?」
「ああ、信じられないか?」
「信じるも何も、あんなの見せられちゃったら信じるしかないよ」
えいるは肩をすぼめながらぽつりと呟いた。
そう、ダイニングテーブルを挟んで鎮座する服部結人という少年は、えいるの眼の前で驚異的な身体能力を発揮したり、火遁などと言って手から炎を噴き出したりと、人間離れした技をいくつも見せているのだ。そんなえいるの反応も、あくまで想定内といった表情で結人は続ける。
「それなら話が早い。俺たち忍者は少なくとも二千年前から影の護国尖兵として活動している。本来であれば俺たちの存在は知られてはならないが、見られてしまった以上は知ってもらうしかない」
「へ、へえ〜……なんかすごいね。すごすぎて、分からないというか……」
「無理もない。日常生活でまず触れるものではないからな。問題は薬師寺、このあとのお前との交渉にある」
「へ……?交渉――ッ!待って待って待って!!」
えいるはあからさまに取り乱した。無理もない。結人がどこからともなく取り出した漆黒のクナイが、えいるの顎先に触れていたのだ。
「この秘密を知られてしまった以上、お前には選択をしてもらうしかない」
結人は先ほどまでの表情から一変、鋭く、冷たい目つきでえいるの目を見た。
「まずは答えから聞かせてくれ。生きて、俺たちに協力するか、あるいは命を終わらせるか」
「へ、えへへ、これって交渉っていうより脅迫じゃ……ひっ!」
恐怖や混乱がもう限界値を通り越しておかしくなってしまったえいるは、逆にへらへらと口を滑らせると喉元に迫るひやりとした感覚に思わず顔をひきつらせた。
「わ、分かった!分かったよ!強力する!協力するから!」
半ばやけになって叫んだえいるに、結人はクナイをそっと下ろした。
「良かった。協力に感謝する」
協力も何も、脅迫でしか無いのですが……。
そんなことを口走ればまた喉元に刃を突き立てられるだけだと理解していたえいるは安堵と困惑が入り混じったようなため息を付いた。
「そして、ここからが本題なんだが」
「こ、これ以上の本題があるのでしょうか……?」
困惑するえいるを気にもとめず、結人は話を続ける。
「さっき見た魔女、黒ずくめの少女を覚えているか?」
「う、うん、倒れた服部くんを私が受け止めたとき、すぐ近くまで降りてきたから」
「本当に話したかったのは、その魔女のことだ」
結人は紅茶を一口含むと、覚悟といっしょに飲み込むように一呼吸の間を置いた。
「俺達忍者は現在、魔女を根絶するために戦っている」
「根絶……」
「ああ、奴らは少女の姿で人を惑わすが、その実は災厄の具現そのものだ」
「そ、そうなの……?」
少年が発した言葉の強さに、えいるは思わず身をすくませた。
「そして薬師寺、お前もおそらくだが、魔女だ」
「ええええええ!!わ、私!?」
結人の言葉に、えいるは驚きを隠せず声を上げた。ぼんやりとも理解が出来ていない災厄の元凶である魔女。自分がその存在そのものだと自覚することもなく断定されてしまっては、一生懸命の理解も追いつくに追いつけない。
「さっき、外で指先を額に当てたのを覚えているか?」
「う、うん。なんだか、バチってした。静電気、みたいな」
「魔力の知覚、それこそがお前が魔女である証拠だ。通常、人間は魔力を知覚できない。知覚できたとしても、周辺の魔力の不調律によって悪寒を感じたり、一瞬何者かに見られているような視線を感じるが気のせいかと納得する『数秒後に忘れる違和感』に過ぎない。対してお前に流し込んだ魔力に対して、お前は無意識にその流れを防御した。それは訓練された忍者など、魔力を扱う者にしか出来ない芸当だ」
「そんな、わたし本当に何も知らないよ!服部くんが戦っていた、あの子だって」
「ラミア――『大観覧車の魔女』が近くに降りてきてお前を襲わなかったのは、魔女であるお前を同胞と認識したためだ。そして魔女はそれぞれ自身に固有の能力を持つ」
能力?と首を傾げたえいるに、結人は手のひらを差し出してみせる。直後、彼の手からぼうと炎が揺らいだ。
「熱っ――!」
「これは忍術の一つ、『火遁』。体内に巡る魔力を炎に変換して具現化させる術だ。魔女が用いる魔法と体系は違うが、魔女もそれぞれ固有で強力な魔法を使って俺たちを迎撃してくる」
結人は炎を握り込んで消散させると、話を続けた。
「炎を操る魔女、氷を操る魔女、文献によれば、時間を操る魔女なんてものも居るらしい」
「時間を?ははあ……」
そのあまりのスケールの大きさにえいるは思わず口をぽかんと開けてしまった。
「……まあ、お前の反応を見るに、魔女としての薬師寺はおそらく後天的に覚醒したものだろう。観測上で前例は無いが」
癖だろうか。結人は考え込むように顎先を撫でた。
「薬師寺、お前の固有魔法、気になるか?」
「気になるよ、そりゃ」
「だよな、これはあくまでも推論の域を出ないのだが」
結人は一拍置いて、えいるを見つめた。あまりにも分かりやすく「ごくり」と喉を鳴らしたえいるはその恥ずかしさに思わず頬を染めた。
「薬師寺の能力は治癒・治療。おそらく俺の傷を治したのもお前自身だ。……そうだな、さながら『癒療の魔女』といったところか」
「私が……癒療の、魔女……」
初めて二つ名で呼ばれたえいるは、なんというか得体の知れない、興奮のような戦きを覚えた。
「今かっこいいとか思っただろ」
「お、思ってないよ!」
図星をつく結人に恥ずかしさから思わず反発したえいるは、ハッと我に返ったように切り出した。
「その、信じてもらえるか分からないけど私、本当に魔女の実感無くて、魔女とか忍者とか、さっき知ったばっかりで、何もわからないんだけど、服部くんは私のことを、その――」
「ああ、本来であれば魔女は倒さなければならない。だがそのことなら心配ない、状況が状況だからな。魔女としての薬師寺は暫くの間、俺が責任を持って監視する」
「か、監視――?」
「ああ、俺達は魔女の根絶が使命だが、そのためにも治癒魔法を魔女に使われるのは防ぎたい。そして――」
少年はえいるの目を見て、改めて口を開く。
「治癒魔法を持たない俺達にとって、薬師寺の存在は切り札にもなり得る貴重な存在だ」
正直、どきっとした。無理もない。年頃の少女が、ずっと関わることのないと思っていた同年代の
男子から「貴重な存在」などと言われてしまったのだ。
えいるはバクバクと高鳴る心臓を必死に押さえつけながら、真面目な物言いの結人に対し「へ、へえ~」と生返事を返した。
「これからは俺と一緒に魔女と戦ってもらう。危険で、それこそ死と隣り合わせの戦いもあるだろう」
結人は神妙な面持ちでつぶやき、そして顔を上げるやいなや、えいるをもう一度見つめ直した。
「だが安心してくれ、薬師寺は、必ず俺が守る」
キッと鋭い決意の眼光が、薬師寺えいるを射抜いた。えいる本人はというと、もう訳も分からずフラフラだ。眼前の少年はどうしてこんなことを平気で言えるのだろうか。暴れる鼓動を鎮めるので精一杯だったえいるは、自身の顔面が赤熱していることを嫌でも自覚した。
「もちろん薬師寺のプライバシーには配慮するつもりだ。不満があれば遠慮なく言ってくれ。善処する」
「は、はい……」
「コーヒー、ごちそうさま。おばさんにもよろしく伝えてくれ」
じゃあまた明日、と言い放った結人は平然と挨拶を済ませると、ごく普通に玄関を後にした。
それまで張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れ、えいるは思わずへなへなとその場に座り込んだ。
「いろいろと、いきなり過ぎるよ……」
自宅への同級生の来訪、魔女と忍者、自分が実は魔女だった事実、「薬師寺は、必ず俺が守る」と見つめる結人。そして思い返せば膝枕。しかも普段の制服じゃなくて野暮ったいジャージと中学時代のクラスTシャツ、コンタクトじゃなくてメガネ。もう散々だ。ぷしゅうと頭から湯気が出ているのが分かる。
残された最低限の気力で来客の証である複数のコーヒーカップを食洗機に放り込んだえいるは、せわしなく音を立てて仕事を始める機械の音を暗黒に閉じ込めてダイニングキッチンを後にした。
ため息とともに流れ去る水洗トイレの水流も、記憶までは流し去ってくれなかった。自身の要塞である六畳間に据え付けられたベッドにぽふりと沈み込むと、えいるは枕に顔を埋めたままバタバタと足を毛布に打ち付けた。
「電気消して」
ごろりと仰向けに寝返り、天井からの光を片腕で遮った少女が命ずると、部屋の主に律儀に反応したスマート家電が部屋の照明を段階的に落としていった。
訪れる無音の中で、えいるの脳裏に一人の少女の姿が浮かび上がった。
『大観覧車の魔女・ラミア』。彼女に倒された結人に触れたとき、身体の中に流れ込んできた温かな奔流。断定は出来ないが、おそらくあの魔女が結人に攻撃したときに彼の身に残留していた魔力が触れた手を通じて自分の中に流れ込んできた。
それが魔女として覚醒した自分の治癒魔法となって結人に治療が施されたのだろう。魔力という存在を知覚してから、朧げだった輪郭が浮かび上がるように魔力という存在への認知が及んでゆく。
(私、本当に魔女になっちゃったのかな)
漠然とした不安は消えることなく、悶々と頭上を巡る。そして再度浮かび上がる、少年の顔。
「~~!!ダメダメ!早く寝ろ!わたし!」
全身に行き渡った疲労感を頼りに、えいるは思考を闇の縁へ落とすべく、全身の脱力に神経を注ぐ。
少女を包み込む毛布の温度が、ほどなくして彼女を睡眠の世界へ誘っていた。
薄ぼんやりとした少女の深層意識に、耳障りの良いポップサウンドが飛び込んでくる。
先日解禁された『EIGHT∞N』の新曲。今週末の土曜深夜から放送開始の漫画原作ドラマの主題歌だ。
朝だ。設定された時刻に従い輝度を上げてゆく天井の蛍光灯が少女の視覚を刺激した。
「んー……」
決して深くない眠りから目覚めたえいるは不機嫌をぶつけるようにその身を覆う毛布を蹴飛ばした。
昨日は波乱の連続だった。魔女なる存在を知り、その魔女と戦う忍者のクラスメイトが家までやってきたのだ。その上で自分が魔女であると告げられ、「一緒に戦ってくれ」だとか「必ず守る」だとか言われてしまっては嫌でも彼という存在を意識せざるを得ない。
それなのに今日も学校に行かないといけないのか。いや、今日は休みだ。昨日で中間テストが終わったのだ。週明けまでの数日ではあるが、羽根を伸ばすには十分な期間だ。
丁度いい、あまり寝付けなかったのだから重いままの瞼に身を任せて二度寝を決め込もうと愚考したえいるの全身に不快感が駆け巡ったのは、その直後だった。
寝汗でじっとり纏わりついたシャツが、訴えていた不快感の正体だった。それを無視しようにも今度は喉の乾きに抗えず、えいるはしぶしぶと体を起こした。
生地が裏返るのを気にせず上着を脱いだえいるはほんの少し汗が滲んだジャージをすんと嗅ぎ、こりゃ洗濯だな、と片腕にそれを畳み抱える。
ウォーターサーバーのあるリビングへ向かう途中、食欲をそそる出汁の香りがふわりと廊下へ漂っているのをえいるは知覚した。
あれ、お父さん帰ってきたのかな?お母さんは早出で居ないはずだし……。そう考えたえいるの予想が的中することは無かった。
「起きたか」
ばさり。片手にまとめた上着がえいるの手元から滑り落ちた。
「な、な……」
えいるの口元がぷるぷると震える。
「なんで……!」
本当は絶叫したいくらいだったが、そのあまりの驚きにえいるはかすれ声を絞り出すので精一杯だった。
服部結人が、何食わぬ顔でキッチンに立ち、味噌汁を作っていたのだから。
「言っただろう、昨日。お前を監視すると」
「それは――覚えてるけど……!」
バクバクと高鳴る心臓を抑え込むように、えいるは吐き捨てる。彼女にもたらされた混乱は「どうして私の家の中にいるの」と聞くことすら忘れさせた。
直後、えいるはハッとしたように拾った上着で胸元を覆い隠した。汗で張り付いたシャツが無防備にも身体のラインを顕にしていたことへの羞恥だ。朝起きたら自宅に同級生の男子が居るということを予想できないのは当然だった。
「出来たぞ」
そんなえいるの気も知らず、制服のシャツの上に似合わないパステルカラーのエプロンを着けた結人が朝食を食卓に並べていた。
「ほえ~……」
間の抜けた声が、えいるの口元からこぼれた。それは眼前に広がった朝食が旅館さながらの献立だったからだ。
インスタントではない、揚げ茄子と豆腐の味噌汁に、ごぼうとひじきの和え物。ふっくらと焼き上がった主菜たる銀鮭の切り身にはほうれん草が添えられ彩りに一役買っている。ふわりと弾力を感じさせる卵焼きからはほんのりと出汁香る湯気が立ち上り、ぎゅっとしぼられた大根おろしが皿の隅に行儀よく鎮座していた。
「は、服部くん、料理できるんだ……」
「一応な。生活するうえで必要とされる術は一通り身につけているつもりだ」
なぜ彼がここに居るのか。その疑問をそっちのけにしてしまうほど、寝起きで腹をすかせた少女の欲求が食卓に向けられていた。
「……食べていいの?」
「ああ。俺も一緒にいいか?」
「う、うん。服部くんが、作ってくれたんだし……」
エプロンをほどき、椅子を引いた結人はえいるの向かいに座り、器用に手を合わせた。対してえいるはというと、やはり眼前の少年への羞恥を抑えきれず、頬を染めそっぽを向きながら答えた。
「いただきます」
とりあえず上着をもう一度着込んだえいるは、きれいに盛り付けられた朝食を口に運んだ。
美味しい。無闇な塩味を与えず、食材本来の味わいを活かした旨みが引き立てられ、栄養バランスはもちろん、彩りや食感の違いが最後まで飽きさせない完璧な食事だ。
「――って、そうじゃなくて!」
「すまん、口に合わなかったか?」
「美味しい!美味しいよ!」
やや不安げに問いかけた結人に、えいるは拍子抜けしそうになる。とりあえずご飯は美味しいので伝えようと思ったが、聞きたいのはそこじゃない。
「どうして服部くんが私の家の中にいるの!」
「薬師寺を監視するためだ」
「~ッ!そうじゃなくて!」
涼しい顔をして言い放った結人にえいるは顔を真赤にして言い返した。
「うちまでどうやって入ってきたのって聞いてるの!」
「朝来たら玄関の鍵が開いていたからな。侵入されないように見張りも兼ねてだ」
それ以前に、あなたが侵入者なんですが……。そんな正論は、えいる自身の落ち度によって担保されるものではなくなったことが自明だった。
玄関の鍵が開いていた。確かに、昨日の夜閉め忘れたかもしれない……。だがこのマンションの部外者はエントランスを通れないはずだ。
「う……じゃ、じゃあ!どうやってマンションの中に入ったの?」
「簡単な話だ。俺が昨日からマンションの外に出ていないからな」
「そ、そんな……」
あまりに平然と答える結人にえいるは絶句した。なんでも、「監視任務」のためにえいるの自宅を後にした結人は忍術とやらで気配を消したまま部屋の前で待機を続けていたのだという。
「と、とにかく!勝手に家に入ってくるのは禁止!」
「だがそれだと監視に支障が出る。お前を守るためでもあるんだ。理解してくれ」
「そうは言ったって、ダメなものはダメ!なんとかしてよ、忍者でしょ!」
思い切り吐き捨てたえいるに、結人は考え込むような仕草をしてみせた。
「忍術か。それなら丁度いいものがある」
結人は懐から折り紙のようなものを取り出すと、ダイニングテーブルの上にふわりと置いた。
「なに?これ」
「まあ見てろ」
首を傾げるえいるの質問を受け流した結人は、ぱんと両手を合わせると何度か複雑に手を組み替えた。
視える。魔力の渦だ。結人の両手にまとわりつく粘性液体のような魔力が、折り紙に流し込まれた。
直後、折り紙は意思を獲得したかのようにふわりと舞い上がり、えいるの周囲ををくるくると飛び回った。
「わあ……!」
よく懐いた小鳥のように肩に止まった小さな折り紙を見て、えいるは一転機嫌を取り戻した。
「式神だ。能力や持続時間は限定されるが、こいつを通じて薬師寺の状況が分かる。これならどうだ?」
「これなら、いいかも……!」
最適な折衷案に満足したえいるはすっかりと表情を崩し、眼前の食事に再び手を付けていた。
「話は変わるが薬師寺、今日何か予定はあるか?」
「へ?な、ない、けど」
口元を抑え、頬張った雑穀米を急いで飲み込んだえいるは結人の問いかけに半ば疑問で返した。
「そうか、なら付き合ってくれ」
「付き……え?」
「付き合ってくれと言ったんだ。俺と一緒に来てほしい」
えいるの思考は混乱していた。この国では「付き合ってくれ」という言葉に複数の意味合いが持たれている。同行、社交、そして交際。この文脈ではいわゆる同行が合致するというのをえいるは頭では理解していても、真剣な眼差しの少年に面と向かって言われるものだからか、抑えきれない含羞がえいるの心臓を加速させた。
どうしてこの男、服部結人という少年はこうも無頓着にこういうことを言ってのけるのか。そんなことに対する怒りや不満を募らせてしまえばたちまち意思に反するような感情へと変換されてしまいそうで、えいるは熱くなった頭を冷やそうとブンブンと首を振った。
「そうか……嫌だったか」
「ちが――違うの!いや、違くは、ない、けど」
えいるは必死に釈明するべく両の手を精一杯動かしたが、それが彼に伝わっているかどうかは別の問題だった。
「ごめん。もう一回、もう一回言って?」
「ああ。式神[そいつ]について、いくつか教えたい事がある。開けた場所に行く必要があってな」
「な、なんだ……」
ほっと、えいるはため息をついた。薬師寺えいるという少女は極めて受動的な普段の暮らしぶりから、自分の身に起こるあらゆる可能性を妄想してしまうという能力を身に着けている。基本的にその能力が効果的に発揮されることは無いのだが、それらのせいで彼女に訪れる心労自体はごくささやかなものだった。
「食事を終えたら出かけよう。30分後くらいで良いか?」
「だ、だめ!短すぎる!」
「そうか?十分だと思ったんだが」
「女の子の準備は時間がかかるの!」
えいるは声を張り上げた。が直後、あまりにもかわいこぶったような言動に気が付き耳を赤くした。
結果的に、その仕草は結人にとって自然に映った。
「そうか、……すまん。俺はこういうのに疎くてな。その、どれくらい見ておけば良い?」
「う、うん。ごめん、私もムキになっちゃった。えと、一時間くらい……?」
「……分かった。その間に、食器は俺が片付けておく」
「あ、えと、身支度するから、外で待っていてほしいんだけど……」
「分かった。式神を付かせる。何かあったらそいつに呼びかけてくれ。俺と話ができるようになっている」
結人が命じ、式神がそれに答えると、式神はその実体をすうと空気に溶け込ませ、やがて視認できなくなった。
「そのー、式神なんだけど、さ。わたしの後ろに居るんだよね?」
「ああ。常に背後から薬師寺を守護する。実体はないから、移動に支障はない」
「それって、目とか見えたりする?」
「視覚か?ああ。少しだけ精度は落ちるが、寸刻の遅滞なく俺に共有されるが、何か問題か?」
「いや、えっと……お風呂に入りたいからさ、その、できれば――」
えいるは精一杯表情を保ちながら、苦笑いで結人に告げた。
結人はようやく状況を理解したのか、それまでのポーカーフェイスから一転、耳まで真っ赤に染めながらそっぽを向き、
「……すまない。善処する」
袖で覆った口元越しにくぐもった声を漏らした。
結局、式神の視覚を遮断するという条件で、結人はダイニングキッチンに留まることを許可された。加えて朝食分の皿洗いと掃除だ。手際よく皿を洗い終えた結人は、自身の胸中で刹那に湧いた煩悩を滅殺すべくコンロ周りの汚れを研磨していた。
ほんのひとときに過ぎないが同級生の忍者による全面的な監視から解放されたえいるは、バスソルトが溶けた浴槽に浸かりながら前日の波乱な出来事に順序立てを行い、整理した。
ちゃぷんと浴槽から上がったえいるは丁寧に泡立てた石鹸をボディタオルで全身へ行き渡らせる。少し伸びてきた髪を揉み込むように洗いながら、鏡に映る髪を見て、そろそろ美容院の予約を入れないと、などと思考を巡らせた。
立ち上がり、蛇口をひねる。給湯された水流の十分な温度を指先で確かめたえいるは、つまみを回し、天井より落ちる温水の感触に身を委ねた。
えいるとその家族は、比較的入浴が好きだった。医療関係の仕事で転勤続きだった両親がこのマンションに落ち着いたのも、ほんの少しの間取りの不十分さと引き換えに標準以上の住宅設備と相場に比べればリーズナブルな家賃が決め手だった。
オーバーヘッドシャワーから降り注ぐきめ細かい水流で全身の泡をゆっくりと洗い流す。頭皮を包み込むように両手で髪を梳き、ぱちりと目を開けるとその視界は一層リフレッシュされたものに感じられた。
新たな部屋着に着替え、タオルを首にかけたままダイニングキッチンまで戻ったえいるが目にしたのは、こちらの進入に確実に気づきつつも口を聞こうとしない、掃除に入魂する服部結人の姿だった。
「服部くん、その、ありがと。片付けと掃除」
「……あ、ああ」
おかしい。彼のあまりにも不自然な言動に、何も気づかないえいるではなかった。
「まだちょっと時間かかるから、それぐらいにしておいて良いよ」
「いや、もう少しやっておきたい」
こっちに見向きもしない結人に、えいるは眉をひそめる。
「……もしかして、み、見た?」
「いや、断じて見ていない」
「じゃあ、なんでそんなに顔赤くしてるわけ?」
「いや、視覚は遮断したんだ。だが状況に即応できるように聴覚だけは共有していた。そのせいで、変に気が回ってしまってな」
「それって――!」
えいるは息を吸うように絶句した。
「……想像したってこと?」
「まあ、その……端的に言えばそうなる」
たじたじと目を背ける結人を、えいるは追いかけるように覗き込んだ。
「……えっち」
「面目ない……」
先程までの堂々とした立ち振る舞いを、結人がしばらくの間見せることはなかった。