花言葉と後悔と
イリーシャ編完結です。
ホルトの件も決着はしますが、スカッとするものではありません。
何やら外が騒がしい。
「どうしたのかしら」
イリーシャはアクティへ向かう準備のため忙しい日々を過ごしていたが、それもようやく終わりが見えてきたので実家のアレント邸へ顔を出していた。
出立前の慌ただしさからしばし解放されてのんびり過ごせていたというのに、一体何事だろう。
確かめに行こうと立ち上がったイリーシャを、一緒にお茶を飲んでいた母が止める。
「行かない方がいいわ。ウィロー子爵家次男よ」
「え……ホルト? どうしてわざわざ彼がうちに?」
「あなたに会いたいって、数日前から毎日押し掛けてきているの。仕事を休んでいるのか抜け出してきたのか知らないけれど、それなら愛しの第三王女殿下のところに行けばいいのに、一体何なのかしらね?」
母の言葉は分かりやすくトゲだらけだった。無理もないが。
「シャルティナ殿下のところに行こうにも無理だと思うわ。学園は今春休みだし、単なる騎士が後宮に入れるわけないし。……あ。もしかして、私が後宮に勤めているって聞いたから、殿下のお部屋まで手引きしてくれるよう頼みに来たのかも?」
「いくら彼でもそこまで間抜けな発想はしないでしょう。……たぶん」
「いや、冗談よお母様。流石のホルトもそんな、騎士の資格を即座に剥奪される行為をするほど殿下にのぼせ上がってはいない、はず……うん、そのはず」
母娘揃って、ホルトへの評価に自信をなくしてしまっていた。これまた当然ではある。
とは言え、毎日来ているというのは気になるところではあった。イリーシャはもうすぐアクティへ発つので無関係にはなるにせよ、両親と兄はそうはいかない。それに、このままだとホルトが職を失うことにもなりかねないわけで……幼い頃から目指していた念願の立場を失わせてしまうのは、いくら何でも気が咎める。
ならばいっそ、今すぐ会って後顧の憂いを断ち切る方がいいような気がする。そう言うと、母はそれはもう渋い顔をしてくれたが。
「…………そうね。今ならお父様もエイダンもいるから大丈夫でしょう」
その父と兄エイダンは、例によってホルトを追い返そうと玄関先に立ちはだかり壁になっていたが、予想外にイリーシャがひょっこり顔を出したので大いに慌てた。
「イリーシャ、ここは大丈夫だから、お前は中でのんびりしていなさい」
「父上の言う通りだ。それでなくても忙しかったんだから、浮気した癖にぬけぬけと我が家に顔を出すような最低男にわざわざ時間を使う必要なんてないんだぞ?」
「私の時間が使われない代わりに、お父様やお兄様の時間が今まさに浪費されているでしょ。それは嫌よ。厄介事は早めに対処するに限るわ」
目の前で容赦なく厄介事扱いされたホルトだが、そんなことも気にならないほど彼は動揺していた。
━━イリーシャがイリーシャじゃない。
正確には、ホルトの知っていた頃の彼女とはがらりと印象が変わっている。同僚の騎士には確かに「磨けば光る」と言われていたが、職場で遠慮なく磨かれたのだろう、繊細な白い肌と黒目がちの瞳のコントラストがとてつもなく印象的だ。決して華やかではないけれど目に入れば心が惹かれる、さながら淡く色づいたスイートピーのような風情。
その愛らしい顔立ちがこちらを向いたので、知らずホルトの頬が火照る。
「……それで。私に一体何のご用でしょうか、ウィロー子爵子息様?」
「は……な、何だよイリーシャ、そんな他人行儀な。婚約者じゃなくなっても幼馴染なんだし、もっとこう、前みたいに普通に━━」
「学生の頃はそれでも良かったでしょうが、私たちはもう成人し一人立ちをした身でしょう。それならばもう、子供の頃のことは忘れて、お互いの立場に相応しい距離でいるべきではありませんか?」
イリーシャがホルトを見る目には、感情らしきものは何もない。彼が求めていた、かつてのような親しみはどこにも。
その現実に彼が打ちのめされているところに、更なる追撃がかかる。
「で、ご用件は何ですか? まさかとは思いますが、『第三王女殿下にお会いしたいから、何とか後宮に入れるよう手引きしてほしい』というような頼みなら問題外ですよ」
「は!? 待ってくれ、どうしてそうなる!? 俺はただ━━ただ、イリーシャに会いたかっただけだ。会って、前みたいに気兼ねなく話ができる関係に戻りたかったんだよ。よりを戻すとかそういうんじゃなくて、ただの幼馴染として」
実際にホルトが望むのはイリーシャとの再婚約だが、それは今すぐ持ち出していい話ではないことくらいはホルトも自覚している。
まずは幼馴染としての関係を取り戻し、そこから距離を縮めていけばいい。イリーシャは何だかんだとホルトに甘いので、目的達成に時間はかからないはずだと考えていた。
が、現実は非情だった。
「無理ですね。私はもうすぐ、お仕えするサーラベル殿下とともにアクティに行きますから」
「━━━━はぁ!? ま、待て待て、何だよそれは!? どうしてイリーシャがアクティになんか━━」
「そんなもの、お前とお前の愛しの第三王女殿下のせいでしかないだろう。何事も短絡的に誰かに聞くんじゃなくて、まず考えることを先にすべきなんじゃないのか? 騎士にも必要なことだろうに」
横からエイダンの突っ込みが入った。彼もまたホルトの幼馴染なので、口調がぞんざいである。
「いいか? 第三王女殿下が第一王女殿下の婚約者様と相思相愛になったせいで、王女お二人の立場が交換された。そしてイリーシャが第一王女殿下のアクティ行きに同行することになったのは、お前との婚約が破棄されてしがらみが減ったからだ。急な変更だったこともあり、アクティに同行してもらうなら、既婚や婚約者持ちよりもフリーの侍女の方がいいだろうという第一王女殿下のご判断でな。もともとイリーシャは第一王女殿下と交流があったということもあって、話は簡単にまとまり今に至っているんだよ。つまり、お前か第三王女殿下のどちらかがおかしなことさえしなければ、イリーシャはずっと変わらずイサークに留まっていたってことだ」
エイダンとしては第一王女にも思うところがないではないが、それだけ大事な妹を彼女が評価してくれているという話でもあるので、複雑ではあれど責める気はない。それよりもよほど、第三王女と目の前にいる幼馴染の責任の方が重大である。
反論しようのない事実をつきつけられ、完全に蒼白になったホルトは、焦りのままに最悪のタイミングで、自分以外には突拍子もないとしか思えない申し出を口にした。
「じゃ、じゃあ……! 改めて俺と婚約しよう、イリーシャ! それならアクティになんか行かずに、今のままイサークにいられるんだろ!?」
「それこそ『はぁ!?』ですけど? 大体ですね、もともと王女殿下についてアクティに行きたいからと、婚約破棄を言い出したのはあなたの方でしょう、ウィロー子爵子息様。その時と今との違いは、アクティに行くのがあなたから私に変わったというだけ。たったそれだけのことなのに、何がそんなに気に障るんですか? とうに破棄した婚約を敢えて蒸し返してまで」
心底から理解できないイリーシャだったが、意外にもその傍らで苦笑いしている人物がいた。父アレント子爵である。
「問題はそこではないんだよ、イリーシャ。おそらくホルトくん━━ウィロー子爵子息は、再びイリーシャと婚約し直すことで、かつての安穏とした立場に戻りたいと思っているだけだ。今の彼にはもう、第三王女殿下のことはどうでもよくなっているのだろうね。遠いアクティに嫁ぐ話は立ち消え、国内での公爵夫人ルートが確定したように見える殿下ならば、騎士として守るべき理由はほぼなくなったから」
「え……でもお父様。彼は婚約破棄の時に、『俺はシャルティナ殿下に生涯の忠誠を捧げることに決めた』って言っていたのよ? だからアクティに行くつもりだとも続けていたし……生涯の忠誠って、立場が変わった程度のことで失われるような軽いものじゃないでしょう?」
「だから単なるのぼせ上がりであって、生涯の忠誠などではなかったということさ。天使のような美しい王女が悲しむお姿に魅了されるのはまだ分かるし、そのせいで婚約破棄を申し出るのも……まあ若気の至りということにしてあげてもいいが、そのどちらについても反省の姿勢すら見せないままよりを戻せると思うのは、見当違いも甚だしいがね」
「ええええ……アレント家や私は、どれだけ彼に舐められているのかしら」
どうせなら婚約破棄した時点で、自分の存在そのものを綺麗さっぱり記憶から消してくれればよかったのに、とすら思うイリーシャであった。
一方のホルトは必死に言い募る。
「違う、舐めてなんかいない! 俺はただ……そう、イリーシャの大切さにようやく気づいたんだ! あまりにも遅いし、今更なのも分かってるけど、俺が今守りたいのはシャルティナ殿下じゃなくイリーシャで━━」
「やめて」
冷たい声が断ち切る。
「これ以上、私の思い出を汚さないで。━━お願い」
「い……イリーシャ?」
背を向ける前の一瞬、イリーシャが見せた顔は、長い付き合いだったホルトが見たことがないほど悲しげなもので━━
そのまま父と兄に促され、家の中に消える直前の彼女は、振り返ることなくただ一言だけを告げた。
「さようなら。ウィロー子爵子息様」
結局、ホルトの名前は最後まで呼んでもらえず。
彼がどんなに見つめていても、もう扉は開いてくれなかった。アレント邸の入口も、イリーシャの心も。
━━扉が閉まり、ホルトの姿が見えなくなってようやく、イリーシャは家族の胸に抱かれて泣き崩れたのだった。
ふらふらと頼りない足取りで、ホルトはその場を立ち去る。
最後に見たイリーシャの顔━━泣きたくても泣けないような、酷く悲しげな顔が頭から離れない。
『ホルト!』
かつての彼女はそう呼びながら、満面の笑みを向けてくれたのに……それがなくなったのはいつからだったろう。
自問するホルトだが、答えなど分かりきっている。彼がシャルティナと交流するようになってからだ。
高嶺の花の第三王女にのぼせ上がり、彼女を守る騎士としての自分の姿に酔いしれて。いずれ遠国へ嫁ぐ彼女にどうしても同行したいと願い、ならば婚約は破棄した方がいいと思った。イリーシャと婚約したままでは、美しいシャルティナを守れないから。家族も同然のイリーシャなら、ホルトのそんな選択も何らわだかまりなく受け入れてくれると、ろくな根拠もなくそう決めつけて。
━━何を考えていたんだ、俺は。
それでなくとも、自分がイリーシャから離れるのは良くてイリーシャが自分から離れていくのは嫌だなんて、身勝手にもほどがある。
大事な幼馴染だったはずの彼女に、あんな顔をさせたなんて……
騎士寮へと帰る途中、花屋でふと足を止めた。
店頭で、スイートピーが柔らかな風に身を任せ優しく揺れている。
「ありがとうございましたー!」
……気づけばホルトは、スイートピーの花束を手に、自室に帰り着いていた。
とりあえず引っ張り出した花瓶に生けてからテーブルに置いてみる。
殺風景な部屋を愛らしく彩るその姿に何となくイリーシャを思い出しながら、花束の包み紙を片付けていると、添えられていたカードに手が当たった。何気なくそちらを見て━━瞠目する。
【スイートピーの花言葉:「門出」「別離」「ほのかな喜び」「優しい思い出」】
「━━━━っ!!」
本来何ということのないはずの言葉の羅列が、ホルトの心の脆い部分を残酷なほど正確に貫いた。
がくん、と彼の膝が折れる。
脳裏によぎるのは、幼かった頃の無邪気な記憶。
『おれ、イリーシャのために騎士になる! そしてものすごく強くなって、イリーシャのこと守ってやるから!』
「━━ごめんっ……! イリーシャ、俺……! 約束、したのに……っ!」
ぽたぽたと、床に雫が零れ落ち。
誰にも聞かれることのない謝罪の言葉が、ただただ空しく室内を満たしていった。
花言葉や宝石言葉みたいな形で時間差で刺してくる展開が好きです。たまにやりたくなる。
スイートピーは可愛くていいですよね。
イリーシャのその後については次のおまけでちょっと書いております。
アクティに行ってからのお話なので、当然あの方々が出ます。




