前編
絢爛豪華で煌びやかな舞踏会の一幕。
暖かな陽光が差し込む午下、プロヴラン王立ディアナ魔法学園に通う貴族の子息や息女たちは、目一杯のおめかしをして、上流階級に相応しい知的な会話やダンスを楽しんでいた。
貸し切りにされた学園の大広間は、普段の殺風景な様子とは違い色鮮やかな装飾が施されている。高級なリネンのクロスがかけられた丸テーブルがいくつも並び、その上には一流シェフが調理したであろう贅沢な食事が用意されていた。
宮廷の社交界さながらの肉料理や魚料理、サンドイッチや新鮮なサラダとこだわりの食材が大皿に盛り付けられ、グラスには発泡する果実のジュースが注がれる。
宴の主催者は中央の人垣に囲まれる黒髪に眼鏡をかけた優男、魔法史学講師のサンレアン伯爵。三ヶ月前に臨時講師として赴任し、眉目秀麗な顔立ちと弁舌に優れた様で、あっという間に生徒たちからの人気を獲得した若き伯爵だ。
本日はディアナ魔法学園での任期を終えたサンレアン伯爵と、生徒たちとの別れの会が開かれていた。
「なぜ、送られる側の僕がパーティーの主催者なのですか? 出資も」
困ったような笑みを浮かべるサンレアン伯爵に、周囲の生徒たちはクスクスと笑う。理由は単純なことで、先生が招待者じゃないと人が集まらないじゃん、お金持ちだから、と誰かが冗談めかしに言った。
もちろん、生徒たちに悪意は無く、サンレアン伯爵の人柄をよく知り敬愛しているからこそ言えた言葉である。陽気な生徒が細長いグラスを掲げては、もう何度目かもわからない乾杯を捧げた。
――皆が気持ちよくサンレアン伯爵を送り出そうと盛り上げ様々な催しが行われる中、会場の片隅では二人の若い男女が真剣な様子で話し合っていた。
身長が高く金髪碧眼で容姿端麗な男はアルバン・ダランベール。ディアナ魔法学園の王国騎士養成科特待生であり、プロヴラン王国陸軍大将として名を馳せたティオール伯の子息。
正面に向かい合うのは、眉間にしわを寄せ訝しい表情を浮かべるオリーヴ・ディレクだ。スッと通った目鼻立に気の強そうな眉尻、白みがかったブロンドの髪を巻く美人。彼女もまた代々続く名門貴族のディレク家、ムーランス伯爵のご令嬢、という高貴な家柄の娘である。
二人は互いの父の約束で、幼い頃から婚約を交わされていた仲。このまま何事もなく学園を卒業したところで、晴れて婚姻の儀を挙げることになっているのだが……。
「アルバン様。先程から回りくどいことを仰っていますが、はっきりと申していただかないと私には伝わりません」
アルバンの優柔不断な態度に苛立っていたオリーヴは、語気を強めて詰め寄る。
「あのな、その……俺たちの婚約は所詮親たちが勝手に決めたことだから」
「だから、何ですか?」
普段の肩で風を切って歩く様とは違い、アルバンは頭をかいて口をまごつかせる。女性を口説くことには慣れた口も、怒れる女性を窘めるにはまだ経験が足りず。自分の言いたい言葉をどう伝えればいいのか、と本番になって焦っていた。
せっかく用意してもらった場だが、今日ではなくまた今度にしよう――そう、アルバンが諦めかけたとき、二人の間に栗毛の女の子が割って入る。
「アルバン様!」
マリー・デザルグ、没落貴族の娘だ。類まれな魔法の素質を持つ特待生として、つい二ヶ月前にディアナ魔法学園へ編入してきた女の子。家が貧乏で入学金もなかったのだが、由緒正しい歴史を持つ学園にしては珍しくも彼女の才能を惜しみ全額免除となる。
周囲の女子たちと比べればいささか貧相なドレスだが、本人なりには精一杯のお洒落をして宴に参加していた。
「すみません。私、アルバン様に来るなって言われたのに……」
なかなか話を切り出せないアルバンにしびれを切らし、二人の間に入ってしまった様子。
突然のマリーの登場に、オリーヴはさらに不機嫌そうな顔をわざとらしく作る。その様は、なぜこの子がこの場に来たの、という感が滲み出ていた。
オリーヴに睨まれ、萎縮した様子を見せる栗毛のマリー。
「マリー……」
目に涙を溜め、懇願するような視線を送ってくるマリーを見て、アルバンはついに決意を固める。入念に話し合い、様々な準備をして迎えたこの日を逃すことはできない。それも全て、目の前で震える可哀想な生い立ちの女の子と共に歩みたい、その一心だったのだ。
「オリーヴ、悪いが君との婚約を破棄させてもらう! そして俺は、このマリー・デザルグと改めて婚約を結ぶことに決めた!」
アルバンの大声に、オリーヴとマリーはもちろんのこと、近くにいた者たちまでシンと静まり返る。周囲の様子にアルバンは少しだけ戸惑い、ストレートに言い過ぎたか、と後悔した。
しかし、急な申し出にもオリーヴは眉をピクリと動かすだけ。まるで予定調和のように動揺した素振りも見せず、静かに口を開く。
「アルバン様、ご自身のなさってる行いの意味がよくお分かりになって? 先ほどもアルバン様ご自身が仰っていますが、私たちの婚約はお父様たちが決めたものですよ」
「親父たちなど構うものか! そんな勝手に決められた約束、従う義理はない!」
「……本当に」
考え無しなアルバンの言葉に、オリーヴは目を瞑り深くため息を吐く。幼馴染なだけあってアルバンの直情的で浅はかな思考回路は良く知っていたが、まさか家を背負う身でありながら「義理がない」とまで言うとは思っていなかった。
次第に何の騒ぎかと周囲に人も集まり、マリーもオロオロとした素振りを見せながらアルバンに寄り添う。その身長差から大人の後ろに隠れる子供のよう。
簡単に婚約が破棄できるほど、現実は甘いものではないと分からせてやるべきか――オリーヴがそう思いながら続けようとした時。
「何の騒ぎですか?」
眼鏡をかけた黒髪の紳士が睨み合う二人の間に入る。サンレアン伯爵だ。
「といっても、先ほどの怒鳴り声はこちらまで届いてましたけどね」
そう言って、困ったような笑みを浮かべる。
サンレアン伯爵が介入した二人のやりとりは、宴に参加している全員の耳目を集める結果となった。これにはオリーヴも堪らず目を泳がせる。
その動揺はアルバンも同じこと、先ほどの威勢も風に吹かれたようになくなり強張る表情。しかし、ここで引いてはダメだとなけなしの根性を振り絞った。
「俺はマリーと結婚したいんだ……、どうかわかってくれオリーヴ」
「ですから、そういう手前勝手な理由では――」
パンパン――と手のひらを二度叩く音がオリーヴの言葉を遮った。よくサンレアン伯爵が授業で大事なことを言う時にやっていた癖。私語を慎みなさい、という意味合いだが、生徒たちの頭の中にはサンレアン伯爵に視線が行くよう刷り込まれている。
「なるほど、アルバン君のお気持ちはよく分かりました。しかしですね、貴族の結婚というものは個人の感情でするものではありません。家同士の合意があって初めて成り立つものです。その上で婚約を破棄する、ということは、家同士の軋轢を生む結果にもなりますよ」
「それは……」
サンレアン伯爵の正論に、アルバンは二の句を継ぐことができない。それはこの場にいる貴族の子供達にとっては当たり前のことであり、自由な恋愛結婚が許されている者などほんの一握りだけ。
自らの境遇を嘆く者もいれば、家への貢献に誇りを持つ者もいる。恋愛に千差万別の感情が渦巻くのは、貴族でも平民でも変わりはしない。
ただ、家を背負う身でありながら自らの恋心に身を焦がし、その道を貫こうとする者がいるのもまた事実。そういった者たちのために、婚約を破棄させる"縁切り屋"も人知れず活動していた。
「ただし、婚姻の当事者たちが"心身ともに健康"であり、貴族としての"品位や教養"に欠けない場合に限りますがね」
眼鏡の奥の目を細め、アルバンに微笑みかけるサンレアン伯爵。アルバンはそれを合図と受け取ったのか、背中で震えるマリーに一瞥を送ってから、目の前のオリーヴに向き直った。
「……皆の前で悪いが、オリーヴは著しく品位に欠ける。我が家へ嫁ぐ女性には相応しくない」
アルバンからオリーヴに向けられた言葉は、周囲で見守っていた生徒たちに訝しい表情を浮かべさせた。もちろん、オリーヴ自身も同じ表情をしている。
皆が知るところのオリーヴは、品行方正で貴族としての深い教養に溢れる才女。学業優秀であり器量好し、家柄も含め全く非の打ち所がない印象だった。しかし、アルバンはそれを否定する。
「編入特待生であるマリーに対し、様々な嫌がらせをしてきたからな。家柄も良くないマリーが才能だけで特別扱いを受けていることが許せなかったんだろ? だからって、教科書を燃やしたり、母親の形見だったペンダントを捨てるのはやり過ぎだ」
各々、表情を驚きで固める生徒たち。まさかオリーヴが、そんなこと、信じられない――と言った声で騒めく。気の強い性格だが人当たりの良いオリーヴが、そんなことをする人間にはまるで見えていなかったのだ。
反論しようともせず黙ったままアルバンを見つめるオリーヴに、周囲の声は徐々に消えていく。
「その沈黙が証拠だ。俺は全て聞いているんだぞ、君の行ってきた非道の数々、マリーへの仕打ちを。その裏の顔を知ってしまったからには見過ごすわけにはいかない!」
アルバンの迫真の言葉に、取り囲んでいた周囲の視線は自然とオリーヴに集まる。何か弁明はしないのか、今の言葉が真実なのか、と。アルバンもまた、嘘をつくような人間ではない、と皆知っているのだ。
沈黙を貫くオリーヴ。ただひたすらにアルバンを鋭く見つめるその様は、言い訳しても無駄と諦めたのか、ただアルバンに苛立っているだけなのか、側から見る者にはわからない。
緊張した空気の中で発言をしたのは、サンレアン伯爵だった。
「アルバン君。オリーヴさんの品格が家柄に相応しいかどうかを決めるのはあくまで家であって君ではないですよ。……しかし、ここまで事が拗れてしまえば二人の関係を修復するのも簡単なものではありません。オリーヴさん、あなたがどうしたいのか意見をお聞かせ願いたいのですが」
サンレアン伯爵の落ち着いた声音が響く大広間。華やかに飾り付けられた内装とは裏腹に、皆の顔はどんよりと暗い。美味しそうだった食事も冷め、色を失ってしまったかのようだった。
発言することを促されたオリーヴは目を瞑り、一度大きく息を吸う――。
「……アルバン様」
アルバンを見据えるオリーヴに、周囲は一様に息を呑んだ。
「仮に、私たちの婚約が無くなったものとして、どうしてマリーさんと結婚できると思われるのですか? マリーさんとの結婚が貴方のお父様に許されるはずがないでしょう」
オリーヴの静かな言葉に、アルバンは目を伏せた。隣のマリーもよくわからない、と言った様子でアルバンを見つめる。
軍人であり高級貴族、厳格なアルバンの父。家柄と格式を重んじるティオール伯が、没落貴族の娘であるマリーとの結婚を許すことなどあり得ない。オリーヴとの婚約を破棄して、ディレク家との仲を険悪にしてしまうことに加え、マリーとの結婚などという自分勝手な我儘が通るはずもなかったのだ。
そして、その現実に抗う力など、家の嫡男という肩書きで庇護されているだけのアルバンにはあるはずもなかった。
「俺は……」
だが、隣のマリーの寂しげな瞳を見て、アルバンは男としての決意を固める。
「俺は、父に反対されてもマリーとの愛を貫く。全てを捨てる覚悟で、今夜話しに行くつもりだ」
家に背く、とはっきり放たれた言葉。周囲にどよめきが走る。まさか、あの名門ダランベール家の嫡男が全てを捨てる覚悟で、自分の愛を貫く表明をしたのだ。何よりも格式と威厳が大事だ、と常日頃から周囲に漏らしていたアルバンの意外な決断。
人垣の中にはアルバンにこっそりと恋慕の情を寄せる女の子たちもいて、突然のことに涙を流す者まで出る始末。自分たちとは違い、マリーがそれほどまでに特別な存在なのか、と。
場の混乱を断ち切るように、オリーヴがふっと息を吐く。
「……わかりました、アルバン様のお好きになさってください。先生、私からはもう何も言うことはありません。彼の決断した通りに受け入れます」
サンレアン伯爵に向けられた顔は、何かを諦めたように、どこか穏やかな表情。自身の感情を押し殺し、ただありのままを受け入れるといったもの。
「皆様も聞きましたでしょう? アルバン・ダランベールと私オリーヴ・ディレクは、本日を以て婚約を解消いたします。アルバン様は全てを捨てるお覚悟で、マリー・デザルグとの愛を貫くと表明されました。ここにいる皆様には証人となっていただき、私はその愛を心から祝福いたしましょう」
気高き貴族として相応しく、凛とした態度だった。周囲もあっけにとられるまま、証人となったことを黙って受け入れる。
静かに頭を下げるオリーヴ。この騒動の結論は出た、と言わんばかりの振る舞いに、誰も口を開くことができない。
マリーに肩をポンポンと叩かれるアルバンは、そこで自身が無事婚約を破棄することができたと気がつき安堵の表情を浮かべる。
頭を上げ踵を返し、黙ったまま去って行くオリーヴの背中。それを一様に黙って見送っていたところで、サンレアン伯爵が二度手を叩き周囲の耳目を集める。
突然の騒動にもかかわらず、眼鏡の奥の瞳を細め、口元に緩い笑みを浮かべるいつもの表情のまま。
「今回の件はこの僕がしかと聞き届けました。アルバン君とオリーヴさんのご両親には後日、責任を持って事の詳細について記した書簡を送らせていただきます」
やっと弛緩した空気に、周囲のため息がもれる。
「さあ、皆さん! ちょっとした騒動もありましたが、パーティの続きをしましょう。何せ、今日は僕にとって皆様とのお話ができる最後の機会なのですから、せっかく集まっていただいたのに無駄にはしたくありません」
サンレアン伯爵の言葉に呼応するよう、生徒たちは騒めきを取り戻す。自分たちはお世話になった先生を送り出す為に集まった、ということを思い出すように、各々が用意されたテーブルに戻って行く。
ニコニコとした笑顔を作るマリーに、それを見つめるアルバン。これから正式な婚約の解消と、マリーとの結婚の許しを父親に話さなければならないアルバンだが、一つの関門を乗り越えた心は穏やかだった。
「マリー、俺は君を絶対幸せにするよ」
「はい、ありがとうございます」
喧騒が戻った舞踏会の隅で、二人は囁きあった――。
面白かったらいいジャンを押してね!