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酒とナイターの幸福論と突然の電話

これは喪失の話です。

人は何かを失くし続けて生きています。

失くす物は、物理的な物もあれば精神的な物もあります。

大事にしてたオモチャやレコード、恋人や友達、思い出だって、時がたてば失くしてしまいます。

とても切なくて悲しいことですが、人生とはそういう物なのです。

失ってしまった物は意味のない物なのか?

この話ではそういうことを考えながら書こうと思います。

「俺は毎日楽しく酒が飲めれば、それ以上人生に望む物はない」


 父親の口癖だ。

 特に金持ちでもなければ、人から尊敬されるわけでもなく、友人もいない父親の強がりともとれるが、自宅で夕方から機嫌良く酒を飲んでる父親を見ると、他にも望むことはあるだろうけど、まんざら嘘でもないのかもしれない、とも思う。

「正太郎、お前ももう大人だ。俺たちのことは気にせず、好きなように生きろ。ただし多くは望まないことだ」


 私が三十歳の正月に帰省した時、父親から言われたことだ。もちろん酒を飲みながらだ。父親は息子の私に、人生の教えを説くことなどしたことがないが、珍しく人生について語った。

「俺の人生、酒とナイターだけが楽しみだったが、ナイターは今はもうない」

 ナイターとはプロ野球中継のことだ。最近ではあまりテレビで中継をしなくなったが、九十年代までは毎晩、読売巨人軍の試合をテレビで中継していたのだ。


「いや、ナイターはやってるんだよ。テレビ中継を毎日しなくなっただけで。でも今は野球中継は、ケーブルテレビとかインターネットとかで、好きなチームの試合を全試合観られるんだよ。そんなに好きなら、ケーブルテレビかインターネットで観られるように契約すればいい」

「お前はわかってない。巨人戦しか観られないから良かったんじゃないか。好きなチームの試合を観られても選択肢が増えて面倒なだけだ」

「それって本当に野球が好きってことなのかな」

「俺が好きなのは、野球じゃない。ナイター中継なんだ。巨人戦しかやらないじゃねえか、なんて文句を言いながら酒を飲むんだよ」


 なるほど。確かに父親は人生にそれほど多くの物を望んでいないかもしれない。


「人生に多くの物を望むとな、幸せの感度が鈍くなるんだ。あれもしたい、これも欲しい、もっと稼ぎたい。そんなこといろいろ考えてみろ。その全てを叶えるのって結構大変だぞ。それで多くを望み過ぎると、自分が本当に望んでいる物がわからなくなる。考え方はシンプルな方がいいんだよ」


 その頃私は東京で働いており、地元では味わえない都会の刺激的な体験をいろいろしていた。そのせいもあるだろう、地元にい続けている父親のことをどこか軽んじている節があった。

「まあ、そういうのは人それぞれの価値観もあるから。多くを望んで多くの喜びを得る人もいるんじゃない?」

「ふん。じゃあな、酒好きな奴が一週間禁酒して、酒を解禁する前にサウナに一時間入るとするだろ。一方の酒好きは極上のワインだか日本酒なんかを毎日飲んでいるんだ。その二人の酒好きが、ビールを飲んだらどっちが、そのビールを美味いと感じると思う? 禁酒してた方だろう」

「なんか話の論点が違ってない?」

「いや、違ってない。この場合、多くの美味い酒を望んで得ている人間より、少しの酒しか飲めない人間の方が、酒を楽しむということにおいて明らかに楽しんでいる。シンプルだ」

 父親自身が自分の人生に納得しているなら、それはそれで私としても異論はなかった。父親の人生と私の人生は違うのだ。

 あれから五年が経つ。父親はもういない。その正月から三年後に倒れ、そのまた一カ月後に死んだ。ガンだった。父親の人生と私の人生は違うと思っていたが、父親が死ぬと、それは私の人生の一部がなくなったような、ぽっかり穴があくという表現があるが、まさにまあそんな感じだった。


 その男がやってきたのは、自宅で私が二日酔いで苦しんでいる朝だった。その日の朝は、同僚から電話で起こされた。

「もしもし」

 二日酔いと眠気のせいで自分の声じゃないみたいだった。

「ひどい声をしてる」

 会社の同僚だ。

「二日酔いなんだ」

「何時だと思ってる?」

「さあ、検討もつかない」

「十時半だよ」

「そうか。一応、体調不良で出社が遅れるってメールはしたんだけど、見てないかな?」

「見たよ。いつ来るんだよ」

「今からもうひと眠りしてからだから、二時くらいかな」

同僚のため息。隠そうともしない。

「何か急ぎの仕事あったっけ? 今日はそういうのが、ないと思ったから昨夜はとことん飲んだんだけど」

「一応言っておくと、僕は君の同僚であり、上司でもある。だから管理責任も背負っている」

「そう通りだ」

「今から来て欲しい。緊急の来客だ」

「来客? 俺に?」

「そう」

「誰?」

 同僚は来客の名前と組織名を言った。

「全く覚えがない」

「え? この人のこと知らないのか?」

「たぶん。誰だい?」

「あのね、俺たちの業界にいれば、誰でも知ってる大物だよ」

「ふ~ん」

 またため息。やはり隠そうともしない。

「とにかく早く来てくれ。一秒でも早く」

「二日酔いが辛くて起きれない」

「タクシーを拾ってこいよ。金は僕が出すから。説明はそのタクシーの中でする。タクシーに乗ったら、電話をくれ。もう一度言うけど、一秒でも早く来てくれ」

 同僚はそう言って電話を切った。いきなりの事態に、二日酔いの頭は働かなかったが、とりあえず同僚の言う通り、すぐに出社の準備を始めた。

 

 水道から直接水をがぶ飲みして、顔を洗った。眠気が治らないので、シャワーを浴びながら歯を磨いた。それで少しだけマシな気分になったが、吐き気は全く治らなかった。

 昨夜飲みすぎたことを後悔した。もう酒は止めようかな、と人生で百回くらいは誓ったことを再び誓った。


雨の降る12月にしては暖かい不思議な気候だった。私はコートを羽織り外に出た。傘はささずにコートのフードをかぶり大通りまで歩きタクシーを拾った。

 私は都心にある会社の場所を運転手に伝えた。運転手をよく見ると、髪型はモヒカン。いくつかワッペンの貼ってあるオリーブ色のミリタリージャケットを着ていた。映画『タクシードライバー』のロバート・デニーロ演じるトラビスのようだ。

「お客さん、音楽かけていいかな?」

「どうぞ」

「ありがとう」

 そう言ってタクシーの運転手は、カーステレオのスイッチを入れた。流れてきたのはボン・ジョビの「オールウェイズ」だった。ボン・ジョビのベストアルバムに入っていた曲だ。

 ハードロック。十代の頃はよく聴いた。

 私は曲に合わせて口ずさんだ。一度目のサビまで口ずさんだところで、同僚に電話しなきゃいけないことを思い出した。

「良い曲だね。でも少しボリュームを下げてもらえるかな。電話したいんだ」

「はいよ」

 トラビスはそう言ってボリュームを下げた。客商売にしては多少カジュアルな言葉使いではあるけど、それが不快ではない不思議な魅力のある口調だった。

私はトラビスに礼を言い、同僚に電話をかけた。

「今タクシーに乗ったところ」

「あとどれくらいで、こっちに着く?」

「たぶん、あと三十分くらいじゃないかな」

「君の客がまだ待ってる」

「一体誰なんだよ、その客は?」

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