04.兄の涙
「いえ。全てが分かる訳ではありません。もしかしたら私の思い違いなのかもと考える事もあります」
眉を顰め、自信なく答えたマリエーヌの姿に、少しだけホッとする。
僕の知っている彼女の姿を垣間見た気がした――が、それも束の間だった。
すぐにその瞳は輝きを取り戻し、再び僕を真っすぐ見据えた。
「それでも、公爵様と一緒に四ヶ月間を過ごして、私なりに、公爵様が考えている事を少しは理解してきたつもりです」
そう堂々と告げたマリエーヌの姿が、ひどく不気味に思えた。
――何を……言っているんだ……?
血縁者である僕でも理解できないというのに、形式だけの夫婦関係でしかないマリエーヌが理解している……?
たった四ヶ月を共に過ごしただけで? こんな状態の人間と?
そんなはずがないだろう。どうせ勝手に理解していると思い込んでいるだけだ。
それを確認する術もないのだから。
だが、ふと思った。
マリエーヌは今までこの屋敷に閉じ込められた挙句、周りの人間からも冷遇されて暮らしてきた。
そんな中で、使用人から押し付けられた兄さんの世話を、自分の生き甲斐として過ごしてきたのではないだろうか……。
そう思うと、今のこの状況全てに納得がいった。
僕がマリエーヌをこんな所に残してしまったばかりに、彼女が兄さんに依存してしまっているのだと……。
――どうして僕はあの時、マリエーヌの所へ行かなかったのだろう。
なぜ、彼女を連れて伯爵領へ戻らなかったのか……。
マリエーヌをこんな風にしてしまったのは、僕にも責任がある。
再び後悔の波が押し寄せてくる。
だが、それを悔いたところでもう遅い。
それよりも――今はマリエーヌと兄さんを引き離す事だけを考えるんだ。
「そうか……。君の気持ちはよく分かった。だが――やはり君はもう兄さんの傍にいるべきではない」
「なぜそんな事をおっしゃるのですか⁉」
案の定、僕の言葉にマリエーヌは激しく反発した。
これほどまで兄さんに執着しているなんて……よほど寂しい思いをしてきたのだろう。
――皮肉なものだな……。その原因こそが、今君が献身的に世話をしている人物だというのに……。
そんな同情を抱きながらも、少し厳しくもあるが、なるべく分かり易く的確に言葉を選んで説得を始めた。
それでも頑なに兄さんから離れようとしないマリエーヌに、僕は意を決して告げた。
僕と結婚してほしい……と。
本当は、こんな形でそれを伝えたくはなかった。
もっと準備を整えて、僕たちの関係もしっかりと築いてから告げようと思っていた。
だが、少しでもマリエーヌの心に響くならと……そう思っての告白だった。
それなのに、マリエーヌの反応は僕の望んだものとはかけ離れていた。
はっきりとした拒絶が言葉から……その態度からも伝わった。
やはり時期尚早だったのだろう。
こんな事を突然告げられて、戸惑うのも無理はない。
それでも、僕がどれだけマリエーヌの事を大切に思っているのかを分かってほしかった。
マリエーヌにも、兄さんの事よりももっと自分のこれからの人生について考えてほしかった。
兄さんのために犠牲になるのではなく、自分自身が幸せになる道を選んでほしいのだと。
だから必死に僕の想いを伝えた。
彼女のためを思って――。
「いい加減にしてください!」
耳を突き抜けるような声に、ハッと我に返った。
気付けば、マリエーヌは息を荒くして僕を見つめていた。
フルフルと震える瞳には……明瞭な怒りの色が滲んでいる。
「レイモンド様。他人である私の人生を気にするよりも、まずは血の繋がった兄弟である公爵様の人生について、もっと考えるべきではないのですか?」
その言葉に、雷に撃たれるような衝撃を受け、ショックのあまり目が眩んだ。
他人だと、僕とマリエーヌの間にはっきりと線引きされた事。
そして僕が……兄さんの事については考えていないと……見透かされた事に。
たった一人の家族を見放すのかと、言われているようだった。
「……考えるも何も、こんな状態の兄さんの何を考えれば良いと? せいぜいなるべく苦しむ事無く、残りの余生を過ごせるように配慮するくらいだろう。そう考えれば、専門の知識を持つ人間のいる施設に移った方が兄さんのためになるはずだ」
それはマリエーヌに……そして、自分自身に言い聞かせるような言葉だった。
――そうだ。僕が何か間違えているか?
兄さんにとっても、マリエーヌにとっても……これが一番良い選択じゃないか。
「そうやって、また公爵様を一人で放置なさるおつもりですか?」
「……なんだと?」
カチンッと頭の中で何かが音を立て、思わずマリエーヌを睨み付けた。
自分でも気付かないふりをしていた、心の奥底にある最も淀んだ部分を掘り起こされたような不快さだ。
「何の抵抗もできない公爵様が、使用人にどのような扱いを受けるのか――想像できたのではないのですか?」
「公爵様が今までどれだけ孤独に苦しみ、辛い思いをしていたか……分かっていたのなら、なぜもっと早く会いに来てくださらなかったのですか?」
辛辣な言葉を連ねるマリエーヌに、だんだんと苛立ちが募っていく。
――どうして関係の無い人間にそんな事を言われないといけないんだ……?
彼女が僕を他人だと突っぱねるのなら……それについても余計なお世話だと言わざるを得ない。
なによりも僕はマリエーヌのためを思って行動しようとしているのに……なぜ僕よりも兄さんを優先するんだ……!
――どうして兄さんは……僕の邪魔ばかりするんだ……!!
もはや優しくする余裕もなくなり、こちらも負けじと反論する。
「兄さんに苦しみ? 悲しみ? 今の兄さんにそんな感情があると本当に思っているのか? 兄さんの意志が、そこにあると?」
「もちろんです! 公爵様は感情豊かな方です。目を見れば分かります。以前と比べてずっと柔らかく温かくなりました!」
「君にはそう見えるのかもしれないが、僕から見た兄さんは何も変わっていない」
その言葉に、少し傷ついたようにグッと口を噤んだマリエーヌに、少しだけ良心が痛んだ。
だが、それでも僕よりマシだろう。
さっきからマリエーヌが兄さんを気遣う言葉を聞くたびに、責め立てられているような気になる。
それに反論せずにはいられない自分が、ひどく醜く思える。
本当は僕だってこんな事を言いたい訳じゃない。
だが、これはそんな綺麗ごとばかりで片付けられる話じゃないんだ!
「それでも私を励まそうとして嫌いな人参を食べてくれました!」
「……は?」
突拍子もなく飛び出したその発言に、頭の熱が一気に引いていく。
「兄さんが人参を……?」
しばらく呆け……我慢できず噴き出した。
「ふっ……はっははははは! そんなはずがないだろう!」
――思い出した。兄さんに唯一、人らしい一面があった事を。
「何の弱点もない兄さんだったが、人参だけはどうしても苦手だったんだ」
それを知った時の衝撃は今も忘れはしない。
ある日を境に、食卓から人参が消えた。
どうやら人参を仕入れる事が禁じられたらしく、両親に理由を聞いても教えてはくれなかった。
だが、使用人たちの間ではある噂が流れていた。
兄さんが人参を食べられないらしい――と。
――兄さんが人参を食べられない……?
耳を疑う話だった。
次期公爵候補として、完璧な教育を受け、弱点などあってはならないと言われる人間が、人参を食べられないなんて……。
人参を前にして嫌な顔をする兄さんを想像すると、思わず笑いが込み上げた。
自分にできて、兄にできない事があった。
それは初めて感じた、兄に対する優越感だった。
――そうか……。良かったじゃないか。唯一の弱点を克服できて。
そんな皮肉すらも感じてしまう。
まあ、今更人参を克服できたところで何の意味もないだろうが。
「……どうしてですか? どうしてさっきからレイモンド様は、まるで公爵様がここにいないかのようにお話しされるのですか?」
――それは僕が訊きたい。どうして君は、さっきから兄さんがそこに居るのだと思って話をしているのかを。
そこに居るのは、兄さんの形を模っただけの、何の感情も持たない人形に等しい存在だというのに。
「公爵様は今、私たちの話を聞いています。きっとこれからの事を考えて、不安に感じているはずです」
――そんなはずがない。その男は何も聞こえていないし、何も感じていない。そんな事を気にするだけ無駄だ。
「レイモンド様、お願いです。今一度、公爵様としっかり向き合ってください。公爵様の声を聞いてください。公爵様は、ここにいるのです」
マリエーヌは、まるで舞台女優のような大袈裟な振る舞いで僕に訴えかけてくる。
――馬鹿馬鹿しい。どうしてそんな意味のない事を……。
もう、うんざりだ。
これ以上はさすがに僕も相手していられない。
こんな茶番と付き合うのも……これで最後だ。
兄さんとマリエーヌを引き離した後は、彼女にも精神的なケアが必要になるだろう。
心からの溜息を吐き出し、むしゃくしゃする気持ちのまま兄さんの前まで歩み寄った。
俯き気味の兄の顔を見る事はできず、仕方なくその場で腰を下ろした。
その時――ポツッ……ポツッと落ちてきた水滴が兄さんのズボンを濡らしていた。
――雨……? こんなに晴れているのに……?
不思議に思いながらも、見上げた先には――。
「なっ……⁉ 兄さん……泣いているのか⁉」
思わず声を上げた。
それは天地がひっくり返るような衝撃で……口を開けたまま言葉を失ってしまった。
その瞳に滲んだ涙は、まるで湧き水のように絶え間なく流れ落ちている。
――あの兄さんが……涙を……?
頬を伝い、大粒の雫となって零れ落ちる涙を、咄嗟に手で受け止めた。
手の平に触れた涙は――温かかった。
それは生きている人間の温もりだと、本能的に察した。
血も涙もない男と言われていた人間が……今、僕の目の前で涙を流している。
凍りついたように動かないその体の中には、温かい血も流れているのだろうか。
「公爵様、大丈夫です。何も心配はいりません。私はこれからも公爵様のお傍を離れませんから」
マリエーヌが寄り添うように優しく声を掛けると、悲しみに沈んでいた赤い瞳が微かに和らいだ。
マリエーヌをジッと見つめる兄さんの眼差しは……なんて優しい瞳をしているのだろうか。
慈愛に満ちたその眼差しは、かつて見た母親の温かい眼差しを思い起こさせた。
そこから伝わるのは……まごうことなき愛情だ。
――まさか兄さんは……マリエーヌの事を――?
信じられない……目の前で起きている光景も……何もかも。
――一体、二人の間に何が起きたというんだ……?
今まで自分が信じていたものが全て崩れ落ちていくような感覚だ。
唖然としたまま、二人の様子をしばらく見つめていた。
先ほどまで、物言わぬ人形のように見えていた兄さんが、今は生命を吹き込まれたかのように感情が溢れて見える。
――僕は今まで……兄さんの何を見ていたのだろうか……?
いや、何も見ていなかったんだ……僕は……あの日からずっと……。
ようやく、気付いた。
僕が兄さんの姿を直視できていなかった事に。
体が動かなくなった兄さんと対面したあの日からずっと、僕は兄さんの存在を否定し続けてきたんだ。
信じられなかった。信じたくなかった。
自分が誰よりも追い求め、目標としていた人物が……全てを失い、無力と成り果てた姿なんて……見ていられなかった。
だからその姿から、目を逸らした。
その存在を、兄さんだと認めなかった。
僕はあの時、自分の中で兄さんを殺したんだ。
……だが……兄さんは生きていた。
僕の兄さんはあの日からもずっと――ここに、確かに存在していた。
マリエーヌだけが、兄さんの存在を認めていた。
彼女は心を病んでいた訳でも、兄さんに依存していた訳でもなく……ずっと兄さんの心の声を聞いていたんだ。
――兄さんは、マリエーヌに救われたんだな。
だから兄さんは……彼女を愛するようになったのだろうか。
いや、兄さんだけじゃない……マリエーヌもきっと――。
その先の答えを出すまでもなかった。
今、目の前にある二人の姿こそが、愛し合う夫婦の形を映し出しているようだった――。
◇◇◇
その日は公爵邸には泊まらず、別の用事を片付けるために公爵邸を後にした。
その馬車の中では、ずっと二人の事を考えていた。
今の兄さんの姿を、まだ完全には受け入れられた訳ではない。
自分の中で納得できるまで、長い時間が必要になるかもしれない。
だが、もう兄さんから目を逸らすのはやめよう。
僕だけが、兄さんにとっての唯一の家族でもあるのだから……。
いや……兄さんにとっては唯一ではないか……。
あれからマリエーヌには、もう一度だけ考えるように伝えた。
それは僕にとって最後の意地だったのかもしれない。
だが、きっとマリエーヌの答えは同じだろう。
一つ溜息を吐き出し、失笑する。
――やれやれ……仕方がないな……。二人が安心して過ごせる環境も整えなければな……。
相変わらず、やる事は増えるばかりだ。
だが……不思議と悪い気分ではない。
ようやく胸のつっかえが消えたような、晴れやかな気分だった。
数日後……公爵邸が何者かにより火が放たれ全焼したと、連絡が来るまでは――。




