03.二人との再会
兄の事故から五ヶ月が過ぎた頃、再び公爵邸へとやって来た。
公爵位を継ぐための準備が全て整った訳ではないが、兄さんの病状が少しずつ世に広まり始めている。
これ以上、爵位の継承を引き延ばすのは難しいだろう。
まだ不安は拭えないが……今の自分にできる事をやるしかない。
それに公爵邸の環境も見直す必要がある。
使いものにならない貴族の使用人は全員解雇し、新しい使用人を選定しなければ……。
彼らもまた、兄さんがマリエーヌの存在を無視しているのをいい事に、公爵夫人でもある彼女を冷遇してきた。
そんな人間が同じ邸内に居るというだけでも不快だ。
どうせ兄さんの世話もまともにしていなかっただろう。
それを問い詰めれば不当な解雇だと騒ぐ事もないはずだ。
ふいに、最後に見た兄さんの姿が頭を過った。
――……兄さんは……今、どういう状態なのだろうか……?
この五ヶ月の間、兄さんとは一度も会っていない。
この地へは何度か足を運んだが、公爵邸には立ち寄らなかった。
そんな余裕はなかったし、必要性を感じなかったからだ。
だから兄さんと会うのも五ヶ月ぶりになる訳だが――。
再び、あの兄の姿と向き合わなければならない――そう思った途端、足が重くなり……動きが止まった。
広い玄関ホールの真ん中でしばらくの間立ち尽くし……やがてその足が向かった先は兄さんの部屋ではなく、慣れ親しんだ中庭だった。
幼い頃から、母親と一緒に散歩した中庭は、僕にとって憩いの場所でもあった。
自分の存在価値を見出せなくなり、邸内に居づらさを感じるようになった時も、よく中庭へ足を運んでいた。
花が好きな母さんのためにと、父さんが腕の立つ庭師を呼んで設計したこの場所は、一年を通して色鮮やかな花々が観賞できる。
季節により咲いている花は違えど、この場所は昔から変わらない。
一歩足を踏み入れれば、懐かしい記憶が脳内に呼び起こされる。
両親からの愛を少しも疑っていなかった頃の、幸せな日々の記憶が――。
そんな思い出に浸りながら歩いていると、少し先に人影が見えた。
その後ろ姿は――マリエーヌだった。
久しぶりに目にする自分の想い人を前にして、自然とその名が零れた。
「マリエーヌ」
ピクッと肩を揺らしたマリエーヌがこちらへ振り返った。
新緑色の瞳が僕の姿を捉えると、柔らかく細められた。
「レイモンド様!」
僕の名を呼び、嬉しそうな笑顔を浮かべるその姿に、ドキリと胸が高鳴った。
その瞬間、張り詰めていた気持ちが一気に和らぎ、心が安らぐような心地良い安堵感に包まれた。
そしてマリエーヌへの愛しさが胸の奥底から込み上げてくる。
それはまるで眠っていた恋心が目覚めたような感覚だった。
しかし、それと同時に今まで彼女を放置していた自分への後悔と、彼女への罪悪感が一気に膨れ上がる。
――前にここへ来た時、マリエーヌに会いに行けばよかった……。
一目でもその姿を目にしていれば、きっとすぐにでも伯爵邸へ連れて帰っていただろう……。
僕もそれを望んでいた……それなのに、あの時はマリエーヌの事を考える余裕すらなかった。
だが、これからはもうマリエーヌに孤独な思いはさせない。
ここで辛い思いをしてきた分も、僕がマリエーヌを幸せにしてみせる。
それにマリエーヌが傍に居てくれたら、僕もどんなに心強いだろうか。
――マリエーヌさえ居てくれれば……きっと頑張れる。
目の前で優しく微笑むマリエーヌの姿を見ていると、そんな気持ちにさえなってくる――が……。
――……? 前の彼女は、こんな風に笑っていただろうか?
その姿に、違和感を覚えずにはいられなかった。
僕が知るマリエーヌは、いつも遠慮がちに俯いている女性だった。
それなのに、今の彼女はしっかりと顔を上げ、日の光を浴びて輝く新緑色の瞳が真っすぐ僕を見据えている。
以前とは明らかに違う、生き生きとした表情を見せるマリエーヌは、より美しく頼もしく思えた。
その時――彼女のすぐ傍に居る存在に気付いた。
――まさか……どうしてここに……?
その存在を避けてやって来た中庭で、まさか遭遇するとは思わず……息が詰まった。
するとマリエーヌは、それを僕の方へと向けた。
僕と向かい合うように車椅子に座る人物。
それは――人形のように無表情な顔をした兄さんだった。
マリエーヌは兄さんと視線を合わせるようにしゃがみ込むと、優しく囁いた。
「公爵様、レイモンド様が来られましたよ」
その光景を、信じられない気持ちで見つめていた。
兄さんとマリエーヌが一緒にいるのを見るのは初めてだ。
兄さんの口からマリエーヌの名前を聞いた事はないし、マリエーヌも兄さんの話を一度もしなかった。
二人の関係は夫婦というよりも、互いが相手に対して無関心で……ただの他人のようだった。
それなのに今の二人の姿は、その間に割って入るのも躊躇するような……僕の知らない二人だけの世界がそこにあるようにも思えた。
しかしマリエーヌの声掛けにも、兄さんは何の反応も返さない。
あの時と状況は変わらない。やはり話はできないようだ。
シン……と静まり返る中で、兄さんの隣にいるマリエーヌが、何かを期待するように僕を見つめているのに気付いた。
その視線に促され、仕方なく声を掛けた。
「……兄さん、久しぶりだな」
「……」
当然、兄さんからは何の返事もない。
すぐにその姿から目を逸らし、マリエーヌに問いかけた。
「それよりも、何でマリエーヌが兄さんと一緒にいるんだ?」
「え……?」
僕の問いに、マリエーヌはキョトンと目を丸くすると、
「それはもちろん……公爵様は私の夫ですから」
恥ずかし気に頬を赤く染め、いじらしく告げたマリエーヌの姿に、胸の奥がチリッと痛んだ。
――私の夫……だと?
兄さんは今まで、君を妻として……一人の人間として尊重してくれたか?
一度でも、君に優しく接してくれた事があったか?
それどころか兄さんはマリエーヌを、世継ぎを残すための道具としてしか見ていなかった。
それなのに、なぜ彼女が兄さんの世話をする必要があるんだ?
たとえ妻であろうとも関係ない。
それ相応の事をこの男はやってきたのだから。
優しい彼女の事だから、今の兄さんを放ってはおけなかったのだろう。
だが、それでは今までと何も変わらない。
今のままではマリエーヌは幸せになれない。
だから今度こそ――僕が彼女を幸せに導いてみせる。
そのためにも、これ以上二人を一緒に居させる訳にはいかない。
車椅子に座る兄さんの姿を確認すると、以前と比べて少し痩せ細ってはいるが、顔色は良さそうだ。
髪には艶も見られるし、綺麗に整えられている。
服装に関しても、清潔感のある白いシャツの上にジャケットを羽織り、首元にはご丁寧にスカーフまで巻かれている。
その様子から、身なりに対するマリエーヌの細かな気遣いが伺える。
誰かと会う訳でもないのに、ここまでする必要があるのだろうかと思うほどに。
話を聞くと、どうやらマリエーヌは四ヶ月も前から兄さんの世話をしていたらしい。
ここの使用人は本当に使えない奴らだ。そんな前からマリエーヌに兄さんの世話を押し付けていたとは……。
彼らの処分については後に考えるとして、マリエーヌにはもう兄さんの世話をする必要はないと伝えた。
これ以上、兄さんのせいでマリエーヌに迷惑はかけたくないと。
だが、彼女は納得しなかった。
迷惑ではないと意地を張り、断固として兄さんから離れようとしない。
――もしや、兄さんの世話をやめたらここから追い出されるとでも思っているのか……?
それならばと、マリエーヌが安心して兄さんから離れられるよう、これからの事を説明した。
僕が兄さんの代わりに公爵位を継ぎ、ここへ移り住む事、それでもマリエーヌはここに残っても大丈夫だという事を。
そして――兄さんを施設へ預けるつもりだという事も。
途端、マリエーヌは大きく目を見開き驚いた様子を見せた。
まるでショックを受けたかのようなその反応に、なんとなく後ろめたさを感じる。
どうしてそんな反応をするのだろうと首を傾げていると、マリエーヌの瞳が急に鋭くなり、それは僕を真っすぐ見据えた。
「レイモンド様。それは公爵様に一度でもお話されましたか?」
追及するような問いかけに、更に首を傾げる。
「……いや? 話す必要があるのか?」
――マリエーヌは何を言っているんだ……?
こんな状態の兄さんに話をしたかだと?
言葉も話せない、筆談もできない人間と、どうやって話をしろというんだ?
それに、今の兄さんに自分の意思なんてあるのか……?
それとなく兄さんの様子を伺うが、さっきから何も変わらない。
それなのにマリエーヌは「当然です。公爵様に関わる事なのですから」と、はっきりと告げた。
やはり今日のマリエーヌは様子がおかしい。
この数ヶ月の間に、何があったのだろうか……?
怪訝に思いながらも、それでマリエーヌが納得するならと、兄さんに問いかけた。
「……兄さん。そういう話なのだがどうだろうか?」
当然、返事はない。
「マリエーヌ。やはり兄さんに聞いても意味がないのではないか?」
するとマリエーヌは兄さんをジッと見つめた後、再び僕の方へ向き直った。
「いえ、公爵様は今、はっきりと視線を逸らしました。この話に納得していないという事です」
「……なんだと? 君は兄さんが考えている事が分かるとでも言うのか?」
思わぬ言葉に、つい口調が荒くなってしまった。
マリエーヌが兄さんを守ろうとする姿を見ていると、訳も分からず苛ついてしまう。
なぜあんなにも酷い態度を取っていた人間を庇おうとするのか。
こんな人間、さっさと見放してしまえばいいのに。
罰が当たったんだ、ざまあみろと罵ってしまえばいいじゃないか。
そんな感情が胸の内に渦巻き、喉の奥から飛び出そうとするのを必死に抑えていた。




