10.恋愛指南書
それから、兄さんは無言で自席に着くと、机の上に積まれている書類を手に取り処理し始めた。
僕はというと、その場に佇んだまま、これまでの自分を見つめ直していた。
『なぜもっと早くマリエーヌを迎えに来なかった?』
兄さんに問われた言葉が、今になってずっしりと重くのしかかった。
その意味をようやく理解した。
恐らく、今の兄さんならば、マリエーヌが辛い思いをしていると知れば、すぐにでも彼女を救い出していただろう。
それに比べて僕は……マリエーヌよりも自分の保身を第一に考えていた。
どうせ兄さんには敵わない。
頭脳を持っても、武力で対抗したとしても……兄さんの足元にも及ばない。
だから最初から諦めていた。彼女の手を取り連れ出す勇気なんて最初からなかったんだ。
いつか必ず……もっと力を手に入れたら……と、言い訳ばかりを頭の中に並べて。
そんな日など来るはずがないと、本当は分かっていたというのに。
結局、僕のマリエーヌに対する想いは、その程度のものだったという訳だ。
今になってマリエーヌを迎えに来たのも、噂で兄さんが変わったと聞いたからだった。
実際に人々から話を聞き、以前のような冷酷な兄ではなく、領民を思いやり、妻を大切にするようになったと知り、今の兄さんからならマリエーヌを奪えるのではないか。そう思った。
兄さんは跡継ぎさえ生まれれば、相手は誰でも良かったはずだった。
今の兄さんとなら、結婚したがる女性も現れるだろうと。
だから、マリエーヌにこだわる必要は無い……そう思っていた。
だが――逆だった。
兄さんは、マリエーヌさえいればそれで良かったんだ。
全てを投げ出してでも、彼女だけは譲れなかったのだと……ようやく理解した。
悔しいような……ホッとしたような……妙な気持ちが込み上げ、にがにがしく笑った。
「やはり兄さんはズルいな……。結局、何もかも手にする事ができているのだから」
そんな僕の皮肉に、兄さんは書類に視線を落としたまま口を開いた。
「お前にはそう見えるかもしれないな……。だが、僕も昔、同じ事を思っていた。お前はあの時、僕が本当に欲しかった物を全て手にしていたのだから」
――そうだろうな。
あの時、誰よりも一番、辛い思いをしていたのは兄さんだ。
公爵家の長男として生まれたというだけで、選択の余地もなく、その宿命を受け入れるしかなかったのだから。
自由も、親から受けるはずだった愛も、何もかも奪われたのは兄さんの方だった。
「それに、僕がもっと早く……マリエーヌと出会うよりも前に愛を知っていれば、彼女を傷つける事もなかっただろう」
そんな風に、兄さんが苦痛に歪める顔をするのも、マリエーヌに対する後悔を語る時だけだ。
「ふっ……。やはり、兄さんが羨ましいよ。そんな風に思える相手と出会えるなんて……」
「……そうか。だが、その代償も計り知れないものだった」
「……?」
か細い声で呟いたその言葉に、なぜか重みのようなものを感じた。
その意味を問う前に、表情をコロッと変えた兄さんが口を開いた。
「ああ、そうだ。振られたお前の今後を考えて、特別に良い物を教えてやろう」
「……良い物?」
傷心をえぐるような物言いが癪に障るが、兄さんが僕に何を教えようとしているのかは非常に興味が湧いた。
「付いて来い」
兄さんは椅子から立ち上がると、僕の隣を通り過ぎ、執務室から出た。
その後ろをついていくと、兄さんはすぐ隣の部屋の前で立ち止まり、手にしていた鍵で扉を開錠した。
ここは……確か、兄さんの部屋だったはず……。
兄さんに続いて部屋の中に足を踏み入れ、その先には――。
「……本棚?」
部屋の中には本棚がズラッと並べられ、まるで書庫のような空間になっていた。
書庫は二階にもあったはずだが、収まりきらなかった本をこちらに置いているのだろうか?
疑問に思いながらも、本棚に隙間なく収められている書物に目を通す。
だが、どれも読んだことのない表題ばかりでよく分からない。
とりあえず、無難そうな物を一冊引き抜き、適当にページを開いた。
『君の秘密の花園を、僕が暴いても良いだろうか……?』
『そんな……! いけないわ……私には、正式な婚約者がいるのよ!』
『知っている! だが、あんな奴に暴かれる前に……僕が先に……!』
『ああ……! だめよ……あ――』
「レイモンド」
背後から名前を呼ばれた瞬間、バァンッッ‼ と、本が潰れそうな勢いでページを閉じた。
なんとなく、見てはいけない物を目にしてしまったような背徳感で、ドキドキと心臓が高鳴っている。
――なんだ……今のは……? これは一体なんなんだ⁉
フルフルと震える手を持ち上げ、本の表題をこれでもかと凝視した。
『暴かれた秘密の花園』
てっきり花の専門書なのだろうと思って手に取ったが……。
結局、これは何の本だったんだ……?
花園とは……何の事を言っていたんだ⁉
狼狽える僕とは対照的に、兄さんは涼しい顔のまま淡々と言葉を続けた。
「恋愛初心者のお前にそこの本はまだ早い。僕でさえ、まだそのステージには達していないというのに。お前に相応しいのはこっちだ」
その足で兄さんは部屋の角へと向かい、
「ここから好きなのを持っていくといい。僕はもう全て読んでしまったからな」
そう得意げに話す兄さんの姿を尻目に、指定された本棚に並べられている本に目を通す。
『せっかち男爵の初恋』『騎士の囁きに誘われ』『無表情な王太子の溺愛』などと書かれたこれは……なんだ?
「兄さん……これは一体なんなんだ……?」
「ああ。これは恋愛指南書――もとい恋愛小説というものだ。女性と愛を育みたいと思うのなら、一度は読んでみるべきだ。これのおかげで、僕はだいぶマリエーヌに意識してもらえるようになった」
そう言って、フフッと不敵な笑みを浮かべる兄さんに、もはや何も言う気になれない。
まさかこの部屋の本棚全てが、恋愛小説で埋まっているというのか?
しかも、兄さんはこれを全て読破した……だと……?
「……兄さん……本当に……変わったな……」
「ああ。全てマリエーヌのおかげだ」
なんとも爽快な笑顔を浮かべる兄さんと、表情筋が死んだように動かない僕との間に、雲泥の温度差があるような気がする。
だが、その幸せそうな姿も……マリエーヌのおかげなのだろう。
やはり兄さんが羨ましいな。
いつだって、僕が手にする事ができないものを持っているのだから。
再び、目の前の本棚へと視線を移す。
僕もいつか、誰かを心から愛し……愛される日がくるだろうか……?
そんな思いを抱きながら、ズラッと並んだ本の中から、三冊ほど抜き取った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
外伝2も残り2話となりました。
次回は5/9(火)、5/10(水)に1話ずつ公開予定です。




