09.花言葉
母さんがどれだけ兄さんを想っていても、兄さんはそれに見向きもしなかった。
その寂しさに気付いたのは、両親が亡くなった時だった。
馬車の滑落事故により二人は突然この世を去った。
僕が変わり果てた両親の姿と対面している時、兄さんは随分と遅れてやってきた。
二人の亡骸を前にして、表情一つ変えずに「本物で間違いないようだな」と、一言だけ呟き、すぐに背を向け立ち去った。
兄さんは、両親が本当に死んでいるのかを確認するためにやって来ただけで、その後の葬儀には姿を現さなかった。
兄さんにとって、両親の存在は重要ではなく、必要としていたのは父さんが所持していた爵位だけだった。
母さんは、あんなにも兄さんを愛していたというのに。
それなのに……死してなお、兄さんから別れを惜しまれもせず、思い出してもらえる事もなく、ただ忘れられるだけで。
それはどんなに寂しい事なのだろうか。
母さんの気持ちを想像するだけで胸が張り裂けそうになる。
そのせいなのか、母さんの顔を思い出そうとすると、憂いを帯びた笑顔しか思い描けない。
母さんと共に、楽しく過ごした日々は沢山あったはずなのに……。
母さんと過ごした日々を振り返る事すらも、今は辛くなるだけだ。
――それも全て、兄さんのせいだ……。
やり場のない怒りの矛先は、いつも兄さんへと向けていた。
愛を理解したという今の兄さんなら、母さんからの愛情にも、きっと気付けたのだろう。
だが、母さんはもうこの世にいない。今更、愛を理解したところで遅すぎる。
母さんからの愛はもう、兄さんには決して伝わらないのだから――。
「そうか。やはり母は――僕を愛していたのか」
「――⁉」
静かに告げられた言葉に、思わず息を呑んだ。
だが、すぐにそれが何の根拠もなく告げられた言葉なのだと察した。
呆れたな……よくもそんな心にも無い事を……。
あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず笑いが込み上げた。
「ふっ……ははは! やはり、だと? 心を入れ替えて愛の狂信者にでもなったのか? この世は愛で溢れている! 自分は誰からも愛される人間なのだと……! はっははは! それはおめでたい思考だな!」
ひとしきり笑い飛ばし、はぁ……と息を吐き出した。
一体、兄さんの頭の中はどうなっているんだ?
せっかくだから、聞いてやろうじゃないか。
「本当に、母さんに愛されていると思っていたのなら、なぜ葬儀にも参列しなかった? 死んだ人間は何も与えられない。だから死体に用はないとでも思っていたんじゃないのか?」
「ああ、そうだ。あの時は、確かにそう思っていた」
「はっ! それでよく母から愛されていたと、知った風な事を言えたな!」
「……僕が母から愛されていたと知ったのは、つい最近だ」
「……何?」
それはありえない。母さんはもう六年も前に亡くなっている。
それなのに、なぜ今更そんな事を……?
まさか、母さんの手記でも発見したというのか?
だが、母さんの遺品は一つ残らず全て僕が引き取った。
だからそんな物が存在するはずはない。
「言っている意味が分からないな。本人はもう、随分と前に亡くなったというのに。今更どうやって知ったというんだ?」
呆れ気味に問いかけると、兄さんは真っすぐ僕を見据えて口を開いた。
「ブルーロザリアだ」
「‼」
ブルーロザリア――どこまでも澄んだ海のように鮮烈な青い花を咲かせる植物。
それは母さんが一番好きな花だった。
中庭に植えてあるブルーロザリアも、母さん自らが手入れをするほど大事にしていた。
そして僕の誕生日になると、プレゼントと一緒に必ずその花が添えられていて、「このお花も、大切にしてね」と告げられた。
だから僕にとっても、思い入れのある花の名前だ。
それが……なぜ今になって兄さんの口から告げられたんだ……?
「……その花がなんだというんだ?」
平静を装いながら、慎重に問いかける。
すると兄さんは、窓際へと視線を移し、ゆっくりと語り始めた。
「僕が幼い頃に使っていた部屋の窓から、ブルーロザリアの花壇がよく見えていた。この時期になると花壇の一面が真っ青に染まり、まるで海を切り取って持って来たかのようにも思えた。それが印象深くて、花に興味のなかった僕でも、その光景は記憶の片隅に残っている」
そうか。兄さんの部屋からも、あの花は見えていたんだな。
ブルーロザリアが咲いている花壇は二か所あった。
一つは兄さんの部屋の近く、もう一つは僕の部屋の近くだった。
母さんは「私の好きなお花だから、レイモンドのお部屋からよく見える位置に配置してもらったの」と言っていた。恐らく、兄さんの部屋からよく見える位置に配置したのも、母さんの意図だったのだろう。
だが……それがどうしたというのだ?
「お前はブルーロザリアの花言葉を知っているか?」
「花言葉? ……いや……知らないな」
花言葉とは、その花の象徴となる言葉としてそれぞれ決められている。僕は花にそれほど詳しくはないが、赤い薔薇は『情熱的な愛』という花言葉を持っているのは有名だ。
だからこそ、僕もマリエーヌへ贈る花束を赤い薔薇にしたのだが――。
つい先ほどの苦い記憶が蘇り、胸の奥がズキンと痛んだ。
そんな僕の傷心など知りもしないであろう兄は言葉を続けた。
「ブルーロザリアの花言葉は『母の愛』だ」
「――⁉」
母の……愛……?
あの花にはそんな意味が込められていたのか?
だが、兄さんがなぜそれを……?
「それも……マリエーヌが兄さんに教えたというのか?」
「いや、僕が調べたんだ」
「兄さんが自分で……? さっき花に興味はないと言っていたじゃないか」
「ああ。昔はそうだった。だが、マリエーヌに花の名前を教えてあげたくて調べていたんだ」
ありえない。あの兄さんが……?
「マリエーヌのために、わざわざ花の名前を調べたというのか?」
「そうだ。その時に花言葉の存在も知った。それで思ったんだ。もしかしたら、僕の部屋から見えるように咲いていたあの花は、母が僕に伝えたかった思いが込められていたのではないかと」
「……‼」
耳を疑うような発言が矢継ぎ早に飛び出し、とても頭が追い付かない。
何よりも驚いたのは、その花に込められた母の想いまでも、汲み取ろうとしている姿だ。
「もしかしたら、母は僕を愛していたのではないかと……今になって思えるようになった。いや、今だからこそ……か。昔の僕なら、たとえその花言葉を知ったところで、母の気持ちなど知ろうともしなかっただろからな」
信じられない。
あの兄さんが……人の心が分かるようになったとでもいうのか……?
だが、母さんの性格ならそれは十分にありえる。
言葉にできない想いを、母さんなりの形でどうにか伝えようとしていたのだろう。
たとえその意味を、すぐには理解してもらえないのだとしても、いつの日か気付いてもらえる時が来るのを信じて……。
再び僕の方へ振り返った兄さんは……穏やかな笑みを浮かべていた。
「それに気付けたのも、マリエーヌのおかげだ」
「……は?」
その発言に、思わず間の抜けた声が漏れた。
「なぜここでマリエーヌの名前が出てくるんだ? 自分で調べたんだろ?」
「ああ。だがマリエーヌがいなければ、僕は花に興味を持たなかった。わざわざ図鑑を開いて名前を調べる事もしなかっただろう。ブルーロザリアという花の名前も、その花に込められた意味も、何もかも分からないままだった。だから、母の愛に気付く事ができたのも、全てはマリエーヌのおかげなんだ」
なんとも嬉しそうな顔でそう語る兄さんの姿が……なぜか煌めいて見える。
「そ……そんなの、ただのこじつけだろ!」
「いや――奇跡だ」
すると、兄さんは鮮烈な笑顔を輝かせ、
「彼女がいると、奇跡が起きるんだ」
そう告げた兄さんは、なんとも幸せに満ち足りた顔をしている。
「どうだ? やはりマリエーヌは女神だろう」
誇らしげに微笑み、キラキラと眩い輝きを放つ兄の姿を前にして、もはや何も言葉がでない。
奇跡? 女神……? 本気でそんな事を思っているのか?
そんなにマリエーヌを神にしたいのか?
一体、この二人の間に何があったというんだ……?
だが……母の愛……か。
僕も知らなかった母の想いを、まさか兄さんに教えてもらうとは思いもしなかった。
母さんは……僕と兄さんのどちらを贔屓する訳でもなく、平等に愛してくれていたのだと。
次期公爵候補から外れ、自分が誰からも期待されていない人間なのだと知った時、僕は自分の存在する意味を見出せなくなった。
いつしか、両親からの愛情さえも信じられなくなり、母が僕に向ける優しい眼差しすらも、素直に受け入れられなくなっていた。
――母さんは、僕に兄さんの面影を重ねて見ているのだろう。
そんなひねくれた思想をこじらせて。
双子でもないのに、瓜二つなこの容姿も気に食わなかった。
髪を伸ばし始めた理由も、少しでも兄の面影を消したかったからだった。
だが……母さんがブルーロザリアと共に僕に伝えた『大切にして』の言葉は、きっと母からの愛を指していたのだろう。
「僕も……母さんに愛されていたんだな……」
その言葉は、僕の口から吐露された。
「何を今更……誰がどう見ても、そうとしか思えなかっただろう」
呆れ顔の兄さんに諭され、ふいに熱いものが込み上げ視界が滲んだ。
記憶の中にある憂いを帯びた母の笑顔。
切なく笑うその姿も全て、兄のせいだと決めつけていた。
認めたくなかった。
それが僕に向けられていたものだったのだと。
『なぜ母さんの愛に気付けなかったんだ‼』
兄に向けた言葉が、自分自身にも突き刺さる。
――何を偉そうな事を……僕も気付けなかったじゃないか……。
そんな僕の気持ちに、母さんは気付いていたのだろう。
瞼を閉じ、零れそうになった雫をグッと指先で押し込んだ。
――母さん……すまない。
今更、気付いたところで謝る事もできない。
だが……。
――ああ。確かに……奇跡が起きたのかもしれないな……。
瞼裏に思い描いた母は、どこまでも澄み渡る海のように、穏やかな笑顔を浮かべていた。




