表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

88/188

09.花言葉

 母さんがどれだけ兄さんを想っていても、兄さんはそれに見向きもしなかった。


 その寂しさに気付いたのは、両親が亡くなった時だった。


 馬車の滑落事故により二人は突然この世を去った。

 僕が変わり果てた両親の姿と対面している時、兄さんは随分と遅れてやってきた。

 二人の亡骸を前にして、表情一つ変えずに「本物で間違いないようだな」と、一言だけ呟き、すぐに背を向け立ち去った。


 兄さんは、両親が本当に死んでいるのかを確認するためにやって来ただけで、その後の葬儀には姿を現さなかった。


 兄さんにとって、両親の存在は重要ではなく、必要としていたのは父さんが所持していた爵位だけだった。


 母さんは、あんなにも兄さんを愛していたというのに。

 それなのに……死してなお、兄さんから別れを惜しまれもせず、思い出してもらえる事もなく、ただ忘れられるだけで。


 それはどんなに寂しい事なのだろうか。


 母さんの気持ちを想像するだけで胸が張り裂けそうになる。

 そのせいなのか、母さんの顔を思い出そうとすると、憂いを帯びた笑顔しか思い描けない。

 母さんと共に、楽しく過ごした日々は沢山あったはずなのに……。

 母さんと過ごした日々を振り返る事すらも、今は辛くなるだけだ。


 ――それも全て、兄さんのせいだ……。


 やり場のない怒りの矛先は、いつも兄さんへと向けていた。


 愛を理解したという今の兄さんなら、母さんからの愛情にも、きっと気付けたのだろう。

 だが、母さんはもうこの世にいない。今更、愛を理解したところで遅すぎる。


 母さんからの愛はもう、兄さんには決して伝わらないのだから――。


「そうか。やはり母は――僕を愛していたのか」

「――⁉」


 静かに告げられた言葉に、思わず息を呑んだ。


 だが、すぐにそれが何の根拠もなく告げられた言葉なのだと察した。


 呆れたな……よくもそんな心にも無い事を……。


 あまりの馬鹿馬鹿しさに、思わず笑いが込み上げた。


「ふっ……ははは! やはり、だと? 心を入れ替えて愛の狂信者にでもなったのか? この世は愛で溢れている! 自分は誰からも愛される人間なのだと……! はっははは! それはおめでたい思考だな!」


 ひとしきり笑い飛ばし、はぁ……と息を吐き出した。


 一体、兄さんの頭の中はどうなっているんだ?

 せっかくだから、聞いてやろうじゃないか。


「本当に、母さんに愛されていると思っていたのなら、なぜ葬儀にも参列しなかった? 死んだ人間は何も与えられない。だから死体に用はないとでも思っていたんじゃないのか?」

「ああ、そうだ。あの時は、確かにそう思っていた」

「はっ! それでよく母から愛されていたと、知った風な事を言えたな!」

「……僕が母から愛されていたと知ったのは、つい最近だ」

「……何?」


 それはありえない。母さんはもう六年も前に亡くなっている。

 それなのに、なぜ今更そんな事を……?

 まさか、母さんの手記でも発見したというのか?

 だが、母さんの遺品は一つ残らず全て僕が引き取った。

 だからそんな物が存在するはずはない。


「言っている意味が分からないな。本人はもう、随分と前に亡くなったというのに。今更どうやって知ったというんだ?」


 呆れ気味に問いかけると、兄さんは真っすぐ僕を見据えて口を開いた。


「ブルーロザリアだ」

「‼」


 ブルーロザリア――どこまでも澄んだ海のように鮮烈な青い花を咲かせる植物。


 それは母さんが一番好きな花だった。

 中庭に植えてあるブルーロザリアも、母さん自らが手入れをするほど大事にしていた。

 そして僕の誕生日になると、プレゼントと一緒に必ずその花が添えられていて、「このお花も、大切にしてね」と告げられた。


 だから僕にとっても、思い入れのある花の名前だ。


 それが……なぜ今になって兄さんの口から告げられたんだ……?


「……その花がなんだというんだ?」


 平静を装いながら、慎重に問いかける。


 すると兄さんは、窓際へと視線を移し、ゆっくりと語り始めた。


「僕が幼い頃に使っていた部屋の窓から、ブルーロザリアの花壇がよく見えていた。この時期になると花壇の一面が真っ青に染まり、まるで海を切り取って持って来たかのようにも思えた。それが印象深くて、花に興味のなかった僕でも、その光景は記憶の片隅に残っている」


 そうか。兄さんの部屋からも、あの花は見えていたんだな。


 ブルーロザリアが咲いている花壇は二か所あった。

 一つは兄さんの部屋の近く、もう一つは僕の部屋の近くだった。

 母さんは「私の好きなお花だから、レイモンドのお部屋からよく見える位置に配置してもらったの」と言っていた。恐らく、兄さんの部屋からよく見える位置に配置したのも、母さんの意図だったのだろう。


 だが……それがどうしたというのだ? 


「お前はブルーロザリアの花言葉を知っているか?」

「花言葉? ……いや……知らないな」


 花言葉とは、その花の象徴となる言葉としてそれぞれ決められている。僕は花にそれほど詳しくはないが、赤い薔薇は『情熱的な愛』という花言葉を持っているのは有名だ。

だからこそ、僕もマリエーヌへ贈る花束を赤い薔薇にしたのだが――。


 つい先ほどの苦い記憶が蘇り、胸の奥がズキンと痛んだ。

 そんな僕の傷心など知りもしないであろう兄は言葉を続けた。


「ブルーロザリアの花言葉は『母の愛』だ」

「――⁉」


 母の……愛……?


 あの花にはそんな意味が込められていたのか?

 だが、兄さんがなぜそれを……?


「それも……マリエーヌが兄さんに教えたというのか?」

「いや、僕が調べたんだ」

「兄さんが自分で……? さっき花に興味はないと言っていたじゃないか」

「ああ。昔はそうだった。だが、マリエーヌに花の名前を教えてあげたくて調べていたんだ」


 ありえない。あの兄さんが……?


「マリエーヌのために、わざわざ花の名前を調べたというのか?」

「そうだ。その時に花言葉の存在も知った。それで思ったんだ。もしかしたら、僕の部屋から見えるように咲いていたあの花は、母が僕に伝えたかった思いが込められていたのではないかと」

「……‼」


 耳を疑うような発言が矢継ぎ早に飛び出し、とても頭が追い付かない。

 何よりも驚いたのは、その花に込められた母の想いまでも、汲み取ろうとしている姿だ。


「もしかしたら、母は僕を愛していたのではないかと……今になって思えるようになった。いや、今だからこそ……か。昔の僕なら、たとえその花言葉を知ったところで、母の気持ちなど知ろうともしなかっただろからな」


 信じられない。

 あの兄さんが……人の心が分かるようになったとでもいうのか……?


 だが、母さんの性格ならそれは十分にありえる。

 言葉にできない想いを、母さんなりの形でどうにか伝えようとしていたのだろう。


 たとえその意味を、すぐには理解してもらえないのだとしても、いつの日か気付いてもらえる時が来るのを信じて……。


 再び僕の方へ振り返った兄さんは……穏やかな笑みを浮かべていた。


「それに気付けたのも、マリエーヌのおかげだ」

「……は?」


 その発言に、思わず間の抜けた声が漏れた。


「なぜここでマリエーヌの名前が出てくるんだ? 自分で調べたんだろ?」

「ああ。だがマリエーヌがいなければ、僕は花に興味を持たなかった。わざわざ図鑑を開いて名前を調べる事もしなかっただろう。ブルーロザリアという花の名前も、その花に込められた意味も、何もかも分からないままだった。だから、母の愛に気付く事ができたのも、全てはマリエーヌのおかげなんだ」


 なんとも嬉しそうな顔でそう語る兄さんの姿が……なぜか煌めいて見える。


「そ……そんなの、ただのこじつけだろ!」

「いや――奇跡だ」


 すると、兄さんは鮮烈な笑顔を輝かせ、


「彼女がいると、奇跡が起きるんだ」


 そう告げた兄さんは、なんとも幸せに満ち足りた顔をしている。


「どうだ? やはりマリエーヌは女神だろう」


 誇らしげに微笑み、キラキラと眩い輝きを放つ兄の姿を前にして、もはや何も言葉がでない。

 

 奇跡? 女神……? 本気でそんな事を思っているのか?

 そんなにマリエーヌを神にしたいのか?


 一体、この二人の間に何があったというんだ……?



 だが……母の愛……か。


 僕も知らなかった母の想いを、まさか兄さんに教えてもらうとは思いもしなかった。

 母さんは……僕と兄さんのどちらを贔屓する訳でもなく、平等に愛してくれていたのだと。

 次期公爵候補から外れ、自分が誰からも期待されていない人間なのだと知った時、僕は自分の存在する意味を見出せなくなった。

 いつしか、両親からの愛情さえも信じられなくなり、母が僕に向ける優しい眼差しすらも、素直に受け入れられなくなっていた。


 ――母さんは、僕に兄さんの面影を重ねて見ているのだろう。


 そんなひねくれた思想をこじらせて。

 双子でもないのに、瓜二つなこの容姿も気に食わなかった。

 髪を伸ばし始めた理由も、少しでも兄の面影を消したかったからだった。


 だが……母さんがブルーロザリアと共に僕に伝えた『大切にして』の言葉は、きっと母からの愛を指していたのだろう。


「僕も……母さんに愛されていたんだな……」


 その言葉は、僕の口から吐露された。


「何を今更……誰がどう見ても、そうとしか思えなかっただろう」


 呆れ顔の兄さんに諭され、ふいに熱いものが込み上げ視界が滲んだ。

 記憶の中にある憂いを帯びた母の笑顔。

 切なく笑うその姿も全て、兄のせいだと決めつけていた。


 認めたくなかった。

 それが僕に向けられていたものだったのだと。


『なぜ母さんの愛に気付けなかったんだ‼』


 兄に向けた言葉が、自分自身にも突き刺さる。


 ――何を偉そうな事を……僕も気付けなかったじゃないか……。


 そんな僕の気持ちに、母さんは気付いていたのだろう。


 瞼を閉じ、零れそうになった雫をグッと指先で押し込んだ。


 ――母さん……すまない。


 今更、気付いたところで謝る事もできない。


 だが……。




 ――ああ。確かに……奇跡が起きたのかもしれないな……。

 

 瞼裏に思い描いた母は、どこまでも澄み渡る海のように、穏やかな笑顔を浮かべていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] まあ、レイモンドもやっと気づけたのですね。 この息子たちと来たら‥
[良い点] いつも楽しく読んでます! 花言葉からの真実は、母の最大限の愛情表現だったのでしょうね。 花言葉聞く前は兄さんのことも大切にしてあげての意味もこめて「大切にして」とかなと感じてました。 …
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ