08.自分勝手な男
マリエーヌが女神……?
しかもそれを証明する……だと……?
兄さんは一体何を言い出したんだ……?
ポカンと口を開けて佇む僕とは対照的に、兄さんはうっとりとした笑みを浮かべて、薄っすらと頬を赤く染めた。
……なんだ……その見た事のない顔は……?
「マリエーヌと一緒にいると、奇跡が起きるんだ」
「…………奇跡?」
とても兄さんの言葉とは思えない発言に、ただただ聞き返す事しかできない。
奇跡なんて不明慮なものも、前の兄さんなら信じていないはずだ。
それなのに……もう、訳が分からない。
更に兄さんは瞼を閉じると、いっそ清々しいと思えるほどの鮮やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「たとえ一筋の光も差し込まない、冷たく閉ざした闇の中に閉じ込められたとしても……彼女がそこにいるだけで、温かい光が灯るんだ」
――???
「更にはそこが猛毒に侵され、息をする事もままならない状況であったとしても……彼女さえいれば、心地の良い風が吹き流れ、毒気は全て浄化されて空気も澄み渡るだろう」
――兄さん……???
「どんな絶望の淵に立たされようとも……彼女が手を差し伸べてくれるだけで、そこに希望が宿る。その手を取れば、あらゆる苦しみから解放され、包み込まれるような優しさで満たされる。それまでの苦痛が嘘だったかのように……この世界が変わるんだ。いや、彼女こそがこの素晴らしい世界を創造していると言っても過言ではない」
兄さん……!
あんたはさっきから一体何を言っているんだ……⁉
やがて満足そうな笑みを浮かべて瞳を開いた兄さんは、自信満々に口を開いた。
「どうだ? やはりマリエーヌは女神だろう」
そう言って同意を求める兄さんを前に、もはやどう反応すれば良いのか全く分からない。
とりあえず開いた口が塞がらないのだが、それでも必死に声を絞り出した。
「…………いや……分からない……今のでなぜ、マリエーヌが女神だと証明できるんだ……?」
すると兄は口元に手を当て、「ふむ……」と何か考える素振りを見せ、
「さすがにこれではまだ足りないか。ならばもう少し語ろう」
「いや、それはもういい」
再び清らかな微笑みを浮かべて語り始めようとしたのを間髪入れず制止すると、兄さんは不服そうにジトっとこちらを睨み付けた。
そんなにマリエーヌの事を語りたかったのだろうか。
だが、さすがに今のような話をこれ以上聞かされるのも耐え難い……というか、ここまでくるとある種の洗脳なのかと疑いたくもなる。
なんか頭痛もしてきた……。
とりあえず、ズキズキと痛む頭を押さえつつ、腹の奥底から深く長い溜息を吐き出した。
本当に……兄さんはどうなってしまったんだ……?
「いくら人格が変わったのだとしても、これはさすがにやり過ぎだろう……」
「だからそれは違うと言っているだろうが」
瞬時に表情が切り替わり、怒りを顔に滲ませ低い声で反論するその姿は、確かに昔の兄さんだ。
身震いするほど漂う冷気もそれを証明している。
だが――。
「……とても信じられない。一体、何があったらそこまで別人のようになってしまうんだ……?」
その問いに、漂っていた冷気が一瞬で消え去った。
再び柔らかい笑みを浮かべた兄さんが、自らの胸元に手を当て嬉しそうに口を開いた。
「マリエーヌが、僕に『愛』を教えてくれたからだ」
「……!」
その言葉に、腹の奥がズクンと疼いた。
気に入らない。兄さんの口から、そんな言葉が出てくる事が。
そんな思いを払拭するように、小さく失笑した。
「ふっ……マリエーヌが兄さんに愛を教えただと? ろくに会話もしなかったのにか? それどころか、兄さんは彼女をずっと無視していたじゃないか。それなのに、どうやって彼女が兄さんに愛を教えたというんだ?」
前の兄さんなら、マリエーヌが何を言おうとも聞く耳を持たなかったはずだ。
半年前まで、二人の間には何の感情もなかったのだから。
「会話など不要だ」
「……⁉」
会話は……いらない……?
「マリエーヌの相手を思いやる心、深い愛情が僕に愛を教えてくれた。愛を理解するには、それだけで十分だったんだ」
「――‼」
思いやる心……深い愛情……だと……?
沸々と腹の奥から込み上げる怒りにも似た感情。
それを耐えるように拳を震えるほど握りしめた。
「嘘だ! 兄さんは……愛なんて信じていなかっただろう! そんなものに価値は無いと……それを理解しようとも思わなかったじゃないか!」
声を荒げて反論するも、そんな言葉にも兄さんは納得するように頷いた。
「ああ、そうだ。あの頃の僕は本当に愚かだった。何もかもから目を逸らし、見ようともせず……マリエーヌの優しさにも気付けなかった。今更それを後悔したところで、何もかも遅すぎるが……」
「……‼」
どうして、そうあっさりと認めてしまうんだ‼ 自分の過ちを‼
あまりにも違い過ぎる兄の態度に、頭の中は激しい拒否反応を起こす。
さっきから頭痛も収まらない。思考も上手くまとまらない。
おかしいのは兄か?
それとも、この状況を受け入れられない僕自身の方なのか……?
――本当に……兄さんは変わったというのか?
これまでの自分の非を認め、それを悔い改め、一からやり直そうとしている……そういう事なのか……?
もしもそれが本当なら……この領地も、民たちの事も……何も心配する必要はない。
マリエーヌも……今の兄ならば、きっと大切にしてくれるだろう……。
……それなら……もう、僕が何を言う必要もないのだろうか……?
「……ふざけるな……」
納得しようとする思いとは裏腹に、その本音は僕の口から吐露された。
その瞬間、積もり続けた苛立ちが一気に増幅し、抑えきれなくなった。
ギリッと奥歯を噛みしめ、平然と佇む兄を憎悪の眼差しで睨み付ける。
「なぜ、今になってそんな事を言うんだ……!」
これ以上、何を言っても意味がないのは分かっている。
どう責めたところで、兄さんは全てを受け入れるだろう。
それでも……吐き出さずにはいられない。このドロドロと渦巻く感情を……!
「会話は不要? 思いやる心……深い愛情があれば十分だと……本当にそう思っているのか……?」
「ああ、そうだ」
なんの迷いもなく即答した兄に、ギリギリまで膨れ上がった感情が瞬時に爆ぜた。
「それなら……! なぜ母さんの愛に気付けなかったんだ‼」
そう吐き捨てた瞬間、ハッと我に返った。
まさか自分の口からそんな言葉が飛び出すとは、思いもしなかった。
だが、納得いかなかった。だっておかしいじゃないか。
血の繋がった母からの愛こそ信じられなかった兄が、たった一年半、共に過ごしただけの女性からの愛を信じるなど。
ましてやその女性を愛するなんて……!
母さんの悲しみも知らずに……なんて自分勝手な男だろうか。
――いや。自分勝手なのは僕も同じか。
母さんからの愛に気付かない兄さんを見て、ずっといい気味だと思っていたのだから。
その事に、母さんがどれだけ傷ついていたかを知りもせず――。
どんなに息子を想っていても、それが伝わらない限りは、自分もまた息子からは決して愛されないのだから……。




