05.薔薇の花束
二重人格……まさか今になって再びその言葉を耳にするなんて……。
一方で、レイモンド様はキリッと眼光鋭く真剣なお顔で私の反応を待っている。
――え、どうしよう……。
今更二重人格だと言われても……反応に困るわ……!
こういう場合、「そんなまさか!?」って驚いてあげるべき?
それとも正直に――。
「え、今更そんな事言う人いたんですね」
リディアーー!
そうよね! あなたならそう言うわよね……!!
沈黙を破ったリディアの口は、今はアイシャの手によって塞がれた。
幸いな事に、リディアの言葉はレイモンド様には聞こえなかったらしい。
確かに、かつては私たちも今のレイモンド様と同じように、公爵様が二重人格を発症してしまったのだと思っていた。
事実、診察した医師もそう診断していたし、誰もがそれを信じて疑わなかった。
だけど、それは違うと公爵様はハッキリと明言した。
その翌日には、使用人たちにもそれは周知され、未だに公爵様が二重人格を発症していると思う人はこの邸内にはいないのだけど。
「マリエーヌ。いきなりこんな事を言われて戸惑うのも無理はない」
確かに戸惑うしかない。
いきなりというか……今更こんな事を言われても……。
「だが……今の兄さんは明らかに前とは別人だ。恐らく、新しく生成された人格が君を愛し、人々を思いやるようになったのだろう。だが、その人格がこれから先もずっと続くとは限らない。ある日突然、元の冷たい兄さんに戻ってしまうかもしれない。その時に、今の甘い夢から覚め、再び辛い思いをするのは君なんだ」
――レイモンド様。
それと全く同じことを数ヶ月前の私も思っていました。
今になって改めてそう連ねられると、なんだかとても恥ずかしくなってくるわ……!
「だからマリエーヌ――」
「レイモンド。僕は二重人格など発症していない」
沈黙していた公爵様も、不快を露にしながら否定する。
それもそのはず。勝手に二重人格と決めつけられ、一生懸命伝えていた愛の言葉を真に受けてもらえていなかったのを知って、一番ショックを受けていたのは公爵様なのだから。
「どうだか……。口だけではなんとでも言える。そもそも、兄さんがマリエーヌを愛せるはずがないだろう。兄さんが自分で言っていたはずだ。『愛なんてものに、何の価値があるんだ?』と。それなのに、今更マリエーヌを愛してるだと? 誰からも愛されなかった兄さんが、一体どうやって『愛』を理解したんだ? 本当にその意味を分かっているのか? それも全て、新しい人格が作り出した仮初の感情じゃないのか?」
「レイモンド様」
私は公爵様の腕の中から、静かに声を掛けた。
その声を合図とばかりに、公爵様は私を抱きしめていた手の力を解き、私を解放してくれた。
けれど私は公爵様からは離れる事なく、その体に寄り添ったままレイモンド様と向き合った。
「私を気に掛けてくださり、ありがとうございます。ですが、これは私と公爵様の問題です。レイモンド様には関係のない事です」
「……!」
私の言葉に、レイモンド様は少し傷付いたように顔を歪めた。
だけどすぐに、何かに急き立てられるように訴えかけてきた。
「マリエーヌ……関係なくはない! 僕はずっと……君を閉じ込めているこの冷たい屋敷から、君を連れ出したいと思っていた! 君の事を無視し続け、思いやりのかけらもない兄さんの傍にいる必要なんてない! だから僕は――」
「もしかして……その花束には、そういう意味が込められていたのですか?」
「……ああ。そうだ」
レイモンド様はテーブルの上に乗せられている花束を寂しそうに見つめた。
――もしも……公爵様が変わる前だったら……。
一瞬、そんな思いが頭を過ったけれど、すぐに考えるのをやめた。
二人に失礼だと思ったから。
意味のない思考を振り払い、私はレイモンド様にはっきりと告げた。
「でしたら私は、それを受け取れません。……私が花束を受け取る男性は、一人だけと決めていますから」
「……! マリエーヌ……!」
私の言葉に、公爵様の頬が赤く染まり、歓喜の表情へと変わっていく。
それでもレイモンド様は更に声を張り上げ私に訴え掛けてくる。
「マリエーヌ! 本当にそれでいいのか⁉ 兄さんはまたきっと君を――」
「レイモンド。それ以上マリエーヌの名前を呼ぶ事は許さない。お前にとってマリエーヌは兄の嫁だろう。せめて義姉さんと呼ぶべきだろう」
「何を今更……兄さんの方こそ、今まで彼女の名前も呼んであげなかっただろう!」
「ああ、そうだな。……だが、それとこれとは別だ。お前にマリエーヌの名前を呼ばれるのは癪に障る」
「はっ! 相変わらず兄さんは自分勝手な人だ!」
「そうだ。僕は自分勝手だ。だからお前はマリエーヌの名前を呼ぶな」
「何を開き直って――」
「あの……一言、よろしいでしょうか?」
言い争う二人の間に、口を挟んだのはリディアだった。
一瞬生まれた沈黙の隙を逃がさず、リディアは言葉を続けた。
「兄弟喧嘩をするのなら、他所でやって頂けませんか? せっかくマリエーヌ様が私たちと一緒にお茶を楽しみたいとおっしゃって下さったのに、あなた方にお邪魔されたせいで全く楽しめていません。お茶も冷えてしまって美味しくなくなってしまいました。ですので、ここら辺でお引き取り願えると非常にありがたいのですが」
――リディア……この状況でそんな事を言えるあなたの心臓、強すぎじゃないかしら……?
「は? 侍女が主人に向かって何を――」
「なんだと!?」
不快感を露にしたレイモンド様の言葉をかき消すように、公爵様が驚愕の声を上げた。
「に……兄さん……?」
その勢いに圧倒され、唖然とするレイモンド様をそのままに、公爵様は私の両肩に手を添えて申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「マリエーヌ、すまない……。せっかく君が楽しい時間を過ごしていたというのに、それを台無しにしてしまっていたとは……僕はなんという大罪を犯してしまったんだ!」
「いえ、別にそこまで言うほどでもないので」
「そんな事はない! この罪は僕が一生かけて償っていく! だから……どうかこれからもずっと……僕と一緒にいてほしい」
「ええっと、償わなくても良いのですが。……でも、私も公爵様とこれからもずっと一緒に居たいです……」
「……! マ……マリエーヌ……!」
公爵様は頬を赤く染め、じぃぃぃん……と効果音が聞こえそうなほどの感動に瞳を潤ませている。
「いや……誰だ……この男は……?」
信じられないものでも見るように、レイモンド様がボソリと呟く。
だけどそんな反応すらも、今更と思わざるを得ない。
ひとしきり感動し終えた公爵様は、いつものように私に優しい微笑みを向けた。
「マリエーヌ。楽しい憩いの時間に水を差してすまなかった。僕はもう行くから、続きを楽しんでほしい。また、夕食の時間に迎えに行くよ」
「はい。お待ちしております」
私の返事に、その瞳が嬉しそうに細められる。
だけどすぐに真剣な眼差しとなり、その視線はレイモンド様へと向けられた。
「レイモンド。僕もお前に言いたい事がある。中で話をしようじゃないか」
「……」
口を閉ざしたまま二人は視線を交わすと、公爵様は中庭から去って行った。
少しして、レイモンド様もその後を追うように、中庭を後にした。
二人の後ろ姿が見えなくなり――私の視線は自然とテーブルの上に置かれている花束へ向かう。
「……」
包装で綺麗にラッピングされ、見事なまでの真っ赤な花びらを開花させている薔薇。
それを見ていると……なんとなく既視感を覚えてしまう。
――まさか……とは思うけれど……。
すると、リディアがおもむろに花束を持ち上げ、その中を食い入るように覗き込んだ。
それが終わると、今度は花束を逆さまにして上下に思いっきり振り始める。
バサッバサッと音を立てるも、特に何もないのを確認したリディアは、花束を抱えるように持ち直して真剣な顔を私に向けた。
「マリエーヌ様、大丈夫です。中に宝石は入っていないようです」
「そう……良かった。とりあえず安心したわ」
「どうしましょうか。このまま燃やしますか?」
「いえ、また取りに来るかもしれないし、そのままにしておきましょう」
有能な専属侍女の行動に感心しつつも、その隣ではアイシャが「え?え? 宝石って……?」と、不思議そうに首を傾げている。
――アイシャ、大丈夫よ。その反応で合っているわ。
私たちが公爵様の行動にすっかり毒されているだけなのだから。
いつの日か贈られた宝石まみれの薔薇の花束を思い出しながら、手首のブレスレットのルビーに触れて、フフッと小さく笑ってしまった。
次回からはレイモンド視点になります。




