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10.変わらなければ

 幸せとは、目に見えて分かるものではない。

 それは、心で感じるものだからだ。


 ここに戻って来る前の僕とマリエーヌの姿は、他の人達が思い描く『幸せな姿』とはかけ離れていただろう。

 会話を交わす事も、手を繋いで歩く事も、笑い合う事すらも……僕達には何一つ叶わなかったのだから。


 それでも――。


 僕はマリエーヌと共に過ごしたあの日々を、確かに幸せだと感じていた。


『生きていて良かった』


 そう思えた事こそが、僕が幸せであった証だ。

 

 それも全て、僕が心から愛するマリエーヌがいつも傍に居てくれたから。


 僕にとって、マリエーヌは誰よりも大切な存在。


 僕の幸せは――そんなマリエーヌと共に生きていく事だ――。



 


 コンコンコンッ……。


 しばし物思いに更けていると、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。

 暫くして、扉の向こうから心地の良い声が聞こえてきた。


「公爵様。マリエーヌです」


 ――マリエーヌ……マリエーヌだと!?


 咄嗟に椅子から勢い良く立ち上がると、ガタンッ! と大きな音を立てて椅子が後ろに倒れた。

 すぐに扉の前へ駆け付け、ドアノブに手を掛けようとしたその時、扉が開かれた。


 その先に――恋焦がれる人(マリエーヌ)の姿が現れた。


 急に扉が開いた事で、勢いのあまりマリエーヌにぶつかりそうになったのをグッと足に力を入れて踏み止まった。

 彼女も、僕が突然目の前に現れて驚いたらしく、肩をビクッと跳ねらせると同時に大きく瞳を見開いた。


「あ……ごめんなさい。何か物音が聞こえたので……」

「いや、僕の方こそ……驚かせてすまない」


 どこか気まずげに謝り合うと、お互いに不自然な笑みを交わしたまま沈黙が流れた。


 なんとなく目を合わせづらくて視線を泳がせていると、マリエーヌの右手に包帯が巻かれているのが目に留まった。


 ――そうだ。さっきマリエーヌは火傷を……。


 右手を負傷した彼女を残して自室へ戻って来た自分を、ひどく恥ずかしく思う。

 

「マリエーヌ……その……手は、大丈夫なのか?」


 今更だとは思うが、火傷の具合は気になる。

 マリエーヌは思い出したかの様に右手を撫でると、目尻を下げて恥ずかしそうに笑った。その可愛らしさに、一瞬で目が釘付けとなる。

 

「はい、本当に大したこと無かったのです。包帯もする程ではないのですが、念の為にと言われてしているだけで……ご心配をお掛けして申し訳ありませんでした」

「いや……それなら良かったんだ」


 とりあえずホッとするも……再びシン――と静まり返った。


 何か言おうにも、上手く言葉がまとまらない。


 今の僕の頭の中は、マリエーヌが会いに来てくれた嬉しさ、侍女を追い出そうとした罪悪感、涙を流し情けなく部屋を去った恥ずかしさ。

 そんな感情がごちゃごちゃと混ざり合い、気持ちの整理が全くつかない。

 どんな顔をすれば良いのかもいまいち分からず、かつてない程の下手糞な笑みを浮かべているに違いない。


 そんな中、先に口を開いたのはマリエーヌだった。


「あの……お食事の方はいかがなさいますか……?」


 そう言われて、思わずハッとした。

 そういえば、リディアが来た理由も夕食の迎えに僕が行かなかったからだった。


 つまり、マリエーヌはずっと待っていたのだ。僕が迎えに来るのを。


 壁に掛けてある振り子時計に目をやると、夕食の時間は大幅に過ぎている。


「すまない! 僕がうっかりしていたばかりに……! ずいぶんと待たせてしまった……すぐに向かおう」


 慌てて謝罪を告げて、マリエーヌへ手の平を差し出した。

 侍女のミスを散々咎めていた僕がこんなミスをやらかすとは……もはやぐうの音も出な――。


 そこで再びハッとした。


 つい、いつもの癖で手を差し出してしまったが……あんな僕の姿を見て、マリエーヌは手を繋いでくれるだろうか。

 

 だが、そんな不安は一瞬で晴れた。

 どこかホッとする様に顔の緊張を解いたマリエーヌが、僕の手を取ってくれたからだ。


 ただその事が嬉しくて、先程まで僕の心を支配していた絶望感が浄化されるかのごとく消え去った。

 その手の温かさに、しばし酔いしれる。

 

 マリエーヌの手は、いつだって温かい。

 その温かさは、手から体の中へと浸透し、全身を駆け巡る。そして僕の心までも、優しい温かさで包み込んでくれる。


 込み上げてきそうになる何かに耐えるように、下唇を噛みしめた。

 ただ、今すぐこの手を引き寄せ抱きしめたい。

 そんな衝動に駆られたが、すんでのところでギリギリ押しとどめた。

 今はとにかく、僕のせいでお腹を空かせているであろう彼女を一刻も早く食堂へ連れて行かなければ……。

 

 その手をしっかりと握りしめると、僕は彼女の歩幅に合わせて、ゆっくり歩き出した。


 燭台の灯りが照らす廊下。窓から見える外の景色は暗闇しかない。今日は新月なのだろう。


 チラ……と、隣を歩くマリエーヌに視線を移す。

 

 どこか自信なさげな表情で、少し俯いて歩くその姿は、いつもと同じだ。


 ――また、元の彼女に戻っているな……。


 先程、侍女を守る為に僕に向けた力強い眼差し、堂々とした立ち振る舞い。

 そんな姿を見せた彼女の面影は、今は全く見られない。

 

 きっと、侍女を守りたい気持ちが、彼女をあの姿へと突き動かしたのだろう。


 彼女は……誰かを守る為に強くなるのだから――。


 ――ああ、そうか。


 ふいに、ずっと疑問だった事の答えが分かった気がした。

 

 何故、今のマリエーヌの姿と、あの時のマリエーヌの姿がこんなにも違うのか……その答えを。


 恐らく、今見せている姿こそが、マリエーヌ本来の姿なのだろう。

 自分に対してどこまでも自信が持てず、卑屈な姿が深く根付いている様な……。

 

 その理由も分かる気がする。

 金の為とあらば易々と娘を差し出した義父と、自分を蔑み続けたあの義妹との暮らしも、ろくなものではなかったに違いない。

 そんな日々の行く末が、今の彼女の姿なのだろう。

 

 だが……あの時のマリエーヌは――僕の為に、変わってくれたんだ。


 僕が不安にならないように。

 体が不自由な僕でも、安心して暮らせるように……。

 彼女もまた、変わろうとしてくれたんだ。

 強くなろうとしてくれた。

 僕を守れるようにと。強くなったんだ。


 儚くも思える華奢なその身一つで、僕を守ってくれた。

 自分を虐めてきた劣悪な義妹にも、体格差もあり、正論ばかりを並べ立てて責めてくるレイモンドにも、必死に立ち向かってくれた。

 

 本当の君は、こんなにも心細さを抱えていたのに――。

 

 その優しさ……強さに……視界が歪んだ。


 ――マリエーヌ、ありがとう。


 今は伝えられない想いを、心の中で囁いた。


 人の本質は、そう簡単には変えられない。

 一度ミスした人間は何度でもミスするし、裏切り者も、何度だって裏切る。

 盗みをする人間も……人を殺す人間も……何度だって同じ事を繰り返す。


 変わる事を期待するだけ無駄だった。

 

 だが、マリエーヌは変わってくれた。僕の為に。


 人は……変わる事が出来るのだと、目の前にいる彼女が証明してくれた。


 それならば僕も――変わらなければならない。

 

 勝手に無理だと決めつけるのではなく。

 そんな事出来るのだろうかと悩むのでもなく。


 変わらなければいけないんだ。


 マリエーヌを本当に大切にしたいと思うなら……彼女を幸せにしたいと思うのなら……!


 それはきっと簡単な事では無いだろう。

 何かをきっかけに、また昔の自分が現れる事もあるかもしれない。


 それでも、僕はもう迷わない。諦めるものか。

 マリエーヌの幸せも……僕の幸せも……!


 たとえ間違えたとしても……やり直すんだ。何度でも。

 今度は、僕自身の力で……彼女との関係を。


 その強固な決意を胸に、彼女の手を握る自分の手の平に力を込めた。

 少し戸惑ったのか、彼女の手から一瞬力が抜けたが、何かを察するように、すぐに握り返してくれた。


 ふいに、あの時のマリエーヌの言葉が頭を過った。


『公爵様の犠牲の上で成り立つ私の幸せなんてありません。その事を、どうか忘れないで下さい』

 

 ――忘れるものか。君の言葉を。

 

 あの時の君の言葉――君との記憶が、今も僕を支えてくれる。


 そして今の君の姿があるからこそ、僕は何度でも立ち上がれるんだ。

 

 やはりマリエーヌは、僕の女神だ――。




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