09.彼女の幸せ
――真っ暗だ。
何も見えない。
何も聞こえない。
体も動かない。
どうする事も出来ない僕は……。
なんて無力な人間なのだろうか――。
ガチャッ……。
「失礼します……って暗!! え……寒!! なんですかこの部屋!?」
静寂に包まれた部屋の中。扉が開く音の直後に、リディアの無作法な声が耳を突き抜けた。
先程まで暗闇で覆われていた部屋に、廊下からの灯りが差し込む。その灯りは、精気を失い椅子にもたれかかる僕をも照らしだした。
――あの後、僕は何も言葉を発する事なく、今にも崩れ落ちそうになる体を必死に動かし、マリエーヌの部屋を後にした。
自室に戻ってからの記憶は朧げだ。
一度、ジェイクがこの部屋に来た様な気もするが……何の反応も示さない僕を見て諦めて戻ったらしい。
それからは特に何も無く……何もやる気が起きず……ただ無駄な時間をここで過ごした。
椅子に体を預けたまま、僕は視線だけを扉がある方角へ向ける。
そこには怪訝な顔をしたリディアが佇んでいた。
「……ノックもしないで何の用だ?」
「……お言葉ですが、ノックは何回も致しました。いつまで経っても夕食のお迎えに来られないので、様子を見に来たのですが……なんなんですかこの暗さ。明日この世が終わるんですか?」
リディアは猫の様なつり目を半開きにして、呆れ顔で問いかけてきた。
自分が雇う侍女にそんな不躾な態度でものを言われても、今の僕には怒りの感情すら湧かない。
自嘲の薄ら笑いを浮かべて、思いのままを口にした。
「ああ……終わりだ……。マリエーヌに嫌われてしまった……。もう、この世の終わりだ……」
「……公爵様。マリエーヌ様は別に公爵様を嫌いになった訳ではないと思いますが。とりあえず、灯りをつけますね」
そう告げて、リディアは部屋の中にずかずかと入ってくると、壁掛けの燭台に火を灯し始めた。
フワッと温かい空気が過り、闇に沈んでいた部屋に明かりが宿る。
その明かりの眩しさを遮る様に瞼を閉じた。
瞼裏に、先程まで僕と向き合っていたマリエーヌの姿が映し出される。
力強い眼差しを僕に向け、侍女を守る彼女の姿が。
――やはり、マリエーヌは強い女性だ。
あの時と同じ。
それに比べて僕は――。
ゆっくりと瞼を開く。
「いや……きっと嫌われたさ。学習能力も無く、残酷で思いやりに欠ける愚かな僕なんて……嫌われて当然な人間だ」
「そうですね。傲慢で空気が読めなくてマリエーヌ様以外はゴミと思っている人は皆に嫌われて当然です」
リディアは別の場所にある燭台にも火を灯しながら、素知らぬ顔で淡々と言葉だけを返した。
ゆらゆらと揺らぐ蝋燭の炎をぼんやりと見つめながら、僕は言葉を続ける。
「そうだろう……僕こそがゴミ以下の存在だったんだ……ゴミはゴミらしく、焼却炉で焼かれてしまえばいい……」
「……いえ……さすがにそこまでは思ってませんが……」
「ふっ……お前らしくないな。僕なんかに気を遣うな」
「いや、気を遣ったつもりは一切ないんですけど……」
「ならば本当の事を言え。どうせお前も、僕みたいなゴミクズはさっさと塵になって消えろと思っているのだろう?」
「思ってませんてば。……ていうか、なんなんですかさっきから!? めちゃくちゃめんどくさいんですけど!」
ようやくこちらに顔を向けたリディアは、物凄く嫌そうに顔を歪めている。とても自分の主に向ける顔ではない。まさにゴミを見る様な目だ。やはり僕の事をゴミだと思っているんじゃないか……?
「ああ、そうだ。僕はめちゃくちゃめんどくさい人間だ……こんな人間……誰も好きにならないんだ……」
「公爵様。もしも慰めて欲しいと思っているのなら、私は適任ではありません。他の人を呼んできましょうか?」
「いや、慰めなどいらない。今はとことん貶される方がまだ良い。……お前が適任なのには間違いない」
「え……別に私は人を貶す趣味なんてないんですけど……? さっきから公爵様の私に対するイメージおかしくないですか?」
心外だと言わんばかりにリディアは口を尖らせる。
「だが、お前は僕の事をクズだと思っているだろう?」
「……はい。思ってます」
「こんな無様な僕の姿を見て、いい気味だと心の中で嘲笑っているのだろう?」
「……はい。少しだけ」
「こんな僕――」
「ああもうやめてください! 私にだって良心はあるんですから! 公爵様が反省している事はよおぉぉぉく伝わりましたから!」
僕の言葉を遮り、声を張り上げたリディアは頭痛でも訴えるかのごとく頭を押さえて項垂れる。
リディアが明かりを灯したおかげで、部屋の中はすっかり明るくなった。だが、僕の心は闇に覆われたままだ。
暫くして、大きく溜息を吐いたリディアが僕へ顔を向けた。
「公爵様ってマリエーヌ様の事が本当にお好きですよね」
――そうだ。僕は彼女が好きだ。
「……ああ、彼女には僕の身も心も救われたからな」
――だから、僕は今の彼女を救いたかった。幸せにしたかった。
彼女を蔑む使用人を追い払い、彼女を大切にしてくれるであろう使用人達を雇った。
今まで冷遇されていた彼女は、自分を慕ってくれる存在が出来た事に、どれ程の喜びを感じただろうか。
その気持ちは僕にも分かる。
あの時の僕も同じ様な状況だったから――。
だからこそ、マリエーヌも侍女達を大切にしたいと思ったのだろう。
だが……僕はそんな彼女の大切な侍女を、自分勝手な都合だけで追い払おうとした。
いや、それどころか……僕は彼女の大切な人を――。
「公爵様。アイシャに死刑宣告されたそうですね」
リディアが冷たく言い放つ。
「ああ……そうだ」
あの時の僕は、昔の残酷極まりない自分へと戻ってしまっていた。
許されないミスを犯した目の前の人物を、排除する事しか考えていなかった。
それまでの自分がやってきた様に――。
「だが、もうそんな気はさらさらない。あの侍女の処罰についても考え直そう」
「そうですか。それは安心致しました。運が良かったですね。アイシャへの死刑宣告をマリエーヌ様が聞いていなくて。それを聞かれていたら、マリエーヌ様はもう二度と公爵様に笑いかけて下さらなかったでしょうし」
「……そうだろうな」
不幸中の幸い……だったのだろうか。
それでも、僕はすでに取り返しのつかない言葉を沢山言い放ってしまった。
「マリエーヌは、もう僕の事を好きになってはくれないだろう……。それでも、せめて彼女だけでも幸せになってほしい……だが、こんな僕が彼女を幸せに出来るのだろうか……」
「そうですね。今の公爵様では、一生マリエーヌ様を幸せにする事は出来ないでしょうね」
どこか棘のある言い方だった。
そう言われても仕方が無い……と、納得する。
だが……冷めきっていた胸の奥に、何か熱いものが灯る。
「それは……何故だ?」
リディアの言葉に、僕が追い求めていた答えがあるような気がして、問いかけた。
「公爵様は、マリエーヌ様の幸せを何も分かっていないからです。自分の価値観だけで、マリエーヌ様の幸せを勝手に妄想しているとしか思えません」
「妄想……だと……?」
「はい。公爵様は恐らく、マリエーヌ様だけが幸せになれば良いと思っていますよね?」
「……ああ。そうだ」
「ですが、それはマリエーヌ様が望む幸せではありません」
「……どういう事だ……?」
「マリエーヌ様は、自分の事よりも、自分が大切に思う人達の幸せを願う方です。自分だけが良ければよい、なんて思う方ではありません」
「……!」
――その通りだった。
マリエーヌは……自分の幸せよりも、僕の幸せを願ってくれていた。
いつだって、僕の事を優先し……最期まで、僕を守ってくれた。
彼女は、そういう人だった――。
僕が黙り込む姿を見て、リディアはゆっくりと語り始めた。
「私達がマリエーヌ様を慕っているのは、マリエーヌ様が優しくしてくださるから……というだけではありません。マリエーヌ様が、私達が大切に思っている人達の事も、気に掛けてくださるからです。私達の事も、誰かを贔屓する訳でも無く、平等に優しくしてくれるのです。そんな方が、自分だけが幸せになる事を望んでいると思いますか?」
――思わないな。
ようやく分かった気がする。
彼女を幸せにする為に、自分に何が足りていなかったのかを。
「マリエーヌを幸せにする為には、彼女が大切に思う人間の事も、幸せにしなければいけないという事か」
「そういう事です」
まるで教師にでもなったかの様に、上から目線のリディアは腕を組み大きく頷いた。
ようやく手にする事が出来た。
彼女を幸せにする方法を――。
だが……。
彼女以外の人間を幸せにするという事は、その人間達の事も大切にしなければいけないという事だ。
「そんな事が……僕に出来るのだろうか……」
僕は今まで、誰も信じる事が出来ず、人を疑いながら生きてきた。
マリエーヌの事だって、あんな状況下でなければ信じる事など出来なかっただろう。
それなのに――。
「出来ますよ。公爵様なら」
あっさりとそう告げたのはリディアだった。
僕とは対照的な晴れやかな笑顔を浮かべるその姿が、少しだけ気味悪くも思える。
「……やけにハッキリと言うのだな」
「はい。他の人はどうか分からないですが、少なくとも公爵様なら私を幸せにする事は出来ます」
「……そうなのか? それは一体、どうすればよいんだ?」
「お金です」
「……」
――今のは何か聞き間違えたのだろうか。
「もう一度、言ってくれるか?」
「はい。私が幸せになる為には、お金と男が必要です」
――どうやら聞き間違えではないらしい。しかも何か増えた。
おかしい……。
マリエーヌの幸せについて真剣に話していた筈なのに、何故ここでお金と男の話が出てきているんだ……?
急転直下の展開に思考が上手く働かず混乱する僕に、リディアは笑顔を引っ込めてキリっと真面目な表情となる。
「公爵様。もう一度言います。マリエーヌ様が幸せになる為には、マリエーヌ様の周りの人も幸せにしなければいけません。それにはもちろん、私も含まれているはずです」
「……ああ……分かっている」
「誰かを幸せにする為には、その人の価値観で幸せとは何かを考える事が大事です」
「……そうだな」
「私の価値観で言う幸せの条件はお金と良い男です」
「ああ……それはもう分かった」
「つまり、マリエーヌ様を幸せにする為には、お金と良い男を用意しなければならないのです」
「その言い方はやめろ」
先程、人の幸せについて僕を説き伏せた人間が、今はお金と男をせびる低俗な人間にしか見えない。
――こんな女をマリエーヌの専属侍女にして良かったのだろうか……?
そんな疑問が頭を過る。
だが、確かに僕ならお金と条件の良い男を用意する事は可能だ。
つまり……この女を幸せにする事は出来る……筈だ。
……こんな事が本当にマリエーヌの幸せに繋がっているのかは分からないが。
「お前の幸せについては……善処しよう」
頭を抱え、とりあえずそう告げると、リディアは僕に少し背を向けて力強く拳をグッと握った。本人は僕から見えない様に隠したつもりらしいが、こちらからその様子はハッキリと見えているし、小声で「よし!」と言い放つ声も聞こえた。
するとリディアは再び背筋を伸ばして僕と向き合った。
「では、公爵様。マリエーヌ様がお部屋でお待ちですので、どうぞお迎えにいらして下さい。私はこれで失礼致します」
キリッと表情を引き締めたリディアは、姿勢を正して深々と僕に頭を下げた。
踵を返して部屋を後にしようとした時、その足がピタリ……と止まった。
リディアは扉に手を掛けたまま、顔だけを僕に向け、
「公爵様。気付いていらっしゃらないようですが……マリエーヌ様の大切な人の中には、公爵様も含まれていると思いますよ」
それだけ告げると、リディアは今度こそ部屋を後にし、扉を静かに閉めた。
――僕も……だと? マリエーヌの大切な人の中に……?
もしそれが本当だとしたら、彼女が幸せになる為には、僕の幸せも含まれているという事。
僕の幸せ……その答えとなるものは、ただ一つだけだった――。




