08.過ち
マリエーヌは床にひれ伏す侍女の前まで来ると、迷いなく両膝を床につけてかがんだ。その耳元に優しく囁く。
「アイシャ、顔を上げて下さい。あなたがそこまでする必要はありません」
アイシャと呼ばれた侍女は、恐る恐る顔を持ち上げた。
その両目からは涙が流れ落ち、頬を伝って床に滴り落ちている。口元を震わせてマリエーヌを見つめる侍女は、嗚咽混じりに言葉を発した。
「うっ……でも……マリエーヌ様……うっく……私のミスで……マリエーヌ様の手を……」
「私は大丈夫です。それよりも体調がよろしくないのでしょう? 今日はもう自分の部屋に戻って、ゆっくり休んでください」
「でも……!」
「何も心配する事はありません。体調が回復したら、また私にお茶を入れてください。アイシャが入れてくれるお茶はとても美味しいので、楽しみに待っていますね」
「……! マリエーヌ様……! ……うっ……うう……」
侍女の瞳から流れ落ちる涙は勢いを増し、ひっきりなしに滴り落ちる。
だが先程まで絶望的だったその瞳は、今は希望を見いだしたかの様に光り輝き始めた。
そんな侍女に、マリエーヌは慈愛に満ちた笑顔で応える。
互いに見つめ合う二人。
その姿を見ていると、何故か僕だけが一人取り残されている様な虚しさに襲われた。
次第に胸の奥がチリチリと焼ける様に熱くなり、ギリッと奥歯を噛みしめた。
言いしれぬ焦燥感に駆られた僕は、少しだけ強い口調でマリエーヌに話しかけた。
「マリエーヌ。誰よりも優しい君の事だ。その侍女に情けをかけたい気持ちも理解出来る。……だが、そう簡単に許す訳にはいかない」
僕の言葉に、侍女の瞳からは再び光が失われる。
カタカタと小刻みに震え出したその肩に、マリエーヌがそっと手を添えた。
垂れ下がった亜麻色の髪を耳にかけると、僕をジッと見つめる。
「では、公爵様は彼女をどうなさるおつもりですか?」
そう問われて、言葉に詰まった。
さすがに、マリエーヌの前で死刑宣告をする訳にはいかない。
「……今すぐ侍女の任を解き、この屋敷から出て行ってもらう」
心外ではあるが、彼女への処罰を軽くせざるを得ない。
マリエーヌに痛みを与えたのだから、せめてそれ以上の痛みを伴う罰を与えてやるべきなのに。
だが、それでもマリエーヌは納得いかないような顔で僕を見据えた。
澄みきった新緑色の瞳に見つめられ、思わず息を飲んだ。
僕の心臓の鼓動がドキドキと高鳴り、顔が次第に熱くなる。
こんな時でも、彼女に見つめられる事に喜びを感じてしまうとは……。
そんな僕の内情など微塵も気付いていないであろうマリエーヌは、真剣な表情で口を開いた。
「公爵様。彼女は十分、反省しております。どうか、挽回の機会を与えては下さらないでしょうか」
どうやら、マリエーヌは侍女をこの屋敷から追い出す事すらも重い罰だと言いたいようだ。
さすがにこれには頭を悩ませる。だが――これ以上は僕も譲れない。
「マリエーヌ。君がその侍女を庇いたいという気持ちも分かる。だが、その侍女は君を傷付けた。そんな人間を、これ以上この屋敷に置く訳にはいかない」
「ですが……彼女に悪意はありません。これは不慮の事故なのです」
「それでも駄目だ。ここで彼女を許せば、他の人間にも示しがつかない。君の侍女となる人間には、それくらいの覚悟を持ってもらわなければ困る」
――マリエーヌ……どうか分かって欲しい。
これも全て、君の為なのだという事を。
「……では、公爵様。私にも彼女と同等の罰を与えて下さい」
「…………は?」
――マリエーヌに罰……だと?
「な……なんで君に罰を与えなければいけないんだ!?」
訳が分からず問いかけると、マリエーヌはゆっくりと立ち上がり、僕と正面から向き合った。
あんなにも僕と目を合わせようとしなかった彼女の瞳が、今は真っすぐに僕を見つめている。
力強い眼差しで前を見据えるその姿が、どこか懐かしくも思えて切なさに胸が疼いた。
「彼女がミスをしたのは、私にも責任があるからです」
「何……? 火傷を負ったのは君だ……責任なんてある筈が無い!」
「……いえ……私は、彼女の体調が優れない事に気付いておりました。それなのにも関わらず、彼女を気遣う事が出来ずに無理をさせてしまいました。その結果、この様な事態を招く事になりました。私があの時、ちゃんと彼女を休ませてあげていたらきっと……」
マリエーヌの言葉を聞いた侍女は、即座に顔を上げた。
目を大きく見開き、必死の形相でマリエーヌへ訴えかける。
「い……いいえ……! マリエーヌ様は『休んでいい』とおっしゃって下さったのに、私が押し切ってしまったのです! マリエーヌ様が責任を感じる事はございません!」
「そうです! マリエーヌ様! でしたら、彼女にお茶の番を任せてしまった私にも責任があります!」
部屋へ戻って来たリディアもそれに応戦する。だが、マリエーヌは困った様な笑みを浮かべて首を横に振った。
「いいえ。あなた達は悪くないわ。こういう事は、私がはっきりと言ってあげなければいけなかったの。ごめんなさい。私がしっかりしていれば、こんな事にはならなかったのに」
「そんな……! マリエーヌ様が気に病む事は何もございません!」
「そうです! それよりも今はその手を――」
「……何故だ……マリエーヌ……。どうして……分かってくれないんだ……?」
――胸の内に秘めておきたかった思いが、言葉となって僕の口から零れ落ちた。
どうして……こんなに何もかもが上手くいかないのだろう。
僕の愛するマリエーヌは目の前に居るというのに……何故こんなにも寂しい思いに駆られるのだろうか。
「僕はただ、君を大切にしたいだけなのに……」
遠い……。彼女が。
あんなにも近くに感じていた彼女との心の距離が、今は果てしなく遠い。
やっとの思いで、こうして話を出来る様になったのに……何故こんなにも……あの日の彼女を恋しく思うのだろうか。
あの時のマリエーヌなら……僕の気持ちを、分かってくれただろうか。
「……公爵様が私を大切に思って下さるのはとても嬉しいです。ですが、私も同じように彼女達を大切にしたいのです」
「同じように……? 大切に……だと……?」
その言葉は、今の僕には酷な言葉だ。
じゃあ……僕はどうなるんだ?
僕はマリエーヌにとってどんな存在になる?
僕達の関係はまだたったの五日間でしかないと実感したばかりだ。
だが、マリエーヌと侍女達の関係も、まだたったの四日間。僕よりも短い。
それなのにも関わらず、僕が必死に築きあげようとしている信頼関係が、彼女達の間にはすでに出来上がっているとでも言うのか……?
――何故だ。
何故どいつもこいつも、僕の邪魔をするんだ……?
こいつらがいるせいで……マリエーヌは僕の事を見ようとしていないんじゃないのか?
僕の事も必要としてくれない……!
誰よりもマリエーヌの事だけを想い、愛しているのは僕だ……。
彼女を幸せに出来るのは、僕しかいない筈だ……!
積もり積もった苛立ちが、僕の頭の中から冷静さを完全に消滅させた。
ひどく歪み始めた思考は、ある結論へと達しようとしていた。
――そうだ。
いっその事……僕と彼女以外、全て居なくなれば……。
あの時と同じ様に……マリエーヌの味方が僕だけになれば……。
そうすれば、もう一度、僕の事だけを見てくれる筈だ。
――そうだ。それがいい。
今の僕には、そんな状況を作る事も容易い事なのだから……!
「マリエーヌ……侍女達を雇ったのは僕だ。元々は三日間という契約だった。だから今ここで彼女達に引き払ってもらっても、それは不当な解雇とは言わない。今日、働いた分も給与はきちんと支払おう」
「……そんな! 公爵様、せめて彼女達と話を――」
「する必要はない! そんな価値のない人間と話をする必要は――」
そこまで言って――ハッとした。
そして気付いた。
今のこの状況が、あの時と酷似している事。
マリエーヌに守られ、何の力も無くひれ伏す侍女が――かつての自分の姿である事を。
その瞬間、理解した。
自分が犯そうとしている過ちに――。
今、僕の目の前にはマリエーヌが居る。
彼女が真っすぐ僕を見つめる姿も――あの時の彼女と同じだ。
僕を守る為に、臆する事無く立ち向かった勇ましくも思える彼女の姿。
ずっと僕が追い求めていた彼女の姿が……ここに居る。
だが、あの時と違うのは――その視線の矛先に僕がいるという事だ。
今、マリエーヌの瞳に、僕の姿はどう映っているのだろうか。
僕を侮辱し、その手に傷を負わせた義妹か?
それとも、一方的に僕をこの屋敷から追い出そうとしたレイモンドだろうか……?
――今の僕は、あの時とは違う。
力も、金も、権力も……何もかもがこの手にある。
言葉一つで、目の前の侍女をこの屋敷から追い出す事も出来る。
もしも嫌だと抵抗するのならば、力でねじ伏せ従わせる事も可能だ。
もう、あの時のように無力な僕ではない。
マリエーヌは……何も変わっていなかった。
あの時と同じ。目の前の誰かを守る為に、勇敢に立ち向かう強い女性だ。
――僕だけが、変わってしまった。
いや……この場合、元の自分に戻ってしまったと言うべきだろうか。
マリエーヌと共に過ごし、人の温かさ、優しさを知った。
愛される事、愛する事を知った。
だから今度こそ……彼女に相応しい人間になれる筈だと思っていた。
だが、いざこうして再び力を手にした僕は――その言動も、考え方も、以前の冷酷な自分に戻ってしまっていた。
人の本質はそう簡単には変わらない。
元々、僕は残忍な人間だ。
必要なものはどんな手を使ってでも手に入れてきた。
不要だと思えば、物も人も見境なく斬り捨ててきた。
その結果が……マリエーヌを悲惨な最期へと誘ってしまったというのに……。
僕はまた、同じ過ちを繰り返そうとしている。
彼女を苦しめ続けた、昔の僕の姿をまた見せる事になるなんて――。
「マリエーヌ様!」
突然、別の侍女が水の入った桶を持って部屋に飛び込んできた。
マリエーヌの元へと駆け付けるなり、彼女の右手を水に浸した。
恐らく、リディアが指示していたのだろう。
僕が早く話を切り上げていれば……もっと早く火傷の手当ても出来ていた筈だった。
僕は彼女の火傷を気に掛ける事すらも出来ず……目の前の侍女を罰する事ばかり考えて――。
彼女の事を思いやる事が出来なかった。
視界がぐらりと歪む。
グルグルと頭の中が掻き混ぜられる様にゴチャゴチャだ。
――僕は、一体どこで間違えたんだ……?
せっかくマリエーヌと再会出来たというのに……。
体が動くようになったのに……言葉もこうして伝えられるようになったのに……!
マリエーヌが幸せになるのに、一番邪魔な人間は僕自身じゃないのか……?
その時、ポツリ……ポツリ……と、何かが零れ落ちた。
「え……公爵……さま……?」
右手を水に浸したまま、目をまん丸くしたマリエーヌが、僕を見て呟いた。
彼女の右手の処置をしていたリディアも、顔を上げてギョッとする。
「え……? 公爵様……な……泣いて……え?」
もう、何を言い訳にしても全てが無駄な様な気がした。
僕の冷酷な一面を再び見た彼女は、僕を軽蔑するだろうか。
「すまない……マリエーヌ……こんな筈では無かったんだ……」
震える声で、謝罪した。
とてもここには居られない。
彼女の生きているこの世界で、自分が一番不要な人間ではないかと……そんな気がしてならなかった
――もう一度、最初からやり直せたのなら……。
この期に及んでそんな事を願う僕は、この世界で最も情けない人物に成り果てた様な気がした。




