07.侍女のミス
ジェイクを執務室に残し、市場へ向かうべく廊下を歩いている時――。
「マリエーヌ様! 大丈夫ですか!?」
――!? マリエーヌ!?
廊下の向こうから微かに聞こえてきたリディアの声に、思考を巡らす間もなく体が反応した。
全速力で廊下を駆け抜け、マリエーヌの部屋の前に着くなり蹴破る勢いで扉を開け放った。
「マリエーヌ!」
紅茶の甘い香りが漂う室内を響き渡らせた僕の声に、マリエーヌとすぐ傍に居たリディアがほぼ同時にこちらへ顔を向けた。
「あ……公爵様……?」
マリエーヌはキョトンとした顔を僕に向け、大きな瞳をパチパチと瞬きする。
とりあえず、元気そうな彼女の姿を確認出来てホッと胸を撫でおろした。
それから状況を把握すべく、彼女の周囲に視線を走らせる。
椅子に座るマリエーヌの前に置かれた丸テーブル。恐らくはお茶の時間を楽しんでいたのだろう。
その上には焼き菓子が並べられたケーキスタンドと、横たわったティーカップ。そこから零れ落ちたと思われる紅茶がテーブルクロスを濡らし、床に滴り落ちている。
どうやらそれがマリエーヌのドレスにもかかったらしく、リディアがハンカチで拭き取っているようだ。
そして二人から少し離れた位置に置かれたテーブルワゴン。その隣に佇む一人の侍女。口元を手で覆い隠し、血の気が引いた様に真っ青な顔で全身を震わせている。
侍女が見つめる先にはマリエーヌがいるが……その視線はマリエーヌの手元に向けられているようにも見える。
嫌な予感に急かされ、僕は足早にマリエーヌの元へと歩み寄った。
「マリエーヌ。大丈夫か?」
僕が近付くと、マリエーヌは丸テーブルの下へ素早く右手を移動させた。
その不自然な動作がひっかかる。何かを隠している様にも見える。
すると、マリエーヌはどこかぎこちない笑顔をこちらに向けた。
「公爵様、私は大丈夫です。……ですが、申し訳ありません。粗相をしてしまって……せっかく贈って頂いたドレスを汚してしまいました」
「いや、そんな事は構わない。また新しい物を用意すれば良いだけだ。それよりも……その右手を見せてくれないか?」
「……!」
僕の問いかけに、マリエーヌはギクリ……と反応する様に体を硬直させた。
困った様な笑みを浮かべ、艶のある唇を開く。
「えっと……見ても何もないと思いますが……?」
「何もないのなら見ても構わないのではないか?」
「……」
マリエーヌはグッと口を噤むと、僕が引く気がない事を察してか、観念した様に小さく息を吐きだした。
ゆっくりと右手をテーブルの下から引き出し――露になった右手の甲は、痛々しく真っ赤に染まっている。
「……! これは……紅茶が手にかかったのか!?」
「えっと……少しだけです。でも、大した事ありませんので」
「大した事ないものか! こんなに赤くなっているじゃないか!」
リディアもその手を見るやいなや、即座に立ち上がると、
「マリエーヌ様! すぐに冷やしに参りましょう!」
そう告げてマリエーヌの左手を取り、半ば強引に椅子から立ち上がらせた。
そのガサツな行動は少々腹立たしくも思うが、火傷したとあらばすぐに冷やさなければならない。今だけは目を瞑ろう。
「リディア。マリエーヌを頼む。直ちに医者を呼び、丁重に処置してもらうように」
「はい、かしこまりました。マリエーヌ様、参りましょう!」
「あ……」
マリエーヌは何か言いたげにこちらへ視線を送るが、リディアにグイグイと手を引かれながら退室していく。
その姿を見送りながら、僕はすぐにでも彼女の元へと駆け付けたい思いに駆られた。
出来る事なら、離れる事無く彼女の傍に寄り添っていたい。苦痛を受けたというのなら尚更の事……僕がその傷を癒してあげたい。
だが――今はやらなければならない事がある。
僕は部屋に一人残った侍女へと視線を移した。
侍女は真っ青な顔で、瞳に零れ落ちそうな程の涙を溜めて、マリエーヌが去った扉の方向を見つめている。
ふいに僕と目が合うと、その顔は更に絶望的な表情へと変化した。
すぐに目を伏せ戦慄するその姿から、何があったかは察しがつく。
「あ……あ……」
乾いた声で、意味のない言葉を繰り返す女に向けて、僕は静かに言い放った。
「何があったのか、説明しろ」
女はビクッと大きく肩を揺らすと、即座にその場でひれ伏した。
「申し訳ございません! 私が……あ……過って紅茶を零してしまいました!」
「……過って……だと?」
「は……はい! ティーカップを置こうとした時に眩暈がして……それが……マリエーヌ様の手にかかってしまって……! 本当に、申し訳ございませんでした!」
眩暈がした……何を言っているんだ? 都合の良い言い訳でもしたいのか?
淹れたての紅茶がどれだけ熱いものなのか分かっているのか?……それを過って零しただと?
そんなつまらないミス、子供でもするものか。
こんな愚かな女のせいで……彼女に苦痛を与えてしまうとは……。
その痛みを想像するだけで、僕の胸の奥までもズキンと鋭い痛みが走る。
脳裏を過るのは、かつて義妹に傷付けられた彼女の右手。
二度とあんな思いはさせたくなかった……。
今度こそ……絶対に同じ思いはさせないと誓ったのに――。
――この女のせいで……再び彼女の手に傷を負わせてしまった。
沸々と込み上げるのは激しい憤り。
腹の底が煮えくり返る様に熱い。
心臓の鼓動が早くなり、ドクドクと大きく鳴り響く鼓動が頭の中を鳴り響く。
落ち着けと自分に言い聞かせるも、とても冷静ではいられない。
目の前に、マリエーヌを傷付けた人物がいるのだから……!
「……マリエーヌを傷付けて……そんな簡単な謝罪で済むと思っているのか?」
「……! も……申し訳ございません!!」
ただ謝る事しか出来ない能無しめ……。
こんな女にマリエーヌが傷付けられたというのが余計に腹立たしい。
それを雇った僕自身にもだ。やはり侍女の人選はもっと慎重にするべきだった。
今すぐにでも、この女の存在を消し去ってやりたい。
ここがマリエーヌの部屋でなければ……すぐにでもその首を刎ねていただろう。
「こ……公爵様の仰せのままに……罰をお受け致します!」
「……そうか。ならば死ぬ覚悟は出来ているのだろうな」
「……え? ……死……?」
女は信じられない様子で顔を持ち上げたが、僕の顔を見るなり、何か恐ろしい物でも目にしたかのごとく息を詰まらせた。
馬鹿な女だ。本気で言っていないとでも思ったのか?
僕が許す筈がないだろう。
彼女を傷付けた人間を――。
「当然だ。彼女は神なのだと伝えていただろう? 神を傷付けるなど、この世で最も重い罪。死をもって償うべきだ」
「……あ……あ……ああああ! 申し訳ございません!! どうか……! どうか命だけは……!」
女は再び頭を下げ、必死に泣き叫ぶ。
だが、許す気などさらさらない。
その罪の重さを――身をもって知らしめなければならない。
二度とこのような事が起きない様に……他の侍女への見せしめも兼ねて。
彼女を守る為にも――。
「マリエーヌ様!」
再び、リディアの叫び声が聞こえた。
振り返ると、部屋の入口にマリエーヌが立っていた。
ハァハァと息を切らせ、扉に添えられた右手はまだ赤いままだ。
「マリエーヌ……?」
――どうして、彼女がここにいるんだ……?
先程まで煮えたぎっていた腹の内が一気に冷めていくのを感じた。
すぐさま彼女の元へ駆け寄り、声を掛けた。
「マリエーヌ! なぜ戻って来たんだ!? 早く手当てを――」
だが、マリエーヌは僕と目も合わせる事なく隣を通り過ぎると、床にひれ伏す侍女の元へと駆け寄った。
そんな彼女の行動に、僕の心の中を泣きそうな程に冷たい風が通り抜けた気がした。




