06.たったの五日間
「お待たせしまし――え……?」
ヘラヘラと締まりのない笑顔で振り返ったジェイクは、僕の姿を見るなり瞬時に表情を一転させた。
唖然とするその間抜け面めがけて、万年筆を握りしめた手を一気に振り下ろす。
「うわああああああああ!!!!」
その叫び声とほぼ同時に、ガツンッ……! と音を立て、ペン先は机に突き刺さった。
ギリギリの所で躱され、仕留め損なった事にチィッと小さく舌打ちする。
ジェイクは元騎士という事もあり、運動神経に長けているとはいえ、以前の僕なら今ので確実に仕留めていた筈だ。
やはり体を動かす感覚がまだ少し鈍っているのだろう。
机に突き刺さった万年筆を引き抜いた僕は、机にもたれかかる様にしがみついているジェイクに視線を移す。
ジェイクは僕を見つめながらパクパクと魚の様に口を動かし、必死に声を吐き出した。
「は……? え……? な……な……何をするんですか!? 私を殺す気ですか!?」
「優先順位を守れと言ったのは貴様だろう? 今、僕が一番優先すべき事は、邪魔な貴様を消す事だ」
「……え?」
再びポカンと口を開いたその顔から血の気が引いていく。
ようやく僕の言葉の意味を理解したのか、ジェイクは途端に滝の様な汗を流し始めた。ピクピクと引き攣った笑みを浮かべ、掠れた声で僕に話かける。
「はっはは……何をおっしゃいますか。公爵様が常に優先するのはマリエーヌ様ですよね? 優先順位の一番から十番までマリエーヌ様であって……私の入る余地なんて全くありませんよね……?」
「ああ、そうだ。……だが、そこまで言うのなら一瞬だけ入れてやろうと思ってな。ありがたく思え」
「いえ! 全く嬉しくないんですけど!? ちょ……公爵様……!? 少し話し合いませんか!?」
「必要ない。これから死ぬ人間と話をしても無駄なだけだ」
無駄な会話を交わしながらも、僕が近付く足幅に合わせて、ジェイクも一歩ずつ引いていく。
だが、この間合いなら……次の一手で確実に仕留められる。
握りしめる万年筆に一層力を込め、足先に全神経を集中させる。その刹那――。
「公爵様! マリエーヌ様の幸せについて、私もぜひご一緒に考えさせて頂きたく存じます!」
切羽詰まったジェイクの叫び声に、僕は踏み込もうとした足を止めた。
首を傾げて、水でも浴びたかの様に汗まみれのジェイクに問いかける。
「貴様が何か役に立つというのか?」
「……ええ。少なくとも、公爵様が読んでいた本よりは役に立てるかと」
「……言ってみろ」
そう告げて万年筆を机の上に置くと、傍にあった椅子を引いて腰掛けた。頬杖をつき、目の前の男を見据える。
するとジェイクはハアァァ……と安堵のため息を吐き出しながら床に崩れ落ちた。
やがてヨロヨロと机を支えに立ち上がると、不服そうに顔を持ち上げ、への字に曲げた口を開いた。
「公爵様。差し出がましい事を申しあげますが……今すぐにマリエーヌ様を幸せにするのは難しいと思われます」
「……それは何故だ?」
少しムッとしながら問うと、ジェイクは口元に手を当て何か考える仕草を見せた。早く答えろと声をかけようとした時、その口が開いた。
「公爵様は、マリエーヌ様のこの先の人生に幸多からん事を願っている訳ですよね?」
「ああ。そうだ」
「それでは、マリエーヌ様が幸せになるのなら、公爵様はお傍に居なくても良いのですか?」
「――! ……いや……彼女を幸せにするのは……僕でありたい。……僕でなければ駄目だ……! 僕が誰よりもマリエーヌの事を愛しているのだから! 他の奴が傍に居るのを想像するだけでもその存在を消さずにはいられない……!」
「……でしょうね。私の事も抹殺しようとするくらいですし……。という事は、マリエーヌ様を幸せに導くのは公爵様であり……公爵様自身もマリエーヌ様と共に居たいと」
「……ああ。そういう事だ」
ジェイクは「ふむ……」と呟き、再び口元に手を当てると、僕に鋭い視線を向けた。
「では公爵様。それを実現させる為には、まずは公爵様とマリエーヌ様の間に信頼関係を築かなければいけません」
「信頼関係だと……? 僕はマリエーヌを信頼している。それに僕はマリエーヌの事を心から愛している。僕達の何処にお互いの信頼を疑うべき余地があるというのだ?」
「いやいや、全然ありますよ。……公爵様。高熱で寝込む前まで、あなたがマリエーヌ様に対してどんな態度を取っていたかお忘れではないですよね?」
「……もちろんだ。忘れる筈が無い」
「それは安心しました。では、考えてみてください。一年間、自分の存在を無視し続けてきた相手に、ある日突然、『愛してる』なんて言われたら……戸惑うのも無理はありませんよね? すぐにはとても信じられない筈です」
「……何故だ? こんなにも多くの愛を伝えているというのに、それでも信じられないというのか?」
「そうです。重要なのは回数ではありません。そもそも、公爵様がマリエーヌ様を愛するようになったのは五日前からですよね? まだたったの五日間。それで一年間も無視しし続けてきた相手と関係を修復するなんて無理な話です。一度壊れてしまった関係を築き直すには、もっと長い期間が必要になります。少なくとも、マリエーヌ様にとっては……この一年間に受けた心の傷はそう簡単に癒せるものではないでしょうし」
その言葉が、僕の胸の奥を深くえぐった。
何か言い返そうと、口を開くもその先の言葉は何も出ない。
――そんな事分かっている。
最初から分かっていた……筈だった。
だが――マリエーヌと再会を果たし、思いのままに愛を伝えられる事に、少し浮かれていたのかもしれない。
ただ彼女を幸せにしたいという思いが先走って……軽薄だった。
彼女の気持ちもよく考えず……更には自分の事も好きになってもらいたいという気持ちも抑えられなかった。
腹の奥底から熱く込み上げる自分自身への怒りに、拳を強く握りしめる。
そしてもう一つ、僕の心に深く突き刺さった言葉があった。
そのどうにもならない思いは、僕の口から勝手に零れ落ちた。
「そうか……まだ、僕とマリエーヌの関係は、たったの五日間でしかないのか……」
――そんな当たり前の事まで忘れていた。
僕が彼女と過ごした期間は四ヶ月にも及ぶ。
その間、僕達は毎日を一緒に過ごした。
果たして、四ヶ月という期間が長いと言えるかは分からない。
だが、彼女を知るには十分な時間を過ごした。
あの時の僕達には、他に味方なんて誰もいなかった。
僕にはマリエーヌしかいなかったし、マリエーヌにも……僕しかいなかった。
たとえ言葉を交わし合う事は出来なくても、僕達の絆は誰よりも強かったと思う。
だから勝手に思い込んでいた。
僕さえ彼女に優しくすれば、僕達の関係はすぐに良くなるものだと。
思い返してみれば、僕も最初はマリエーヌの事を警戒していた。
その優しさを素直に受け入れられず……どうせ何かしらのもくろみがあるのだろうと決め込み、信じようとしなかった。
それでも、僕が彼女を信じる事が出来たのは、彼女が揺るぎない優しさを見せ続けてくれたからだった。
――悔しいが……ジェイクの言う通りだ。
今すぐマリエーヌを幸せにするというのは難しい。
まずは僕達の関係を修復し、一から信頼関係を築かなければならない。
そして僕がマリエーヌを愛しているという事も、証明し続けなければいけない。
「まだ先は長い……という事か」
「そういう事です。ですから急いでも仕方がありません。長期戦でやるしかないのです。そうと決まれば……まずは今するべき事をやりましょう。さあ、目を凝らして見て下さい! この山積みになっているやるべき事を……!」
「ああ……そうだな」
山積みの書類を遠目で見ながらそう告げると、僕は重い腰を上げた。
一気に表情が明るくなったジェイクの隣を何食わぬ顔で通り過ぎ、廊下へと繋がる扉に向かう。
「――って、言ってるそばから何処へ行くつもりですか!? まさかこの期に及んでまたマリエーヌ様の所へ――」
「人参を買ってくる」
「……………………は?」
長い沈黙の末、硬直したジェイクの口からその一言が発せられたのは、僕が執務室から退室して扉を閉めた直後だった。




