05.焦り
『女性は異性から好意を持たれる事に喜びを感じ、相手を意識し始める。まずは積極的に口説くべし』
『積極的に距離を詰められると女性は引いてしまう事もある。口説く時は慎重に。押して駄目なら引いてみるべし』
「なぜ全く逆の事が書かれているんだ!」
執務室の中を響き渡らせる程の声を張り上げ、手にしていた本を机の上に思い切り叩き付けた。
その衝撃で積み重なっていた書類がパラパラと崩れ落ち、床に散乱する。だが、今はそんな物に構う余裕もない。
机に両肘をつき頭を抱えると、苛立ちを溜息に込めて吐き出した。
机の上には『恋愛指南書』と呼ばれる物が乱雑に置かれている。
これらは全て、公爵邸の書庫の片隅にあった物だった。
僕が幼い頃、書庫にある書物を片っ端から読み漁っていた時に、『女性を口説く方法』『女性が喜ぶ言葉』などと書かれた表題の本を発見した。
なぜそんな物が公爵邸の書庫にあるのだろうと、しばし疑問に思った。
一瞬、父親の顔が脳裏に浮かんだが、その有り得ない考えはすぐに捨て去り、興味本位でそれを手に取った。
パラパラと目を通してみたものの、すぐさまその内容のくだらなさに嘲笑し、投げ捨てるかのごとく元の場所へ返した。
――それをまさか、今になって引っ張り出す事になるとは。
とりあえず、気になった物を全て執務室に持ち込み、読んではみたが……何だこれは。さっぱり当てにならない。
著者によって書いてある内容が異なるし、今の様に同じ書物の中ですら矛盾が存在する。
積極的に口説く方が良いのか、抑えた方が良いのか……結局、何も分からないじゃないか。
他にも、散々偉そうな口ぶりで、さも全てが正しいかの様に書き綴った挙句、『恋愛に正解はない』などとぬかす物まである。
何故こんなふざけた物が世に出回っているんだ?
これを書いた人間を吊し上げて剣先でも突きつければ、意地でも正解を編み出すんじゃないのか? なぜそうしなかったんだ?
くそっ……とんだ無駄な時間を過ごしたな。
「はぁ……」
再び重い溜息を吐く。だが気分は全くもって晴れない。
ただ重苦しい胸の内が虚しくなるだけだ。
「あのぉ……公爵様?」
どうすればもう一度、マリエーヌの笑顔を見る事が出来るのだろうか……。
今も笑ってくれてはいるが……ここに戻る前に、僕に見せてくれていた笑顔とは何かが違う。どこかよそよそしい気がする。
認めたくはないが、僕に見せる笑顔よりも、彼女の周りに居る侍女達と話している時の方がよほど自然に笑っている。
何故だ……? 僕達は正真正銘の夫婦。僕は誰よりも彼女に近しい存在だ。
それなのに……笑顔にさせる事も出来ないなんて……。
こんな状態で、本当に僕は彼女を幸せにする事が出来るのか……?
「公爵様……聞こえてますか? もしもし?」
――そうだ……人参だ……! 人参を食べれば、彼女はまたあの時の様に笑ってくれるかもしれない!
だが、人参はこの屋敷では仕入れていない。
ならば次の仕入れから……いや、駄目だ。それでは遅い。今すぐ市場に行って――。
「――様……公爵様……公爵様……! いい加減に――」
「さっきからうるさいな貴様は! 人が真剣に考え事をしている時に口を挟むな!」
「はっ……! 申し訳――って、何逆ギレしてんですか!」
さっきから鬱陶しくも声を掛けてきていたのは補佐官のジェイク。
昨日、出張先から帰って来たコイツはどういう訳か、僕の行動にいちいち口を挟んで邪魔をしてくる。
今までは従順な部下としてそれなりに評価していた。
だが、今は白い歯を食いしばり、何か文句でも言いたげな顔でこちらを睨んでいる。まさに飼い主に牙を剥く犬と言った所だろうか。
ジェイクは胸の前で握りしめた拳をプルプルと震わせ、更に白い歯を剥き出しにして口を開いた。
「公爵様……。あなたは午前中、何度もここを抜け出しマリエーヌ様の元へ向かったあげく、結局仕事は何も捗りませんでしたよね……? マリエーヌ様との昼食を終え、ようやく真剣に仕事に取り掛かり始めたかと思った矢先に急にキレだし……何事かと思えば、またこんな本を読んでいたなんて……! あなたは一体いつになったら仕事をしてくれるんですか!?」
「マリエーヌが幸せになったらだ!!」
「くうぅっ……! 否定しずらい回答ですね……! 素晴らしい心意気だとは思いますが、今は仕事の時間です! 仕事をしましょう! マリエーヌ様の幸せも大事でしょうが、優先順位はちゃんと守ってください!」
「僕が優先する事は常にマリエーヌの事だけだ! マリエーヌの次もマリエーヌ! 順位を付けるとしたら最初から最後まで全てマリエーヌで埋まっている!」
「じゃあ、あなたはいつ仕事するんですか!?」
「だからマリエーヌが幸せになってからだと言っているだろうが!」
「そんなの何年先になるか分からないじゃないですか!」
「……なんだと?」
何年先……だと……?
彼女を幸せにするのに、何故そんなに時間がかかるんだ?
僕は今すぐにでも彼女を幸せにしたいというのに……!
コイツまで何をふざけた事をぬかすんだ!
憎悪の眼差しで睨み付けると、ジェイクは一瞬だけたじろぐも、すぐにキッと目を吊り上げた。
今日はやけに反抗的な態度だ。そんなに仕事がしたければ一人で勝手にすればいいだろうが。
それに、今日はコイツのせいでマリエーヌと過ごす時間が著しく削られている。
マリエーヌの元へ行っても、すぐにコイツが呼び戻しに来るからゆっくり話をする事も出来ない。
彼女も申し訳なさそうにしながら、「私の方は大丈夫ですので、お仕事頑張って下さい」と言って背中を押してくる。
そう言われると、戻らない訳にはいかない。
一度くらい、引き止めてほしいのだが――。
出来る事なら、僕はもっとマリエーヌと一緒に過ごしたい。
残りの余生、常に傍に居てほしいとすら思っている。
こんなに近くに居るのに、満足に会う事も出来ないなんて……。
――それもこれも……全てコイツのせいだ。
前の人生では、コイツは馬車の事故に巻き込まれてその命を落とす事になった。
今回、その事故の要因となる隣町への視察の予定は取り消すつもりだ。
そうすれば、コイツも死の運命から逃れられるだろう。
だが……その恩も知らずに僕の邪魔をするというのなら――予定通り視察を決行し、コイツだけ行かせるか?
いや……今ここで、手を打っておくのも悪くないだろう――。
「ああ……そうだな」
納得する様にそう呟くと、ジェイクはキョトンと目を丸くした。僕の意外な反応に戸惑っている様にも見える。
その姿に構う事無く、落ち着いた口調で言葉を続けた。
「お前の言う通り、優先順位は守らなければならないな。今するべき事をしよう」
「……! 公爵様……! ご理解して頂けましたか!」
「ああ。さっそくだが……そっちの机にある書類もまとめて持ってきてもらえるか?」
「は……はい! 今すぐに!」
濁り水の様な瞳を輝かせると、ジェイクは僕に背を向けて長机の上にある書類をまとめだした。
それを見届け、僕はゆっくり立ち上がると、慎重にその背後へと忍び寄る。
意気揚々に書類をまとめるジェイクは、気配を消して背後に立つ僕の姿に気付かない。
胸ポケットの万年筆を手に取り、そのキャップの蓋を親指で弾く。
すぐさまそれを逆手に持ち、ペン先をジェイクの首元に向けて手を振り上げた――。
ジェイクうしろー!




