02.あの時とは違う
――マリエーヌだ……。
さっきからずっと、それだけしか思い浮かばない。
僅かに月明かりが照らすだけの薄暗い部屋の中で。
綺麗に整えられたベッドの前で立ち尽くし、その上で安らかに眠る彼女の寝顔をただただ見つめ続けた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
そろそろ自室へ戻るべきだと、何度か考えた。だが、少しでも目を離そうとするだけで不安になる。
その瞬間、彼女の姿が闇に溶け込み消えてしまうかもしれないと。
今、目の前にいる彼女の姿すらも、もしかしたら幻なのではないかと……気持ちが落ち着かない。
「ん……」
「――!?」
唐突に、寝返りを打ったマリエーヌの体が、僕の方へと向けられた。
一瞬、目を覚ましたのかと思い、咄嗟に隠れるべきかと焦った。だが、彼女は今もすやすやと寝息を立てている。
それに安堵し、寝返りにより乱れた布団を手でつまんで、彼女の体へとかけ直した。
その時、彼女の透き通る様な手が目に入った。
さっきまで、夢の中で僕が必死に求めていたものだ。
――この手の温もりを直に感じられたなら、この姿が幻ではないと確信が持てるだろうか。
……なんて。
我ながら都合の良い口実を考えた。その本心は……。
――その手に触れたい。
単純に、それだけだった。
その思いのまま、再び手を伸ばす。
彼女へ向けて――。
だが……。
動くはずの手が、ピタりと止まった。
動かない。いや、確かに動く。動くのだが……。
――勝手に、触れてもいいのだろうか……?
急に後ろめたい気持ちが押し寄せ、どうしてもその手に触れる事が出来ない。
その一因となっているのは目覚めてからの自分の行動だろう。
あの時の事は、記憶がはっきりとした今はよく思い出せる。
彼女を前に、ずっと呼びたかったその名を呼び、伝えたかった言葉――「愛してる」と伝えた事も。
再び彼女と出会えた高揚感と、高熱で頭が上手く働かなかった事も相まって、とても冷静ではいられなかった。
気付けば、気持ちの昂りのままに彼女への想いを口にしていた。
ずっと伝えたかった言葉も何もかも、堰を切った様に溢れ出した。
言葉にするだけなら、まだ良かった。
彼女の手を取り、頬にすり寄せたり、華奢なその体を抱き締めたり、絹の様に美しい髪に触れたり……。
自分がこんなに自己抑制の出来ない人間だったとは……反省せざるを得ない。
その一方で、マリエーヌはというと……その反応は、僕との再会を喜んでいる様には見えなかった。
戸惑い困惑する様な表情で。訳が分からない……という感じだった。
――マリエーヌは、僕と過ごしたあの日々を……覚えてはいないんだ。
その事実に、少しだけ胸の奥を針で刺される様な痛みを感じた。
――いや……これでいいんだ。
彼女が味わった死の苦しみも……無力だった僕の姿も全て、忘れてくれた方がいい。
だが、僕は決して忘れない。
君と僕が過ごしたあの時間を。
君が僕に教えてくれた優しさも……愛も……。
君が僕にしてくれた事全てを、これから君に返していく。
何十倍にも……何百倍にもして……。
マリエーヌ。
これからの君の人生で待ち受けているのは喜びだけだ。
僕がこの手で、必ず君を幸せにしてみせる。
少しの悲しみも、辛さも……もう味わう必要は無い。
君を苦しめるもの全てから、必ず僕が守ろう。
君が僕を守ってくれたように。
これからは、僕が君を守るから……。
そう固く決意する。
その時――。
彼女の瞼が、ゆっくりと開いた。
「あ……」
起こしてしまったかと思い、謝罪の言葉を探す。
だが、彼女は虚ろげな眼差しで僕をじっと見つめたまま、驚きもしない。
まだはっきりと目が覚めた訳ではないのだろう。
ふいに、その瞳が細められ……僕に向かって微笑んだ。
優しくて……温かい。幾度となく見た笑顔……。
いつも僕に向けてくれていた……彼女の笑顔だ。
ドクンッ……。
――!?
突然、心臓に衝撃を受けたような感覚に、咄嗟に胸元を手で押さえた。
その手から、自分の心音が異常な速度で高鳴っている事が分かる。
再び体の熱が上昇し、頭がクラクラと眩みだす。
また、急に熱が上がり出したのだろうか?
だが……何かが違う。
激しく込み上げるこの衝動は……なんだ……?
先程まで満たされていた胸の中が、一気に枯渇し……代わりに荒々しい欲が埋め尽くしていく。
ただ……。
彼女に触れたくて堪らない。
その手に……その髪に……頬に……唇に……。
今もなお、柔らかい笑みを浮かべる彼女の姿に魅了され、少しも目が逸らせない。
その甘い香りに誘われて、僕の体は彼女へと引き寄せられる。
ゆっくりと……だが、確実に彼女との距離は狭まっていく。
床に膝を突けば、彼女の顔はもう、目と鼻の先。
マリエーヌは……再び瞼を閉じ、静かに寝息を立て始めた。
その艶やかな髪がサラリと垂れ落ち、彼女の唇の上にかかる。
それをソッと指で触れて彼女の耳へとかけ直した。
再び、僕の目の前にふっくらとした艶のある唇が姿を現す。
その色香に思わずゴクリ……と喉が鳴った。
あと少し……もう少しで……触れられる。
……そうだ。僕はずっと……君とこうしたかったんだ……。
――マリエーヌ……愛してる。
間もなく、僕の唇は――。
…………って……何をしているんだ!!?
その唇に触れる直前で我に返り、飛び退くようにベッドから距離をとった。
ドキドキと異常なまでに心臓が高鳴り、頭の中にまで響き渡る。
体は燃える様に熱く滾っている。引いていたはずの汗が全身から噴き出し、額から頬を伝い滴り落ちた。
初めての衝動に当惑する。
……いや、初めてではない。
以前にも、何度か同じ様な思いに駆られた事はあった。
ただ、あの時は体が動かなかったから……思うだけに留まっていた。
だが、今の僕は体が動く。
思いのままに……彼女に触れられる。
その体にも……髪にも……唇にも……己の欲のまま触れる事が出来てしまう。
だからこそ、無防備な彼女の姿を前に、自分が何をするか分からない。
必死に彼女から視線を逸らすが、部屋の中を纏う甘い香りにすら、内にはびこる欲情を掻き立てられる。
――駄目だ。ここに居ては……!
頭の中を支配する獣じみた思いを必死に抑え込み、足早に彼女の部屋を後にした。
廊下に出るなり、ハァッ……と熱の篭る息を吐き出す。
扉に背中を預け、そのままズルズルと床へへたり込んだ。
重たい頭を手で押さえながら、脱力し、項垂れた。
――危なかった……。あのままだと……僕は……。
その先を想像し、カァッと顔が熱くなる。
「~~~~~~!!」
再び頭を過る淫らな感情を振り払うべく、頭をわしゃわしゃと掻きむしった。
――駄目だ……頭を冷やそう。
立ち上がり、来た道を歩いて戻る。
しばらく歩き、彼女との距離が離れたからか、ようやく体の熱が引いていく。
自己抑制が出来なかった事を反省した矢先から、このザマとは、先が思いやられる……。
反省しつつも、ほんの少しだけ……残念な気持ちになっている事には気付かないふりをした。
最後に一度だけ、体中の空気を絞り出す様な溜息を吐く。
そして気を取り直し、冷静さを取り戻した頭でこれからの事を考える。
昨日、使用人の殆どを片っ端から解雇した。だからすぐにでも補充する必要がある。今までの様な貴族ではなく……立場を理解し、経験もある使用人を。
それに新しいシェフも……。
あとは……彼女への贈り物も沢山用意しなければいけない。
まだ夜は明けていない。
だが、今すぐにでも手を回しておかなければ間に合わない。
マリエーヌが目覚めるまでに――全ての準備を整えなければ。
――やる事は山積みだな。
だが、自然と口元に笑みが浮かぶ。
全てが彼女の為なのだと思うと、俄然やる気が漲る。
あの時とは違う。
僕は自らの力で、彼女の為に行動が出来る。
彼女の為に……出来る事は沢山あるんだ。
だから今度こそ、彼女を幸せに出来る……。
必ず、幸せにしてみせる……!
その決意と共に、歩む足に力を入れ、僕は再び廊下を走り出した。
――今の僕には、力も財力も地位も……何もかも揃っている。
だから、マリエーヌを幸せに出来るのだと。
そう確信していた。
だが……。
誰かを幸せにするというのは、そんな単純な事ではないのだと、僕はこれから思い知らされる事になる。




