64.記憶
それから、私達は行き交う人々にお祈り……見守られながら街デートを堪能した。
最初は、人々からの神を崇める様な視線が恥ずかしくて顔を上げられなかったけれど、それも段々と慣れてきた。
初めての街デートの時に行ったカフェで昼食を楽しんだ後、すぐ近くにあったお花屋さんに立ち寄った。
店の中に入ると、公爵様が展示してあるフラワーアレンジメントに興味深々な様子で色んな角度から見始めたので、その姿がなんだか微笑ましかった。
公爵様はすっかり私よりもお花に詳しくなっていて、中庭に植えていないお花をいくつか仕入れる話を店主と交わし始めた。
その間、私は店内に陳列されているお花を眺めて待っていた。
その時、一人のお爺さんが杖を突きながら、私の傍にやって来て声を掛けてきた。
「マリエーヌ様。お会い出来て光栄です」
ベージュ色の帽子を取り、それを胸に当てて一礼されて、私もとっさに頭を下げた。
顔を上げた身なりの良いお爺さんは、落ち着いた笑みを浮かべてこちらをジッと見つめると、柔らかい口調で話しかけてきた。
「公爵様には、常日頃から感謝しております。いつかお礼を申し上げたいと思っておりました。今日、こうしてお会い出来たのは、きっとマリエーヌ像への祈りが届いたのでしょう」
「……」
私が浮かべている笑顔が、少しだけ歪んだ気がした。
出来れば、その事は忘れていたかった……。
「すまない、マリエーヌ。待たせてしまったな」
「あ……いえ。それよりも公爵様、こちらの方がお礼を言いたいそうなのですが――」
公爵様とお爺さんが向かい合える様に、私が後ろへ身を引くと、お爺さんは少しだけ背筋を伸ばし、
「公爵様。この街に養老院を建てていただき、本当にありがとうございました」
そう告げて深々と頭を下げる老人から、深い感謝の意が伝わってくる。
養老院――年老いて、体が不自由になったり、病気等により自宅での生活が難しくなった高齢者が暮らす施設。
公爵様は慈善活動を多くしているらしいけれど、その一環なのだろうか。
「私の妻がそこでお世話になっております。出来る事なら、私が看てあげたかったのですが……私もこの通り、足が悪くて妻を看る事に限界を感じておりました。遠方の施設に妻を入所させるべきか悩んだ末、住み慣れたこの地を離れる覚悟をしていたのです。ですが、公爵様がこの街に施設を建てて下さったおかげで、妻との思い出が詰まったこの地を離れずに済みました。本当に、ありがとうございます」
そう告げながら、優しい笑顔を浮かべるお爺さんの目尻には涙が滲んでいた。
ちらりと公爵様の顔を見ると、少し呆ける様な眼差しでジッとお爺さんを見ていた。
公爵様の行動が、一組の老夫婦の未来を救っていた。
公爵様の償いは、ちゃんとその意味を成している……そう思うと、私の方が目頭が熱くなり泣きそうになった。
「テールさん。これ、いつものお花ですよ」
突然、店主が駆け寄って来て、真っ赤な薔薇の花束をお爺さん――テールさんに差し出した。
「ああ、いつもすまないね」
それを受け取ったテールさんは、愛し気にその花束を見つめて微笑んでいる。
その意味を察して、私はテールさんに近寄り声をかけた。
「もしかして、それ奥様に持っていかれるのですか?」
「ええ、そうなのです。妻はずっと薔薇が好きだったので」
「まあ……それは奥様も嬉しいでしょうね。愛する旦那様にこんな素敵な花束を貰えるだなんて」
「ははは……。と言っても、妻はもう、私の事を夫とは認識していないのですがね」
「え……?」
認識していない……それってどういう事かしら?
私が言葉を失っていると、公爵様の呟く声が聞こえてきた。
「痴呆症か」
「ええ、そのとおりです。脳を患いましてね。色んな事を忘れていく中で、段々と私の事も分からなくなってしまったようです」
「……」
言葉が出なかった。
かつて愛し合った人に忘れられる……そんな辛い事が起きる事に、ショックを隠せなかった。
それはつまり……公爵様が私の事を忘れてしまうという事と同じ。
私の事を忘れてしまった公爵様は、再びあの冷たい公爵様へと戻ってしまうのだろうか。
「ですが、この薔薇の花束を見ると、昔の私の事を思い出してくれる様で……。目の前にいる私の事は、ただの他人としか思っていないみたいですが、薔薇に向かって私の名前を呼んでくれるんですよ。私は妻に、薔薇の花束をよくプレゼントしていたので――」
そう言うと、テールさんは何かに気付いた様にハッとして顔を上げた。
「これはこれは、デートの邪魔をして申し訳ありません。それでは、私は失礼致します」
そう告げて、頭を再び深々と下げたテールさんは、花束を大事そうに抱えて店の外へと出て行った。
その後ろ姿を見つめながら感傷に浸っていると、公爵様が声をかけてきた。
「マリエーヌ。何を考えているんだ?」
「あ……いえ……私もいつか、公爵様に忘れられてしまうのかもしれないと……その事を想像してしまって……」
「……」
私の言葉を聞いた公爵様は、暫く沈黙した後に、何かを考える様に口元に手を当てた。
「テール……と言っていたな。あの男が、あの老婆の旦那だったのか……」
「……? 公爵様、先程の方を御存知なのですか?」
「ああ。前に養老院を訪ねた時に、『テール』という名を呼びながら、誰かを探す老婆が居たんだ」
「え……? それって、テールさんの奥様……という事でしょうか?」
「恐らくそうだろう。施設の人間の話によると、時々、自分の旦那の事を思い出して院内を歩き回る事があるらしい」
「……そうなんですね」
本当に二人は愛し合っていたのだろう。
離れて暮らす今も尚、お互いの事を想い合っている。
愛する奥様に会っても、自分を認識してくれないテールさん。
愛する夫に会いたいのに、会う事が叶わない奥様。
二人が再び、本当の意味で会える日は訪れるのだろうか。
「マリエーヌ。僕が思うには……いつか、愛する人を忘れてしまう事があっても、今までの記憶が消える訳ではない。記憶はずっと残っているんじゃないだろうか。何かのきっかけがあれば、きっと思い出せる。君が僕との記憶を思い出してくれたように……」
「……確かに、私の場合は車椅子がきっかけとなりました。きっと、車椅子姿の公爵様が、私の心に深く刻まれていたのだと思います。……じゃあ、公爵様が私の事を忘れてしまった場合、何をきっかけに思い出せるのでしょうか……」
「僕が君の事を忘れる筈が無い。と言いたいが、そんな根拠の無い言葉では安心出来ないだろうな」
確かに、公爵様が私を忘れるなんて想像出来ない。
テールさんと出会わなければ、その言葉できっと安心出来ていたと思う。
だけど、実際に起きている話を聞いた今は、公爵様の言う通り、忘れない、という保証はどこにもない。
愛する人に忘れられるという事は、誰にでも、起こりえる事だから。
心に隙間風が吹いた様な……そんな気持ちになっていると、公爵様の温かい手が私の手を握った。
「そうだな……例えば、君の手の温もりを感じる事が出来れば、僕の心に刻まれた、君と過ごした日々の記憶が思い起こされるだろう。君の香りや、優しい眼差し、息遣い……一つ一つが僕の記憶を刺激するだろう。街に出れば君との街デートを思い出し、中庭に出れば君と見た可憐な花々や空に円を描く虹を思い出す事だろう」
公爵様は、私の耳元に垂れ下がっていた髪の毛を、人差し指で掬って私の耳にかけると、愛しそうな眼差しを私に向けて微笑んだ。
「それに、例え僕が君の事を思い出せなくなったとしても、君の優しい笑顔を見れば、僕は何度でも恋に落ちるだろう」
物凄く自信満々にそう言う公爵様に、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……! それこそ、根拠が無い話ですよ」
「いや、僕としてはこれ以上確かな根拠は無いのだが」
「気持ちはとても伝わりました。ありがとうございます。公爵様」
まだ少し納得のいかない様子の公爵様は、ふむ……と何か考える様に口元に手を当てた後、その口角を上げた。
「では、僕達の心にもっと深く、二人が愛し合った記憶を刻み付けに行くとしようか」
……? それはどういう意味かしら?
公爵様に手を引かれて花屋を後にした私達は、再び馬に跨り、もっと先へ続く道へと進み出した。




