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62.二人の願い

 過去の記憶を思い出し、公爵様と向き合う私の瞳からは温かい涙が流れ、頬を伝って零れ落ちた。


 この涙の理由は何なのだろうか。


 あの日、自分が死ぬ間際に見た、公爵様の絶望する姿に対する悲しみからか。


 それとも、一度死んだ身でありながらも、公爵様と再び出会えた喜びなのか。


 公爵様と共に過ごした日々を思い出し、感極まったのか。


 今の私は、過去の自分と今の自分がごちゃごちゃに混ざり合って、頭の整理が追い付いていない。


 ただ、公爵様が私に伝えてくれた、『幸せだった』という言葉――それは私がずっと欲していた言葉だった。


「マリエーヌ!」


 その叫びと同時に、切なく顔を歪めた公爵様が、私の体を力強く抱きしめた。

 

「すまなかった……! あの時、僕は君を守る事が出来なかった……何も出来なかった……! 僕のせいで君を死なせてしまった……。君は僕に優しくしてくれただけなのに……全部……僕のせいなんだ……すまない……マリエーヌ……本当にすまない……!」


 公爵様の体は小刻みに震え、終わりの見えない謝罪を述べている。

 悲痛な叫びの様にも思えるその言葉から、公爵様が今まで、どれだけの罪の意識と後悔を積み重ねてきたのかが伝わってくる。


 私より一回りも大きい体に強く抱きしめられ、公爵様の顔を見る事は出来ないけれど、僅かに嗚咽する声が聞こえてくる。


 今なら分かる。

 あの日、公爵様の態度が突然変わった理由が――。


 高熱から目覚めた日、必死に私を探していた公爵様は、きっとあの時の記憶を思い出したからなのだろう。

 

 屋敷に侵入した人達は、公爵様の命を狙っていた。

 やっぱり公爵様も……あの後、殺されてしまったの……?

 そして――過去に戻ってきた……という事?


 とても信じられない事だけれど、あの時、確かに死んだ筈の私も、こうして生きている。

 本来ならば、馬車の事故で体が動かなくなる筈だった公爵様も、その事故を未然に回避して、自らの足で立っている。

 その事故で命を落とす筈だったジェイクさんだって、この世界では生きている。

 

 なぜ、そんな有り得ない奇跡が起きたのかは分からない……だけど、確かに未来は変わった。


 それなのに……一つだけ、変わらない事がある。


 今もまだ、涙を流し、自責の念に囚われたままの公爵様だ。


 きっと公爵様は、高熱から目覚めたあの日からずっと、自分の事を責め続けてきたのだろう。

 いや……もしかしたら、それよりもずっと前……体が不自由だった時からずっと、続いていたのかもしれない。

 公爵様は、私に沢山の愛を伝えてくれるようになったけれど、それと同じくらい、沢山の謝罪を告げてきた。

 私に冷たい態度を取っていた事を、後悔する様に何度も、何度も……。


 今の公爵様の姿は、あの時とは違う。


 体を自由に動かす事が出来るし、自らの足で立ち上がり、思いのままに歩き回る事だって出来る。

 言葉を発する事の無かった口で、沢山話しかけてくれるし、笑いかけてくれる。

 一度も呼んでくれなかった私の名前を呼んで、とめどなく愛を囁いてくれる。


 それに私達を取り巻く環境だって、あの時から大きく変わっている。


 私達を蔑んでいた使用人達は、あの屋敷の中にはもういない。

 今の使用人達は皆、私達を優しく見守ってくれている。困っている時は、手を差し伸べて助けてくれる。

 公爵領に住んでいる人達も、今の公爵様の事を慕っている。


 もう、私達を苦しめる人はこの世界にはいない。


 それなのに――公爵様は未だに苦しみ続けている。


 今の公爵様を苦しめているのは、他の誰でも無い――公爵様自身だ。


 この人は、一体どれだけ自分に罰を与え続ければ気が済むのだろう。


 今もまだ、私を抱きしめたまま嗚咽を漏らすその体に手を回し、公爵様の震える体をギュッと抱きしめ瞳を閉じた。


 公爵様と触れ合う体から、公爵様の心臓の鼓動が伝わってくる。

 ドクドクと……いつもよりも早い心音が、公爵様が確かに生きているのだと、教えてくれる。


 規則正しく奏でるリズムを聞きながら、私の口から言葉が零れた。


「良かった……公爵様が生きていてくれて」

「……? マリエーヌ……?」


 その言葉を聞いた公爵様は、体を私から少しだけ引き離した。

 ようやく見る事が出来た愛しい人(公爵様)の瞳には、まだ涙のかけらが残っている。

 切なげに眉尻を下げる公爵様に、私は自分の思いのままに口を開いた。


「私……ずっと、公爵様に生きてほしいと思っていました。ただ生きているだけじゃなくて、自らの意志で生きたいと思える様になってほしいと……。私はずっと、心身共に貴方の支えになりたいと思っていました。だけど、貴方が私の事でそれ程までに苦しむのならば……私達は出会わない方が良かったのでしょうか……」


 私の言葉に、公爵様は大きく目を見開き、赤い瞳を震わせた。


「……!!! それは違う!!! 僕達が出会わなければ……僕は……僕は……! ……すまない、マリエーヌ。君にとっては、僕と出会った事は不幸の連続だったかもしれない。……だが……僕は……君がいなければ……優しさを知る事なんて出来なかった。誰かに優しくされる事が、こんなにも心温まる事だったなんて、あの時の僕は知らなかった。それに……君のおかげで、僕は愛を知る事が出来た。人を愛し、愛される喜びを知る事が出来た……。全て、君が教えてくれた事だったんだ」

 

 公爵様は、私の肩にコツンと額を当てる。私の首筋を、公爵様の柔らかい髪の毛がくすぐる。

 再び顔は見れなくなってしまったけれど、公爵様の震える声が、耳元に響いてくる。


「だから、僕は何度人生をやり直したとしても、君との出会いを無かった事にはしたくない。たとえ、僕との出会いが、君にとって良くない事なのだとしても……僕は、君を手放したくはないんだ……」

「……公爵様。私も同じ気持ちです。私も、もし人生をやり直せるのだとしても、また公爵様に会いたいです。たとえその選択の先に――不幸な結末が待っているのだとしても……私は貴方と出会う事を選びます」

「マリエーヌ……」


 公爵様の顔が私の肩から離れ、再び泣きそうな瞳が私を見つめている。


 もう、公爵様にこれ以上、苦しんでほしくない。


 過去に戻った事により、私達の身に降りかかるはずだった不運な出来事は、全て起きる事無く幻となった。


 それなのに、あの出来事は、公爵様の心に消えない傷跡を残した。

 馬車に乗れなくなったのは、体が動かなくなる要因となった、あの事故のせいなのだろう。

 私が目の前で殺されてしまった哀しみも……悪夢として現れる程、心に深く刻まれているのだろう。


 だけど、二人で過ごしたあの日々は、悲しいだけの記憶じゃない。

 だって……公爵様は、幸せだったと言ってくれたのだから。


 私だって――。


「公爵様。私も、公爵様と共に過ごしたあの日々は……とても幸せでした。公爵様が一緒に居てくれたからです」


 そう告げると、涙で潤んだ赤い瞳が、信じられない事でも起きたかのように、大きく見開かれた。


「幸せだった……? 話す事も、笑いかける事も出来ない……何もしてあげられなかった僕と一緒に居て、本当に君は幸せだったと言うのか?」


 その問いに、私は二人で過ごしたあの日々を脳裏に思い浮かべた。

 そうすれば、答えは簡単に返す事が出来た。


「はい。たとえ言葉を交わさなくとも……公爵様が私を見つめる優しい眼差しから、公爵様からの愛を感じる事が出来ました。それに私も――貴方を愛していましたから。だから私は貴方と一緒に過ごせて幸せでした」

「……! それは……君も僕の事を……僕と同じ様に……愛してくれていた……?」

「はい。私も……心から貴方の事を愛していました。……私はちゃんと伝える事が出来たのに……こんなに遅くなってしまって申し訳ありません」


 そう告げると、公爵様はフルフルと首を横に振り、嬉しそうに微笑んだ。


「いいんだ。ありがとう、マリエーヌ。僕達は……あの時からすでに、愛し合っていたんだな」


 あの日々の中で、公爵様はよく私を見つめていた。その視線にドキドキしながらも温かい気持ちになっていた。

 いつからか分からないけれど、私達は自然と惹かれ合い、それが当たり前の様に愛し合っていた。


 こんな私達の愛の形を、理解してくれる人はいないかもしれない。

 それでも、あの時の私達は、確かに幸せだった。


「この記憶を思い出す事が出来て良かった。あの日々は、私にとっても大事な記憶だから――それに、貴方がこれ以上、一人で苦しまなくて済むから……。貴方には、心の底から笑っていて欲しいのです。私はそれをあの時……死の間際に、切に願っていましたから」

「願った……?」


 その呟きと同時に、神妙な面持ちになった公爵様は、少し考える様に視線を落とし、再び私に声を掛けた。


「マリエーヌ。もしよければ、君がその時願った事を教えてもらえるだろうか」

「え……? ……はい。もし公爵様に次の人生があるのなら、公爵様が心から笑える世界でありますように……そこで出会う誰かと愛し合い、幸せに暮らせる未来でありますように……そう願いました」


 一瞬、驚きの表情を見せた公爵様は、何かに納得する様に柔らかい笑みを浮かべた。


「……そうか……そうだったのか。君も僕と同じだったんだ。僕も、死の間際に願った。君を幸せにするチャンスをもう一度欲しいと……」


 公爵様も……?


「ずっと不思議だった。神は何故、こんなにも罪に汚れた男の願いを叶えたのかと。だが、その謎がようやく解けた。神は、僕の願いを叶えたんじゃない……君の願いを叶えたんだ。誰よりも優しくて、人を慈しむ心を持つ君だったから……。君が僕の幸せを願ってくれたから……この奇跡は起きたんだ」

「……! でも、もしそうなのだとしたら、どうして私も一緒に戻ってきたのでしょう……?」

「それはもちろん。僕の幸せは、マリエーヌと共に在る事だから」


 そう告げると、公爵様はとても愛しそうに私を見つめた。


 死ぬ間際に、お互いがお互いの幸せを強く願っていた――その想いが、この奇跡を起こしたのだろうか。


「それなら……私の願いはまだ叶えられていないみたいです」

「……? そんな事は無い。僕は今、君と一緒に過ごせてとても幸せだ。これ以上、何も望む事なんてない」


 公爵様は笑いながら言う。だけど、私はその瞳の奥に潜む哀しみを見逃さない。

 私はずっとその瞳から、公爵様の真意を読み取って来たのだから。


「公爵様。貴方はまだ、自分の事を許せず、自責の念に苛まれてるのではないですか?」

「……!!」


 その瞳が図星をつかれたかの様に大きく揺らいだ。

 顔を伏せた公爵様の口元が、悔しそうにギリッと歯を噛みしめるのが見えた。


「公爵様。もう、過去ばかり見るのはやめませんか? 過去を振り返るのは良い事ですが、過去に縋るのは良くありません」


 私の言葉に、公爵様は再び顔を持ち上げ、悲痛な表情で私を見つめる。


「だが……マリエーヌ……僕のせいで君は……」


 尚もまだ自分を咎める発言をしようとする公爵様の両頬を、バチンッ!と勢いよく両手で挟んだ。


「……マ……マリエーヌ……?」


 悲しみに歪んだ表情は、一瞬で唖然となり、ぱちくりと瞬きを繰り返しながら私を見ている。

 そんな公爵様の顔を、力強く見つめ、私ははっきりと伝えた。


「公爵様。しっかり見て下さい。私は今、公爵様の目の前に居ます。私は生きています。公爵様の頭の中で、もう私を殺さないで下さい」


 何かに気付いた様にハッとした表情を浮かべた公爵様は、再び切なげに顔を歪めた。

 その瞳から、再び涙が零れ落ちる。


「マリエーヌ……でも……僕は……君にあんなに酷い事を……」


 公爵様の両頬を伝う涙を、私はハンカチでそっと拭う。そして、微笑みかけた。


「前まで、私が公爵様に冷たくされていた時の事も、もう気にする必要はありません。今はそれ以上に温かい愛情に包まれて、私はとても幸せですから」

「……」


 それ以上、公爵様は何も言わず、ただ私を見つめて涙を流していた。


 あの時の私が願った、『公爵様が心の底から笑って過ごせる世界』。

 それが実現する日は、もう少し先になるかもしれない。


 公爵様が自分を責め続ける理由は、きっと私の事だけでは無いと思うから――。


「公爵様。貴方がどれ程の罪を背負っているのかは、私には分かりません。だけど、貴方はもう罰を受けてます。これからは、自分に罰を与えるのでは無く、償いをしていきましょう。今も尚、辛い思いや苦しい思いをしている人達を助けるのです。公爵様は、既にその償いを始めているではありませんか」


 私は公爵様の後ろにある車椅子に視線を向ける。

 公爵様は自分の経験を元に、今辛い思いをしている人達を助けようとしている。

 それは誰から言われた訳でもなく、公爵様が自ら進んで始めた事。


「それでも、貴方が罪の意識に縛られ、苦しめられるというのなら、私にもその苦しみを分けて下さい。貴方が辛い時には、私も傍に居させて下さい。もう、一人で苦しむのはやめてください」


 ずっと切なげに私を見つめるだけだった公爵様の口元が、少しだけ笑みを浮かべた。


「マリエーヌ……ありがとう。君はそうやって、いつも僕が欲しい言葉をくれる。……やはり君は僕の女神だ。いつだって、僕を絶望の淵から救い出してくれる……僕だけの女神なんだ」


 どこか吹っ切れた様な、公爵様の低く澄んだ声。


 いつの間にか、降っていた雨は止み、雲の隙間から覗く太陽が、地を照らしていた。


 その空を見上げ――。


「公爵様――」


 虹が出ています。と伝えようとした時、少しだけ身を屈めた公爵様の顔が私の真横……驚く程近くにきていた。

 あまりの至近距離に、ドキリと大きく心臓が跳ねて、顔が段々と熱を帯びてくる。


 公爵様はというと、私と視線を合わせるかの様に、虹がかかる空を、晴れやかな表情で見つめている。


「マリエーヌ。虹が出ている」

「え…ええ……。でも公爵様……なんでそんなに近くに……?」

「……ずっと、君と同じ世界を見てみたいと思っていたんだ。やはり、君と共に過ごすこの世界は、なんとも美しく素晴らしい所だ」

 

 そう言うと、公爵様は私に向かって穏やかな笑みを浮かべた。


「マリエーヌ。愛してる」


 もう、何度目になるかも分からない公爵様の愛の囁きに、相変わらず私の心臓の鼓動が喜ぶ様に加速する。


「アレクシア様。私も愛しています」


 そう告げると、公爵様の顔がゆっくりと近付き、私達の唇は惹かれ合う様に重なった。

 過去に伝えられなかったお互いの想いを埋めるかの様に……気持ちを確かめ合う様に……深く長い口付けを交わした。


 公爵様が、何度も私に愛を囁く理由は、きっとこれまでに伝えきれなかった分を返そうとしているだけではない。


 いつまた、伝える事が出来なくなるかも分からない事を知っているからだろう。


 それなら、私もこれからは――公爵様に、惜しむ事無く伝えていこう。


 この声が続く限り、周りの人達が呆れる程、公爵様に私の愛を伝え続けよう。



ここまでお付き合い頂き、本当にありがとうございます。


残り3話+エピローグとなります。

二人の結末を、最後まで見届けて頂けると嬉しいです!

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― 新着の感想 ―
[良い点] またまた号泣しています。2人共回帰していたなんてオドロキでした。そして相思相愛だった事をしれて良かったです。お互いの幸せを願ったから叶ったのでしょうか。この幸せが当たり前だと思わず日々過ご…
[良い点] マリエーヌしゃん、、あんた聖母や。 公爵が赦しをこう罪人にみえました。彼にとっては似たような心境だったと思いますが。
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