61.もう一つの願い
今の公爵様に、私がしてあげられる事は何なのだろう。
何をしてあげたら、公爵様は嬉しいと思うのだろう。
…………分からない。
だって私は公爵様の妻だけど、夫から名前すらも呼んでもらえた事がない。
夫婦なのに、他人の様な関係。
公爵様がどんな事が好きで、何を望んでいるかなんて分かる筈が無い。
だけど……今の公爵様は、私と似ている気がする。
きっと一人ぼっちで、孤独で寂しい気持ちを抱えているのだと思う。
それなら――私がしてほしいと思う事を、公爵様にしてあげよう。
そう思えば、公爵様と自然に接する事が出来た。
沢山お話しして、一緒に食事をするようになった。
食べてもらえるか心配したけれど、私が用意した食事はいつも残さず食べてくれる。
食欲はある様でホッとした。栄養を取り込むだけの注射をする必要もない。
この調子なら、体力も回復してくるだろうし、体の傷の治りも早い筈。
体の状態が良くなれば、あの素敵な中庭を一緒に散歩する事だって出来る。
そんな日が来るのが待ち遠しい。
ただ繰り返すだけだった意味の無い日々が、変わりそうな予感がした。
話はせずとも、公爵様のその瞳は私にしっかりと意思表示をしてくれていた。
傍に居る私に対して、警戒心を剥き出しにして睨みつけたり、目を合わせようとしない時もあった。それでも、料理を一口口にすれば、鋭い眼差しもすぐに解れた。
だけど、気を許してくれたのかと思えば、またすぐに壁を作る。それの繰り返し。
それでも、最初の様な虚ろ気な眼差しよりも、今の方がよっぽど生き生きとしている。
睨み付ける瞳も、以前の様な冷たさは感じない。
ずっと一緒に居れば、いつか心を開いてくれるのだろうか?
そんな日々の中で、私は熱を出して数日間寝込んでしまった。
熱にうなされながらも、気付けば公爵様の事を考えていた。
今、あの人はどうしているのだろう。
また使用人達に酷い事をされていないか。
もう、体も心も傷付いて欲しくない。
早く……あの人の元へ戻らないと――。
熱が下がり再会した公爵様は、まるで私を待っていたかの様に、今にも泣きそうな瞳で見つめていた。
私を心配してくれていたの……?
そんな都合の良い解釈をした。
だけどその日から、公爵様が私を見つめる瞳が本当に優しくなって――そんな風に見つめてくる公爵様に、少しだけドキドキした。
私を睨み付ける事も無くなり、いつも穏やかな表情を浮かべるようになっていた。
――二人で過ごす日々が当たり前になった。
今までよりもずっと夫婦らしい関係になったと、時々、複雑な気持ちにもなった。
だけど、何気ない日常が、公爵様と一緒なら心が満たされていった。
公爵様を癒したいと思っていたのに、私の方が公爵様に癒されていた。
ふとした瞬間に、幸せだなと実感する。
だけど、私が幸せにしたいのは公爵様。
公爵様。あなたは今、幸せですか?
心の中で、何度も問いかけた。
二人で過ごす日々は、ただ良い事ばかりでは無かった。
車椅子に座る公爵様を連れて廊下を歩いていると、侍女達は「役立たずの二人は暇そうでいいわね」と陰口を叩く。
だけどきっとその人達は気付いていない。
公爵様がその人達の事を、怒りを滲ませた眼差しで睨みつけている事を。
自分が侮辱されたからなのか、私が侮辱されたからなのか、その真意は分からない。
だけど、公爵様が怒ってくれるから私は気にしないでいられた。
突然、呼んでもいない人達がやって来て、私達の穏やかな日々を揺るがせた。
公爵様に心無い言葉を投げかけるスザンナ。
唯一の肉親であるのに、公爵様を気にする素振りも見せないレイモンド様。
言い返す事も出来ない公爵様を、言葉で傷付けようとする人達に苛立ちが募る。
すぐ目の前にいる公爵様を、一人の人として認識していない人達の方が、人の心を持っているのだろうかと疑いたくなる。
自分の中で、感じた事の無い怒りが沸々と沸き上がった。
まるで自分の言っている事が正しいかのように、公爵様を蔑ろにする人達に、私は声を張り上げ対抗した。
今までそんな風に怒りを露にした事は無かったけれど、ただただ悔しかった。
必死に生きようとする公爵様を、侮辱する人達が許せなかった。
ただ、公爵様に生きてほしい。
出来る事なら、幸せになってほしい。それだけなのに――。
どうして皆、邪魔をしようとするの?
レイモンド様との対話を終えてから、公爵様の様子がなんだかおかしい。
私と全く目を合わせてくれない。何度声をかけても、ずっと視線を伏せたまま、私の事を無視するようになっていた。
次の日には食事を拒絶するようになり、私はどうしたら良いのか分からなくなる。
その瞳から公爵様の真意を読み取りたいけれど、公爵様は私を見てくれない。
言葉は交わせなくても、公爵様の瞳を見れば、考えている事はなんとなく分かる様になっていたのに……。
今はもう、公爵様の事が分からない。
レイモンド様が、公爵様を施設に入所させようとした事がそんなにショックだったのだろうか……。
私がそんな事は絶対にさせないのに――。
私がずっと公爵様の傍に居ると言ったのに……やっぱり私では力不足だったの……?
もう、公爵様は、生きる気力を失ってしまったの……?
せっかく光り輝き出した瞳は、再び光を失い虚ろ気に変わってゆく。
公爵様は、もしかして死のうとしているのだろうか――不吉な予感がした。
一人で食べる食事は美味しくない。
今までは一人でも平気だった食事が、今は喉を通らない。
夜、眠る時は公爵様と過ごした一日を思い出し、幸せに浸りながら眠っていた。
だけど今はただ寂しいだけ。
込み上げてくる涙を止める術もなく、一人涙する夜。
公爵様も今、寂しい思いをしているのだろうか。
朝、公爵様の顔を拭くときに涙を流した形跡があったけれど、公爵様は一体、何を想って泣いていたのだろう――。
次の日も、その次の日も……公爵様の様子は変わらない。
だけど、もう限界だった。
このままだと、本当に公爵様が死んでしまう。
その姿を想像してしまった私は、食事を拒否する公爵様の意志を確認する事無く中庭へと連れ出した。
中庭の散歩をする時、いつも立ち寄る展望用の小屋の中に車椅子を止めて、公爵様に話しかけた。
「公爵様。もしも今、死にたいと思う程辛い思いをしているのであれば、それを無理に止める権利は私にはありません」
もし、本当に公爵様がそう思っているのだとしたら……レイモンド様の言う通り、私は公爵様の気持ちを勝手に解釈して分かったつもりになっていたのかもしれない。
私は、公爵様の心の支えになる事は出来なかった――そう認めるしかない。
だけどもし、そうでないのだとしたら――。
「だけど、公爵様が万が一にも私の事を思って死のうとしているのなら、それはハッキリ言って余計なお世話です」
私の言葉に、公爵様が少しだけ震えた気がした。
その反応に……答えを見つけた気がする。
思った通り……。公爵様は、私の事を想って死のうとしているのだと。
すかさず私は公爵様の目の前に移動して、その瞳をジッと見つめる。
だけどまだ目を合わせてくれない。
焦れた気持ちが、次の言葉を押し出した。
「それともいっその事、二人で一緒に死にましょうか?」
その瞬間、公爵様の瞳が大きく見開き、私を引き留めようとする様に、しっかりと目を合わせてきた。
「嘘です。やっと目を合わせてくれましたね」
ああ、やっぱりそうだったんだ。
瞳を見ればすぐに分かる。
私はずっとその瞳から、公爵様の心の声を聞いてきたのだから……。
優しい公爵様は、自分の事よりも、私の事を想ってくれていた。
その身を犠牲にしてまで、私の幸せを願ってくれていたんだ。
何も言葉は無くても、その切なげに私を見つめて涙ぐむその瞳から、公爵様が私を想う気持ちが伝わってくる。
その想いを――愛と呼ばずして、何と呼ぶのだろう。
公爵様は、私を愛してくれていた――。
涙を流し合う私達は、初めて本当の意味で心を通わせたような気がした。
二人で共に生きていこうと――言葉を交わさずとも、そう誓い合った。
これからもずっと一緒に居れば、私達はきっと幸せになれる筈だから。
そう思っていたのに――。
公爵邸の中が寝静まる深夜。知らない人達が屋敷の中へ入って来た。
公爵様の部屋へ行こうとしていた私は、咄嗟に身を潜めて彼らの話す声を聞いていた。
その内容から、公爵様の命を狙っている事を知り、私は公爵様の部屋へと急いだ。
駆け付けて来た私を見た公爵様は、少し怒っている様にも見えたけれど、気にせず布団を剥ぎ取り強引に車椅子へと座らせた。
だけどすぐに彼らはやって来た。
すでに血で赤く染まっている刃を公爵様に向けて迫って来る。
やめて……。
せっかく生きる希望を見出したこの人を。
殺さないで――!!
声にならなかった叫びと共に、地を蹴った私は公爵様の代わりに、その刃をこの身に受け止めた。
床に倒れる私の視線の先には、目を見開き絶望する公爵様の姿。
ああ、まただ。
せっかくその瞳に光が灯ったと思ったのに……なぜすぐに失われてしまうのだろう。
必死に生きようしているこの人の邪魔を、どうしてするの……?
ようやく手にしたと思った幸せも、瞬く間にすり抜けて零れ落ちていく。
多くを望んでいる訳じゃないのに。
ただ、平凡で穏やかな日々を二人で過ごせたらいい。
たったそれだけの事が、どうしてこんなにも難しいの……?
この世界は……この人が幸せになる事を、許さないのだろうか――。
「マリエーヌ!」
公爵様の哀しげな瞳が、必死に私の名前を呼んでいる様な気がした。
そう言えば、私はあなたに未だに名前を呼んでもらえた事が無いんだった。
あんなに一緒に居たのに、なんだか不思議な関係。
だけど――私達はきっと愛し合っていた。
そうだ……。
私も……公爵様を愛していた。
なんで伝えなかったのだろう。
私は話す事が出来るのだから、ちゃんと伝えられた筈だったのに。
今更それを言葉にしようとしても、もう私の口からは何も発せられない。
息が上手く吸えない。意識が途切れだす。
公爵様。私と一緒に過ごした日々、貴方は幸せでしたか――?
今にも泣きそうな公爵様に、そう問いかけた。
だけど――。
さすがにこの幕切れは悲しすぎるんじゃないかな……。
目を閉じ、最期の力を願いに込めた。
神様。
お願いです。
もしも彼が、新たに生を受けて、歩む未来があるのならば――。
彼が、心の底から笑って過ごせる世界にして下さい。
どうか、そこで出会う誰かと愛し合い、幸せに暮らせる未来でありますように。
薄れゆく意識の中で、そう強く願った。




