59.ずっと伝えたかった言葉
公爵様は車椅子へと歩み寄り、ゆっくり腰を下ろすと、備え付けられている足台の上に足を乗せた。
車椅子に座っている公爵様の姿を目の当たりにして、ますます胸が締め付けられる様な苦しさに陥り、自分の胸元に手を添えた。
その手からも、心臓が痛いほど脈打っている振動が伝わってきて、なんだか落ち着かない。
だけど、車椅子に座る公爵様の姿から、目を逸らす事は出来なかった。
やっぱり……私はこの姿を見た事がある。
私が公爵様を見つめたまま、動く事も出来ずに佇んでいると、公爵様が穏やかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「マリエーヌ。すまないが……少しだけ押してもらえるだろうか」
「え……? あ……はい。分かりました」
落ち着いた声で、優しく話しかけてくる公爵様の声を聞いて、少し我に返った。
心の動揺を公爵様に悟られないようにと、なんとか笑顔を作って返事を返し、車椅子の後ろに回り込んだ。
車椅子の手押しハンドルに手をかけ――。
ドクンッ
「……!?」
今度こそ、ハッキリと心臓が高鳴った。
思わずハンドルを手放し、一歩後ずさる。
何? さっきから一体何なの……?
この胸のざわつきも……。
泣きたくなるくらい切なく込み上げてくるこの想いも……。
さっきから何度も脳裏に浮かぶ、少しやつれた公爵様の虚ろ気な顔も…。
こんな公爵様の姿なんて知らない。
頭の中の公爵様は、なんでそんなに悲しげな顔をしているのだろう。
分からない。何もかも。
だけど、その答えを――私の心が、強く求めている様な気がする。
再び一歩踏み出し、目の前のハンドルをしっかりと握ると、私は車椅子を押してゆっくりと前へ歩き出した。
カラカラカラカラ……。
車椅子の車輪が回る音が、耳に響いてくる。
うるさい程高鳴っていた心臓も、その音を聞いていると次第に落ち着きを取り戻しだし、いつの間にか穏やかな気持ちへと変わっていた。
カラカラカラカラ……。
何処までも続く晴天の下、静かな中庭の中で、車椅子の車輪が回る音だけが奏でられる。
体を撫でる様なそよ風が心地良く流れ、それに合わせて草花がザァザァと揺れ動いている。
「風が気持ちいいですね」
そう声を掛けて、車椅子に座る公爵様と共に、私は中庭の通路をゆっくりと進み始めた。
***
カラカラカラカラ……。
晴れた日は、毎日の様にこうして中庭を散歩しているけれど、そこに芽吹く花々は、いつも違う景色を私達に見せてくれる。
昨日は何の花を見たんだったっけ……?
そういえば、チューリップの蕾がもうすぐ開きそうだったわよね。
目の前の公爵様に視線を向けると、いつも被っている筈の帽子が無く、代わりに公爵様の白銀色の髪がサラサラと風にそよいで靡いている。
「あれ……? ごめんなさい。今日は帽子を忘れてしまったみたいです」
そう話しかけるけれど、もちろん公爵様からは何の反応も返ってこない。
私は自分が被っている帽子を取り、
「公爵様、少し失礼しますね」
そう言って、公爵様の頭にそっと被せた。
女性用の物だから、可愛いレースや花飾りが付いているのが申し訳ないけれど、公爵様が眩しい思いをしない事の方が大事。
どうせ私達の事なんて、誰も見ていないし。
それよりも、こんな華やかな帽子……私、持っていたかしら?
少しだけ違和感を残したまま、目的の場所を目指して前へ進んで行く。
到着した花壇は、チューリップの苗が規則的に並んでいる。まだ蕾の状態が多い中で、1つだけ赤い花びらを開花させたものがあった。
「公爵様。チューリップのお花が咲きましたよ」
花壇の前に車椅子を止め、公爵様の隣にしゃがみ込み、帽子の下にある顔を覗き込む。
公爵様は咲いているチューリップに視線を向けたまま、目を細めている。
その反応に、私も嬉しくなる。
言葉は交わせなくても、公爵様は私の言葉にしっかり反応を示してくれる。
嬉しい時はこうして目を細め、驚いている時は少し目を見開く。
怒っている時は鋭く尖ったり……でもそれは私にではなく、私の事を蔑む使用人達に向けられる事が多い。
公爵様が私に向ける視線はとても柔らかくて温かい。
「もうすぐ他の蕾も咲きそうです。満開になるのが楽しみですね」
そう伝えると、公爵様は私の方へ視線を移し、目を細めた。
その時、突然日が陰ると、ポツッ……と、手に冷たい水滴が落ちて来た。
空を見上げると、いつの間にか分厚い雲が太陽を覆い隠している。
続けてポツリ……ポツリと雨が降り出す。
私は急いで立ち上がり、公爵様が座る車椅子の後ろに移動してハンドルを握った。
「公爵様、少し急ぎますね!」
後ろから声を掛け、公爵様がずり落ちてしまわない様にと、その肩を手でしっかりと押さえながら早足で小屋へと向かった。
強くなり始めた雨にさらされながらも、なんとか小屋へと到着した私は、ポケットからハンカチを取り出し、公爵様の頬の水滴を拭った。
だけど、それが雨にあたって濡れた訳では無いのだと、すぐに気付いた。
被っている帽子が、顔にあたる雨を遮ってくれていた筈だから。
公爵様の頭から帽子を取り外すと、その潤んだ赤い瞳から涙が伝っていた。
私が拭いたのは、公爵様の瞳から流れ落ちてきた涙だった。
「公爵様……どうかしたのですか? 何か悲しいのですか?」
そう問いかけて、公爵様の瞳をジッと見つめる。
もちろん、公爵様は何も言わな――。
「ありがとう、マリエーヌ」
言葉を紡ぐ筈の無いその口が、はっきりとそう告げた。
……え……?
公爵様が……喋った……?
「公爵様……? なんで……喋れるのですか?」
…………いや、違う。
おかしいのは私の方だ。
なんで私は、公爵様が喋れないのだと勝手に思っていたの……?
すると、公爵様の手が動き、服の懐に手を入れて白いハンカチを取り出した。
優しい笑みを浮かべて、雨に濡れた私の頬を慈しむ様に拭った。
その姿に、再び違和感を覚える。
「公爵様……。なんで……動けるのですか……?」
当たり前の事が、当たり前じゃないような気がして、私の口が勝手に言葉を発していた。
いつからか、私の瞳からはポロポロと涙が零れ落ちている。
何故泣いているのか分からない。だけど、悲しいから涙を流しているのではない、という事だけは分かった。
公爵様は、私の両頬を伝う涙をハンカチで交互に拭いてくれる。
その時、ハンカチに施された赤い刺繍に気が付いた。
この刺繍……私がプレゼントしたハンカチ……。
それが自分が施した物だと理解すると、不思議な感覚は消え去り、一気に現実に引き戻された様な感覚になった。
私は一体、さっきから何を言っていたの……?
公爵様が動けるのは当たり前の筈なのに。
まただ。
自分の中にもう一人の自分がいる様な……だけど、その理由が、もう少しで分かりそうな気がする。
明らかにおかしい発言を繰り返す私に対しても、公爵様はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべて落ち着いている。
その口元がゆっくりと開いた。
「動けるようになったんだ」
そう言うと、公爵様は車椅子の足台から足を降ろし、地に足を踏みしめてしっかりと立ち上がった。
公爵様が立ちあがる姿なんて、何度も見てきた。
その筈なのに――その姿が、まるで有り得ない奇跡が起きたかのようで、感動して心が震えた。
「マリエーヌ。君にずっと伝えたかった事があるんだが、聞いてもらえるだろうか」
公爵様は、しゃがみ込んだまま見上げる私に手を差し伸べた。
その手を取り、私もゆっくりと立ち上がり、公爵様と向き合った。
公爵様は私の手を握ったまま、目を細めて愛しそうに私を見つめて口を開いた。
「僕の体を拭いてくれてありがとう。君の手は誰よりも温かくて、僕の冷え切った心までも温かくしてくれたんだ」
突然、身に覚えのない事に対するお礼を告げられて、思わず首を傾げた。
公爵様の体を……私が?
そんな覚えはない。
だけど、ない筈……なのに……何故か、経験した事のないその光景が頭を過った。
私を優しく見つめたまま、公爵様は続けた。
「僕と一緒に食事をしてくれてありがとう。君の作る料理はいつも温かくて美味しい。君が一緒に食べてくれたから、誰かと食べる料理は、より一層美味しく思える事を知る事が出来た」
公爵様との食事……それはいつもの事だけど……私が料理を作ったのは一度きりの筈。
それなのに……あの厨房では作った事が無い料理を作る光景が頭をかすめた。
「僕を部屋の外へ連れ出してくれてありがとう。目が覚めた時、空が晴れて嬉しいと思えるのは、君と中庭をこうして散歩出来るからだ。君と一緒に見る花々は、一際美しく思える。だが、僕が一番美しいと思うのは、いつだって君だった」
最後の言葉が公爵様らしくて、思わずクスッと笑ってしまった。
だけど、いつも中庭へ連れ出してくれるのは公爵様で、私は――
「公爵様、今日は天気が良いので中庭へ散歩に行きましょうか」
――!!?
存在しない筈の記憶の中で、私が声をかけたのは車椅子に座る公爵様だった。
「いつも僕に優しく接してくれてありがとう。
沢山、声を掛けてくれてありがとう。
どんな時も、僕を守ってくれてありがとう。
いつも僕の傍に居てくれて、ありがとう」
公爵様の言葉と共に、私の中でぼんやりとしていた光景が、はっきりとした姿を現し出していく。
私と共に過ごした、車椅子に座る公爵様の姿が――。
「君と共に過ごした日々は、とても幸せだった。君のおかげで生きていて良かったと、思う事が出来たんだ」
「幸せ……? 公爵様、あなたは……あの時、幸せだったんですか?」
縋る様に私が問いかけると、公爵様は一瞬驚いた様に目を見開き、すぐに幸せそうに笑った。
「ああ。君が居てくれたからだ」
………………良かった。
公爵様が幸せで……。
私がやってきた事は、ちゃんと意味のある事だった……。
頭の中で、ぼんやりとしていたもの――それを、今は鮮明に思い出す事が出来る。
公爵様と共に過ごしたあの日々を――。
そしてあの時、私が願った事を――。




