58.車椅子
青々とした晴天の下、昼食を終えた私と公爵様は、手を繋いで中庭へと向かった。
天気が良い日は、こうして二人で中庭を散歩する事が日課になっている。
今日のように日差しが強い日は、公爵様からプレゼントされた、つばの長い帽子を被るようにしている。
前に、公爵様にも帽子を勧めた事があるのだけど、私の顔を見る妨げになるからという理由で帽子を被らなかった。
中庭に咲いているお花を見に行く事が目的の筈なのに、私の顔を見る事の方が大事なのかと思うと、なんだか嬉しくて、それ以上何も言えなくなってしまった。
外へ出て、中庭に続く通路を並んで歩いていると、背後から聞き覚えのある音が近付いてきたので、立ち止まり振り返った。
視線の先に居たのはジェイクさん。気になったのはその手元――ジェイクさんが押していた物だった。
……車椅子?
「公爵様、ちょうど良い所に。こちら、改良を依頼していた車椅子の試作品が届きましたが、いかが致しましょうか?」
「ああ、後で見るから執務室の方に運んでおけ」
「かしこまりました」
「あ……」
立ち去ろうとするジェイクさんに、私が思わず声を出してしまうと、その動きがピタリと止まった。
私が車椅子に視線を落としているのを見て、ジェイクさんが声を掛けてきた。
「……マリエーヌ様。もしかしてこれが気になりますか?」
「えっと、少しだけ……。公爵様は車椅子を作られているのですか?」
「ああ。今の車椅子は使い勝手があまり良くないからな。既製品を改良して、安全性を確認している所なんだ」
「へえ……そうなんですね」
また公爵様の意外な一面を発見した気がして、少し嬉しい。
私が車椅子に近寄り、何が違うのだろうと思いながら見ていると、ジェイクさんが身をかがんで話しかけてきた。
「公爵様は最近、体が不自由な人達を支援する事業に力を入れているのです。と言っても、殆ど慈善活動に近いですが……車椅子の他にも義手、義足、補聴器など、身体弱者と呼ばれる人へ向けた補助器具の開発も進めていますし、その人達が住める施設も――」
「ジェイク。その言い方はやめろ。例え体に不自由があっても、懸命に生きている人間に弱者という言葉は似合わない」
「……おっしゃる通りです。申し訳ございません」
公爵様の指摘に、ジェイクさんは一瞬戸惑う表情を見せながらも、素直に頭を下げた。
それは以前の公爵様なら、絶対に言わない言葉だった筈。
本当に、公爵様は優しくなった。
その優しさは、今は私だけではなく、公爵領内で暮らす人々にも注がれている。
領民から恐れられていた公爵様だったけれど、今は領民を愛し、愛される公爵様と言われる程になった。
そんな人が私の夫だと思うと、とても誇らしく思える。
再び車椅子に視線を移すと、手すり部分の下に、見慣れないレバーの様な棒が付いているのが気になった。
「このレバーはなんですか?」
私の問いかけに、ジェイクさんが車椅子に近寄り、そのレバーに手をかけた。
「ここを上に引くと……金具が外れてこんな風に手すりが外れるのです」
ジェイクさんがレバーを引くと、手すりの下部で固定されていた箇所が外れ、手すりが上部へ持ち上がった。
「わあ……凄いです! これなら車椅子へ座る時に、抱える人の負担が軽減されますね!」
私が目を輝かせながら感心していると、公爵様が意味深に私を見つめて口を開いた。
「……マリエーヌ。君は今までに、体が不自由な人の世話をした事があるのか?」
「はい。私のおばあ様が家で寝たきりになっていたので……と言っても、お世話をしていたのはお母様で、私はそのお手伝いをするくらいでしたけど」
「なるほど……そういう事か……だから君は――」
「……?」
何かに納得する様な表情を見せた公爵様は、口元に手を当てて何か考えているみたい。
暫くして、その凛々しい顔を上げた。
「マリエーヌ。ちょっとこれに座ってみてくれないか?」
「え……? 私がですか?」
「ああ。座り心地を確かめて欲しいんだ」
「……分かりました」
私は車椅子の前に立ち、その座面にゆっくりと腰を下ろした。
「わぁ……凄く座り心地が良いですね!」
「ああ。座面にもクッション性が高い材質を使用しているからな。長時間座っていても疲れづらい。動いた時の振動も軽減される様にしているんだ」
そう言うと、公爵様は私の後ろに回り込んだ。
「よし、じゃあ少し動いてみようか」
「え!? 動くのですか!?」
「もちろんだ。動いた時の乗り心地も確かめなければな。ジェイクは先に戻っていい。これは僕が後で運んでおこう」
「かしこまりました」
ジェイクさんはペコリと一礼すると、すぐに踵を返して去って行った。
「でも……きっと重たいですし……」
「マリエーヌは羽が生えているかの様に軽いと、前にも言った筈だ」
「そ……そんな事もありましたね……」
それは初めての街デートの時、私を抱き抱えた公爵様が言ったセリフだった。
あの時の事を思い出すと、今でも少し恥ずかしい。
だけど、公爵様と共に過ごした一つ一つの出来事が、今の私には大切な思い出となり残っている。
「さあ、行こうか」
そう言うと、公爵様は私の座る車椅子をゆっくりと押し始めたので、私も咄嗟に身を引き締めた。
カラカラカラ……
車椅子の車輪の音が耳に響き、その振動が体に伝う。
だけど、座面のクッションが振動を和らげているおかげで、不快感はない。
「マリエーヌ。乗り心地はどうだ?」
背後から、公爵様の穏やかな声が聞こえてくる。
「凄く良いです。公爵様の優しさが込められた、とても素敵な車椅子が出来上がりましたね」
「そうか。君にそう言って貰えると嬉しいよ」
公爵様が歩く速度もいつもよりゆっくりで、慎重に歩いているのが分かる。
体を撫でるそよ風が気持ち良い。
地に視線を落とせば、今まで気付かなかった様な小さなお花が咲いているのを見つけた。
見上げれば、いつもよりも空が高くて、自分がちっぽけな存在に思える。
「不思議ですね……見慣れている中庭なのに、別の場所にいる感じがします。視点が変わると、こんなにも目に映る光景が違うんですね」
「ああ。僕も同じ事を思ったよ」
「……公爵様も、車椅子に乗って見られた事があるのですか?」
「ああ。結構前にだが」
「そうなんですね。公爵様と車椅子って、なんだか――」
不思議な組み合わせですね……そう言おうとして、言葉が出なかった。
公爵様が車椅子に座っている姿を想像したからだ。
何故か……その姿に、見覚えがあった。
「マリエーヌ?」
「あ……いえ……。私、何故か公爵様が車椅子に乗っている姿を見た事があるような気がして……不思議ですよね。有り得ない事なのに」
「……」
その時、車椅子の動きがピタリと止まった。
「……? 公爵様?」
振り返ると、公爵様の表情からは笑顔が消え、何かを思い詰める様な表情を浮かべている。
その口がゆっくりと開き、いつになく真剣な口調で話し始めた。
「マリエーヌ。これはもしもの話なのだが……」
「……?」
「もし……僕が君に冷たくしていた頃の記憶を消す事が出来るのだとしたら……君はその記憶を消したいと思うだろうか?」
「記憶を……ですか?」
冷たかった頃の公爵様の記憶を消す……?
確かに、私にとって、あの時の公爵様との記憶は良いと言えるものでは無い。
だけど……記憶を消したいかと言われれば……。
「いえ……思いません」
「……それは何故だ? 君にとっては、辛い記憶でしかない筈だろう?」
「はい。でも……公爵様は言いました。あの時の公爵様も、間違いなく自分自身だと。それなら、私は公爵様との記憶を……例え、それが辛いものなのだとしても、忘れたいとは思いません」
「……」
以前の公爵様の事を思い出すと、今もまだ胸が締め付けられる様に痛む。
私を無視し、睨み、冷たく扱う冷酷な公爵様。
だけど、公爵様はその事についても、私に誠意をもって謝ってくれた。
むしろ、今では公爵様の方がその事に苦しんでいる様にも思える。
人は誰でも過ちを犯す事がある。私だってそうだった。
だけど、その過ちがあるからこそ、成長出来る事だってある。
たとえ記憶を消す事が出来たとしても、過去に起きた出来事を無くす事は出来ない。
それならば、過去を受け止めて、その過ちを繰り返さない様に未来へ繋げる事が大事なのだと私は思う。
公爵様もきっと、自分の過ちを後悔したからこそ、今の優しい公爵様があるのだと思っている。
そういう思い出も全て、公爵様と共有していきたい。
「今はまだ、辛い記憶だとしても……もっと月日が流れて、いつか『そんな事もあったよね』って笑い合える日が来るかもしれません。私は公爵様と過ごした日々を、何一つ失いたくはありません」
「……そうか」
そう呟き、少しだけ項垂れた公爵様は、柔らかい笑みを浮かべて顔を上げた。
「僕も同じだ。マリエーヌと共に過ごした日々は全て、僕にとって何物にも代えがたい大事な記憶だ」
清々しくそう述べると、公爵様は私の前に歩み寄り、手を差し伸べた。
「マリエーヌ……今度は、僕が車椅子に座ってもいいだろうか」
「え……? あ、はい」
私が公爵様の手を取り車椅子から降りると、今度は公爵様が車椅子の前に立ち、目の前のそれと向き合った。
ジッと車椅子を見つめるその表情は、まるで懐かしい友人と再会したかの様に、柔らかい笑みを浮かべていた。




