57.許せない人物 ※公爵視点
公爵邸の地下に設けられた、極一部の人間しか存在を知らされていない隠された部屋――。
「……」
無言で佇む僕の目の前には、椅子に両手足を縛られたまま、見るも無残な姿になった人間の亡骸がある。
終わった……。
もう……これで最後だ――。
返り血で真っ赤に染められた僕の手からはナイフがすり抜け、カランッと音を立てて床に落ちた。
「公爵様……これはまた……派手にやられましたね」
僕の背後から、呆れ気味に呟くジェイクの声が聞こえてくる。
「……後始末は頼んだ」
「はぁ……分かりました。しかし今回は少々手荒だったのでは……? よっぽど強い恨みでもあったのでしょうか?」
「……」
「……まあ、言いたくなければ無理には聞きませんが。ただ、今後はこの様な事はもう――」
「分かっている。この部屋を使うのは今日で最後だ。諸々片付けて誰も立ち入れないようにしておけ」
「え……? よろしいのですか?」
「ああ」
もう、血に汚れた手でマリエーヌに触れたくは無い……。
踵を返し、すれ違うジェイクと目を合わせる事無く、血塗られたその部屋を後にした。
返り血を浴びた体や髪の毛を念入りに洗い流し、寝間着に着替えて自室へ戻った僕は、倒れ込む様にベッドに横たわった。
疲れたな……。
身を預けている冷たいシーツが、火照る体の熱を溶かしていく。
一時間程眠れば、夜も明けるだろう。
少しでも眠ろうと、目を閉じれば体に纏わりつく血の香りが鮮明になっていく。
どれだけ洗い流したとしても、一度染み付いてしまった臭いはなかなか落ちてはくれない。
マリエーヌに会う前に、もう一度体を洗った方が良さそうだ。
あの男の返り血だけではない。かつてあの部屋で血を流した多くの人間の残り香が、いつまで経ってもあの部屋にこびりつき纏わりついている。
僕に敵意を向ける人間、裏切り者達を縛り付け、情報を吐かせる……あの部屋はそういう場所だった。
だが、中には口を噤んだまま息絶えた者もいた。
はぁ……と深い溜息を吐いて仰向けになり、見慣れた天井を見つめた。
僕を殺そうとしていたあの神父は、孤児院を営みながら路頭に迷う孤児達を引き取り育てていた。
だが、表では里親が見つかったと嘘を吐き、裏では人身売買する輩に高値で売れそうな子供を売り渡していた。
三年前、その現場に踏み込んだ僕は、二度と神に祈る事が出来ない様にと神父の片腕を切り落とした。命を奪わなかったのは、その場にまだ幼い子供が居たからだ。
自分を売ろうとした神父の服を掴み、泣きながら体を震わせ怯える子供を前に、僅かに残っていた僕の良心が最後の一振りを押し留めたのだろうか。
あの時の僕に、そんな心が本当にあったのかは定かではないが……。
その後、駆け付けて来た治安部隊に神父の身を預けたが、途中で奴は逃げ出し、領地内から姿を消した。
どうせ何処かで野垂れ死ぬだろうと思っていたが、まさか今頃になって僕に復讐する機会を伺っていたとはな。
今回も、奴は僕の殺害を目論んでいた。
依頼は承諾されなかったが、執念深い奴ならそれで諦めはしないだろう。
だからこそ、尚更生かしておく訳にはいかなかった。
僕の弱点であるマリエーヌの存在を知られたら、奴が彼女を狙うのは容易に想像出来た。
いや……そうでなくとも。
僕は奴らを誰一人、生かしておく事など出来なかっただろう。
これまでにも、僕はこの手で多くの人を殺めてきた。
戦場で対峙した敵国の人間、罪を犯した人間、僕を殺そうとした人間……人を殺めるにはそれなりの理由があった。
だが……中には不当な罰を与えた事案も確かにあった。
以前の僕は、人の命を奪う事に何も感じなかった。
罪を犯した人間に罰を与えるのは当然の事。
それに生きている人間が一人減ったところで何も変わらない。
その人間の代わりなど、いくらでもいるのだから――そう思っていた。
だが今は違う。
誰も、代わりになる人間などいない。
失われた命は、もう二度と息を吹き返す事はない。
その命に宿っていた心と共に、儚く消えてゆくのだ。
一人の命の重みというものを、僕は知った。
僕が殺めた人達の裏側では、一体どれだけ多くの人達が嘆き悲しみ、涙していたのだろうか。
マリエーヌを失った時の僕と同じ様に――。
だが、その苦しみを知っても……奴らだけはどうしても許せなかった。
あの時、マリエーヌを殺した奴らを――。
その怒りが、再び僕に人としての感情を失わせた。
尽きる事無く込み上げてくる激しい殺意を抑える事など出来なかった。
ただ殺すだけでは足りない。
あの時のマリエーヌの苦しみ……恐怖……無念……何倍にもして奴らに与えてやりたい。
狂気じみた思いのままに、復讐の刃を奴らに刻み続けた。
だが、それももう終わった。
これ以上、この手を血で汚す必要は無い。
これからは……マリエーヌと共に生きていく事だけを考えて――。
閉じた瞼裏に映し出されるのは、あの時のマリエーヌの姿。
血を流し、息絶えた彼女の――。
ズキンッと胸が酷く痛み、再び狂おしい程の怒りの感情が僕の頭の中を覆い尽くす。
もう、憎むべき相手はこの世に存在しない。その筈なのに――。
……いや、一人だけいる。
誰よりも許す事が出来ない人物。
その人物は――自分自身だ。
あの時、目の前で殺される彼女を、僕はただ見ている事しか出来なかった。
彼女が殺される要因を作ったのも僕自身だった。
僕と一緒にならなければ……彼女は死ぬことなんて無かった。
僕なんかに彼女の心が傷付けられる事も……。
僕と出会わなければ……優しい彼女ならきっと、誰かに心から愛され、結婚し、幸せに暮らしていたかもしれない。
そして僕はきっと……動かなくなった体と共に、あの地獄の様な日々の末、孤独な中で死に絶えていただろう。
それが、本来あるべき姿だった筈だ。
それなのに――。
どうして神は、こんな罪深い僕の願いを聞き入れ、叶えたのだろうか――。
いつの間にか眠っていた。
目を開ければ、レースのカーテン越しにうっすらと日の光が照らし出されている。
ゆっくりと起き上がり、もうすぐマリエーヌに会える喜びが、僕の冷たくなった心に温もりを灯した。
マリエーヌと一緒に居る時だけは、苦しみは影を潜め、幸せな気分に浸っていられる。
だが、ひとたび一人になれば、瞬時に彼女を失った過去へと引き戻される。
奴らを全員亡き者にすれば、この思いも晴れるのだと思っていた。
だが、今も何も変わってはいない。
この体はもう動かす事が出来るのに……。
今もまだ、僕の心はあの過去に縛られたまま動けずにいる。
マリエーヌ……。
彼女の優しい笑顔を思い浮かべれば、少しだけ気持ちが楽になる。
最近のマリエーヌの様子を見ていると、あの時の記憶を思い出しかけている様にも見える。
何か大きなきっかけがあれば、記憶が戻る可能性もあるのかもしれない。
だが……彼女にとって、あの記憶は思い出すべきものなのだろうか。
あの時、マリエーヌは殺された。
身を斬られる痛み、死の苦しみを彼女に思い出させたくはない。
彼女と過ごした日々の思い出は、僕だけが覚えていればいいんだ。
だが――時々、少しだけ寂しさを感じてしまう事もある。
悲しい結末で終えてしまった僕達だったが――。
二人で過ごしたあの時間――君は幸せだったのだろうか。




