55.傍に居てくれてありがとう
私の体を拭き終えたリディアが部屋から出て行くと、入れ替わりでどこかぎこちない公爵様が戻って来た。
顔を見合わせた私達に気まずい空気が漂い始めると、「すまない……不純な事を考えてしまった」と深刻めいた顔で正直に告げられ、思わず吹き出してしまった。
私が笑っていると、公爵様もホッとした様にいつもの柔らかい笑みをうかべ、気まずさは一転して和やかな空気へと切り替わった。
その後、遅めの昼食が部屋に運ばれ、私に用意されていたおかゆを公爵様が食べさせてくれた。
公爵様の昼食はというと、余っていた私の手料理を、味わう様にゆっくりと食べていた。
それからも、公爵様は片時も私から離れる事無く、氷嚢の番をしたり、ベッドの周りに花瓶を並べてくれたり、ただ手を繋いで傍に寄り添ってくれたり。
いつも優しい公爵様だけど、今日はそれ以上に包み込む様な優しさで満ち溢れている。
公爵様の誕生日だというのに、私の方が何から何までもてなされてしまった。
「公爵様。また今度、誕生日のやり直しをしましょうね」
「ああ、ありがとう。また君の手料理が食べられると思うと、今から楽しみで堪らないな」
「ふふっ……今度こそ当日に失敗しない様、ちゃんと練習しておきますね」
「じゃあ、その練習に僕も付き合おう」
「それは駄目です。公爵様に美味しい料理を食べて頂く為の練習なのに、それでは意味がなくなってしまいます」
「そうなのか。だが、君が作った料理を誰かが食べるとなると……その人物に嫉妬してしまいそうだな」
「ふふふっ」
ここ数日、公爵様は食事の時間以外は執務室に閉じこもり、夜遅くまで仕事をしていた。
今日一日、私とずっと一緒にいられるようにする為に。
それなのに、私が体調を崩してしまうなんて……本当に情けない。
こうして二人でお話しするのも楽しいけれど、せっかくだから一緒にお出かけもしたかったな。
それも次のやり直しの時のお楽しみ、という事にしておこうかしら。
「公爵様は、どこか行きたい場所はありませんか?」
「行きたい場所?」
「はい。実は今日、公爵様とお出かけしようと思って馬車を用意してもらっていたのです。それも行けなくなってしまいましたが……次のやり直しの誕生日には、公爵様の行きたい場所へ行きましょう」
「馬車……そうだったのか」
……あれ?
明るい話題の筈なのに、何故か公爵様の表情が一転して曇りだした。
「……公爵様?」
「ああ、すまない。行きたい所……だったな」
そう言う公爵様の表情はどこか虚ろで、顔色も真っ青になっている。
「公爵様? 大丈夫ですか? 顔色が良くないです……もしかして私の風邪がうつったんじゃ――」
「いや、違うんだ。もう大丈夫だ」
公爵様は頭を手で押さえると、俯いたまま小さく息を吐き出し顔を持ち上げた。
確かに、顔色は先程よりも良くなってはいるけれど、一体公爵様の中で何が起きているの?
心配する私を安心させる為か、公爵様は僅かに笑みを浮かべ、繋いでいる私の左手を優しく握った。
そして神妙な面持ちになると、私を見つめたまま口を開いた。
「マリエーヌ。君には知っておいてもらった方が良いかもしれないな」
公爵様から真剣な眼差しを向けられ、私もジッと見つめ返した。
「僕は……馬車に乗れないんだ」
馬車に乗れない……? 公爵様が?
「え……? でも、今まで乗られてましたよね?」
「ああ、乗れなくなってしまったんだ。乗るのが……怖いんだ」
「……それはな――」
それは何故? と聞こうとして言葉が詰まった。
聞いてはいけない気がした。
これを聞いてしまったら、公爵様が辛い思いをする様な気がして……。
私が口を噤んだまま、何を言ってあげれば良いのだろうと悩んでいると、公爵様が気を利かせる様に話かけてきた。
「馬車には乗れないが、馬には乗れるから問題は無い。遠出をするなら馬を用意するとしよう」
……という事は、馬が嫌いになったのではなくて、本当に馬車だけが駄目という事……?
公爵様と馬車…………何かしら……?
なんで私までこんなに胸騒ぎがしてくるの……?
「せっかく人参を克服したというのに、新しい弱点が出来てしまうとはな……。幼い頃から、公爵となる者は弱点など作ってはいけないと言われ続けてきたが……今の僕は弱点だらけだ」
「え……? 他にも、怖いものがあるのですか?」
「ああ」
公爵様はルビーの様な瞳を私に向けたまま、握っている私の左手にもう片方の手を重ね合わせた。
その手が僅かに震えている。
「君が傷付く事、君に嫌われる事……一番怖いのは、君を失う事だ」
そう告げた公爵様の表情が、本当に辛そうで……私も胸が締め付けられる様に苦しくなった。
私は公爵様に握られている左手に力を入れて、自分の元へと引き寄せた。
それに引っ張られる形で公爵様の体が私の体のすぐ近くにきたので、その首元に手を回して公爵様をギュッと抱きしめた。
「!? マリエーヌ!?」
動揺する公爵様の声を聞いても、私はその体を逃がすまいと、抱きしめる手に力を込める。
「大丈夫です。私はこれからもずっと、公爵様のお傍に居ます」
「……!!」
間もなくして、私の背中にも公爵様の手が回され、私の体を力強く抱きしめ返してくれた。
「ああ。君なら、そう言ってくれると思っていた」
憂いを帯びた公爵様の声が耳に響く。
「ありがとう、マリエーヌ」
そう言って、少しだけ体を引いた公爵様は、再びゆっくりと顔を近付けてくると、私の唇に慈しむ様な口付けを落とした。
風邪が移ってしまうかもしれないと、一瞬だけ思ったけれど、少しでも公爵様の不安が取り除けるなら……と、ただひたすらに甘い口付けに身を委ねた。
風邪の引き始めは熱が上がりやすい、という医師の言う通り、夜になると私の熱は更に上昇した。
眠ったり起きたりを繰り返す私の傍には、いつも公爵様の姿があった。
「公爵様。そろそろ公爵様も休まれないと……」
「心配いらない。今部屋へ戻っても、君の事が心配で眠れそうにない」
「でも……私なら大丈夫です。ただの風邪と言っていましたし、眠ったらすぐに治りますよ」
「言っただろう。君はもっと自分の事を大事にするべきだと」
「……公爵様も、自分の事をもっと大事にして下さいね」
「ああ。だが、君が辛い時はどうか傍に居させてほしい」
本当に、公爵様は優しい。
「ありがとうございます」
私も口ではそう言っていたけれど、本当は公爵様に傍に居てほしかった。
次に目が覚めた時も公爵様が居てくれるという安心感からか、再び眠気が私を誘う。
「辛い時に誰かが傍に居てくれるのって、すごく安心出来るんですね」
「ああ、それは僕もよく知っている。君が傍に居てくれたから、僕も安心出来たんだ」
ああ。そういえば、私も公爵様の看病をした事があるんだった。
確か公爵様の態度が変わったあの日――。
公爵様はきっと、その時の事を言っているのだろう。
「公爵様。私の傍に居てくれてありがとうございます」
「……それは僕のセリフだよ」
意識が薄れていく中、聞こえてきた公爵様の声は、なんだか泣きそうに思えた。




